まりっぺのお気楽読書

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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 エリーザベト

2009-11-07 09:54:31 | ドイツ系王妃
駆け落ちを図った王太子妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 エリーザベト・クリスティーネ
          フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク


1746~1840/在位せず

エリーザベトの母はフリードリヒ大王の妹シャルロッテ・フィリッピーネで
大王直々に姪のエリーザベトを後継者の花嫁に選びました。
後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルムも大王の甥でエリーザベトとはいとこ同士
舅と姑はおじ、おばという一族をあげての縁談でした。

       

けれどもこのふたりの結婚も不幸なものでした。

名君の後の王はしおしおになるパターンが多いのですが
フリードリヒ・ヴィルヘルムはポーランドも手中に収めるなど
強大なプロイセンをさらに強くしていきます。

戦争に強い英雄のご多聞にもれず、生涯に多数の愛人を持ちましたが
新婚当初から妻に不誠実だったようです。

フリードリヒ大王は早く嫡子を生めとやいのやいの言ってきますが
女の子が生まれたことでふたりにはさらにすきま風が…

夫から無視され、傷ついたエリーザベトは「わたくしも」と
音楽家やポツダムの将校たちと浮気を始めます。
夫に対抗して自分も浮気を…という妃は多いのですが
あまりいい結果をもたらしたことはないような気がするんですけどね…

エリーザベトは1769年に妊娠し一大スキャンダルになります。
しかも、駆け落ちをしようとした相手の男(不明)には裏切られてしまいます。

エリーザベトは離婚を言い渡されて、ポーランドのシュチェチン城に監禁されました。
居心地には配慮があったようですが監視がついていました。
娘のフリーデリケ・シャルロッテにはその後会う事はありませんでした。

1774年からは、夏になるとシロンスクの古風な修道院で過ごすようになり
1786年にはフリードリヒ大王が亡くなって監視はゆるむものの、ずーっと監禁状態です。
離婚したなら自由にさせてあげればいいじゃない?

1810年に町がフランス軍に占領されるとエリーザベトは市外の小さな村に移りました。

結局71年にわたり囚われの身で過ごしたエリーザベトは94歳で亡くなりました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は40年以上も前に亡くなっていたし
兄弟姉妹もこの世にはいませんでした。

エリーザベトは誰とも一緒に葬られなくてすむように、自ら墓の準備をしていました。
希望どおり埋葬されたのですが、その後クラクフの大聖堂に移葬されています。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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