こちらはアルヌルフの皇子ルートヴィヒ
けっこう執念深い
グイード妃 アゲルトリュード
生年不詳~923/在位 (神聖ローマ皇后)891~894 (イタリア王妃)889~894
カール3世にも嫡子がいなかったものだから、さあどうしましょう?
というわけで、フランク、イタリアなどなど王位をめぐる争いは続くのですが
イタリア王になったグィードが教皇の後押しを受けて皇帝の座につきます。
家系図で見る通り、もはや遠い親戚なんですけどね…
ベネヴェント公アデルキスの娘アゲルトリュードは
皇帝になる10年ほど前にグィードと結婚していました。
894年にグィードが亡くなるとアゲルトリュードは、グィードと共同で皇帝に就いていた
息子のランベルトを伴いローマへ向かいました。
ランベルトに教皇フォルモススから皇帝の承認を受けるためです。
しかし、教皇はライバルであるカロリング家のアルヌルフを支持していました。
896年、アルヌルフはローマに侵攻しましたが失敗します。
教皇フォルモススも失脚、その上殺害されました。
アゲルトリュードはすぐに皇帝の母后の権威を発揮します。
まずは、お気に入りのステファヌスが教皇に就けるよう画策しました。
それから、自分の息子を認めなかったフォルモスス許すまじ!というわけで
アギルトリュードはフォルモススの遺体を掘り出させて審問にかけさせ有罪にします。
哀れフォルモススはテヴェレ川に投げ込まれてしまいました。
亡くなった人はそっとしておいてあげましょうよ。
また、アゲルトリュードは、未成年だった息子ランベルトの摂政になり
カロリング家打倒をけしかけていたと言われています。
けれども頼みの息子ランベルトは898年に18歳ぐらいで亡くなっています。
未婚だったみたいです。
珍しい…不貞の告発を退けた王妃
アルヌルフ妃 オータ
874~903/在位 (神聖ローマ皇后)896~899
(西フランク王妃)888~899 (イタリア王妃)896~899
ルートヴィヒ1世がひいお祖父さんだし、カロリング家だし、ということで
イタリア王位や神聖ローマ皇帝の座を激しく要求していたアルヌルフも
ランベルトの死でやっと皇帝の座につくことができました。
アルヌルフの妃オータは、名門コンラッディン家の出ですが
彼女のことはアルヌルフが王座についてから亡くなるまでの間しか記録がないそうです。
アルヌルフは、王座奪取のために、バイエルンとロートリンゲンを支配していた
コンラッディン家の後ろ盾が必要だと考えて、888年頃オータと結婚したようです。
899年、オータは不貞で告発されます。
不貞の罪を被せられる王妃はとっても多いわけなんですけど
ほとんどは申し開きできないまま、離婚とか、処刑とかの処分を受けています。
でもオータは違いました。
潔白を誓い、しかも72人の貴族たちが彼女の無実を宣誓しました。
アルヌルフの目論みは失敗です。
とはいえアルヌルフはすでに病に冒されていて、その年のうちに亡くなりました。
ここでオータの記録は途絶えます。
息子のルートヴィヒが東フランク王に即位したというのに、母后の記録がないなんて…
どうやら故郷に帰されて、903年に亡くなったという説があります。
息子さんとうまくいっていなかったのかしらね?
(参考文献 Wikipedia英語版)
けっこう執念深い
グイード妃 アゲルトリュード
生年不詳~923/在位 (神聖ローマ皇后)891~894 (イタリア王妃)889~894
カール3世にも嫡子がいなかったものだから、さあどうしましょう?
というわけで、フランク、イタリアなどなど王位をめぐる争いは続くのですが
イタリア王になったグィードが教皇の後押しを受けて皇帝の座につきます。
家系図で見る通り、もはや遠い親戚なんですけどね…
ベネヴェント公アデルキスの娘アゲルトリュードは
皇帝になる10年ほど前にグィードと結婚していました。
894年にグィードが亡くなるとアゲルトリュードは、グィードと共同で皇帝に就いていた
息子のランベルトを伴いローマへ向かいました。
ランベルトに教皇フォルモススから皇帝の承認を受けるためです。
しかし、教皇はライバルであるカロリング家のアルヌルフを支持していました。
896年、アルヌルフはローマに侵攻しましたが失敗します。
教皇フォルモススも失脚、その上殺害されました。
アゲルトリュードはすぐに皇帝の母后の権威を発揮します。
まずは、お気に入りのステファヌスが教皇に就けるよう画策しました。
それから、自分の息子を認めなかったフォルモスス許すまじ!というわけで
アギルトリュードはフォルモススの遺体を掘り出させて審問にかけさせ有罪にします。
哀れフォルモススはテヴェレ川に投げ込まれてしまいました。
亡くなった人はそっとしておいてあげましょうよ。
また、アゲルトリュードは、未成年だった息子ランベルトの摂政になり
カロリング家打倒をけしかけていたと言われています。
けれども頼みの息子ランベルトは898年に18歳ぐらいで亡くなっています。
未婚だったみたいです。
珍しい…不貞の告発を退けた王妃
アルヌルフ妃 オータ
874~903/在位 (神聖ローマ皇后)896~899
(西フランク王妃)888~899 (イタリア王妃)896~899
ルートヴィヒ1世がひいお祖父さんだし、カロリング家だし、ということで
イタリア王位や神聖ローマ皇帝の座を激しく要求していたアルヌルフも
ランベルトの死でやっと皇帝の座につくことができました。
アルヌルフの妃オータは、名門コンラッディン家の出ですが
彼女のことはアルヌルフが王座についてから亡くなるまでの間しか記録がないそうです。
アルヌルフは、王座奪取のために、バイエルンとロートリンゲンを支配していた
コンラッディン家の後ろ盾が必要だと考えて、888年頃オータと結婚したようです。
899年、オータは不貞で告発されます。
不貞の罪を被せられる王妃はとっても多いわけなんですけど
ほとんどは申し開きできないまま、離婚とか、処刑とかの処分を受けています。
でもオータは違いました。
潔白を誓い、しかも72人の貴族たちが彼女の無実を宣誓しました。
アルヌルフの目論みは失敗です。
とはいえアルヌルフはすでに病に冒されていて、その年のうちに亡くなりました。
ここでオータの記録は途絶えます。
息子のルートヴィヒが東フランク王に即位したというのに、母后の記録がないなんて…
どうやら故郷に帰されて、903年に亡くなったという説があります。
息子さんとうまくいっていなかったのかしらね?
(参考文献 Wikipedia英語版)