まりっぺのお気楽読書

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デンマーク王フレデリク7世妃 ルイーセ

2010-04-07 23:41:03 | デンマーク王妃
荒くれ者のミューズ
フレデリク7世妃 ルイーセ・ラスムセン


1815~1874/在位せず

母親はユリアナ・ラスムセンといい、商家のメイドでした。
職人コッペンとの間にできたルイーセを未婚で生みました。

いきなり家系図がスッッッキリしてしまいましたね。
これが家柄の違いということか?

          

ルイーセはバレエスクールに通い、1830年に女優として契約し
1835年にバレリーナとして舞台に上がっています。

26歳の時印刷工カール・ベーリングの子供を生んでバレリーナを諦め
婦人服の店を始めました。

この頃にフレデリクと知り合っています。
ベーリングの紹介だっていうのですけど、なんで王太子と印刷工が知り合い?
遊び仲間でしょうか?

フレデリクはカロリーネと再婚したばかりなのにルイーセとつき合うようになります。
カロリーネは実家に帰り、1846年には離婚も成立しました。

1848年、フレデリクは王に即位するとルイーセと結婚しようと考えました。
しかし政府は許しません。
「後継ぎどうするんですか?」ってことです。
二度の結婚で嫡子はなく、ルイーセの子供を王にするわけにもいきません。

1849年、自由憲法が成立したことでフレデリクは俄に人気者になりました。
これで結婚が許可されることになり、ふたりは1850年に結婚しました。
ルイーセには事前にダナー伯位が与えられていたのですが、貴賤結婚扱いになりました。

この結婚は、あまりにも不釣り合いということで、貴族や上流社会では不人気でした。
たぶん最初の妃ヴィルヘルミーネの悪口も炸裂していたことでしょう。
ルイーセは社交界で恥をかかされ軽蔑されました。

例えば…
公式の晩餐会では、同席者が君主の妃にすべきこと(パンを差し出すとか)を
誰もしようとせず、王夫妻は待ちぼうけ。
フレデリクはブチキレて立ち上がり「誰もせんなら俺がやる!」と言ったそうな。
この王の振る舞いに、同席した貴族たちはグラスを掲げたということですが
これは賞賛してるの? バカにしてるの?

1854年、ふたりはシェラン島にJægerspris城を購入しました。
ここではプライペートな時間を満喫したそうです。

フレデリク7世は、子供の頃に母シャルロッテが離婚され
ほとんどの時間をひとりですごしていました。
そのため性格に弱いところがあり、その弱さを隠すために
乱暴に振る舞ったり嘘をついたという説もあります。

お高くとまった良家のお嬢様にその弱さをさらけ出さないよう
フレデリクは武装したのかもしれないですね。
ルイーセと一緒に居ると自分らしくできて心地よかったのかも…

1863年にフレデリクが亡くなると、ルイーセはシェラン島でひっそり暮らしました。

1873年には労働者階級の貧しい娘のために、フレデリク7世基金を設立しました。
その翌年に亡くなると、彼女の遺言によってJægerspris城は売られ
売上金が貧困に苦しむ女性使用人たちに寄付されました。

フレデリクはルイーセのこういうところも好きだったんじゃないかしら。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

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