まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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神聖ローマ皇帝ロタール1世妃 イルミンガルド

2010-11-17 00:13:27 | ドイツ系王妃
              画はエドワード・バーン=ジョーンズが描く
                       『女子修道院長の物語』


メロヴィング家との統合なるか?
ロタール1世妃 イルミンガルド・フォン・トゥール


生年不詳~851/在位 (神聖ローマ皇后)840~851 (イタリア王妃)821~851

継承戦争の末南フランク(イタリア&ロートリンゲン)を手に入れたロタール1世の妃は
トゥール伯ヒューの娘イルミンガルドです。
ヒューはロタールのみならず、イタリアに大きな影響力を持つ人物でした。

821年にイタリア王だったロタール1世と結婚しました。

イルミンガルドが属するエチコネン家はメロヴィング家に繋がる家系と言われていました。
メロヴィング家といえば最初にフランク王国を建国したのに、ごたごたしている間に
カロリング家に王位を持っていかれちゃった家系です。

          

自分たちの方が王として正当な家系だと主張していましたので
西フランク(フランス)でもメロヴィング家と縁談を結ぼうという試みがありました。
ただエチコネン家の方は自分で主張していたみたいで、真偽は定かではありません。

イルミンガルドにはたいしたエピソードがありませんが
三女のイルミンガルデは十代後半で誘拐されています。
マースガウ伯と結婚していますが、この人に誘拐されたということだろうか?

イルミンガルドは851年に亡くなりました。
死の2年前に自ら寄付をしたエルシュタン修道院に葬られたということです。



王妃 兼 女子修道院長
ルートヴィヒ2世妃 エンゲルベルガ


生年不詳~896/在位 (神聖ローマ皇后)855~875 (イタリア王妃)851~875

ロタール1世の後を継いだ王子ルートヴィヒ2世の妃は、パルマ伯アデルキス1世の娘
エンゲルベルガでした。

エンゲルベルガはルートヴィヒに多大な影響力を持っていたそうで
彼女の実家Supponidi家はこの当時ものすごく繁栄したそうです。

        

しかしながらエンゲルベルガの痛いとこ…お子様ができなかったんですね。
872年には貴族たちがルートヴィヒとエンゲルベルガを離婚させようとしたほどです。

エンゲルベルガは、なにか自分が必要とされるポジションを得たかったのかもしれません。
868年、王家の修道院とされるブレシアのサン=サルヴァトーレの修道院長になり
896年には自分で設立したピアチェンツァのサン・シストの修道院長になりました。

修道院長や司教というのは、中世では憧れの職業だったようですよ。
特に大きかったり王家と繋がりがある教会や修道院のトップの座は
激しい奪い合いがあったそうです。
でも、王女が女子修道院長になるケースは多いですけど
王妃自らその座に就くというのは珍しいんじゃないですかね?

さて、嫡子が生まれなかった南フランクの今後が気になるところ…
ロタール1世は叔父にあたる東フランクのルートヴィヒを推していましたが
貴族たちは西フランクのカール(シャルル)を選出しました。

ルートヴィヒ2世が亡くなると、カールの忠臣ロタリンギア公ボゾ5世が
王女エルメンガルデを誘拐し結婚してしまいました。
エンゲルベルガも一緒に連れ去られ失脚してしまいます。

その後はシュヴァーベンに追放になりましたが
カールに許されて882年にイタリアの領地に戻りました。
たぶんそこで亡くなったんじゃないですかね?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
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