理想と現実のギャップに唖然・・・
フリードリヒ3世妃 エレオノーレ・ヘレーナ・フォン・ポルトゥガル
1434~1467/在位 1452~1467
今年が日本オーストリア交流年だってことを今頃知ったわたし てなわけで
ハプスブルク帝国にいってみようと思います。
ハプスブルク家もかなり枝葉が分かれていますので、神聖ローマ皇帝からね。
ざっくりいうと、中世のドイツおよびその周辺では各領邦君主が領土を治めていましたが
神聖ローマ帝国というのを形成していました。
皇帝は選帝侯といわれる実力者たちが選挙というか会議で選んでいました。
あまりにも野心満々の人が皇帝になると牛耳られてしまう…という危惧がお互いにあって
たまにどうでもいい感じの人が選ばれることがありました。
そこで選ばれたのがハプスブルク家のオーストリア公フリードリヒ3世です。
なんたって領土は小さいしお金もないし、あまり能力もなさそうだし、
皇帝がフリードリヒならば好き勝手ができるでしょ、ということで選ばれたのです。
まさか今後ずっとハプスブルク家が皇帝になるとは…
フリードリヒの前に同じような理由からルードルフ1世、アルブレヒト1世も
ローマ王として選出されていますが、神聖ローマ皇帝になっていないのでまたの機会に…
まずは前段階のローマ王となったフリードリヒ3世は、選帝侯たちが見込んだ通り弱気で非力、
戦うぐらいなら妥協するか逃げ出す、という人だったので
幽閉されたり、追放されたり、逃亡したりの繰り返しでした。
ただ、彼がたったひとつ持っていた才能、それは長生き!
フリードリヒから王座を奪おうとしていた人たちはことごとく先に死んでしまったのね。
じっと耐えたかいがあったというものです。
1452年、37歳のフリードリヒは、ポルトガル王ドゥアルテ1世王女エレオノーレと
結婚するためにイタリアへ向かいました。
でもこれは表向きの理由で、本当はローマで戴冠してさっさと皇帝になってしまおう、と
思ったからなのではないかしら?
さてエレオノーレはものすごいお金持ちのポルトガル王女ですから
結婚の申し込みはたくさんあったのに、フリードリヒからの求婚に応じました。
ハプスブルク家のことはあまり知らないが神聖ローマ皇后なんてすごいじゃない!
というのがOKの理由だったみたい。
だって15歳ですもの。 夢見る年ごろですよね。
こちら、シエナで初めてご対面した時のおふたりです
豪奢で裕福なリスボン王宮からウィーンにやってきたエレオノーレは愕然とします。
だって食事にワインも出ないし、すごく質素…というか貧乏なんですもの。
しかも皇帝は野良仕事までしますよ。 自家菜園ってやつですか?
エレオノーレはとても美しく、快活な少女だったらしいのですが
しばらくすると体調を崩し、33歳の時に5人目の子供を生んで亡くなりました。
あぁ、皇后になれるっていうから20も年上の陰気な男に嫁いできたのに…
しかも寒い! 温かいリスボンに帰りたいよぉ、と思ったことでしょうね。
神聖ローマ皇后という肩書きだけにつられてやってきたエレオノーレは
確かに愚かな少女ではありましたが、親や大臣がちゃんと調べてあげないと…
もしかして親も肩書きにやられたのでしょうか?
いずれにしても、エレオノーレが持って来た莫大な持参金は
ハプスブルク家の発展に、おおいに役に立ったようです。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
私は昔の表紙の方が好きでしたけれどもね…講談社新書
フリードリヒ3世妃 エレオノーレ・ヘレーナ・フォン・ポルトゥガル
1434~1467/在位 1452~1467
今年が日本オーストリア交流年だってことを今頃知ったわたし てなわけで
ハプスブルク帝国にいってみようと思います。
ハプスブルク家もかなり枝葉が分かれていますので、神聖ローマ皇帝からね。
ざっくりいうと、中世のドイツおよびその周辺では各領邦君主が領土を治めていましたが
神聖ローマ帝国というのを形成していました。
皇帝は選帝侯といわれる実力者たちが選挙というか会議で選んでいました。
あまりにも野心満々の人が皇帝になると牛耳られてしまう…という危惧がお互いにあって
たまにどうでもいい感じの人が選ばれることがありました。
そこで選ばれたのがハプスブルク家のオーストリア公フリードリヒ3世です。
なんたって領土は小さいしお金もないし、あまり能力もなさそうだし、
皇帝がフリードリヒならば好き勝手ができるでしょ、ということで選ばれたのです。
まさか今後ずっとハプスブルク家が皇帝になるとは…
フリードリヒの前に同じような理由からルードルフ1世、アルブレヒト1世も
ローマ王として選出されていますが、神聖ローマ皇帝になっていないのでまたの機会に…
まずは前段階のローマ王となったフリードリヒ3世は、選帝侯たちが見込んだ通り弱気で非力、
戦うぐらいなら妥協するか逃げ出す、という人だったので
幽閉されたり、追放されたり、逃亡したりの繰り返しでした。
ただ、彼がたったひとつ持っていた才能、それは長生き!
フリードリヒから王座を奪おうとしていた人たちはことごとく先に死んでしまったのね。
じっと耐えたかいがあったというものです。
1452年、37歳のフリードリヒは、ポルトガル王ドゥアルテ1世王女エレオノーレと
結婚するためにイタリアへ向かいました。
でもこれは表向きの理由で、本当はローマで戴冠してさっさと皇帝になってしまおう、と
思ったからなのではないかしら?
さてエレオノーレはものすごいお金持ちのポルトガル王女ですから
結婚の申し込みはたくさんあったのに、フリードリヒからの求婚に応じました。
ハプスブルク家のことはあまり知らないが神聖ローマ皇后なんてすごいじゃない!
というのがOKの理由だったみたい。
だって15歳ですもの。 夢見る年ごろですよね。
こちら、シエナで初めてご対面した時のおふたりです
豪奢で裕福なリスボン王宮からウィーンにやってきたエレオノーレは愕然とします。
だって食事にワインも出ないし、すごく質素…というか貧乏なんですもの。
しかも皇帝は野良仕事までしますよ。 自家菜園ってやつですか?
エレオノーレはとても美しく、快活な少女だったらしいのですが
しばらくすると体調を崩し、33歳の時に5人目の子供を生んで亡くなりました。
あぁ、皇后になれるっていうから20も年上の陰気な男に嫁いできたのに…
しかも寒い! 温かいリスボンに帰りたいよぉ、と思ったことでしょうね。
神聖ローマ皇后という肩書きだけにつられてやってきたエレオノーレは
確かに愚かな少女ではありましたが、親や大臣がちゃんと調べてあげないと…
もしかして親も肩書きにやられたのでしょうか?
いずれにしても、エレオノーレが持って来た莫大な持参金は
ハプスブルク家の発展に、おおいに役に立ったようです。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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私は昔の表紙の方が好きでしたけれどもね…講談社新書
スイスは?とか思ってたら「神聖ローマ帝国」…世界史の勉強し直しの必要ありです(^_^;)
野良仕事する皇帝…なんかいいです。
ドイツ皇帝が終わったので息抜きにポーランド王アウグスト強王の愛人シリーズでいってみようと思ったのですが(なにせ子供が350人以上いるんですよ!)素性が分かる人があまりいなくて…
確かにポーランドは参考文献がないんですよね。
アウグスト王もドイツの貴族ですし。
大国に挟まれた小国の悲哀を感じます。