誰が始めたのか知らないが、言葉を略すという現象がある。
大抵は、そのものや人に対しての親愛の情から略すことが多い。
たとえば、SMAPの木村拓哉さんを「キムタク」というように。
ただ、これは、どうかな? というのもある。
以前、大御所志村けんさんのことを「しむけん」と略している記事を見た。
「ら」しか抜いていない。
抜く意味があるのかと思った。
その他に、ハリウッドの大女優、アンジェリーナ・ジョリーさんが、映画「トゥーム・レイダー」でブレイクしはじめた頃、ネットの映画記事で「アンジョ」と略して表現しているのを見たことがある。
「アンジェ」ならまだわかるが、「アンジョ」はないだろう。
私の知る限り、そんな風に略して言った人を知らない。
普通は「アンジー」だ。
メチャクチャすぎて、笑うしかない(あるいは無知なのか)。
昨日、同業者6人と吉祥寺の居酒屋で、恒例の飲み会を開いた。
そのとき、隣のテーブルに座った男が、「カツアン! 俺の酒が飲めないのかよ!」と怒鳴っているのが聞こえた。
「カツアン」と「俺の酒が飲めないのか」という言葉に反応して、テーブルを見た。
目の据わった30代半ばの男が、隣の20代半ばに見える男に、酒を強要しているところだった。
平成を26年過ぎたいま、まさか「俺の酒が飲めないのか」というフレーズを聞くとは思わなかった。
昭和の高度経済成長期からタイムスリップしてきたのかと思った。
私は、忘年会や新年会、新入社員歓迎会などは、面倒くさいと思って、8割がた断ってきたので、幸いにも、そのフレーズを聞かされることがなかった。
もし、そんなことを言いそうなお方が会に潜入しそうな場合、防衛本能が働いて、断ってきたからだ。
体育会系の大学陸上部OB会でも、そんなことを言う人がいなかったから、私は幸運な人生を歩んできたと言っていい。
その居酒屋で、そう言われた若い人は、どう反応したかというと、「もう限界です。飲めません!」と抵抗していた。
それに対して、相手は「俺の酒が」と繰り返したが、他の3人の同僚が、「カツタは、ビール1杯が限度なんですよ。これ以上飲ませたらヤバいです」と懸命にかばったので、「チェッ! 『ゆとり世代』は、これだから、信用できねえんだよ」と舌打ちまじりに吠えた。
しかし、推察するに、30代半ばなら、おそらくあなたも「ゆとり世代」ではないか、と思った。
「ゆとり教育」は、小学校では1980年頃始まっているから、いま39歳くらいまでの人は、「ゆとり教育」世代ではないだろうか。
「ゆとり世代」が「ゆとり世代」を「『ゆとり世代』は、これだから、信用できねえんだよ」というのは、自分の首を絞めるようなものだと思うのだが、きっとご本人は気づいていないのだろう。
これは、余談だが、私は「ゆとり教育」が失敗だとは思っていない。
「ゆとり教育」に批判的な人は、おそらくOECD(経済協力開発機構)が実施した学力テストをもとに評価しているのだと思うが、日本が学力上位にいたときの参加国は30カ国程度だった。
しかし、いまは、60カ国以上に増えている。
参加国が増えれば、順位が下がるのは当然ではないだろうか。
ましてや、途上国は子どもの教育に力を入れることが多い。
そのとき、「1位」という冠が意味を持つ。
国家としてのモチベーションが上がるからだ。
しかし、先進国は、アメリカ、イギリス、フランスなど、トップテンには入っていない。
先進国で上位にいるのは、日本だけだ。
要するに、先進国には「1位」のモチベーションは必要ないという判断だろう。
その現象を、統計学を知らない頭の悪い政治家や評論家、間抜けなナショナリストが批判して、「ゆとり世代はダメだ」と決めつけることになった。
「教育論」を順位に結びつけるから、そんな間抜けな批判になる。
世界をグローバルなものとして、一つに捉えれば、「俺の国だけが」という発想にはならない。
中韓も「俺の国だけが」という意識が強烈すぎるが、アジアで日本だけは、それから脱するような教育があってしかるべきだと思う。
しかし、まあ、それは、どうでもいい。
私が気にするのは、「カツアン」という略称である。
「カツタ」というのが聞こえたから、「カツアン」の「カツ」は、「カツタ」なのだと思う。
では、「アン」は、何なのか、というのが気になった。
居酒屋で隣に居合わせた人のことなど、どうでもいいと思うのだが、「カツアン」のインパクトが強すぎたので、私はこだわった。
そこで、同業者との会話に身が入らないまま、隣のテーブルの会話を断片的にピックアップしていると、衝撃的な事実が分かった。
その人の名は、「カツタ・アン」と言うらしいのだ。
つまり、「タ」しか、略されていない。
そして、もっと衝撃的なのは、そのひとが女性だったことだ。
外見上は、スーツを着ていて、髪は短髪。
化粧もしていない。
「その種の人」かと思ったが、よく聞いてみると一人称は「私は」である。
「俺」ではない。
「その種の人」は、自分のアイデンティティを保つために、自分のことを「俺」「ボク」と呼ぶ場合が多い。
(私の知り合いに一人『オナベ』の方がいらっしゃるが、彼(?)は、自分のことを『ボク』と呼んでいる)
つまり、このひとは「その種の人」ではないのかもしれない、と推測した。
「カツアン」と呼ばれ、「俺の酒が飲めないのか」と言われた人は、女性だった。
それは、私にとって、とても衝撃的な事実だった。
世の中には、こんな風に、色々なことがある。
そして、こんなこともある。
ヤホーのトップ記事を見ていたときのことだ。
ジャイアンツの監督が、サッカー日本代表へエールを送った。
「初戦が大事。日の丸を背負う重みは違う。重圧はプレッシャーではなく、荒ぶるという形でね、力に変えてほしい。ショー・ザ・フラッグ(日の丸をみせろ)だよ」と語った。
私の乏しい知識では、ショー・ザ・フラッグというのは、「立場をハッキリしろよ(旗幟を鮮明にせよ)」という意味でとらえていたのだが、いまは違う解釈なのだろうか。
この解釈に関しては自信がないので、軽々しくは言えないのだが、この一言も、私にとって、ある意味「衝撃の事実」だった。
大抵は、そのものや人に対しての親愛の情から略すことが多い。
たとえば、SMAPの木村拓哉さんを「キムタク」というように。
ただ、これは、どうかな? というのもある。
以前、大御所志村けんさんのことを「しむけん」と略している記事を見た。
「ら」しか抜いていない。
抜く意味があるのかと思った。
その他に、ハリウッドの大女優、アンジェリーナ・ジョリーさんが、映画「トゥーム・レイダー」でブレイクしはじめた頃、ネットの映画記事で「アンジョ」と略して表現しているのを見たことがある。
「アンジェ」ならまだわかるが、「アンジョ」はないだろう。
私の知る限り、そんな風に略して言った人を知らない。
普通は「アンジー」だ。
メチャクチャすぎて、笑うしかない(あるいは無知なのか)。
昨日、同業者6人と吉祥寺の居酒屋で、恒例の飲み会を開いた。
そのとき、隣のテーブルに座った男が、「カツアン! 俺の酒が飲めないのかよ!」と怒鳴っているのが聞こえた。
「カツアン」と「俺の酒が飲めないのか」という言葉に反応して、テーブルを見た。
目の据わった30代半ばの男が、隣の20代半ばに見える男に、酒を強要しているところだった。
平成を26年過ぎたいま、まさか「俺の酒が飲めないのか」というフレーズを聞くとは思わなかった。
昭和の高度経済成長期からタイムスリップしてきたのかと思った。
私は、忘年会や新年会、新入社員歓迎会などは、面倒くさいと思って、8割がた断ってきたので、幸いにも、そのフレーズを聞かされることがなかった。
もし、そんなことを言いそうなお方が会に潜入しそうな場合、防衛本能が働いて、断ってきたからだ。
体育会系の大学陸上部OB会でも、そんなことを言う人がいなかったから、私は幸運な人生を歩んできたと言っていい。
その居酒屋で、そう言われた若い人は、どう反応したかというと、「もう限界です。飲めません!」と抵抗していた。
それに対して、相手は「俺の酒が」と繰り返したが、他の3人の同僚が、「カツタは、ビール1杯が限度なんですよ。これ以上飲ませたらヤバいです」と懸命にかばったので、「チェッ! 『ゆとり世代』は、これだから、信用できねえんだよ」と舌打ちまじりに吠えた。
しかし、推察するに、30代半ばなら、おそらくあなたも「ゆとり世代」ではないか、と思った。
「ゆとり教育」は、小学校では1980年頃始まっているから、いま39歳くらいまでの人は、「ゆとり教育」世代ではないだろうか。
「ゆとり世代」が「ゆとり世代」を「『ゆとり世代』は、これだから、信用できねえんだよ」というのは、自分の首を絞めるようなものだと思うのだが、きっとご本人は気づいていないのだろう。
これは、余談だが、私は「ゆとり教育」が失敗だとは思っていない。
「ゆとり教育」に批判的な人は、おそらくOECD(経済協力開発機構)が実施した学力テストをもとに評価しているのだと思うが、日本が学力上位にいたときの参加国は30カ国程度だった。
しかし、いまは、60カ国以上に増えている。
参加国が増えれば、順位が下がるのは当然ではないだろうか。
ましてや、途上国は子どもの教育に力を入れることが多い。
そのとき、「1位」という冠が意味を持つ。
国家としてのモチベーションが上がるからだ。
しかし、先進国は、アメリカ、イギリス、フランスなど、トップテンには入っていない。
先進国で上位にいるのは、日本だけだ。
要するに、先進国には「1位」のモチベーションは必要ないという判断だろう。
その現象を、統計学を知らない頭の悪い政治家や評論家、間抜けなナショナリストが批判して、「ゆとり世代はダメだ」と決めつけることになった。
「教育論」を順位に結びつけるから、そんな間抜けな批判になる。
世界をグローバルなものとして、一つに捉えれば、「俺の国だけが」という発想にはならない。
中韓も「俺の国だけが」という意識が強烈すぎるが、アジアで日本だけは、それから脱するような教育があってしかるべきだと思う。
しかし、まあ、それは、どうでもいい。
私が気にするのは、「カツアン」という略称である。
「カツタ」というのが聞こえたから、「カツアン」の「カツ」は、「カツタ」なのだと思う。
では、「アン」は、何なのか、というのが気になった。
居酒屋で隣に居合わせた人のことなど、どうでもいいと思うのだが、「カツアン」のインパクトが強すぎたので、私はこだわった。
そこで、同業者との会話に身が入らないまま、隣のテーブルの会話を断片的にピックアップしていると、衝撃的な事実が分かった。
その人の名は、「カツタ・アン」と言うらしいのだ。
つまり、「タ」しか、略されていない。
そして、もっと衝撃的なのは、そのひとが女性だったことだ。
外見上は、スーツを着ていて、髪は短髪。
化粧もしていない。
「その種の人」かと思ったが、よく聞いてみると一人称は「私は」である。
「俺」ではない。
「その種の人」は、自分のアイデンティティを保つために、自分のことを「俺」「ボク」と呼ぶ場合が多い。
(私の知り合いに一人『オナベ』の方がいらっしゃるが、彼(?)は、自分のことを『ボク』と呼んでいる)
つまり、このひとは「その種の人」ではないのかもしれない、と推測した。
「カツアン」と呼ばれ、「俺の酒が飲めないのか」と言われた人は、女性だった。
それは、私にとって、とても衝撃的な事実だった。
世の中には、こんな風に、色々なことがある。
そして、こんなこともある。
ヤホーのトップ記事を見ていたときのことだ。
ジャイアンツの監督が、サッカー日本代表へエールを送った。
「初戦が大事。日の丸を背負う重みは違う。重圧はプレッシャーではなく、荒ぶるという形でね、力に変えてほしい。ショー・ザ・フラッグ(日の丸をみせろ)だよ」と語った。
私の乏しい知識では、ショー・ザ・フラッグというのは、「立場をハッキリしろよ(旗幟を鮮明にせよ)」という意味でとらえていたのだが、いまは違う解釈なのだろうか。
この解釈に関しては自信がないので、軽々しくは言えないのだが、この一言も、私にとって、ある意味「衝撃の事実」だった。
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