![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/71/3df58f55d352ebe4bacb7d6cdbb17721.jpg)
子供ベッタリの母親との確執に悩んだ王女
ヴィクトリア王女 アリス・オブ・ユナイテッドキングダム
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃
1843~1878/在位 1877~1878
ジョージ4世を継いだウィリアム4世は、長年の内縁の妻ドロシー・ジョーダンとの間に
10人の子を生したのですが、王妃アデレイド・オブ・サクス=マイニンゲンとの間に生まれた
2人の王女シャーロットとエリザベスはいずれもすぐに亡くなってしまいました。
そんなわけで後を継いだのがウィリアム4世の姪ヴィクトリア女王です。
筆まめ、手紙好きのヴィクトリア女王&王女たちにはエピソードがてんこ盛りで
全部書いたら大変なことになるので、各々をよく表すことだけに絞りますね。
ヴィクトリア女王はどうやら家族をみ~んな自分の側において(管理して)おきたいと
考えていたようですが、さすがに長女・次女あたりは外国に嫁がせても仕方がないかもね…
というわけで、長女ヴィクトリアはドイツ皇帝フリードリヒ3世に嫁ぎ
次女アリスの縁談には1860年にとりかかりました。
女王は常々「娘は愛する人に嫁がせたい」と公言していましたが、だからといって
誰でもいいわけじゃなく、 “ 各王侯家の ” 愛する人っていう意味でした。
姉ヴィクトリアは女王の要望でオランダ王子ウィレムとプロイセン公子アルブレヒトを
見繕いましたが、相手が二人とも渋ってうまくいきませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/6b/22e947684b79239716827ff8b8aa2748.jpg)
従兄弟のポルトガル王子ペドロ(5世)との縁談もありましたが
女王はものすごいアンチ・カトリックで相手にしませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ff/3184c157e99b44f495778f7192f96f53.jpg)
再び姉ヴィクトリアの見繕いでヘッセン大公ルートヴィヒの甥のルートヴィヒが
ウィンザー城に招かれ、1861年に婚約が決まりました。
しかし、アリスの結婚式は惨憺たるものでした。
婚約した年の暮れに父のアルバート公が亡くなってしまったのね。
女王は結婚式は延期しなかったものの、悲しみに暮れてカーテンの後ろから出てこないし
アリスは式の時だけ白いドレスで後は喪服だったし、付き添いの姉妹は泣きじゃくり…で
まるでお葬式のようだったという記録もあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/3a/20e189a4536396b0a3b3818c6cc502a8.jpg)
とりあえず新婚時代は幸せだったようで、アリスは招かれて女王に会った時
幸福さが隠しきれなかったため、まだ喪に服している女王の機嫌を損ねてしまいました。
この後アリスはさらに女王との仲が悪化していきます。
すごーくはしょりますけど、子供を母乳で育てようとして母乳反対派の女王が怒ります。
ドイツで家庭を築いたアリスの里帰りが少ないと言って女王むくれます。
アリスが妹たちの結婚で反対意見を言ったので、女王ますますムカつきます。
てなわけで、後に夫と政治的思想が食い違って別居したアリスがイギリスに帰った時
女王はあからさまに「邪魔なのよね」という態度を示しました。
根に持つ性格だったのかしらね…ヴィクトリア女王![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp02.gif)
別居中で懐が苦しかったのか、アリスは再びイギリスに行きたいと手紙を送りますが
女王はきっぱり断っております。
1873年、アリスのお気に入りの末っ子ルートヴィヒが転落死してしまい
このころから体調を崩し始めました。
1878年に女王の招待で一家揃ってイーストボーンに滞在したアリスは
ダルムシュタットに帰る前、女王に会いに行きましたが
これが母娘の最後の面会になりました。
その年の暮れ、ダルムシュタット宮廷ではジフテリアが流行りました。
アリスの子供たちも次々罹り、末娘マリアが亡くなります。
看護婦が直接触れてはいけないと忠告したにもかかわらず
10歳の公子エルンストを抱きしめてキスをしたアリスも罹病してしまいます。
アリスは「愛するパパ」という言葉を最後に昏睡状態に陥り亡くなったそうです。
アルバート公が生きていたら、アリスの人生はもう少し穏やかなものになったかも…
女王も子供一辺倒にならずにすんだかもしれないしね。
さすがの女王もアリスの死にはショックをうけたそうです。
アリスには7人のお子様がおりました。
主だったところをあげてみますと次女エリーザベトはロシア皇帝アレクサンドル2世皇子の
ロシア大公セルゲイ妃に、三女イレーネは姉ヴィクトリアの皇子ハインリヒに嫁ぎました。
そして四女アリックスがロシア皇帝ニコライ2世妃になり、非業の最期をとげます。
長生きして娘の悲報を聞かずにすんで、幸せだったかもしれないですね。
(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
ヴィクトリア王女 アリス・オブ・ユナイテッドキングダム
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃
1843~1878/在位 1877~1878
ジョージ4世を継いだウィリアム4世は、長年の内縁の妻ドロシー・ジョーダンとの間に
10人の子を生したのですが、王妃アデレイド・オブ・サクス=マイニンゲンとの間に生まれた
2人の王女シャーロットとエリザベスはいずれもすぐに亡くなってしまいました。
そんなわけで後を継いだのがウィリアム4世の姪ヴィクトリア女王です。
筆まめ、手紙好きのヴィクトリア女王&王女たちにはエピソードがてんこ盛りで
全部書いたら大変なことになるので、各々をよく表すことだけに絞りますね。
ヴィクトリア女王はどうやら家族をみ~んな自分の側において(管理して)おきたいと
考えていたようですが、さすがに長女・次女あたりは外国に嫁がせても仕方がないかもね…
というわけで、長女ヴィクトリアはドイツ皇帝フリードリヒ3世に嫁ぎ
次女アリスの縁談には1860年にとりかかりました。
女王は常々「娘は愛する人に嫁がせたい」と公言していましたが、だからといって
誰でもいいわけじゃなく、 “ 各王侯家の ” 愛する人っていう意味でした。
姉ヴィクトリアは女王の要望でオランダ王子ウィレムとプロイセン公子アルブレヒトを
見繕いましたが、相手が二人とも渋ってうまくいきませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/6b/22e947684b79239716827ff8b8aa2748.jpg)
従兄弟のポルトガル王子ペドロ(5世)との縁談もありましたが
女王はものすごいアンチ・カトリックで相手にしませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ff/3184c157e99b44f495778f7192f96f53.jpg)
再び姉ヴィクトリアの見繕いでヘッセン大公ルートヴィヒの甥のルートヴィヒが
ウィンザー城に招かれ、1861年に婚約が決まりました。
しかし、アリスの結婚式は惨憺たるものでした。
婚約した年の暮れに父のアルバート公が亡くなってしまったのね。
女王は結婚式は延期しなかったものの、悲しみに暮れてカーテンの後ろから出てこないし
アリスは式の時だけ白いドレスで後は喪服だったし、付き添いの姉妹は泣きじゃくり…で
まるでお葬式のようだったという記録もあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/3a/20e189a4536396b0a3b3818c6cc502a8.jpg)
とりあえず新婚時代は幸せだったようで、アリスは招かれて女王に会った時
幸福さが隠しきれなかったため、まだ喪に服している女王の機嫌を損ねてしまいました。
この後アリスはさらに女王との仲が悪化していきます。
すごーくはしょりますけど、子供を母乳で育てようとして母乳反対派の女王が怒ります。
ドイツで家庭を築いたアリスの里帰りが少ないと言って女王むくれます。
アリスが妹たちの結婚で反対意見を言ったので、女王ますますムカつきます。
てなわけで、後に夫と政治的思想が食い違って別居したアリスがイギリスに帰った時
女王はあからさまに「邪魔なのよね」という態度を示しました。
根に持つ性格だったのかしらね…ヴィクトリア女王
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp02.gif)
別居中で懐が苦しかったのか、アリスは再びイギリスに行きたいと手紙を送りますが
女王はきっぱり断っております。
1873年、アリスのお気に入りの末っ子ルートヴィヒが転落死してしまい
このころから体調を崩し始めました。
1878年に女王の招待で一家揃ってイーストボーンに滞在したアリスは
ダルムシュタットに帰る前、女王に会いに行きましたが
これが母娘の最後の面会になりました。
その年の暮れ、ダルムシュタット宮廷ではジフテリアが流行りました。
アリスの子供たちも次々罹り、末娘マリアが亡くなります。
看護婦が直接触れてはいけないと忠告したにもかかわらず
10歳の公子エルンストを抱きしめてキスをしたアリスも罹病してしまいます。
アリスは「愛するパパ」という言葉を最後に昏睡状態に陥り亡くなったそうです。
アルバート公が生きていたら、アリスの人生はもう少し穏やかなものになったかも…
女王も子供一辺倒にならずにすんだかもしれないしね。
さすがの女王もアリスの死にはショックをうけたそうです。
アリスには7人のお子様がおりました。
主だったところをあげてみますと次女エリーザベトはロシア皇帝アレクサンドル2世皇子の
ロシア大公セルゲイ妃に、三女イレーネは姉ヴィクトリアの皇子ハインリヒに嫁ぎました。
そして四女アリックスがロシア皇帝ニコライ2世妃になり、非業の最期をとげます。
長生きして娘の悲報を聞かずにすんで、幸せだったかもしれないですね。
(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
子供も沢山生みながら国政も見るってすごいですよね~@@
そういう人はやっぱり生まれながらにして・・・
と言う感じでなにか持ってるものが違うんでしょうね・・・
何も持たずに生まれてくると、悲劇に見舞われるのかも・・・
なんて思ったりして^^;
統治者は即位した時代の運・不運もあるでしょうが、意志の強さとどこまで非情になれるのか…も大事だったかもしれないですね。
マリア・テレジアは子供たちの結婚についてほぼ自分の考えを押し通してますよね。
ヴィクトリア女王は善き君主になるために出しゃばりな母親に早々に見切りをつけてます。
しかし王女たちのことを書いていると、良く言えば家庭的なのかもしれませんが、悪く言えば自分好みに子供の人生を左右する頑固者にしか思えなくなってきます。
けっこう母親似なのかも…
北欧三国をカルマル同盟でまとめたマルグレーテは国と結婚したと言われてロマンティックなエピソードが見つかりません。
君主になるのと引き換えに犠牲にするものも多かったかもしれませんね。
(ヴィクトリアの母・ケント公妃ヴィクトリアの父方の祖母がマリア・テレジアの従妹)
なので、両名に共通する子供たちへの一種の強引さってある意味…血筋?(笑)
国をまたいでの王侯貴族の婚姻が続いてきたヨーロッパは、家系図の繋がりを見つけるのも楽しみのひとつですよね!
いろいろな意見があるところでしょうが、マリア・テレジアとヴィクトリア女王を “ 賢母 ” と手放しで持ち上げるのはどうなのだ? と思っている私です。