兄のおかげで人生暗転
カール2世妃 イルミントルード
823~869/在位 (神聖ローマ皇后)せず (西フランク王妃)843~869
三兄弟に分割されてしまったフランク王国を再び統合させようと奮闘していた
カール2世(西フランク王シャルル禿頭王)の一人目の妃はオルレアン伯オードの娘
イルミントルードです。
刺繍に天賦の才能があったといいます。
当時の貴婦人にとって刺繍が上手いというのは、すごいプラス要因だと思われます。
それから宗教的な建築物に興味があって、カール2世などは
ノートルダムのシェル修道院をプレゼントしてあげたほど…贈り物のスケールが違うわね!
お子様も9人生まれ、順風満帆の王妃生活を送っていたように見えますが
866年にイルミントルードの兄ヴィルヘルムが反逆罪で処刑されてから人生が一変します。
カール2世とは別居することになり、尼僧として修道院に隠遁することになりました。
修道院長ではないのですよ、尼僧です。
そこには大きな隔たりがあるに違いない…
しかし3年後に亡くなると、王家の廟所があるサン=ドニ大聖堂に葬られました。
もう少し長生きしていたら、カール2世と和解できたんじゃないかしらね?
あと、娘ユディスが複雑な結婚をしていますので、家系図を見てみてください。
先妻の子より実の兄
カール2世妃 リヒャルディス・フォン・ダー・プロヴァンス
845~910/在位 (神聖ローマ皇后)875~877 (西フランク王妃)870~877
前妃イルミントルードが亡くなった翌年の870年
カール2世は、アルデンヌ伯ビヴァンの娘リヒャルディスと再婚します。
リヒャルディスの伯母テウデベルガはロタリンギア王ロタール2世妃でした。
カール2世はリヒャルディスの実家を通じてロタリンギア支配を狙っていました。
リヒャルディスは政治的手腕も持っていたようで、カールの遠征中は
王に代わって国を治めていました。
877年、カール2世が亡くなります。
イルミントルーデとリヒャルディスは、併せて14人の子供を生んでいましたが
カール2世が亡くなったとき成長していたのは3人だけでした。(しかも2人は王女)
31歳の長男ルートヴィヒがいましたが病弱な男性だったみたいです。
リヒャルディスは自分の兄ボゾを王にしようと考えました。
ちなみにボゾはロタール1世皇女エルメンガルデを誘拐して結婚した人ね!
貴族たちが嫌うのはいつの世でも、王妃(愛妾)の家族の台頭ですよね。
自分の家ならいいんだろうけど…
リヒャルディスは兄ボゾとの近親相姦を糾弾されて、服従を拒まれてしまいます。
しかたないなぁ…と西フランク王はあきらめたリヒャルディスですが
せめてプロヴァンス王にしようと頑張り、ボゾは王に即位することができました。
結局西フランク王位はルートヴィヒ2世が継ぎましたが879年に亡くなります。
その後はその息子ルートヴィヒ3世が継ぎましたが882年に亡くなりました。
共治王だったルートヴィヒ3世の弟カルロマン2世までも884年に亡くなります。
リヒャルディスは王様が替わる度に権力の座に返り咲こうと画策しますが
どうにも上手くいきませんでした。
貴族たちはリヒャルディスを、プロヴァンスへ追いやってしまいました。
兄ボゾは亡くなっていましたが、その息子ルイがプロヴァンス王になっていました。
たぶん甥っ子に口うるさく指示してたんじゃないかと思うわ
権力大好き!って感じですものね。
ちなみに、ルイの母親は、ルートヴィヒ2世とエンゲルベルガの王女エルメンガルデで
カール2世の甥の息子ってことになります。 ややこし~
居心地が良かったのかその後はずっとプロヴァンスで暮らし、910年に亡くなりました。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
カール2世妃 イルミントルード
823~869/在位 (神聖ローマ皇后)せず (西フランク王妃)843~869
三兄弟に分割されてしまったフランク王国を再び統合させようと奮闘していた
カール2世(西フランク王シャルル禿頭王)の一人目の妃はオルレアン伯オードの娘
イルミントルードです。
刺繍に天賦の才能があったといいます。
当時の貴婦人にとって刺繍が上手いというのは、すごいプラス要因だと思われます。
それから宗教的な建築物に興味があって、カール2世などは
ノートルダムのシェル修道院をプレゼントしてあげたほど…贈り物のスケールが違うわね!
お子様も9人生まれ、順風満帆の王妃生活を送っていたように見えますが
866年にイルミントルードの兄ヴィルヘルムが反逆罪で処刑されてから人生が一変します。
カール2世とは別居することになり、尼僧として修道院に隠遁することになりました。
修道院長ではないのですよ、尼僧です。
そこには大きな隔たりがあるに違いない…
しかし3年後に亡くなると、王家の廟所があるサン=ドニ大聖堂に葬られました。
もう少し長生きしていたら、カール2世と和解できたんじゃないかしらね?
あと、娘ユディスが複雑な結婚をしていますので、家系図を見てみてください。
先妻の子より実の兄
カール2世妃 リヒャルディス・フォン・ダー・プロヴァンス
845~910/在位 (神聖ローマ皇后)875~877 (西フランク王妃)870~877
前妃イルミントルードが亡くなった翌年の870年
カール2世は、アルデンヌ伯ビヴァンの娘リヒャルディスと再婚します。
リヒャルディスの伯母テウデベルガはロタリンギア王ロタール2世妃でした。
カール2世はリヒャルディスの実家を通じてロタリンギア支配を狙っていました。
リヒャルディスは政治的手腕も持っていたようで、カールの遠征中は
王に代わって国を治めていました。
877年、カール2世が亡くなります。
イルミントルーデとリヒャルディスは、併せて14人の子供を生んでいましたが
カール2世が亡くなったとき成長していたのは3人だけでした。(しかも2人は王女)
31歳の長男ルートヴィヒがいましたが病弱な男性だったみたいです。
リヒャルディスは自分の兄ボゾを王にしようと考えました。
ちなみにボゾはロタール1世皇女エルメンガルデを誘拐して結婚した人ね!
貴族たちが嫌うのはいつの世でも、王妃(愛妾)の家族の台頭ですよね。
自分の家ならいいんだろうけど…
リヒャルディスは兄ボゾとの近親相姦を糾弾されて、服従を拒まれてしまいます。
しかたないなぁ…と西フランク王はあきらめたリヒャルディスですが
せめてプロヴァンス王にしようと頑張り、ボゾは王に即位することができました。
結局西フランク王位はルートヴィヒ2世が継ぎましたが879年に亡くなります。
その後はその息子ルートヴィヒ3世が継ぎましたが882年に亡くなりました。
共治王だったルートヴィヒ3世の弟カルロマン2世までも884年に亡くなります。
リヒャルディスは王様が替わる度に権力の座に返り咲こうと画策しますが
どうにも上手くいきませんでした。
貴族たちはリヒャルディスを、プロヴァンスへ追いやってしまいました。
兄ボゾは亡くなっていましたが、その息子ルイがプロヴァンス王になっていました。
たぶん甥っ子に口うるさく指示してたんじゃないかと思うわ
権力大好き!って感じですものね。
ちなみに、ルイの母親は、ルートヴィヒ2世とエンゲルベルガの王女エルメンガルデで
カール2世の甥の息子ってことになります。 ややこし~
居心地が良かったのかその後はずっとプロヴァンスで暮らし、910年に亡くなりました。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
エリザベス1世のことをいろいろ調べているうちにここに来ました。
王族の方々なんかのことを沢山書かれているようですが、
お好きなんですか?調べるのが?
エリザベス1世についてはお詳しいですか?
コメントありがとうございます
調べるのが好きというより、調べて家系図を書くのが好きなんです。
だからあまり深く掘り下げていない部分も多いです。
できるだけ間違いのないように、資料になる本は購入するようにしています。
エリザベス1世についても、何冊かの本で読んだ事項については知っていますが、伝記などで掘り下げてはいないので詳しいとは言えないと思います。
面目ありません
お恥ずかしながら、私はふとしたきっかけで、
エリザベス1世を調べてるんですが、
知りたいことは、全然わからなくて、
詳しい方いるかなーなんて徘徊してました(苦笑)
本を読んでいらっしゃるとのことなので・・・
もし、ご存知でしたら・・・なんですが、
若いころ幽閉されたらしいですが、
そのとき、幽閉先へ送られた時刻は、
夜だったか、昼だったか。
また馬車で移動したか?(そのとき林?森?を
通るようなルートだったか?)また馬車だとして、
座席の(前を向いて)左の端へ座る可能性はあったか?(右には誰か座っていたようです。
が面識はなく男性です)
あと、女王になったとき、本心は、
「女王になりたくない。」と思っていた可能性はありますか?(ちょっと調べた感じだと、喜んだ。みたいな書きかたをされてますよね)
また亡くなったとき、
ベット脇に、召使の老婆だけがいたという可能性はありますか?もっと大勢に囲まれて亡くなるものなんでしょうか?
・・・もしご存知だったら・・・なんですが。
よろしくお願いします。
お返事が遅くなってしまってごめんなさい。
エリザベス1世の幽閉の件、私の持っている本を総動員して調べてみましたが、エリザベス1世のことだけを書いた本ではないので詳しい記述がありませんでした。
石井美樹子さん『イギリス・ルネサンスの女たち』によると、ロンドン塔に向かった時には舟で行ったことになっており、ウィンチェスター侯爵とサセックス伯爵が同行したとなっています。
三浦一郎さんの『世界史の中の女性たち』、森譲さんの『英国王室史話』では、一度そこから入ると二度と生きては出れないという“反逆者の門”からロンドン塔に入ったという記述があります。
2ヶ月後にエリザベスはロンドン塔を出てウッドストック離宮に幽閉され、その後ハットフィールド離宮に戻っています。
この際が馬車ではなかったかと思われますが記述がありません。
『イギリス・ルネサンスの女たち』では輿になっています。
沿道の国民の祝福を受けたと書いてあるので昼間じゃないかと思います。
亡くなった時については、老召使いひとりということはなかったようです。
『英国王室史話』によれば、お気に入りの騎士ロバート・ケアリーがいたようですし、3月23日夜にカンタベリー大司教をはじめ、ロバート・ダドリー、ウィリアム・セシルなどの寵臣が集められ、24日未明に亡くなっています。
一応Wikipediaの英語版をざっと見てみましたが、詳しい記述は無いみたいです。
あまり詳しくわからなくてごめんなさい
小説なんかだともっと詳しい記述があるかもしれないですね。
どこまでが脚色か…という問題はありますが。
わざわざ調べて頂きありがとうございます。
突然のコメントに
ご丁寧に対応していただき、
感謝します。
ありがとうございましたっ!!