こちらはオットー1世妃 エドギタ
苦節35年、やっと皇后になれたのに…
ベレンゲル1世妃 ベルティラ・フォン・スポレート
860~915/在位 (神聖ローマ皇后)915
(イタリア王妃)888~889、905~915
アルヌルフの後は、野心満々のカール2世妃リヒャルディスの甥にあたる
ルートヴィヒ3世が皇帝になりました。
ルートヴィヒにはヴィエンヌ伯シャルル・コンスタンチンという息子がいて
ビザンツ皇帝レオン6世の皇女アンナが母親といわれていますが皇后の記録がありません。
ルートヴィヒ3世の後を継いだのはルートヴィヒ1世を母方の祖父に持つベレンガリオです。
888年にベレンガリオ1世としてイタリア王につきましたが、グィードに奪われ
返り咲いたと思ったら貴族がルートヴィヒ3世を推したりして
なかなか王の権力を手にできない王様でありました。
実家の力が欲しくてスポレート公スッポ2世の娘ベルティラを選んだようです。
880年に結婚しました。
ベレンガリオ1世は、イタリア王としての権力を905年に取り戻し
915年には神聖ローマ皇帝になりましたが、ベルティラは間もなくして亡くなりました。
当時ベルティラは “ 不信心 ” で告発されていました。
死因は毒によるものだということです(夫の手に余っちゃいましたかね?)
ベレンゲルはその年のうちにアンナという女性と再婚しています。
詳細は不明ですがプロヴァンス伯ルイの娘だという説が濃厚みたいです。
拡げよう、サクソンの輪
オットー1世大帝妃 エドギタ
910~946/(神聖ローマ皇后)在位せず (ドイツ王妃)936~946
ここから神聖ローマ皇帝の座はザクセン家に移ります。
ものすごくかいつまんで言うと、西フランク王国は継承争いに明け暮れていて
東フランク王国は放ったらかし状態、というわけで、東フランクは勝手に
フランケン家のコンラートを王に選びました。
コンラート1世は王とはいっても各公爵家の力をおさえることはできず
特に東フランクから独立しようとするザクセン家を繋ぎとめるために
自分の後継者にザクセン公ハインリヒ1世を指名します。
ハインリヒ1世は東フランク改めドイツ王になり、その後継者オットーが
自分を陥れようとしたローマ教皇ヨハネス12世を廃位してレオ8世を選び
ついでにベレンガリオも失脚させてイタリアを手に入れ、962年に皇帝に即位しました。
そんなオットー大帝の妃はアルフレッド大王を祖父に持つエドギタ(エディス)で
サクソン系の王国同盟の証しとして929年に結婚しました。
姉のエドギヴァはフランス(西フランク)王シャルル3世に嫁いでいます。
エドギタは兄のイングランド王エセルスタン同様聖オズワルド崇拝に身を捧げていて
結婚後はその信仰をドイツに吹き込もうとしていました。
彼女の影響はザクセン領の修道院や教会まで及んだそうです。
オットーが皇帝に即位する前に亡くなりました。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
苦節35年、やっと皇后になれたのに…
ベレンゲル1世妃 ベルティラ・フォン・スポレート
860~915/在位 (神聖ローマ皇后)915
(イタリア王妃)888~889、905~915
アルヌルフの後は、野心満々のカール2世妃リヒャルディスの甥にあたる
ルートヴィヒ3世が皇帝になりました。
ルートヴィヒにはヴィエンヌ伯シャルル・コンスタンチンという息子がいて
ビザンツ皇帝レオン6世の皇女アンナが母親といわれていますが皇后の記録がありません。
ルートヴィヒ3世の後を継いだのはルートヴィヒ1世を母方の祖父に持つベレンガリオです。
888年にベレンガリオ1世としてイタリア王につきましたが、グィードに奪われ
返り咲いたと思ったら貴族がルートヴィヒ3世を推したりして
なかなか王の権力を手にできない王様でありました。
実家の力が欲しくてスポレート公スッポ2世の娘ベルティラを選んだようです。
880年に結婚しました。
ベレンガリオ1世は、イタリア王としての権力を905年に取り戻し
915年には神聖ローマ皇帝になりましたが、ベルティラは間もなくして亡くなりました。
当時ベルティラは “ 不信心 ” で告発されていました。
死因は毒によるものだということです(夫の手に余っちゃいましたかね?)
ベレンゲルはその年のうちにアンナという女性と再婚しています。
詳細は不明ですがプロヴァンス伯ルイの娘だという説が濃厚みたいです。
拡げよう、サクソンの輪
オットー1世大帝妃 エドギタ
910~946/(神聖ローマ皇后)在位せず (ドイツ王妃)936~946
ここから神聖ローマ皇帝の座はザクセン家に移ります。
ものすごくかいつまんで言うと、西フランク王国は継承争いに明け暮れていて
東フランク王国は放ったらかし状態、というわけで、東フランクは勝手に
フランケン家のコンラートを王に選びました。
コンラート1世は王とはいっても各公爵家の力をおさえることはできず
特に東フランクから独立しようとするザクセン家を繋ぎとめるために
自分の後継者にザクセン公ハインリヒ1世を指名します。
ハインリヒ1世は東フランク改めドイツ王になり、その後継者オットーが
自分を陥れようとしたローマ教皇ヨハネス12世を廃位してレオ8世を選び
ついでにベレンガリオも失脚させてイタリアを手に入れ、962年に皇帝に即位しました。
そんなオットー大帝の妃はアルフレッド大王を祖父に持つエドギタ(エディス)で
サクソン系の王国同盟の証しとして929年に結婚しました。
姉のエドギヴァはフランス(西フランク)王シャルル3世に嫁いでいます。
エドギタは兄のイングランド王エセルスタン同様聖オズワルド崇拝に身を捧げていて
結婚後はその信仰をドイツに吹き込もうとしていました。
彼女の影響はザクセン領の修道院や教会まで及んだそうです。
オットーが皇帝に即位する前に亡くなりました。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)