まりっぺのお気楽読書

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イギリス女王ヴィクトリア王女 ルイーズ

2011-04-08 23:34:30 | イングランド王妃・王女
カナダでは不人気だったらしい・・・
ヴィクトリア王女 ルイーズ
アーガイル公ジョン夫人


1848~1939

ルイーズはヴィクトリア女王の四女です。
小さな頃から知性と芸術的才能あふれる王女でした。

         
父アルバート公が亡くなると、もちろんルイーズも喪に服しましたが
なにせ女王は長~く喪に服したもので、若いルイーズはだんだん飽きてきます。
いつまでも宮廷が暗い雰囲気なのもいやでした。
そこで自分の17歳の誕生日は舞踏会を開いてデビューをお披露目したいと
女王にせがんでみましたが、これはあえなく却下されてしまいました。

外国の宮廷を訪問するもの飽きたし、退屈しのぎに…というわけではないでしょうが
ルイーズは弟レオポルドの家庭教師ロビンソン・ダックワースと恋に落ちます。
しかしこれは女王にバレてダックワースは飛ばされました。

女王は早速結婚相手選びを始めます。

王太子妃アレグザンドラは兄のデンマーク王太子フレデリク(8世)を推し
長女ヴィクトリアはプロイセン公子アルブレヒトを推しますが
いずれも女王は強く反対します。
アルバート公はオラニェ公子ウィレムを推しましたが、愛人問題があってダメでした。
ちなみにアルブレヒトとウィレムは、次女アリスの時も候補にあがってます。

この間、ルイーズはどの候補にも興味を示しませんでした。
どうやらすでにローン侯ジョン・キャンベルと結婚したいと考えていたようです。

この結婚には王太子エドワード(7世)が政治的な理由で猛反対しました。
ローン候の父親は熱烈なグラッドストーン支持者でした。
王家は女王を筆頭にディズレイリ支持でして、家族間に論争がおこるのを嫌ったからです。
けれども “ 鶴の一声 ” と言いましょうか、女王が強く後押しして結婚が決まりました。

ルイーズとローン候は1871年に結婚し、母親の希望どおりご近所で過ごしていましたが
1878年、宰相ディズレイリはローン候をカナダの総督に指名します。
母親から離れたい本人たちの希望によるものか、反対派の息子の粛正かはわかんないけど
とにかく二人はカナダに向かって旅立ちました。

ところが、ロイヤルファミリーの一員がやって来たというのに
カナダは歓迎ムードではなかったみたい…
どうやらカナダでは、王家のために強いられる財政的な負担に怒っていたらしいです。

しかも着いて早々ローン候の秘書が記者たちに手荒なことをしてしまって
ルイーズたちとプレス関係者との関係は悪化しました。
良く書いてもらわなきゃいけない時にとんだ失敗ですね
(でもルイーズたちの指示ではないらしい)

大好きなドラマ『アヴォンリーへの道』を見ていたら
イギリスの貴族や王太子様がやって来るといえば大歓迎ムードだったんだけどな…

カナダで暮らしている間、ローン候は常にルイーズより上席に位置を占めて
会議などでもルイーズを一般参列者と同じ扱いにしていました。
たぶんイギリスではルイーズの方が位が上なので逆だったと思うのよね。
ローン候にとっては誇らしい時期だったのでは?

ルイーズとローン候は、不評の中イメージアップしようかと考えたのか
パーティーや舞踏会を開催しましたが、これがまた不評を招きました。
酔った演奏家がカーテンを燃やしちゃったり
一般人の出入りも許したことで上流人たちからは大ブーイングがおこったりと完全に裏目…

ルイーズは橇で大けがをしたりと、カナダ時代はあまりいいことが無かったようですね。
1883年にカナダでの生活を終えてイギリスに帰国しました。

かなり長くなってきたので帰国後の生活はさらに端折っていきますよ。

まず、議員になった夫は兄の王太子エドワードと相変わらず仲が悪く
ルイーズとも政治的な意見が合わなくなって別居することになります。
また、事実はわかりませんが、妹ベアトリスの夫にちょっかいを出したことで
ベアトリスやヘレナとも仲違いをしました。

女王の個人秘書ビガ、彫刻家ボーエン、美学生ラッチェンス、名も無い音楽家などとの
恋の噂がありましたが、いくつかはベアトリスによって女王にチクられました。

1900年、ローン候はアーガイル公になりましたが、金銭的には困っていたようです。
女王が生きていた時には70人の使用人と74匹の犬がいたという領地インバラレイの屋敷は
エドワード7世の代になってから4人の使用人と2匹の犬しかいませんでした。
城や屋敷は建てるのも大仕事ですけど、その後の維持費が大変ですよね。

アーガイル公は1911年から老衰状態になり、ルイーズは献身的に看病して
ふたりは新婚当時のような睦まじい夫婦に戻ったといいます。

夫の死後はケンジントン宮殿に移りました。
いがみ合っていた妹ベアトリスの隣の部屋だったそうなんだけど…
わだかまりは解けていたかしら。

神経衰弱になったようですが、王家が参列する公の場にはちょこちょこ顔を出しました。
1937年(89歳)以降は人前に出なくなり、1939年に亡くなりました。

かなりかいつまんで書いたのに…長かった~
最後まで読んでいただきありがとうございました。

                
               おまけ…晩年のお年を召してからの肖像画
                     まさにロイヤルって感じですね


(参考文献 小林章夫氏『イギリス名宰相物語』 Wikipedia英語版)

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2 コメント

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グランドマザー (ルージュ)
2011-04-09 23:13:41
まりっぺさま みなさま こんにちは

おひさしぶりです。ヨーロッパではときおりグランドマザーとでもいうしかない女性があらわれますよね。ともかく子供をたくさん生んで権力志向も強くてバイタリティーに満ちてて、夫も子供も振り回されて、たいへんな目にあうといった王妃(女王)。

アリエノール・ダキテーヌ、イザベル女王、マリア・テレジア、近代ではヴィクトリア女王がその代表だと思います。

「アヴォンリーへの道」私も好きでした。主演のセーラー・ポーリーはいまでは監督、プロデューサーとして有名になりましたよね。
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こんにちわ (まりっぺ)
2011-04-10 17:40:44
ルージュさま、こんにちわ
お久しぶりです。

ドラマ『アヴォンリーへの道』はちょっと気を抜いた隙にセーラが留学しちゃってフェリシティの話しみたいになってましたが、監督になっていたんですね?
原作を読んでいないのですけど、セーラはやっぱり途中から消えてしまうんでしょうか?

君主、あるいは君主のように国家に君臨する女性は、やはり支配的な性格を持っていたような気がします。
特にヴィクトリア女王は家庭的というより家族に対する影響力が並外れて大きかったんじゃないかと、王女たちのことを書いていて思いました。
なんだか、アガサ・クリスティーの『死との約束』のボイントン夫人を思い浮かべちゃいます。
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