![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/c3/a552781b5442cf025620a38bd3d717c0.jpg)
憧れるわ! 家系図がご趣味の王妃
フレデリク6世妃 マリー・ソフィー・アフ・ヘッセン=カッセル
1767~1852/在位 (デンマーク王妃)1808~1839 (ノルウェー王妃)1808~1814
マリーの母方の祖母ルイーセも、父方の祖母メアリーも
イギリス王ジョージ2世の王女です。
フレデリク6世の母カロリーネ・マチルデも英国王室出身だし
英国色が強くなってきましたね…本当はハノーヴァー家(ドイツ)だけど。
マリーの父ヘッセン=カッセル方伯カールは次男で
王家から縁談がくるような家柄ではありませんでした。
じゃあどうしてマリーが王太子の妃に選ばれたんでしょうね?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/01/6b2ece236b5db0dd3cf8fc412216f97b.jpg)
父カールはデンマーク王フレデリク5世の王女ルイーセを妻にしていて
デンマーク宮廷で長官の地位を得ていました。
そのためマリーはデンマークで育ちました。
それでフレデリクとの間に愛が芽生えた
… だと
とってもロマンティックですけど、実際はわかりません。
いとこ同士だし、良く知っていたとは思いますが
デンマーク政府はもっと高位の貴族の娘を望んでいたようです。
ただ、狂王クリスチャン7世と王を操っていたフレデリク5世妃ユリアーネから
政治を奪取したいというフレデリクの望みを、マリーは常に励ましていたようです。
やっぱり愛があったのかしら?
ユリアーネはフレデリクの花嫁を自分で選んで影響力を維持しようと
躍起になっていましたから、反抗心がむくむくと湧いたのかもしれません。
いずれにしても、ふたりは1790年に結婚しました。
この結婚は国民を感激させ、熱烈に迎え入れられました。
フレデリクは結婚の6年前、16歳の時に父王を説き伏せ協同統治者になっていて
政治的な力は十分備えていました。
農地改革を行い農奴制を廃止し行い、デンマークの農業近代化を図りました。
また、国民のために尽くした王として人気がありました。
しかし時代はナポレオン旋風が吹き荒れていたころです。
デンマーク同盟はナポレオン軍に敗れ、その余波で1814年、ノルウェーを失いました。
プライベートでは、フレデリクの姉妹たちが宮廷にいて
ファーストレディとして振る舞い、傍家出身のマリーを見劣りさせました。
また、王子の夭逝が続き、マリーには常に王子誕生のプレシャーがかかりました。
フレデリクさえ、妊娠中のマリーに愛妾フリーデリケを容認するよう迫ったりします。
お城の中にもバラ色の結婚生活なんて存在しないものなのね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp28.gif)
フレデリクはマリーの政治能力には信頼を寄せていたようで
王の不在中、彼女は摂政になったこともあります。
その間マリーは上手く国事を治めていたと言われています。
また、王家の血統にも興味を持ち、研究の末血統に関する本も出版しました。
これって家系図ですよね?
素敵! まわりに資料がたくさんあるんですものね! 羨ましいご趣味です。
彼女の出版物によって、後年クリスチャン9世がデンマーク王になったと言っても
過言ではないそうです。
1839年に未亡人になると一切の公の場から退きました。
ところで、オランダ王ウィレム1世妃ヴィルヘルミナの時も思ったんだけど
ドイツの少女にはもっさもっさしたヘアスタイルが流行っていたの?
嫌いじゃありませんけど、一昔前のハードロッカーみたいですよね…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/a1/a842b53fd94d588cdf4ba068df0548fd.jpg)
良かった、ぐっとエレガンスになられて…
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
フレデリク6世妃 マリー・ソフィー・アフ・ヘッセン=カッセル
1767~1852/在位 (デンマーク王妃)1808~1839 (ノルウェー王妃)1808~1814
マリーの母方の祖母ルイーセも、父方の祖母メアリーも
イギリス王ジョージ2世の王女です。
フレデリク6世の母カロリーネ・マチルデも英国王室出身だし
英国色が強くなってきましたね…本当はハノーヴァー家(ドイツ)だけど。
マリーの父ヘッセン=カッセル方伯カールは次男で
王家から縁談がくるような家柄ではありませんでした。
じゃあどうしてマリーが王太子の妃に選ばれたんでしょうね?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/01/6b2ece236b5db0dd3cf8fc412216f97b.jpg)
父カールはデンマーク王フレデリク5世の王女ルイーセを妻にしていて
デンマーク宮廷で長官の地位を得ていました。
そのためマリーはデンマークで育ちました。
それでフレデリクとの間に愛が芽生えた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
とってもロマンティックですけど、実際はわかりません。
いとこ同士だし、良く知っていたとは思いますが
デンマーク政府はもっと高位の貴族の娘を望んでいたようです。
ただ、狂王クリスチャン7世と王を操っていたフレデリク5世妃ユリアーネから
政治を奪取したいというフレデリクの望みを、マリーは常に励ましていたようです。
やっぱり愛があったのかしら?
ユリアーネはフレデリクの花嫁を自分で選んで影響力を維持しようと
躍起になっていましたから、反抗心がむくむくと湧いたのかもしれません。
いずれにしても、ふたりは1790年に結婚しました。
この結婚は国民を感激させ、熱烈に迎え入れられました。
フレデリクは結婚の6年前、16歳の時に父王を説き伏せ協同統治者になっていて
政治的な力は十分備えていました。
農地改革を行い農奴制を廃止し行い、デンマークの農業近代化を図りました。
また、国民のために尽くした王として人気がありました。
しかし時代はナポレオン旋風が吹き荒れていたころです。
デンマーク同盟はナポレオン軍に敗れ、その余波で1814年、ノルウェーを失いました。
プライベートでは、フレデリクの姉妹たちが宮廷にいて
ファーストレディとして振る舞い、傍家出身のマリーを見劣りさせました。
また、王子の夭逝が続き、マリーには常に王子誕生のプレシャーがかかりました。
フレデリクさえ、妊娠中のマリーに愛妾フリーデリケを容認するよう迫ったりします。
お城の中にもバラ色の結婚生活なんて存在しないものなのね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp28.gif)
フレデリクはマリーの政治能力には信頼を寄せていたようで
王の不在中、彼女は摂政になったこともあります。
その間マリーは上手く国事を治めていたと言われています。
また、王家の血統にも興味を持ち、研究の末血統に関する本も出版しました。
これって家系図ですよね?
素敵! まわりに資料がたくさんあるんですものね! 羨ましいご趣味です。
彼女の出版物によって、後年クリスチャン9世がデンマーク王になったと言っても
過言ではないそうです。
1839年に未亡人になると一切の公の場から退きました。
ところで、オランダ王ウィレム1世妃ヴィルヘルミナの時も思ったんだけど
ドイツの少女にはもっさもっさしたヘアスタイルが流行っていたの?
嫌いじゃありませんけど、一昔前のハードロッカーみたいですよね…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/a1/a842b53fd94d588cdf4ba068df0548fd.jpg)
良かった、ぐっとエレガンスになられて…
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)