![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/94/8e6de20a75c7c70be78aa3f7b6fdf0b1.jpg)
ロシアにハクをつけた大公妃
イヴァン3世妃 ソフィーヤ(ゾエ)・パラエオロジナ
1455~1503/在位 1472~1503
子供の頃の名はゾエでしたが、父の専制公トマスが治めていたモレアスが
オスマントルコに征服されてローマに亡命した時にソフィーヤに改名しました。
ビザンツ皇帝ヨハンネス8世とコンスタンティノス11世の姪で、14歳の時に
ローマ教皇パウルス2世にイヴァン3世との結婚をもちかけられたということです。
これはカトリックとロシア正教の融合のために考えられた縁談です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/81/046ece6db14a21f1ebef2f1f34355a59.jpg)
17歳の時に結婚したソフィーヤは、肖像画では分かりませんが
かなりの巨漢だったらしく(初夜の晩にベッドを壊したっていううわさも…
)
同様に態度もでっかかったということで、しばらくすると夫に大した影響力を
持つようになったとか…文字どおり尻に敷くって感じですか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/7e/481086554dbab425032fd04d42e6e925.jpg)
…たしかに強そうですな
まずは家柄です。
ソフィーヤとの結婚でモスクワが “ 第三のローマ ” と一目おかれる国家になれたそうで
イヴァン3世はこの時から “ ロシア皇帝 ” を名乗ったとも言われています。
当時のロシアにはモンゴル(タタール)の支配が及んでいましたが
イヴァン3世の時代には支配力はかなり弱まっていたようです。
この再婚で自信を持ったのか、イヴァン3世はモンゴルからの干渉を拒んでいます。
それからローマ仕込みの洗練された審美眼がありました。
クレムリンの改装に多大な影響をもたらしたのも、ビザンチン様式の荘厳な儀式を
持ち込んだのも彼女らしいですよ。
たぶんイヴァン3世が何か言おうとしても「いなかっぺいは黙っててよ!」とばかりに
聞く耳を持たなかったんでしょうね。
イヴァン3世には前妻との間にイヴァンという公子がいましたが
ドミトリーという子を遺して亡くなっていました。
ソフィーヤがヴァシーリーという公子を生んだので、どちらを後継者にするかで
宮廷はソフィーヤ派とドミトリーの母エレナ派に二分され権謀術数がうずまきます。
どこの国でも同じですね、北…はどうなる?
一時はドミトリーの暗殺疑惑で監禁されたソフィーヤですが、解放されると巻き返し
ヴァシーリーを後継ぎにするようイヴァン3世を説得することに成功しました。
エレナとドミトリーは逮捕されて数年後に獄中死しました。
ソフィーヤはひと安心したのか、ふたりの逮捕の翌年に亡くなりました。
人柄はどうあれ、ソフィーヤがいなければ今の広大なロシア連邦は
なかったかもしれませんのでね、ロシアの方々は足を向けて眠れませんね。
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
イヴァン3世妃 ソフィーヤ(ゾエ)・パラエオロジナ
1455~1503/在位 1472~1503
子供の頃の名はゾエでしたが、父の専制公トマスが治めていたモレアスが
オスマントルコに征服されてローマに亡命した時にソフィーヤに改名しました。
ビザンツ皇帝ヨハンネス8世とコンスタンティノス11世の姪で、14歳の時に
ローマ教皇パウルス2世にイヴァン3世との結婚をもちかけられたということです。
これはカトリックとロシア正教の融合のために考えられた縁談です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/81/046ece6db14a21f1ebef2f1f34355a59.jpg)
17歳の時に結婚したソフィーヤは、肖像画では分かりませんが
かなりの巨漢だったらしく(初夜の晩にベッドを壊したっていううわさも…
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同様に態度もでっかかったということで、しばらくすると夫に大した影響力を
持つようになったとか…文字どおり尻に敷くって感じですか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/7e/481086554dbab425032fd04d42e6e925.jpg)
…たしかに強そうですな
まずは家柄です。
ソフィーヤとの結婚でモスクワが “ 第三のローマ ” と一目おかれる国家になれたそうで
イヴァン3世はこの時から “ ロシア皇帝 ” を名乗ったとも言われています。
当時のロシアにはモンゴル(タタール)の支配が及んでいましたが
イヴァン3世の時代には支配力はかなり弱まっていたようです。
この再婚で自信を持ったのか、イヴァン3世はモンゴルからの干渉を拒んでいます。
それからローマ仕込みの洗練された審美眼がありました。
クレムリンの改装に多大な影響をもたらしたのも、ビザンチン様式の荘厳な儀式を
持ち込んだのも彼女らしいですよ。
たぶんイヴァン3世が何か言おうとしても「いなかっぺいは黙っててよ!」とばかりに
聞く耳を持たなかったんでしょうね。
イヴァン3世には前妻との間にイヴァンという公子がいましたが
ドミトリーという子を遺して亡くなっていました。
ソフィーヤがヴァシーリーという公子を生んだので、どちらを後継者にするかで
宮廷はソフィーヤ派とドミトリーの母エレナ派に二分され権謀術数がうずまきます。
どこの国でも同じですね、北…はどうなる?
一時はドミトリーの暗殺疑惑で監禁されたソフィーヤですが、解放されると巻き返し
ヴァシーリーを後継ぎにするようイヴァン3世を説得することに成功しました。
エレナとドミトリーは逮捕されて数年後に獄中死しました。
ソフィーヤはひと安心したのか、ふたりの逮捕の翌年に亡くなりました。
人柄はどうあれ、ソフィーヤがいなければ今の広大なロシア連邦は
なかったかもしれませんのでね、ロシアの方々は足を向けて眠れませんね。
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)