![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/3e/38c9fde5f7d728d575996e324900e607.jpg)
親の不仲に翻弄された恋多き王女
ジョージ4世王女 シャーロット・オブ・ウェールズ
ベルギー王レオポルド1世妃
1796~1817/在位せず
この項、家系図いっぱいですみません…
とにかく、全部エピソードを書くとすご~く長くなるので、すごくかいつまんでいきますね。
よく知られている件は省いて、主に恋愛事情を中心に書こうと思ってます。
シャーロットは、愚王&愚王妃(真偽はともかく)として語り継がれるジョージ4世と
キャロライン・オブ・ブルンスウィックの唯ひとりの子供です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/36/02f44dca138e3fe9dbb05b2c390c2f3b.jpg)
たった3度のベットインでシャーロットが生まれた後は別居街道まっしぐらの
父ジョージと母キャロラインは、お互い娘を自分の方へ引き入れようとしながらも
自分の事に忙しく、娘のことは他人任せでした。
そのせいで奔放に育っちゃった、と見る向きもあります。
それでもまだキャロラインの方が、許される限り娘に会いに出向いていたようです。
1810年、シャーロットが大好きだった祖父ジョージ3世の狂気が一層深刻になり
多くの反対派が阻止を試みる中、父ジョージが摂政になりました。
はしゃいだジョージは15歳になったシャーロットを見せびらかそうと着飾らせ
連れ立ってオペラに出かけましたが、シャーロットは途中で席を立ってしまったという
エピソードがあります。 ブーイングがひどかったみたいですね。
摂政になって忙しくなったジョージは、シャーロットがキャロラインと頻繁に会わないように
ウィンザー城にいるオーガスタとソフィアのもとへシャーロットを預けました。
シャーロットは、すぐに従兄弟のジョージ・フィッツクラランスにの夢中になりました。
ジョージは叔父クラランス公ウィリアム(後の4世)とドロシー・ジョーダンの庶子です。
その後は騎馬連隊中尉チャールズ・ヘッセに心を移しました。
チャールズは叔父ヨーク公フレデリックの庶子だと言われていた男性です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/28/5ff566f16310d5d1659ad72d6001dfe4.jpg)
嫡出子も婚外子も関係なく、いとこ同士がおばさんの家に終結してたってことかしら?
けっこうオープンな環境ですね。
シャーロットとチャールズは何度もこっそりデートをしていて
家庭教師のレディ・クリフォードはハラハラしていましたが
母キャロラインは恋する娘の情熱に感激して、自分の部屋を貸してあげたりしたそうな…
この恋はヘッセがスペイン遠征に出兵したことで終わりをむかえました。
シャーロットがそんなふうに青春を謳歌していた頃
ヨーロッパではナポレオン旋風が吹き荒れていました。
摂政ジョージも外交上シャーロットの結婚を考え始めました。
ジョージはヨーロッパ北西部でイギリスの影響力を強化するため
オランダ王ウィレム1世の王子ウィレム(後の2世)との縁談を考えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/d9/b5cda3559e2ab7a8a4374bd19a180760.jpg)
シャーロットは自分が将来イギリス女王になることを意識していて
外国の男性との結婚を渋ります。
どうやらグロスター公ウィリアムと結婚するつもりだったみたいですが
彼は叔母のメアリーと結婚しちゃいました。
そんな時、シャーロットはロンドンのホテルで開かれたパーティーで
ロシア騎兵隊のレオポルドに出会い夢中になってしまいました。
レオポルドはサクス=コバーク=ザーフェルト家の出身で、後にベルギー王になります。
ここから細かいエピソードは省きますが、父ジョージはオランダ王子ウィレムを推し
母キャロラインはレオポルドを推して、諍いがおこります。
シャーロットは、ウィレムが母キャロラインをオランダに招いちゃダメ!と言ったとかで
勝手に婚約を破棄したりして反抗しました。
結局世論と摂政反対派の後押しでウィレムとの縁談は無くなりました。
1816年、ジョージはシャーロットにレオポルドとの結婚の許可を与えて
レオポルドをイギリスに招きましたが、オランダ王子への手前二人きりにはしないで
晩餐の席でだけ会うように限定しました。
その年に結婚したふたりはラブラブモードで、シャーロットはレオポルドのことを
完璧な恋人
と呼び、レオポルドは “ 狩猟の時以外はいつも一緒だ
” と書いてます。
前から思っていたんだが、ラブラブな王侯夫婦には不幸が訪れるものなのよね…
シャーロットは一人目の子供を流産した後、1817年に再び妊娠しました。
ものすごく気をつけたみたいで、ほとんど動かずモリモリ食べていたシャーロットに
医師団が食事制限をします。
予定日は10月19日なのに、子供はなかなか生まれませんでした。
シャーロットは食事制限のせいでかなり弱っていたようです。
そして、11月5日にものすごく大きな王子を死産しました。
ここで医師団の大ミステイク! 母胎は大丈夫ということで引き上げちゃったのですが
シャーロットは夜中すぎに苦しみだして亡くなりました。
レオポルドは長い間立ち直れず、イギリス中が喪に服したそうです。
裁判所や商店も2週間開かれず、貧しい地区の人々も喪章をつけました。
ふられたウィレムさえ涙を流し、ウィレムの妃アンナ・パウローナは
オランダ宮廷を喪に服させました。
父親の不人気ぶりからは考えられないですね。
長生きしてジョージ4世の後を継いでいたら、人気者の君主になったかもしれません。
妊娠中の食事制限から出産後のケアと、重大なミスを犯した医師団ですが
主治医クロフトは罪に問われず、摂政ジョージも責めませんでした、が
3ヶ月後にピストル自殺しました。
人気者を殺してしまったという罪の意識? 悪意ある風評に絶望したのでしょうか?
(参考文献 デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』
森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
ジョージ4世王女 シャーロット・オブ・ウェールズ
ベルギー王レオポルド1世妃
1796~1817/在位せず
この項、家系図いっぱいですみません…
とにかく、全部エピソードを書くとすご~く長くなるので、すごくかいつまんでいきますね。
よく知られている件は省いて、主に恋愛事情を中心に書こうと思ってます。
シャーロットは、愚王&愚王妃(真偽はともかく)として語り継がれるジョージ4世と
キャロライン・オブ・ブルンスウィックの唯ひとりの子供です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/36/02f44dca138e3fe9dbb05b2c390c2f3b.jpg)
たった3度のベットインでシャーロットが生まれた後は別居街道まっしぐらの
父ジョージと母キャロラインは、お互い娘を自分の方へ引き入れようとしながらも
自分の事に忙しく、娘のことは他人任せでした。
そのせいで奔放に育っちゃった、と見る向きもあります。
それでもまだキャロラインの方が、許される限り娘に会いに出向いていたようです。
1810年、シャーロットが大好きだった祖父ジョージ3世の狂気が一層深刻になり
多くの反対派が阻止を試みる中、父ジョージが摂政になりました。
はしゃいだジョージは15歳になったシャーロットを見せびらかそうと着飾らせ
連れ立ってオペラに出かけましたが、シャーロットは途中で席を立ってしまったという
エピソードがあります。 ブーイングがひどかったみたいですね。
摂政になって忙しくなったジョージは、シャーロットがキャロラインと頻繁に会わないように
ウィンザー城にいるオーガスタとソフィアのもとへシャーロットを預けました。
シャーロットは、すぐに従兄弟のジョージ・フィッツクラランスにの夢中になりました。
ジョージは叔父クラランス公ウィリアム(後の4世)とドロシー・ジョーダンの庶子です。
その後は騎馬連隊中尉チャールズ・ヘッセに心を移しました。
チャールズは叔父ヨーク公フレデリックの庶子だと言われていた男性です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/28/5ff566f16310d5d1659ad72d6001dfe4.jpg)
嫡出子も婚外子も関係なく、いとこ同士がおばさんの家に終結してたってことかしら?
けっこうオープンな環境ですね。
シャーロットとチャールズは何度もこっそりデートをしていて
家庭教師のレディ・クリフォードはハラハラしていましたが
母キャロラインは恋する娘の情熱に感激して、自分の部屋を貸してあげたりしたそうな…
この恋はヘッセがスペイン遠征に出兵したことで終わりをむかえました。
シャーロットがそんなふうに青春を謳歌していた頃
ヨーロッパではナポレオン旋風が吹き荒れていました。
摂政ジョージも外交上シャーロットの結婚を考え始めました。
ジョージはヨーロッパ北西部でイギリスの影響力を強化するため
オランダ王ウィレム1世の王子ウィレム(後の2世)との縁談を考えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/d9/b5cda3559e2ab7a8a4374bd19a180760.jpg)
シャーロットは自分が将来イギリス女王になることを意識していて
外国の男性との結婚を渋ります。
どうやらグロスター公ウィリアムと結婚するつもりだったみたいですが
彼は叔母のメアリーと結婚しちゃいました。
そんな時、シャーロットはロンドンのホテルで開かれたパーティーで
ロシア騎兵隊のレオポルドに出会い夢中になってしまいました。
レオポルドはサクス=コバーク=ザーフェルト家の出身で、後にベルギー王になります。
ここから細かいエピソードは省きますが、父ジョージはオランダ王子ウィレムを推し
母キャロラインはレオポルドを推して、諍いがおこります。
シャーロットは、ウィレムが母キャロラインをオランダに招いちゃダメ!と言ったとかで
勝手に婚約を破棄したりして反抗しました。
結局世論と摂政反対派の後押しでウィレムとの縁談は無くなりました。
1816年、ジョージはシャーロットにレオポルドとの結婚の許可を与えて
レオポルドをイギリスに招きましたが、オランダ王子への手前二人きりにはしないで
晩餐の席でだけ会うように限定しました。
その年に結婚したふたりはラブラブモードで、シャーロットはレオポルドのことを
完璧な恋人
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
前から思っていたんだが、ラブラブな王侯夫婦には不幸が訪れるものなのよね…
シャーロットは一人目の子供を流産した後、1817年に再び妊娠しました。
ものすごく気をつけたみたいで、ほとんど動かずモリモリ食べていたシャーロットに
医師団が食事制限をします。
予定日は10月19日なのに、子供はなかなか生まれませんでした。
シャーロットは食事制限のせいでかなり弱っていたようです。
そして、11月5日にものすごく大きな王子を死産しました。
ここで医師団の大ミステイク! 母胎は大丈夫ということで引き上げちゃったのですが
シャーロットは夜中すぎに苦しみだして亡くなりました。
レオポルドは長い間立ち直れず、イギリス中が喪に服したそうです。
裁判所や商店も2週間開かれず、貧しい地区の人々も喪章をつけました。
ふられたウィレムさえ涙を流し、ウィレムの妃アンナ・パウローナは
オランダ宮廷を喪に服させました。
父親の不人気ぶりからは考えられないですね。
長生きしてジョージ4世の後を継いでいたら、人気者の君主になったかもしれません。
妊娠中の食事制限から出産後のケアと、重大なミスを犯した医師団ですが
主治医クロフトは罪に問われず、摂政ジョージも責めませんでした、が
3ヶ月後にピストル自殺しました。
人気者を殺してしまったという罪の意識? 悪意ある風評に絶望したのでしょうか?
(参考文献 デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』
森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)