まりっぺのお気楽読書

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神聖ローマ皇帝フランツ1世皇女 マリア・アマーリア

2011-05-27 12:01:44 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
お母様のせいで恋がかなわず・・・
フランツ1世皇女 マリア・アマーリア・フォン・エスターライヒ
パルマ公フェルディナンド妃


1746~1804

マリア・アマーリアは、フランツ1世とマリア・テレジアの六女です。
美人ぞろいの皇女たちの中でもひときわ美しくて社交界の人気者でした。
宮廷で詩などを朗読すると、うっとりする声で人々を魅了したそうです。

女帝マリア・テレジアは良妻賢母と言われていますけれども
けっこう子供たちに対して分け隔てがあったみたいなんですよね。
溺愛されていたのは、将来帝国を継ぐことになるヨーゼフ(2世)と四女ミミです。

マリア・アマーリアは女帝から横柄でうるさい娘だと思われていて
始終姉たちと較べられていました。
        
マリア・アマーリアは22歳の時、ウィーン宮廷を頻繁に訪れていた
ハンサムで知的なツヴァイブリュッケン公カールと恋に落ちました。
カールは傍系とはいえヴィッテルスバハ=プファルツ家で、ツヴァイブリュッケンの君主、
うまくいけば将来バイエルンとプファルツの継承もできるかもしれませんでした。

しかし女帝と宰相カウニッツは二人の結婚に難色を示しました。
実はオーストリアは、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフが亡くなったら
バイエルンを獲得しようと考えていました。
(マクシミリアン3世の母はヨーゼフ1世皇女マリア・アマーリア
 妃は同じくヨーゼフ1世皇女マリア・ヨーゼファの娘マリア・アンナです)
バイエルンの継承が可能なカールとの結婚は政治上好ましくないと考えたようです。

それに、イタリアでの力を強化するため、マリア・アマーリアを
ブルボン家のナポリ王かパルマ公に嫁がせたいと考えていました。

マリア・アマーリアはミミを引き合いに出して必死で反抗しましたが
パルマ公フェルディナンドの姉マリア・イザベラを妃に迎えていた兄ヨーゼフ(2世)が
強力に後押しして、結婚が決まってしまいました。

ツヴァイブリュッケン公は怒ってウィーンを後にし、二度と足を踏み入れなかったそうです。

1769年、マリア・アマーリアは泣く泣くフェルディナンドと結婚しパルマに渡りました。
長~くなりそうなので結婚後についてははしょっていきますね。

当時パルマは、イタリアを手中に収めたいと狙っていたフランスとスペインから
財政援助を受けていました。
ハプスブルク家もくい込もうとして、女帝はローゼンベルク伯という顧問を
マリア・アマーリアに同行させて、ウィーンから逐一指示を送りました。

パルマ公フェルディナンドは政治に興味がなく遊興に耽っていて
マリア・アマーリアはすぐに政治の実権を握ることができたのですが
女帝の指示はほぼ無視! ローゼンベルク伯は追っ払われてしまいました。
怒った女帝はマリア・アマーリアの手紙を開封せず送り返したりしたそうです。
母と娘の溝はかなり深かったみたいで生涯和解できませんでした。

ところで、母娘の溝を作った元凶ともいえるミミなんですけど
おせっかいなことにパルマを訪問しています。
ミミが女帝にチクったところによれば、マリア・アマーリアはめっきり太った上老けて
華やかさも失ったということでしたが、ミミは兄弟姉妹の悪口を言うのが好きですからね。

マリア・アマーリアは風変わりだけど気は好くて勇敢な女性と言われていました。
嫌々嫁いだわりに、夫との仲もそんなに悪くなかったみたいです。

女帝やミミとは不仲のマリア・アマーリアでしたがマリー・アントワネット
ナポリ王妃になった妹マリア・カロリーナとは仲が良くて
手紙やドレス、贈り物のやりとりを続けていました。
マリー・アントワネットが監獄で書いた最後の手紙は密かに届けられました。
妹の処刑を知ったマリア・アマーリアはフランスを嫌悪するようになりました。

ナポレオンの侵攻が始まり、イタリアの各国も次々に侵略されていきます。
息子ルイージはトスカーナに建国されたフランスの傀儡国エトルリアの王に即位しました。

1802年にフェルディナンドが亡くなるとマリア・アマーリアは摂政に任命されましたが
数日でフランス共和政から職が解かれ追放されました。
息子は傀儡王になっているのに、なぜでしょうね?
厄介者と見られたのでしょうか? 反フランス!を見せすぎましたかね?

マリア・アマーリアはプラハ城で暮らし、2年後に亡くなりました。

無理矢理な政略結婚だったのに、結局うまくいかなかったとは…誰に怒りをぶつけますかね?
マリア・テレジアの娘たちは、結局ミミ以外は不幸だったような気がします。
筆まめでお小言を書き送ったというだけで賢母というのもどうだろう…と
ふと考えたりして…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』 Wikipedia英語版)

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (とものり)
2013-09-06 20:18:26
私はマリア・テレジアの娘さんの中では、この方が1番好きです。マリアンネさんが仲良くしていた妹さんだと読んだことがあります。根が素直なだけに荒ぶってしまったのでしょうか?
返信する
連投申し訳ございません。 (とものり)
2013-09-06 20:21:07
タイトルに名前を入れて投稿してしまいました…。申し訳ありませんでした。
返信する
こんにちわ (まりっぺ)
2013-09-08 17:23:01
とものりさま、こんにちわ

マリア・テレジアの娘たちは皆意志が強そうで、エピソードも満載で読んでいて楽しいですよね。
私は、そんな中で比較的地味な印象がある次女マリア・アンネが好きです。
宮廷を出て自分の居場所を見つけて、自分の人生を生きられた王女という気がしています。
返信する
マリアンネさんは格好良いです(≧∇≦) (とものり)
2013-09-08 18:44:13
まりっぺ様こんばんは!昨日丁度マリアンネさんの伝記(ライトナー女史の)を読み直した所でした!持ち前の不屈の精神、優しさ、聡明さを失わずに生きたお姉さん。晩年に彼女を訪問した弟妹が、幸せそうな様子を見て驚いたそうですね?アマーリアさんも、マリアンネさんのように生き甲斐を見出すことが出来れば良かったのに、と思いました。
返信する
母を憎んだ六女。 (メリエンダ)
2018-06-08 10:49:00
マリア・アマーリエ。彼女は母を憎しみ反発ばかりしていた娘として有名ですよね。彼女は思ったことはハッキリと言ってしまわなくては気が済まない高慢な性格だったと言われていますが、この評価はなんか母帝がそんなふうに判断していた偏見に思えます。対して弟のレオポルド、は、彼女を、半アマゾネス、と呼んでいたみたいで、彼女の男勝りさを評していますね。 でも、彼女は本当に気の毒な女性です。一生モノの恋を裂かれ、しかも姉には許されたのに、何故に彼女は許されなかったのでしょうか?さして母帝に愛されなかった、というのが理由なんでしょうか?無理矢理の結婚後は、母の顔に泥を塗るのに費やすなんて、あまりにも‥ただただ、他国に母により嫁がされた妹達との交流と子供達の成長が彼女の癒しだったみたいですね。
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意外でした (ナンシー)
2018-08-12 07:02:37
アマリーエが妹と仲良しだったんですね。
しかし、ミミってかなりずる賢いですね。
私はミミが一番好きではありません。

アマリーエがお母さんの言うことを聞いていれば違っていたのかな?波長の合わない男性と結婚させられたら、余計に恨むのかなと思いました
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こんばんは (まりっぺ)
2018-08-28 20:10:21
メリエンダさま、ナンシーさま
こんばんは

コメントをありがとうございます
いろいろありましてお返事が遅くなり申し訳ありません

歴史上の人物は記録する時代や著者によってけっこう評価が変わるものなので本当の人物像を見抜くのは難しいと思いますが、マリア・テレジアとかヴィクトリア女王とかは手紙とか日記が残っているみたいなので子供たちのパーソナリティも実像に近いんじゃないかと考えると、読んでいて楽しいですよね
返信する

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