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一家の贖罪を一身に引き受ける
ルイ15世王女 ルイーズ・マリー・ド・フランス
1737~1787
ルイ15世王妃マリー・レクザンスカはまたまた王女を生みました。
八女ルイーズ・マリーです。
ルイ15世はルイーズをヴィクトワールやソフィー同様フォントブローの修道院に預けました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/8a/bde55c2d96c47718c355561cd438bf35.jpg)
二人の姉がどうだったかは知りませんが、ルイーズはまるで修道女のように暮らし
「私は王の娘です」とは言わず「神の娘です」と言っていました。
11歳の時に、イングランドからフランスに逃れて来ていた
スチュアート家のチャールズ・エドワードとの縁談が持ち上がります。
イングランドはプロテスタントであるハノーヴァー家のジョージ2世の治世でした。
カトリックのフランスはスチュアート家のカトリック派を推していました。
ちなみにジェームズ2世の後を治めたのは、同じスチュアート家でも
チャールズ・エドワードの祖父ジェームズ2世が最初に妃にしたアン・ハイドが生んだ
プロテスタントのメアリー2世、続いてアンです。
話をルイーズに戻しますと…
ルイーズは「神以上に愛せないのに夫を持つなど…」と取り合いませんでした。
そんなルイーズも15歳になってヴェルサイユに戻りました。
ルイーズはヴェルサイユで、王女たちの中では一番端の部屋をあてがわれました。
脚が悪く、朝の挨拶のためにアデライードの部屋にやって来るルイ15世に会うため
一生懸命走っていったのに間に合わなかったりしたそうです。
ルイ15世ったら、全員の部屋をまわってあげればいいじゃないの…
しかし、謙虚に育ったルイーズは、なぜか綺麗なドレスが大好きだったらしい…
修道院で質素にしすぎた反動でしょうか?
ヴェルサイユでは姉たちの影にかくれ、(たぶん)アデライードにはアゴで使われ
兄王太子ルイは亡くなり、続いて母マリー・レクザンスカが亡くなり
デュ・バリー夫人は登場するし…ってことで居心地悪くなってしまったんでしょうか?
1770年にカルメル派の修道女になりたいと申し出ました。
自分が修道女になれば、宮廷を堕落させたルイ15世の罪が償えると考えたみたいです。
大好きな美しいドレスが二度と着れなくなってしまうのに、頭が下がる決心ですね。
ルイ15世は…娘にこんな思いをさせて
ちゃんと反省しなさい!!
王太子ルイ(16世)とマリー・アントワネットの結婚を見届け
サン=ドニの修道院に入りました。
サン=ドニは旧式の厳しい秩序が守られている修道院でした。
ルイーズは炊事洗濯も厭わず、他の修道女たちと姉妹のように接して
敬虔な毎日を送りました。
脚が悪いルイーズが祈る時に助けを申し出ようとすると、これを断り跪きました。
サン=ドニでは何度か修道院長を務めています。
父王にかけあって、ヨーゼフ2世の迫害にあったオーストリアのカルメル派を受け入れました。
やるべきことを見つけて、宮廷時代よりアクティブに過ごせたようですね。
ルイーズは1787年に胃の病気で亡くなりました。
最後の言葉は「早く天国へ! 駆け足でね」でした。
ルイーズは列聖はされていないみたいなんですけど
1873年にローマ教皇ピウス9世から聖人の称号のひとつを与えられています。
一番地味な王女ではありますが、一番人間らしい人生を送ったような印象を受けます。
お城で暮らすことが「めでたし、めでたし」ではないということを体現しているようですね。
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ルイ15世がルイーズ・マリーを修道院に訪ねる、の図
実際にあったのかどうかは甚だ疑問ですが…
(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
ルイ15世王女 ルイーズ・マリー・ド・フランス
1737~1787
ルイ15世王妃マリー・レクザンスカはまたまた王女を生みました。
八女ルイーズ・マリーです。
ルイ15世はルイーズをヴィクトワールやソフィー同様フォントブローの修道院に預けました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/8a/bde55c2d96c47718c355561cd438bf35.jpg)
二人の姉がどうだったかは知りませんが、ルイーズはまるで修道女のように暮らし
「私は王の娘です」とは言わず「神の娘です」と言っていました。
11歳の時に、イングランドからフランスに逃れて来ていた
スチュアート家のチャールズ・エドワードとの縁談が持ち上がります。
イングランドはプロテスタントであるハノーヴァー家のジョージ2世の治世でした。
カトリックのフランスはスチュアート家のカトリック派を推していました。
ちなみにジェームズ2世の後を治めたのは、同じスチュアート家でも
チャールズ・エドワードの祖父ジェームズ2世が最初に妃にしたアン・ハイドが生んだ
プロテスタントのメアリー2世、続いてアンです。
話をルイーズに戻しますと…
ルイーズは「神以上に愛せないのに夫を持つなど…」と取り合いませんでした。
そんなルイーズも15歳になってヴェルサイユに戻りました。
ルイーズはヴェルサイユで、王女たちの中では一番端の部屋をあてがわれました。
脚が悪く、朝の挨拶のためにアデライードの部屋にやって来るルイ15世に会うため
一生懸命走っていったのに間に合わなかったりしたそうです。
ルイ15世ったら、全員の部屋をまわってあげればいいじゃないの…
しかし、謙虚に育ったルイーズは、なぜか綺麗なドレスが大好きだったらしい…
修道院で質素にしすぎた反動でしょうか?
ヴェルサイユでは姉たちの影にかくれ、(たぶん)アデライードにはアゴで使われ
兄王太子ルイは亡くなり、続いて母マリー・レクザンスカが亡くなり
デュ・バリー夫人は登場するし…ってことで居心地悪くなってしまったんでしょうか?
1770年にカルメル派の修道女になりたいと申し出ました。
自分が修道女になれば、宮廷を堕落させたルイ15世の罪が償えると考えたみたいです。
大好きな美しいドレスが二度と着れなくなってしまうのに、頭が下がる決心ですね。
ルイ15世は…娘にこんな思いをさせて
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王太子ルイ(16世)とマリー・アントワネットの結婚を見届け
サン=ドニの修道院に入りました。
サン=ドニは旧式の厳しい秩序が守られている修道院でした。
ルイーズは炊事洗濯も厭わず、他の修道女たちと姉妹のように接して
敬虔な毎日を送りました。
脚が悪いルイーズが祈る時に助けを申し出ようとすると、これを断り跪きました。
サン=ドニでは何度か修道院長を務めています。
父王にかけあって、ヨーゼフ2世の迫害にあったオーストリアのカルメル派を受け入れました。
やるべきことを見つけて、宮廷時代よりアクティブに過ごせたようですね。
ルイーズは1787年に胃の病気で亡くなりました。
最後の言葉は「早く天国へ! 駆け足でね」でした。
ルイーズは列聖はされていないみたいなんですけど
1873年にローマ教皇ピウス9世から聖人の称号のひとつを与えられています。
一番地味な王女ではありますが、一番人間らしい人生を送ったような印象を受けます。
お城で暮らすことが「めでたし、めでたし」ではないということを体現しているようですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/11/37ef75c84dc001b53dd29f932958f71d.jpg)
ルイ15世がルイーズ・マリーを修道院に訪ねる、の図
実際にあったのかどうかは甚だ疑問ですが…
(参考文献 アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史2』 Wikipedia英語版)
大間違いですね!!
訂正しました。
ありがとうございます。