まりっぺのお気楽読書

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ロシア女帝 アンナ

2009-07-06 00:16:57 | ロシア皇妃
Uターンしてきた女帝
アンナ・イヴァノヴナ


1693~1740/在位 1730~1740

歴史にはありがちなことですが、アンナの治世の記録は
後に女帝となったエリザヴェータの時代に悪し様に書かれていることが多いということで
見直されている部分が多いようです。
激しい弾圧を行ったとされる恐怖政治も “ ビロン時代 ” という呼び名も
エリザヴェータ時代に語られたもので、おおいに脚色されているおそれがあります。

エカチェリーナ1世を継いで即位したピョートル2世は、メンシコフの娘マリーヤや
その後権力を握ったアレクセイ・ドルゴルスキーの娘エカチェリーナと婚約しましたが
結婚することなく天然痘で崩御しました。

アンナは1710年にクールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚しましたが
なんと! 新婚旅行の最中に旦那様が急死して未亡人になってしまいました。
その後はロシアへ戻らずクールラントで愛人などを持ちながら過ごしていました。
1730年にピョートル2世が未婚のまま崩御するとロシアに呼び戻されることになります。

       

エカチェリーナ1世、ピョートル2世の治世中権力を握っていた最高枢密院は
もちろん利権を手放したくないですよね?
そこで取り巻きを持つエリザヴェータやピョートル(後の3世)などは庶子扱いして排除し
アンナにもなんら権限を与えないために数々の署名をさせ女帝として即位させました。

ところがどっこい愛人ビロンとロシアに帰国したアンナは一枚上手でしたよ。
おとなしく枢密院に従っていたアンナは戴冠を済ませると “ 貴族たちの嘆願によって ”
枢密院を解散し、重鎮たちは追放などの処罰を受けました。
一手に権力を握っていた枢密院には敵が多いことはドイツで調査済みだったのです。
けれど結局政治を動かしたのは新しく組織された守旧派の内閣でした…いつか来た道です。

アンナたちを悩ませたもの、それはエリザヴェータの存在でした。
とかく移り気な貴族や軍部は、権力者やその側近たちに反感を抱くと
その対抗馬のまわりに集まるようになります。
エリザヴェータの館にも不満を抱えた貴族たちが顔を揃えるようになりました。
ビロンは秘密警察を組織して疑わしい人物を片っ端から弾圧していきました。

政治は内閣に、治安はビロンに任せていたアンナはやっぱり暇を持て余しちゃったのね。
芸術などに力を注いだのは良しとして、凍てつくサンクト=ペテルブルクの地に
氷の宮殿なるものを造っています。
莫大な費用をつぎ込んで本物の宮殿さながらに建てたんだけど、溶けました…やはり。
アンナの命令で新婚初夜を過ごした貴族もいたんですよ! 寒かったろぉ…

優しかったり残酷だったり、かなりムラ気な女性だったといわれていますが
これは当時の君主には割と多いタイプなんじゃないかしら?
今だってそういうワンマン社長とかいますよね? 権力者にありがちな傾向かと…

アンナは姪の息子にあたるイヴァンを後継者に指名しました。
この時エリザヴェータに忠誠を誓わせています。
1740年に腎臓の潰瘍で亡くなりました。

イヴァン6世は生後2ヶ月で即位しましたが近衛兵のクーデターで廃位され
リュッセンブルクの要塞に投獄されてしまいます。
エリザヴェータ、エカチェリーナ2世の治世中23年に渡って日の目を見ることはなく
最後は看守に刺されて死亡しました。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシアとソ連邦 講談社


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