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アナーキーな王妃
クリスチャン5世妃 シャルロッテ・アマリエ・アフ・ヘッセン=カッセル
1650~1714/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1670~1699
父はヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世で、とりたてていうことはありません。
母のヘドヴィヒ・ゾフィー・フォン・ブランデンブルクは志高い(宗教)改革派で
大選帝侯と呼ばれた兄フリードリヒ・ヴィルヘルムが治めるブランデンブルクに
追随するべきだと考えていました。
フランス語、イタリア語、地理、哲学など、とても高い教育を受けた上に
母親の影響が強く及んだシャルロッテは、やはり強い改革の意志を持っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/07/11edd0a78fadf8b1431040ecf67cface.jpg)
シャルロッテとクリスチャンの縁談をまとめたのはソフィー・アマリエで
影響力が落ちてきた彼女は、嫁を支配下において息子をコントロールするつもりでした。
でも、その考えはものすごくアマかった![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp30.gif)
ふたりは1665年にお見合いしましたが、宗教的な問題で結婚は延び延びになります。
交渉開始から2年後に結婚することになったものの、改宗は受け入れませんでした。
彼女は改革の信念を変えることなく、当時不法だった改革派にも面会しました。
クリスチャン5世は善良な人柄で、国民の支持が高い王だったそうですけど
強烈な個性が見当たらないのよね。
こんなにパワフルな王妃を相手にして、イニシアチブがとれていたのでしょうか?
クリスチャンは妻に、母のようにでしゃばってほしくありませんでした。
幸運にもシャルロッテの興味は、宗教と義母ソフィーとの争いに向いていたようです。
まず教会方面では
彼女および宮廷はルター派教会からの指図は受けないという権利を勝ち取りました。
改革派教会の建設も認めさせて、大金を融通しました。
もちろんルター派は黙っちゃいなかったのですけどね。
義母との抗争は
シャルロッテは絶対にソフィーと暮らそうとしませんでした。
礼儀作法の面でも常に言い争っていましたし
ソフィーが嫌って逮捕・投獄したレオノーラの解放も訴え続けました。
子飼いにしようと思ってたのに…
ソフィーのアテは大きく外れたわけです。
シャルロッテは、そんなに美しいとは言えませんが
チャーミングで非常に如才がない女性だったそうです。
スパイ(!)のために送り込まれた侍女ユスティーヌは、いつしか影響を受けてしまい
時にはシャルロッテの手先として働いたこともありました。
長くなるからはしょるけど、シャルロッテは1700年にスウェーデンが攻めて来た時
コペンハーゲンを防衛してヒロイン並の人気を手に入れています。
彼女はこの人気を利用して、教会に一般市民への門戸開放を訴えました。
シャルロッテは国内にかなりの領地を持っていました。
どの領地も非常に効率よく運営すされていたそうです。
彼女に政治的野望があったら、クリスチャンはひとたまりもなかったかもしれませんね。
クリスチャンは度々浮気をして、愛ある夫婦生活というわけにはいきませんでした。
でも子供たちにはとてもよい母親で、和気あいあいとしていたそうです。
コンサバな宮廷ではそんなに人気者ではなくて、むしろ無視されたりもしましたが
そんなことは気にせず、宮廷生活そのものを楽しんでいました。
今で言うなら “ まわりに左右されない自分のスタイルを持った女性 ” ですね。
クリスチャンが亡くなると、前もって購入しておいたシャルロッテンボー宮殿に引退し
15年後にそこで亡くなりました。
シャルロッテンボー宮殿は、現在デンマーク王立芸術アカデミーになっています。
物事を内部から変えようとすることは、外から圧力をかけて変えさせるより
パワーが必要かもしれませんね。
外部には勝手にブーブー言わせときゃいいんだけど
内部だと毎日顔をあわせなきゃなりませんからね。
だから政治家に都合の悪い法案てなかなか決まらないんだと思うわ。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
クリスチャン5世妃 シャルロッテ・アマリエ・アフ・ヘッセン=カッセル
1650~1714/在位 (デンマーク・ノルウェー王妃)1670~1699
父はヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世で、とりたてていうことはありません。
母のヘドヴィヒ・ゾフィー・フォン・ブランデンブルクは志高い(宗教)改革派で
大選帝侯と呼ばれた兄フリードリヒ・ヴィルヘルムが治めるブランデンブルクに
追随するべきだと考えていました。
フランス語、イタリア語、地理、哲学など、とても高い教育を受けた上に
母親の影響が強く及んだシャルロッテは、やはり強い改革の意志を持っていました。
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シャルロッテとクリスチャンの縁談をまとめたのはソフィー・アマリエで
影響力が落ちてきた彼女は、嫁を支配下において息子をコントロールするつもりでした。
でも、その考えはものすごくアマかった
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ふたりは1665年にお見合いしましたが、宗教的な問題で結婚は延び延びになります。
交渉開始から2年後に結婚することになったものの、改宗は受け入れませんでした。
彼女は改革の信念を変えることなく、当時不法だった改革派にも面会しました。
クリスチャン5世は善良な人柄で、国民の支持が高い王だったそうですけど
強烈な個性が見当たらないのよね。
こんなにパワフルな王妃を相手にして、イニシアチブがとれていたのでしょうか?
クリスチャンは妻に、母のようにでしゃばってほしくありませんでした。
幸運にもシャルロッテの興味は、宗教と義母ソフィーとの争いに向いていたようです。
まず教会方面では
彼女および宮廷はルター派教会からの指図は受けないという権利を勝ち取りました。
改革派教会の建設も認めさせて、大金を融通しました。
もちろんルター派は黙っちゃいなかったのですけどね。
義母との抗争は
シャルロッテは絶対にソフィーと暮らそうとしませんでした。
礼儀作法の面でも常に言い争っていましたし
ソフィーが嫌って逮捕・投獄したレオノーラの解放も訴え続けました。
子飼いにしようと思ってたのに…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp25.gif)
シャルロッテは、そんなに美しいとは言えませんが
チャーミングで非常に如才がない女性だったそうです。
スパイ(!)のために送り込まれた侍女ユスティーヌは、いつしか影響を受けてしまい
時にはシャルロッテの手先として働いたこともありました。
長くなるからはしょるけど、シャルロッテは1700年にスウェーデンが攻めて来た時
コペンハーゲンを防衛してヒロイン並の人気を手に入れています。
彼女はこの人気を利用して、教会に一般市民への門戸開放を訴えました。
シャルロッテは国内にかなりの領地を持っていました。
どの領地も非常に効率よく運営すされていたそうです。
彼女に政治的野望があったら、クリスチャンはひとたまりもなかったかもしれませんね。
クリスチャンは度々浮気をして、愛ある夫婦生活というわけにはいきませんでした。
でも子供たちにはとてもよい母親で、和気あいあいとしていたそうです。
コンサバな宮廷ではそんなに人気者ではなくて、むしろ無視されたりもしましたが
そんなことは気にせず、宮廷生活そのものを楽しんでいました。
今で言うなら “ まわりに左右されない自分のスタイルを持った女性 ” ですね。
クリスチャンが亡くなると、前もって購入しておいたシャルロッテンボー宮殿に引退し
15年後にそこで亡くなりました。
シャルロッテンボー宮殿は、現在デンマーク王立芸術アカデミーになっています。
物事を内部から変えようとすることは、外から圧力をかけて変えさせるより
パワーが必要かもしれませんね。
外部には勝手にブーブー言わせときゃいいんだけど
内部だと毎日顔をあわせなきゃなりませんからね。
だから政治家に都合の悪い法案てなかなか決まらないんだと思うわ。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)