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イギリス女王ヴィクトリア王女 ヘレナ

2011-04-07 22:14:14 | イングランド王妃・王女
王家を二分する結婚相手を選んだ
ヴィクトリア王女 ヘレナ・オブ・ユナイテッドキングダム
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスチャン夫人


1846~1923

ヴィクトリア女王の三女ヘレナは父親似で、乗馬やボートが大好きな活発な少女でした。

ヘレナは、たぶん十代前半で父親の司書カール・ルーランドの恋人になったみたいです。
13歳の時にはルーランドを廷臣にとりたてるよう願い出たりしています。
おませさんね しかしこれは女王にバレてルーランドはドイツに飛ばされました。

       
「こりゃいかん」と思ったのか、女王はこの事件後ヘレナのお相手選びを始めます。
ヘレナの縁談は注目されましたが、三女ともなると外交的にはちょっと弱い駒でした。

女王はどうしてもヘレナに側で暮らしてほしいと考えて、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの
クリスチャンを選びました。 三男だから領土を継承する可能性は低いものね。

しかしこの縁談は外交上非常に具合が悪いものでした。
当時シュレスヴィヒ=ホルシュタインはデンマークとプロシアが
激しい争奪戦を繰り広げていました。
王太子エドワード(7世)の妃はデンマーク王クリスティアン9世王女アレグザンドラです。

兄嫁と妹の夫の実家が戦争中なんて、中世じゃあるまいし…ってわけで
エドワードはもちろん反対、長女ヴィクトリアは賛成、
次女アリスは反対、と兄弟姉妹は二分されてしまいました。
どちらかというと反対が多かったようですが、女王は押し切ります。
結局1865年に婚約し結婚しました。

アレグザンドラ妃はぶーたれていましたが、二人の結婚生活は幸せなものでした。

何か肩書きがないとね…というわけでハイ・スチュワードの役職と万博の王家代表の役目を
与えられたクリスチャンでしたが、実は狩猟をしたり犬の世話をしたりという
アウトドア仕事の方が好きだったようで、しばしば委員会を欠席してました。

もともとからだが弱かったヘレナはだんだん薬に頼るようになっていきます。
1869年には駅で倒れて母親の別荘への訪問をキャンセル、翌年にはリューマチ発症
その翌年には肺にうっ血が見られるようになりました。
女王は夫の怠け癖のせいだとクリスチャンを責めました。

後年は他の王女たち同様、学校を建てたり医療問題に尽力したりと
慈善活動に力を注ぎました。
看護婦会の会長の座をめぐっては王妃アレグザンドラと争っています。
ヴィクトリア女王の死後だったので、やはり負けちゃいましたが…

無理矢理結婚したせいか、兄弟姉妹たちとの仲はあまり良くなかったようです。

1916年にクリスチャンと金婚式を迎えましたが、翌年夫は亡くなります。
最晩年には女王に贈られたカンバーランド・ロッジから
経費的な問題で追い出されそうになったりしてました。

亡くなったのはロンドンのションバーグ・ハウスです。

1901年にヴィクトリア女王が亡くなった後は少し肩身がせまかったんじゃないかしらね。
兄王エドワード7世は1910年に亡くなってますが、仇敵の王大后アレグザンドラは
ヘレナの死から2年後に亡くなってますのでね…その息子(ジョージ6世)が王だし…
そういえば1901年後のロイヤルファミリーとしてのエピソードはあまりないのよね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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