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イングランド王ヘンリー3世妃 エリナー

2008-10-12 08:50:35 | イングランド王妃・王女
イギリス人嫌いのイングランド王妃
ヘンリー3世妃 エリナー・オブ・プロヴァンス


1224~1291/在位 1236~1272

9歳で王になったヘンリー3世は、29歳の時にプロヴァンス伯の娘エリナーと結婚。
エリナーはこの時12歳です。
ちなみにエリナーの姉妹はヘンリーの弟コーンウォール伯リチャードと結婚しています。

この、兄弟姉妹同志で結婚するパターンは多いですよね。
どの国がどの国との国交に力を入れていたか、あるいは敵対していたかが
王侯貴族の結婚から伺い知れます。
       
       

ヘンリー3世自身は外国人(主にポワトゥー人)嫌いだったらしく
国内でも権力を持つ外国人への反感は大きかったようです。

そんな中、エリナーは輿入れに4人の叔父(サヴォイ人)を同道し
その人たちが居座ちゃった上に、その家族が要職を得たりしたことで非難を浴びます。

そんなことを知ってか知らずか、エリナーはイングランド人が嫌いで
サヴォイ人やポワトゥー人ばかりを相手にしていたため非難に拍車をかけてしまいます。
のんきというか意識が足りないというか

でもどうでしょう?
12歳で外国へ(それもしょっちゅう戦争してる相手の国へ)嫁がされて
すぐに王妃になり、“ 王妃としての自覚を持ちなさい ”と言われてもねぇ・・・

それに彼女は輿入れから3年間子供ができなかったということで
いろいろと噂されたらしいんだけど、12歳だってば
そんなことが余計彼女を頑なにしてしまったんじゃないでしょうか?

教育によるものか、本人の資質によるものか分かりませんが
王妃として外国でも立派にやっていけるタイプと、適応できないタイプがいますよね。
後者で有名なのはマリー・アントワネットとかエリザヴェータなんか。

世が世なら国の崩壊の一因になってしまうかもしれない王妃の立場。
12歳の肩には重すぎますよね

しかし、そんな彼女も家族への愛情は強かったみたいで
長男エドワードが病気で死に瀕した時には、3週間修道院で祈ったりしています。
また、ヘンリー3世の死後もフランスに帰らず、子供や孫に囲まれて暮らし
孫息子ヘンリーを看護し死なせた時には心底悲しんだようです。

フランスで普通に結婚していたら、良き夫人となって
いらざる非難を浴びることはなかったっかもしれませんね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
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プロヴァンス伯家の“四つの資産”の一人 (メリエンダ)
2018-11-10 09:45:32
エリナー・プロヴァンスは、ヘンリー3世の王妃にして、プロヴァンス伯の次女
プロヴァンス伯には、際立って美しい四人の娘がいて、何れも甲乙つけ難く、プロヴァンス伯家は、さして裕福でなかった為か、一部の人間は、“プロヴァンス伯爵にある資産は、四人の美しい姫君のみ”なんて陰口を叩かれる程だったそうですね… エリナーは、噂以上の美少女で、詩才もあり、教養豊かな姫君だったみたいですが、“空気の読めない”所があったというのは有名な話ですよね…嫁ぎ先でも上手くやっていく、処世術みたいなのを教わらなかったのでしょうか?夫、ヘンリー3世の不評と王妃の不人気ぶりが相まって、イングランド王家の人気は、これ以上無いほどに低かったらしいですね。唯一の救いが、“家族仲”エリナー王妃は、男児6人女児3人(生き残ったのが、四人)産み、慈しみ、ヘンリーも子煩悩な父親であったとされているらしいですね。国民からは、夫婦共々嫌われ、内乱が頻繁に起き、失政ばかりだったけど、夫婦の生き甲斐が、子供たちの成長だったのですね…
この二人から産まれた長男、エドワードは、父母を大切にし、更には、この二人の子供とは信じがたい程に優秀な人物で、“イングランド屈指の賢王”と後の世にも称えられたのは、俗に言う、“鳶が鷹を生む”ですね。
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