ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「日本国憲法の平和の精神と、私たちがやってる戦争反対や基地反対の運動は一体のものである」砂川闘争

2015年09月15日 | 日本とわたし
昨日の続きです。
『その時歴史が動いた』

憲法九条 平和への闘争
~1950年代 改憲・護憲論~

【NHK 2007年5月2日放送】20分20秒あたりから

ナレーション

昭和29(1954)年11月24日、鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成されます。


民主党は、軍備を増強する吉田の政策が、憲法9条と矛盾していると非難
不信任案を突きつけ、退陣に追い込みます

そして、鳩山内閣が誕生
目指したのは、軍備の保有を憲法で認めるため、9条を改正すること
改憲でした


この改憲勢力の旗揚げを勧めた中心人物がいました。
日本民主党幹事長、岸信介です


岸が改憲を主張したのは、戦後10年近くを経た日本の在り方への疑問からでした。

戦時中、東条英機内閣の商工大臣だった岸は、太平洋戦争を推し進めた閣僚のひとりでした。


戦後、岸は永久戦犯の容疑で逮捕されます


岸は、戦争に負けた責任を強く感じていました。

『これだけ破壊された日本をどうして復興するか。
われわれが戦争指導者であった責任からいって、日本の将来の基礎をつくらねばならない』

「岸信介の回想録」より

その後、不起訴となり釈放された岸は、日本が占領から脱した後に政界に復帰
その目に映ったのは、アメリカの支配下から未だ抜け出せない、日本の姿でした。


そしてその象徴が、GHQの指導の元で作られた憲法だと、岸は感じていました


民族的自信と独立の気魄を取り戻す為めには、吾々の手に依って作られた憲法を持たねばならぬ。
「岸信介の回想録」より


岸が訴えたのは、日本人自らの手による憲法の改正。
中でも、国を守る軍事力を持てるよう、憲法に明記するすることが重要と考えたのです。


憲法を改正するには、衆参両院で2/3以上の議員の賛成が必要でした。


その勢力を確保するため、岸は、さらに他の保守系の政党と、合同を進めようとします
しかしこの動きは、政界内に強い反発を招きます。
その中心人物が、右派社会党書記長の浅沼稲次郎でした。


浅沼は、改憲は軍備増強につながると、抵抗を始めます。
戦時中、浅沼の属する社会大衆党は、政府の戦争遂行に協力する『大政翼賛会』に参加していました。


しかし、昭和20年3月の東京大空襲で、浅沼の住む町は焦土と化し、多くの仲間を失いました。

『戦争は残酷なものだ。
すべてを滅亡させる。
私は、戦争の死線をこえて、これからは余禄の命だと心に決めた。
そしてその命を、今後の日本のために、投げださねばならぬ』

「私の履歴書」より


戦争に加担した罪の意識
戦後、浅沼は社会党に入り、平和を訴える活動に身を投じていたのです。

昭和30年10月13日、浅沼たちは、岸の進める改憲の動きに抗うため、左派と右派に分裂していた社会党を統一します。


社会党は綱領に、『平和、民主憲法の擁護』と記し、憲法9条を守る『護憲』を掲げました



その1ヶ月後の昭和30年11月15日、岸の進めてきた保守勢力の合同も実現
『自由民主党』が誕生します。


自民党の政綱には、『自衛軍備の整備』


そして、『憲法の自主的改正』が掲げられました


ここに、改憲・護憲を掲げた保革2大政党による政治体制、いわゆる55年体制が始まるのです。


明る昭和31年7月の参議院選挙は、改憲が護憲かを問う初めての選挙になりました。


自民党は、憲法を改正するためには、どうしても2/3の議席が必要だ、と主張します。


一方社会党は、それを阻止するため、1/3の議席確保を訴えます。



結果は、改選議席数127のうち、自民党61、社会党49
社会党は大きく議席を伸ばし、他の護憲勢力と合わせ、1/3を超える議席を獲得します。
国民は、憲法改正に対して、ノーの審判を下したのです。

それは、池田内閣が、改憲・護憲論争に終止符を打つ、4年前のことでした。




スタジオ
松平アナウンサー:
坂元さん、戦後政治の枠組みとして、40年近く続いた、いわゆる55年体制
あれが憲法9条をめぐる対立と、相当大きく関わっていたということですね。


坂元氏:
私の見るところ、9条の一項・戦争放棄、それについてはコンセンサス(合意)があった


がしかし、自分たちの国を守る、自衛はどうするんだということになりますと、大きな対立がありました
これは、9条二項に関わる問題です。


で、この問題で、一方には、過去の戦争を反省し、武器の無い平和な世界を作る
そのために、そういう理想を求めて、非武装・中立の国になるべきだ、という意見があります。


他方、理想論では国の安全は保てない
過去の反省は反省として、日本にも必要最小限の自衛力は必要だし、それが現実的だという意見があります。


この9条、特に9条二項をめぐる、この理想論と現実論の対立は、
東西冷戦下、55年体制における保守勢力と革新勢力の間の激しい論尊、その論争の中心テーマのひとつになりましたね。


松平アナウンサー:
古関さん、その護憲か改憲かをめぐる初の国政選挙で、護憲派が1/3以上の議席を得た。
この結果はどういうふうにお捉えになりますか?


古関氏:
こちらに、憲法9条改正の賛否を問う世論調査のグラフがございます。
これを見ていただきますと、昭和29年(1954年)までは、憲法を改正するべきだという世論が上回っています


これは朝鮮戦争の影響が非常に大きかった
が、しかしながらこの50年代半ばというのは、日本にも米軍基地を新設したり、あるいは拡張する、というようなことをします。
あるいはまた、自衛隊という組織が作られたのもこの頃ですね。

で、そうなってまいりますと、国民から見ますと、だんだん戦争というものが身近に感ぜられるといいますか、
そういう中で、憲法改正の反対の世論というものが、賛成の世論を上回ってくる、逆になってくるわけですね。


松平アナウンサー:
まあそうした状況の中で、当時日本の国民の間では、いったい何が起こっていたのでありましょうか。
ここでは、具体例を通してそれを見ていきたいと思います。



昭和29年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で、水爆実験を行います


その時、近くで操業していた日本の漁船が巻き込まれました。
第五福竜丸事件です。


船員23人は全員被曝し、そのうち一人が亡くなりました

この事件を受けて、翌年、広島で、原水爆禁止世界大会が開かれます




憲法9条を持つ日本人が、世界に平和を訴えていく一大契機となりました


この年、東京の砂川町で、米軍立川基地の拡張計画をきっかけに、大きな事件が起こりました


基地に土地を奪われようとしている農民たちと、土地を接収しようとする政府が対立
農民側には、社会党や労働組合、そして学生たちなどが加わり、機動隊と衝突を繰り返します。


足掛け14年に渡って繰り広げられた『砂川闘争』です。


砂川町の住民は、戦前戦中は、日本陸軍の飛行場のために、そして戦後は、進駐してきたアメリカの基地のために、
土地を10回近くも提供させられてきました



その多くは農地でした


今回、この拡張計画で、5万2千坪、およそ17万平方メートルが新たな対象とされ、農民たちはついに立ち上がったのです。


農民のリーダーのひとりだった宮岡政雄さんです。


宮岡さんは生前、政府に抵抗する理由を、娘の京子さんに語っていました。

福島(旧姓・宮岡)京子さん:
これでもかこれでもかっていう感じで、やっとこれで生活が立て直せると思うと、また接収が行われる。
もうこれ以上、生活の手段である土地を奪われたくない
というのが、まず第一にあったと思いますね。


やがて農民たちは、すでに基地に利用されていた自分たちの土地も、取り返したいと思うようになります。
基地の存在そのものに反対する気持ちが芽生えたのです。

宮岡政雄さんもまた、仲間の意見に同調し、行動を共にします。


福島京子さん:
この基地機能というのはやはり、また戦争へと向かうひとつの道具となっている、ということに対して、
即この基地を撤去していくこと、基地に反対していくことが、平和を守る闘いであるんだということに、結びついていったんだと思うんです。


闘争が始まってから2年後の昭和32年7月、政府は、農民から借りていた基地内の土地を、強制使用するため、測量を始めます



それを反対する農民たちのもとに、労働者や学生たちが応援に駆けつけます。



この時事件が起きました。
200人あまりの人たちが、柵を壊し、基地に数メートル踏み込んだのです。


そして23人が逮捕、7人が起訴されました。
容疑は、日米安全保障条約に基づいて制定された、刑事特別法違反。


理由無く、アメリカ軍の基地に立ち入った場合、処罰されることが定められています。

昭和34年3月、東京地方裁判所で判決が下されます。
『全員無罪』
その理由は、国の政策を揺るがす内容でした。


安保条約に基づいて駐留する在日米軍は『違憲』
憲法9条の二項が禁じる、『戦力』に該当すると断じたのです。

当時、学生として砂川闘争に参加していた島田清作さんは、判決の衝撃を今も鮮明に覚えています。


島田清作さん:


憲法9条とか、憲法前文に書いてある平和の精神、それと、自分らがやってる戦争反対とか基地反対とかっていう運動が一体のものであり、
自分らのやってることが、憲法を守る運動でもあるんだっていうことを、まあ、改めて理解した



その年の12月、最高裁判所で、この判決は破棄されます
在日米軍は、9条二項が禁じる『戦力』にはあたらず、違憲とはいえないという理由からでした。


また、安保条約は政治の問題だとして、違憲か否かの判断は回避されました


しかし、東京地裁の判決以降、在日米軍や自衛隊の存在を憲法違反に問う訴訟が、各地で頻繁に起こされるようになります


こうした中で、憲法9条の理念が、国民に浸透していくことになったのです。

それは、池田内閣が、改憲・護憲論争に終止符を打つ、9ヶ月前のことでした。




スタジオ
松平アナウンサー:
まずこの砂川事件、砂川闘争の意義付けでございますね、それを古関さんはどういうふうにお捉えになりますか?

古関氏:
日本国憲法になって、9条との関係で、反対ということが言えるようになった、主張できるようになった
そればかりではなく、東京地裁で「違憲だ」という判決が出たわけですから、
それはやはり農民にとってみますと、9条というものがただ理想であるだけではなくて、現実に自分たちの農地とか、自分たちの生活権というものを守ってくれる
極めて現実的な権利規範というような形で、現れてきたんではないかと思います。



松平アナウンサー:
坂元さん、この反基地闘争の高まり、これは日米両国政府にどういう影響を与えたということなんでしょうか?


坂元氏:
日本政府もアメリカ政府も、こういう反基地運動というものを、サイグ?共産主義陣営が扇動し、それを利用し、保守政治の安定を揺さぶる危険な動きとみていました
アメリカ政府は、日本に中立主義的な傾向が強まったらどうしよう、こういう危惧が芽生えてくるんですね。


日本は、アメリカの冷戦政策にとって、非常に重要な基地を提供すると。
その日本の価値が失われるんじゃないかと。


そして実はこの反基地運動が、両政府に、安保改定の必要を強く意識されることになるんですね。



松平アナウンサー:
反基地、反戦闘争の高まりとともに、憲法9条をめぐる改憲・護憲の論争というのは、さらに加熱さを増すわけでありますが、
そうした中で、やがて国民の多くを巻き込んだ、戦後最大の闘争にそれは発展していくわけであります。


そしてみなさん、いよいよ『今日のその時』でございます。

つづく

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