他に描きようはなかったのでしょうか?
もう少し美しいドレスを着るとかさ…
地味だけど波瀾万丈
ピョートル1世妃 エウドキア・フョードロヴナ・ロプーヒナ
1669~1739/在位 1689~1698
ソルジェニーツィン曰く「まったく凡庸な頭脳の持ち主」というピョートル1世は
国政よりも軍の強化に人生をかけちゃったようなところもありましたが
それが幸いしたのか国は拡大し、大帝の称号まで与えられました。
ご陽気で遊び仲間が多かったらしく愛妾もけっこういたご様子です。
不毛の凍土と言われていたサンクト=ペテルブルクに首都を移転したのも
北欧に狙いを定めたという軍事的な要因があるのかもしれません。
ピョートル大帝は17歳の時に摂政ソフィアを打倒して皇帝の座に返り咲くと
3歳年上のエウドキアと結婚することになりました。
エウドキアは、これまたたいした家柄の出じゃなかったのですが
彼女を選んだのは大帝の母ナタリア・ナルイシキナでした。
なんでも権力者の高官に頼み込まれちゃったらしいです。
エウドキアは保守的で信心深くて、享楽好みの大帝とは見るからに水と油で
最初っから上手くいきそうもなかったんですけど、やはり大帝は我慢ができなくなり
1696年に西ヨーロッパ外遊に出ると、高官ナルイシキンに手紙を送り
“ エウドキアを説き伏せて修道院に入れちゃってよ ” と申し付けています。
エウドキアはなかなか首を縦に振らず2年ほど頑張ったのですが
最終的には離婚されスズダリに追放されてしまいました。
でも修道院には入らなかったらしくて
彼の地でステファン・グレボフという愛人までできたみたいです。
離婚できてラッキーだったんじゃ…
エウドキアはアレクセイという皇太子を生んでいます。
大帝はもちろん帝王学を学ばせて立派な後継ぎにしようと考えましたが
アレクセイは母親に似ちゃったらしく保守派でバリバリの正教徒でした。
その上、反ピョートル派の貴族たちとスズダリのエウドキアの屋敷に集まって
皇太子派を形成していました。
結局皇太子派は打倒されて、アレクセイは継承権を放棄させられ司教たちは処刑、
エウドキアも今度こそ修道院に入れられてしまいました。
さらに大帝の死後後妻エカチェリーナが女帝になると
密かにシュリッセルブルクの要塞の独房に移されてしまいました。
とても不潔で陰気な監獄だったそうです。
耐えること2年、孫のピョートル2世が即位するとまたまたモスクワに呼び戻されました。
あくまでもステータスのためにだけ呼び戻されたエウドキアは
宮廷内では役立たずで余所に自分の宮殿を持つことを許されました。
そこでノヴォデヴィチに修道院を建て、1698年に亡くなるまで暮らしました。
前には摂政ソフィア、後ろにエカチェリーナ、エリザヴェータなど強力なキャラの
女性たちがいるものですから、かなり印象が地味ですけど、どう? 波瀾万丈よね?
決して自分から動いているわけではないんですけど、巻き込まれっぷりがハンパじゃない。
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
もう少し美しいドレスを着るとかさ…
地味だけど波瀾万丈
ピョートル1世妃 エウドキア・フョードロヴナ・ロプーヒナ
1669~1739/在位 1689~1698
ソルジェニーツィン曰く「まったく凡庸な頭脳の持ち主」というピョートル1世は
国政よりも軍の強化に人生をかけちゃったようなところもありましたが
それが幸いしたのか国は拡大し、大帝の称号まで与えられました。
ご陽気で遊び仲間が多かったらしく愛妾もけっこういたご様子です。
不毛の凍土と言われていたサンクト=ペテルブルクに首都を移転したのも
北欧に狙いを定めたという軍事的な要因があるのかもしれません。
ピョートル大帝は17歳の時に摂政ソフィアを打倒して皇帝の座に返り咲くと
3歳年上のエウドキアと結婚することになりました。
エウドキアは、これまたたいした家柄の出じゃなかったのですが
彼女を選んだのは大帝の母ナタリア・ナルイシキナでした。
なんでも権力者の高官に頼み込まれちゃったらしいです。
エウドキアは保守的で信心深くて、享楽好みの大帝とは見るからに水と油で
最初っから上手くいきそうもなかったんですけど、やはり大帝は我慢ができなくなり
1696年に西ヨーロッパ外遊に出ると、高官ナルイシキンに手紙を送り
“ エウドキアを説き伏せて修道院に入れちゃってよ ” と申し付けています。
エウドキアはなかなか首を縦に振らず2年ほど頑張ったのですが
最終的には離婚されスズダリに追放されてしまいました。
でも修道院には入らなかったらしくて
彼の地でステファン・グレボフという愛人までできたみたいです。
離婚できてラッキーだったんじゃ…
エウドキアはアレクセイという皇太子を生んでいます。
大帝はもちろん帝王学を学ばせて立派な後継ぎにしようと考えましたが
アレクセイは母親に似ちゃったらしく保守派でバリバリの正教徒でした。
その上、反ピョートル派の貴族たちとスズダリのエウドキアの屋敷に集まって
皇太子派を形成していました。
結局皇太子派は打倒されて、アレクセイは継承権を放棄させられ司教たちは処刑、
エウドキアも今度こそ修道院に入れられてしまいました。
さらに大帝の死後後妻エカチェリーナが女帝になると
密かにシュリッセルブルクの要塞の独房に移されてしまいました。
とても不潔で陰気な監獄だったそうです。
耐えること2年、孫のピョートル2世が即位するとまたまたモスクワに呼び戻されました。
あくまでもステータスのためにだけ呼び戻されたエウドキアは
宮廷内では役立たずで余所に自分の宮殿を持つことを許されました。
そこでノヴォデヴィチに修道院を建て、1698年に亡くなるまで暮らしました。
前には摂政ソフィア、後ろにエカチェリーナ、エリザヴェータなど強力なキャラの
女性たちがいるものですから、かなり印象が地味ですけど、どう? 波瀾万丈よね?
決して自分から動いているわけではないんですけど、巻き込まれっぷりがハンパじゃない。
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)