2024年が明けてもう3ヶ月が経とうとしていることに呆然としている。
去年の末の29日にこちらを発って日本に行った。
空港はまだクリスマス気分を残していて、だからなのか飛行機がいつまで経っても出発しない。
配膳機能が故障しているので待って欲しいとアナウンスがあって、それから45分ほど後に、今度は電気系統に故障が見つかったので待って欲しいとアナウンスがあって、結局2時間半ほど機内で待たされた。
ようやく羽田に到着したが、当然何もかもが遅れており、乗り継ぎをしなければならない乗客たちは本当に困り果てていた。
こんなこともあろうかと、念の為に東京のホテルに予約を入れていたので、地下鉄に乗る。
車掌さんの仕事に興味津々の小学生の男の子があまりに可愛くて、思わず盗撮😅。
翌日はもう31日の大晦日で、母と義父が注文したおせち料理を見せてもらった。
わたしが作るおせちとは段違いの豪華さである。
新年のお祝いをして、居間でくつろいでいると、いきなり母たちの携帯電話が恐ろしく大きな音を発し始めた。
何事かと驚いて携帯を確認しようと椅子から立ち上がった時、足元がぐらっとした。
え?地震?
そうつぶやいて数秒後、家全体が横にぐらぐらと揺れ出した。
長い。そして揺れが大きい。
平屋建ての一軒家だが、揺れるごとに軋む音が聞こえてきて、いよいよ不安は頂点に。
そしてふっと揺れが止まった頃に、今度はテレビから大音響の警報が流れてきた。
アナウンサーなのだろうけれど、女性が大声で、極めて感情的に、「逃げてください!今すぐ逃げて!」と叫んでいる。
津波が地震の発生とともに起こるようなことを言っていて、聞いているだけで胸が苦しくなってくる。
よりにもよってなぜ元旦に、とぶつぶつと繰り返し言う母と義父は、画面から目を離せなくなっている。
今はもう、あれからもう3ヶ月近く経っていて、被害状況や復興の現状が明らかになっている。
被害に遭われた方々、命や生活を奪われた方々に、心からのお見舞いとお悔やみを申し上げる。
地震から2日後の1月3日に、高校の同窓会に出席した。
長らくの間、行方不明者となっていたわたしにとっては、実に50年ぶりの参加だった。
もともと人の名前と顔を覚えるのが大の苦手なので、出席して大丈夫だろうかと悩んでいたが、わたしのことをよく覚えていてくれる人たちがちらほらといて、懐かしい話に花が咲いた。
この帰省は、母のリハビリを促すためと、この同窓会の出席のためだったのだけど、やはり母の一番好きなこと(みんなでやっぽんぽんの宿に行く)も実行することになった。
母はいよいよ歩きづらくなっていて、だからこれまでなら無理矢理にでも連れて行けていた温泉の湯に浸かることもなく、独りで部屋で待つことを選んだ。
ここの湯に浸かると肌がぬるぬるになり、体の芯まで温まる。
彼女はそれがとても気に入っていて、だからなんとしても浸からせてやりたかった。
他に何もやることが無いので、ボードゲームを予め購入しておいて、それをホテルに持ち込んだのだけど、案の定母はそんなものは全然やりたくないと言う。
ならばカラオケしかないではないか。
というわけで、母と義父、従兄弟のKちゃん、弟夫婦とわたしの5人で、ホテルのカラオケルームを2時間借りた。
弟の奥さんのFちゃんが、なんとも楽しい人で、お酒が入るといちびりに拍車がかかる義父と一緒に大いに盛り上げてくれたので、母もよく笑い、とても楽しい時間を過ごせた。
部屋からの眺めの美しいこと。
が、一夜明けてこんなことに😱
わたしは大阪在住の弟の車に乗せてもらって大阪に行き、そこから羽田経由でアメリカに戻ることになっていたのだが、鈴鹿峠越えをして戻らねばならない母たちが心配で、天気予報から目が離せなかった。
幸いこれほどの積雪は山の上にある宿の周辺だけで、下山するとまるで雪など降らなかったような様子で、すっかり気が抜けてしまった。
大阪ではえべっさんが、コロナ禍を経て復活していた。
わたしはそのことを全く知らなかったのだけど、弟が連れて行ってくれた。
子どもの頃に連れて行ってもらってたえべっさんは、もっと賑やかで人出が多かったような気がすると言うと、まだ今日から始まったばっかりやし、昼間やし、屋台もいつもより少ないしな、と弟が言う。
お賽銭箱にも5分ほど待ったら到着できた。
「商売繁盛で笹持って来い!」
大阪人の弟が、見事な値切り買いのテクニックを見せてくれて感動した。😆
懐かしい屋台の数々。
夜はお馴染み道頓堀のグリコ見物。
なんかオシャレになってないか?
コテコテの大阪デコレーション。
法善寺横丁はやっぱり夜がいっちゃんええ雰囲気やね。
水かけ不動さん。
いっぺん剥がされてしまったコケも随分復活していた。
水かけのためのバケツの水を、次の人たちのために補充する良き大阪市民。
そして、最後の夜を一人でぼーっと過ごしに浅草に戻った。
SNSやガイドブックのおかげ(せい)で、外国人観光客が長蛇の列を作っているのがあちこちで見受けられる。
ざ、浅草〜!
どうしても写真を撮りたくなってしまうバンダイ社。
天気がいいので散歩した。
浅草寺の裏側も散策。
まだまだお正月気分が残っている。
表側。
裏側。
そしてこちらに戻り、14時間のズレを2週間過ごした時差ボケと闘いながら3週間経って、ようやく本調子に戻ってきたなと自覚し始めた時に、弟からメッセージが送られてきた。
「おばちゃんが相当危ないらしい」
こないだ日本に行った時、ものすごく胸騒ぎがして、会いに行こうかどうか散々悩んだ末に、時間がないからと会いに行かなかったことを猛烈に後悔した。
いやだ。絶対にいやだ。このまま永遠に別れてしまうわけにはいかない。
夫に話すと、当然のことだと言わんばかりに、すぐに行けと言う。
去年の11月の中旬に発表会、下旬に感謝祭があり、年末年始にかけてクリスマスだのわたしの帰省だのでレッスンの予定が狂いに狂い、やっと元のペースに戻ってきたばかりだったので、生徒たちにも申し訳がない。
けれどもわたしは、伯母に何一つ恩返しができていない。
そのことがずっと、本当にずっと気がかりだった。
なのに伯母には、この世に生きる時間があまり残されていない。
それは同時に、わたしが伯母に恩返しができる時間も残されていないことなのだ。
日本に戻ることにした。
急な予約だったので、一番早く着きそうなカナダエアで飛んだ。
入国手続きはかなりスムーズになっていた。
新幹線で新大阪まで行き、弟の車に乗せてもらって伯母の家に着いた。
弟もわたし同様、伯母にはとても恩を感じていて、「親以上にお世話になった。いやな思いや面倒はかけたけど、その逆は全くなかった」としみじみと言っていた。
本当にそういう人だった。
わたしの父は伯母に、言葉では言い尽くせないほどの迷惑をかけたから、彼女はわたしたちを見るのもいやだという時期があったと思う。
けれども、わたしたちがそれぞれに行き先を失ったときには引き取ってくれて、衣食住の世話をしてくれた。
女で一つで一人娘を育てていて、決して楽な暮らしではなかったはずなのに。
わたしがいよいよ余命1年と宣告されたときは、心の拠り所となる場所を教えてくれて、余命宣告を覆すまでのわたしを見守ってくれた。
家事のイロハを全く知らずに田舎に嫁いだわたしが、第一日目から味噌汁の作り方を教えてくれと、泣きそうな声で電話をかけてきたと、思い出してはからかって笑っていた。
わたしが二人の幼い息子たちを連れて婚家を出て、年若いアメリカ人の男性と一緒に暮らしていることを知ったとき、親族の中でただ一人、「よう決心した、怖かったし辛かったやろ。よう頑張ったな、えらかったな」と言って微笑んでくれた。
だからわたしには返しきれない恩がある。
そのことを伝えに、そして何万回ものありがとうを言いに、わたしは伯母の家に行った。
伯母はもう話せないし目もあまりあけなくなっていた。
けれどもはじめの3日間ぐらいは、こちらの言うことに頷いてくれることもたまにあった。
まうみが来たよ、お礼とお別れを言いに来たよ。
伯母とはそれから8日半の間、ずっと一緒に時間を過ごした。
夜は彼女のすぐ横で寝て、手のひらで彼女の手や腕やお腹や肩に触っていた。
息遣いが激しくなったり、静かすぎたりすると、もう心配でたまらなくなって、伯母の口元に耳を近づけたり、脈を測ったりしていたので、夜はほとんど寝ているような起きているような感じだった。
わたしにとっての最後の夜はいよいよ息が弱ってきて、指先はずっと伯母の脈を測っていた。
でも、伯母は本当にすごい人で、丸14日間、一粒の米も一滴の水も摂らずに、それでもおしっこをおむつの中に出し続け、脈拍も血圧も血中酸素濃度も良い数値を保ち続け、彼女を慕う姪や甥が全員見舞うことができるよう生き続けた。
わたしがこちらに戻った翌日の14日に時差でいうと家に到着した頃に、伯母は眠るように息を引き取ったのだそうだ。
今回の旅の終わりに、新幹線から見えた富士山と、飛行機から見えたトロントの夜景があまりに美しかったのは、きっと伯母からのプレゼントだったのだと思う。
おばちゃん、ありがとう。ほんまにありがとう。
追記。
伯母は1月3日の夜、トイレの前でドンと尻餅をつき、背骨を圧迫骨折した。
それからは寝たきりになり、治療を伴わない入院はできないからと在宅看護を余儀なくされ、6日間の24時間点滴を受けるも苦しさが増し、看護から看取りに切り替えられた。
2月1日から始まった看取り看護中、ヘルパーさんは毎日朝夕2回、看護師さんは一回来てくれて、オムツの替えはもちろん、容態観察、体の清浄などの世話をきめ細やかにしてくれた。
その方たちの親身で丁寧な看護や介護に驚いたり感動したりするわたしに、一人娘のKちゃんは、みんなお母さんが大好きなんよ、としみじみと話してくれた。
伯母の口癖は「ありがとう」で、何かというと「ありがとうありがとう」と言って微笑んでいた。
ヘルパーさんの中には、週末も来て世話をしてくれる人もいて、彼女はいつも「まるで家族みたいに思えて放っておけない」と言っていた。
伯母は家族や親類のみならず、関わった人たちみんなに愛されていたのだなあと思う。