170cm 、ブロンドヘア
コンラート2世妃 ギーゼラ・フォン・シュヴァーベン
989~1043/在位 (神聖ローマ皇后)1027~1039 (ブルグント王妃)1032~1038
清らかな夫婦ハインリヒ2世と聖クニグンデには嫡子がいなかったので
ザクセン王家は終わりを告げます。
替わってオットー1世の娘リウテガルデの曾孫にあたるザリエル家のコンラートが
ドイツ王に選出されて、後に神聖ローマ皇帝になりました。
コンラート2世の妃ギーゼラは、シュヴァーベン公ヘルマン2世の公女で
なんだか結婚運が良くないの…
まずは13歳の時、15歳ばかり年上のブラウンシュヴァイク伯ブルーノ1世と結婚します。
しかし8年後に死別、その年のうちにシュヴァーベン公エルンスト1世と再婚しました。
けれどもエルンスト1世も5年後に亡くなってしまいました。
ギーゼラはエルンスト2世の摂政になります。
この時にコンラートとかなり親しい間柄になったらしい…
そんなわけでエルンスト1世の死から1年後、ギーゼラはコンラートと再婚しました。
ギーゼラとの結婚から11年後に、コンラートは皇帝に即位しました。
コンラート2世はかつてのフランク王国復活を目指して領土を拡大した王でした。
ギーゼラは夫を助けて政治の舞台で大活躍したようです。
皇帝の評議会を仕切りったり、
親戚のブルグント王ルドルフ3世の後継者に夫コンラートを据えようと奔走したり、
教会の長老会にも関わっていました。
この当時の教会の発言力はかなり大きなものですよ。
イタリア、ブルグントを手中に収めたコンラート2世は
文書などで “ ローマ皇帝 ” と名乗るようになりました。
しかし有能なギーゼラは、1043年、ゴスラーの宮殿で赤痢に倒れました。
歴代皇帝たちとともにシュパイアー大聖堂に眠っています。
1900年にギーゼラの棺が開けられ、172㎝で金髪の女性だったことがわかりました。
すごい! 死後850年もたってから人となりが見えてくるなんて…
科学の力をもってすれば美女と謳われていた女性たちの実際の素顔も
つまびらかになるっていうもんですね。
でも長~い時を美女と言われて崇められてきたんだし、夢も与えてくれていたわけですから
そっとしておいてほしい気もします。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コンラート2世妃 ギーゼラ・フォン・シュヴァーベン
989~1043/在位 (神聖ローマ皇后)1027~1039 (ブルグント王妃)1032~1038
清らかな夫婦ハインリヒ2世と聖クニグンデには嫡子がいなかったので
ザクセン王家は終わりを告げます。
替わってオットー1世の娘リウテガルデの曾孫にあたるザリエル家のコンラートが
ドイツ王に選出されて、後に神聖ローマ皇帝になりました。
コンラート2世の妃ギーゼラは、シュヴァーベン公ヘルマン2世の公女で
なんだか結婚運が良くないの…
まずは13歳の時、15歳ばかり年上のブラウンシュヴァイク伯ブルーノ1世と結婚します。
しかし8年後に死別、その年のうちにシュヴァーベン公エルンスト1世と再婚しました。
けれどもエルンスト1世も5年後に亡くなってしまいました。
ギーゼラはエルンスト2世の摂政になります。
この時にコンラートとかなり親しい間柄になったらしい…
そんなわけでエルンスト1世の死から1年後、ギーゼラはコンラートと再婚しました。
ギーゼラとの結婚から11年後に、コンラートは皇帝に即位しました。
コンラート2世はかつてのフランク王国復活を目指して領土を拡大した王でした。
ギーゼラは夫を助けて政治の舞台で大活躍したようです。
皇帝の評議会を仕切りったり、
親戚のブルグント王ルドルフ3世の後継者に夫コンラートを据えようと奔走したり、
教会の長老会にも関わっていました。
この当時の教会の発言力はかなり大きなものですよ。
イタリア、ブルグントを手中に収めたコンラート2世は
文書などで “ ローマ皇帝 ” と名乗るようになりました。
しかし有能なギーゼラは、1043年、ゴスラーの宮殿で赤痢に倒れました。
歴代皇帝たちとともにシュパイアー大聖堂に眠っています。
1900年にギーゼラの棺が開けられ、172㎝で金髪の女性だったことがわかりました。
すごい! 死後850年もたってから人となりが見えてくるなんて…
科学の力をもってすれば美女と謳われていた女性たちの実際の素顔も
つまびらかになるっていうもんですね。
でも長~い時を美女と言われて崇められてきたんだし、夢も与えてくれていたわけですから
そっとしておいてほしい気もします。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)