まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王アンリ3世妃 ルイーズ

2009-03-14 01:41:38 | フランス王妃・王女
まさにシンデレラ…なのに
アンリ3世妃 ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン


1553~1601/在位 1575~1589

虚弱続きのカトリーヌの息子たちの三男アンリは、母后の力添えもあって
1573年にポーランド王に選出されてその座についていました。
その際先王ジグムント2世王女アンナと結婚するいう話しが持ち上がっていたのですが
なにしろアンナは28歳年上で…それが原因かどうかわかりませんが交渉は難航します。
実はアンリはフランスにいたころ、コンデ公妃マリー・ド・クレーヴを愛していて
彼女に未練があったのかもしれません。(でも人妻なんですけどね)

そんな中兄シャルル9世の死亡を聞いたアンリは夜の闇にまぎれてポーランドを脱出、
ポーランド王位は失効となりフランスに戻って即位します。

さて、お妃をどうしましょう? ということになりました。
アンリ3世は以前からマリー・ド・クレーヴを離婚させて妃にしようとしていましたが
ポーランドから戻ってくると、マリーは出産の時に亡くなってしまったと知ります。
兄のシャルル9世の未亡人エリザベートには断られてしまうし…

そこでアンリが思いついたのがロレーヌ公の姪にあたるルイーズです。
王に選ばれポーランドに向かう途中、ロレーヌ公の妃になっていた
妹のクロードを訪ねたアンリは、ちょうど滞在していたルイーズに会って
憎からず思っていました。
      

ルイーズは、父や継母に愛されず孤独な少女時代を送っていました。
彼女は静かで大人びたところがあって、生意気そうに見られたといわれています。
けれどその思慮深そうな瞳に人を惹きつける魅力がありました。
母后カトリーヌ・ド・メディシスは、彼女の家柄や性格が王妃に相応しくないと反対しますが
アンリはめずらしく母親に反抗してルイーズに求婚しました。

1575年、晴れてふたりは結婚しました。
結婚式って女性があれやこれやと考えて、男性はボーっとしているのが常ですが
アンリ3世は、自らイベントスケジュールを考えたり
ふたりの衣装のデザインをするほど張り切ります。
なんでもアンリはルイーズのヘアスタイルにもこだわりがあったようで
髪結いの時間までたっぷりとっていたため、結婚式はとても長びいてしまいました。
女心がよく分かる…というか女らしい王様ですね。

アンリ3世とルイーズの間に嫡子が生まれないと
ヴァロア家直系が途絶えることになるのですが、なかなか子供に恵まれませんでした。
ルイーズの痩せ過ぎが原因とも言われています。

嫡子が生まれないと王位がブルボン家のナヴァール王アンリに移ってしまうという焦りと
当時市民に絶大な人気があり “ パリ王 ” と呼ばれていたギーズ公アンリへの嫉妬から、
1588年、アンリ3世はとんでもない行動に出ます。

相変わらず旧教徒と新教徒の争いがおさまらないフランスでしたが
アンリ3世は話し合いを持つという名目で、旧教徒の有力者ギーズ公兄弟を招き
暗殺してしまったのです。

アンリ3世は有頂天になっていましたが、これは大変危険なことでした。
母后カトリーヌはこの報を聞いてショックを受け寝込んでしまい、
翌年亡くなりましたが、パリ市民の怒りをかったアンリ3世は
カトリーヌの葬儀をパリであげることさえできませんでした。
1589年、アンリ3世は狂信的な旧教徒との謁見中に暗殺されてしまいます。

ルイーズはその後鬱状態に陥ります。
彼女が引き蘢ったシュノンソー城の部屋は白と黒に塗られました。
常に寝間着姿で無言のまま過ごし、アンリ3世のことを思い出すだけの日々を送り
1601年に亡くなりました。

継母にいじめられていた少女が王妃へ…まさにシンデレラ状態なんですけど
Happy ever after...といかないのが現実なんですね。

 余談です
もしかして、マリー・ド・クレーヴって『クレーヴの奥方』のモデルですかね?
時代やストーリーにちょっと違いはありますけど…

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      川島ルミ子氏『息子を国王にした女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』 Wikipedia英語版)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『鰐』なんか笑えない・・・ ... | トップ | 『絹の瞳』短編もお上手でした »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

フランス王妃・王女」カテゴリの最新記事