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北の大地に女の時代到来!
ピョートル1世妃 エカチェリーナ1世
1684~1727/在位 (皇妃)1707~1725 (女帝)1725~1727
他のヨーロッパ諸国では皆無に等しいのではないかと思うのですが
王家と血の繋がりがあるわけでない、それも家柄もない皇帝の嫁が
帝国ロシアに君臨することになってしまいました。
エカチェリーナは本名をマルファ・スカヴロンスカヤといって
リトアニアでロシア軍の捕虜になった農民の娘でした。
17歳でスウェーデン人の兵士と結婚しています。
捕虜になった時改宗してエカチェリーナに改名しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/46/921cee5beebbd39a7f30a2caab30e03e.jpg)
まずは占領軍の洗濯室で働くことになったのですが
彼女は陸軍大臣に自分の下着
を差し出すという手を使って愛人の座につきます。
その後アレクサンドル・メンシコフの邸宅の小間使いになるわけですが
この人物がピョートル1世の大親友で相談役だったことが彼女の運命を大きく変えます。
メンシコフはエカチェリーナを愛人にしたもの、結婚が決まり幸せ一杯なので
ピョートルに彼女を献上した…というわけです。
ふたりは合うやいなや恋に落ちたということです。
学問より戦争が好きだったと言われるピョートル1世はこの時期
各地を転戦して野営暮らしをしていました。
エカチェリーナは彼に付いて戦地をまわり場を明るく盛り上げていたそうです。
ここまでは嫁の鏡ってかんじですね。
1707年、ふたりは密かに結婚しましたが公表されたのは1712年でした。
なにしろ元気な人だったみたいで12人の子を生んでます。(10人は夭逝)
そりゃあ容姿も崩れてきましょうよ! 贅沢と深酒が衰えに拍車をかけました。
というわけで皇帝もちょこちょこ愛妾を持つようになります。
その中でもアンナ・カンテミールとは真剣に結婚を考えたらしいのです。
エカチェリーナとの離婚を思いとどまらせたのは、若い日にふたりで戦場をまわって
苦労した日々の思い出だったそうですよ
ちょっといいエピソードですね。
1725年にピョートル1世が崩御した時、宮廷には孫のピョートル派もいましたが
上級士官がこぞってエカチェリーナ派についたため女帝として即位することになりました。
ただ即位したと言っても実際はメンシコフたちが創設した最高枢密院が実権を握っていて
エカチェリーナは完全にお飾りでした。
お手すきな女帝は飽食とラヴ・アフェアに明け暮れたということになっております。
それでもピョートル1世の遺志をついでサンクト=ペテルブルクの都市整備には尽力し
ロシア科学アカデミーの創立などを果たしました。
エカチェリーナは、本当は自分の娘エリザヴェータを指名したらしかったのですが
世論に押されてピョートルを後継者に指名し、即位から2年後に43歳で亡くなりました。
活動的で陽気で少し怒りっぽいという、肝っ玉母さんタイプの女性ですよね。
勝手な意見だけど、彼女自身は権力欲はなかったのじゃないかしら?
ただ少し贅沢ができて楽に暮らせればいいという、極めて庶民的な女性だった気がします。
やるべき仕事があって動き回っていたらもっと長生きできたのかもしれません。
適材適所というのは、社会だけでなく個人にも恩恵をもたらすものかもしれませんね。
ロシアはこの後女帝が続きます。
華やかそうではあるけれど、ドロドロ~としそうな予感![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp16.gif)
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
ピョートル1世妃 エカチェリーナ1世
1684~1727/在位 (皇妃)1707~1725 (女帝)1725~1727
他のヨーロッパ諸国では皆無に等しいのではないかと思うのですが
王家と血の繋がりがあるわけでない、それも家柄もない皇帝の嫁が
帝国ロシアに君臨することになってしまいました。
エカチェリーナは本名をマルファ・スカヴロンスカヤといって
リトアニアでロシア軍の捕虜になった農民の娘でした。
17歳でスウェーデン人の兵士と結婚しています。
捕虜になった時改宗してエカチェリーナに改名しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/46/921cee5beebbd39a7f30a2caab30e03e.jpg)
まずは占領軍の洗濯室で働くことになったのですが
彼女は陸軍大臣に自分の下着
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0158.gif)
その後アレクサンドル・メンシコフの邸宅の小間使いになるわけですが
この人物がピョートル1世の大親友で相談役だったことが彼女の運命を大きく変えます。
メンシコフはエカチェリーナを愛人にしたもの、結婚が決まり幸せ一杯なので
ピョートルに彼女を献上した…というわけです。
ふたりは合うやいなや恋に落ちたということです。
学問より戦争が好きだったと言われるピョートル1世はこの時期
各地を転戦して野営暮らしをしていました。
エカチェリーナは彼に付いて戦地をまわり場を明るく盛り上げていたそうです。
ここまでは嫁の鏡ってかんじですね。
1707年、ふたりは密かに結婚しましたが公表されたのは1712年でした。
なにしろ元気な人だったみたいで12人の子を生んでます。(10人は夭逝)
そりゃあ容姿も崩れてきましょうよ! 贅沢と深酒が衰えに拍車をかけました。
というわけで皇帝もちょこちょこ愛妾を持つようになります。
その中でもアンナ・カンテミールとは真剣に結婚を考えたらしいのです。
エカチェリーナとの離婚を思いとどまらせたのは、若い日にふたりで戦場をまわって
苦労した日々の思い出だったそうですよ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp28.gif)
1725年にピョートル1世が崩御した時、宮廷には孫のピョートル派もいましたが
上級士官がこぞってエカチェリーナ派についたため女帝として即位することになりました。
ただ即位したと言っても実際はメンシコフたちが創設した最高枢密院が実権を握っていて
エカチェリーナは完全にお飾りでした。
お手すきな女帝は飽食とラヴ・アフェアに明け暮れたということになっております。
それでもピョートル1世の遺志をついでサンクト=ペテルブルクの都市整備には尽力し
ロシア科学アカデミーの創立などを果たしました。
エカチェリーナは、本当は自分の娘エリザヴェータを指名したらしかったのですが
世論に押されてピョートルを後継者に指名し、即位から2年後に43歳で亡くなりました。
活動的で陽気で少し怒りっぽいという、肝っ玉母さんタイプの女性ですよね。
勝手な意見だけど、彼女自身は権力欲はなかったのじゃないかしら?
ただ少し贅沢ができて楽に暮らせればいいという、極めて庶民的な女性だった気がします。
やるべき仕事があって動き回っていたらもっと長生きできたのかもしれません。
適材適所というのは、社会だけでなく個人にも恩恵をもたらすものかもしれませんね。
ロシアはこの後女帝が続きます。
華やかそうではあるけれど、ドロドロ~としそうな予感
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp16.gif)
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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