まりっぺのお気楽読書

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フィレンツェ支配者ピエロ妃 ルクレツィア

2010-06-07 23:45:15 | イタリア王・公妃
中世的教育ママ
ピエロ・ディ・コジモ妃 ルクレツィア・トルナブォーニ


1425~1482/在位 1464~1469

ピエロ・ディ・コジモは、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病み)と呼ばれていました。
やはり食事が贅沢だったのかしらね? お洋服は質素な方だったそうですが…

ルクレツィアの一家は追放の憂き目にあっていたところを
コジモ・イル・ヴェッキオの助けを受けてフィレンツェに帰ることができました。

まだまだ敵が多い時代、ひとりでも多くの味方が欲しかったんでしょうね?

          
両家の絆を深めるために、ピエロとルクレツィアが結婚することになりました。
ルクレツィアは19歳、ピエロは28歳でした。

ルクレツィアは子供たちに、質のよい文学や芸術を学ぶ機会を与え
哲学、経済、政治の家庭教師をつけて教育しました。 メディチ流英才教育なのか?
今は貴族じゃないが、いつかはそうなるのよ、あんたたち! ということかしら?

ルクレツィア自身も詩人としても知られていました。
いつごろ書かれたかは定かでないらしいけど、聖書や神話にまつわるものが多かったそう。

ちょいと経営手腕に欠けるピエロのもと、メディチ銀行も父親コジモがやっていた頃より
下火になり、反メディチ派の動きも活発になってきました。

ピエロとルクレツィアはメディチ家のステイタスを高めようと考えます。
フィレンツェ以外、特にローマの名家とお近づきになりたいと望んでいました。
そのためにはお子様たちの縁談が手っ取り早いですよね。

ルクレツィアは頑張って息子ロレンツォとオルシーニ家のクラリーチェの縁談を
まとめあげました。
有言実行、意志の強い方だったとお見受けします。
しかし、この結婚は失敗だったかも…

娘ビアンカはフィレンツェの名門パッツィ家のグリエルモと結婚しましたが
後にメディチ家とパッツィ家は教皇シクストゥス4世を巻き込む(というか言い出しっぺ)
ものすごい抗争をおこします。
グリエルモは助かったけど。

痛風を患っていたピエロは1469年に亡くなり、ルクレツィアは13年後に亡くなりました。

            
               マドンナとして描かれたルクレツィア
                    やはり読み書きを教えてますわね


さて、ピエロももちろん芸術家のパトロンでありました。
父コジモから受け継いだ画家たちもいましたが、それ以外に

 
   ドメニコ・ヴェネツィアーノ          ベノッツォ・ゴッツォリ

などがおりました。
若きボッテュチェリもお世話になったみたいです。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)

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2 コメント

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Unknown (cucciola)
2010-06-10 16:05:47
まりっぺさま、

こんにちは!
この肖像画のルクレツィアはとても美しいですね!私が今まで目にしたルクレツィアは鷲鼻でお世辞にも美人と言えない女性だったんです。
メディチ家の「痛風」は遺伝みたいですよ。彼らの息子のロレンツォさんもこれで亡くなってるみたいです。
ロレンツォの奥さんが地味なせいか、このルクレツィアさんが花の都の主役、って感じなんですよねえ、私の中では。
返信する
こんばんわ (まりっぺ)
2010-06-11 22:38:09
cucciolaさま こんばんわ。

イタリア王公妃シリーズは肖像画も見どころのひとつですね。
お美しい画像がたくさんあって、登場しない人まで載せたくなってしまいます。

たしかに、これから3人ばかり公妃は地味ですね、というか資料がありませぬ…

イタリアには各名家に関するたくさんの資料があるのでしょうね?
うらやますぃ…でも目の前にあっても読めないわけなんですが…
返信する

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