まりっぺのお気楽読書

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トスカーナ大公コジモ1世妃 カミッラ

2010-06-23 02:11:24 | イタリア王・公妃
親子喧嘩の火種
コジモ1世妃 カミッラ・マルテッリ


1545~1634/在位せず

前妃エレオノーラを亡くした後、コジモはエレオノーラ・ディ・アルヴィッツィに溺れ
再婚しようとしますが、息子の大反対にあった末、息子の味方をした侍従アルメーニを
刺してしまって、この話しはなかったことになります。

その後コジモは26歳年下のカミッラに恋をします。
てことは、カミッラはその時19歳ということになります。

カミッラの実家マルテッリ家はフィレンツェ有数の貴族のひとつでした。

        

コジモ1世は、エレオノーラの死から2年後に、息子フランチェスコを摂政にして
ヴィッラ・ディ・カステッロに隠居します。
コジモはそこへカミッラも連れて行きました。

コジモはエレオノーラの死に打撃を受け、健康も衰えていました。
カミッラだって何も好き好んで…ねぇ
卒中で倒れて呂律もまわらず半身麻痺だったらしいし、看病しに行くようなものじゃない。
でも、彼女はわがまま放題で虚栄心が強かったらしく
若い娘の言うことを聞いちゃうじい様(とは言っても50歳前後)は恰好のターゲットですな。

カミッラは1568年にヴィルジニアという娘を生み、コジモは再婚を考えます。

もともとカミッラを嫌っていたコジモの子どもたちは大反対しますが
コジモは気にせず1570年に結婚しました。
しかし、この結婚は貴賤結婚と見なされ、カミッラは称号を授けられませんでした。

子どもたちの不平に答えてコジモは
「私の妻はれっきとしたフィレンツェの淑女だ」と書き送り
「隠居したんだからどんな家柄の女性を選んだっていいじゃないか」と言い放ちました。

1575年にコジモが亡くなると、カミッラはムラテ修道院に入れられ
続いてサンタ・モニカの修道院に移されました。
彼女が修道院を出たのは娘ヴィルジニアの結婚式の時だけです。

1609年、カミッラはフランチェスコの死後、新大公フェルディンナンドに
修道院から出してくれるよう願い出てやっと許可をもらいましたが
その後の再び修道院に入れられ、出て来ることなく1634年に亡くなりました。

どれだけ嫌われていたかは知らんが、30歳で修道院に入って89歳まで出れぬとは…
もしかしたらコジモに頼み込まれて結婚したのかもしれないのに
ひどい仕打ち~

コジモの生前、よっぽど横柄な態度をとっていたとしたらミステイクよね。
老いた権力者に愛された者は、栄華が長く続かないことを肝に銘じておかないと…

さて、コジモももちろんパトロンになっています。
公共の施設や教会の建設などに力を注ぎましたが、絵画では

  
   ジョルジョ・ヴァザーリ     アニョロ・ブロンズィーノ      ヤコポ・ダ・ポントルモ

などの画家がおりました。

コジモは様々な形で数多くの肖像を残しているそうですが、
ブロンズィーノはコジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドの肖像画も発注されております。

  美男美女ですな…

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)

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