![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/0f/a19700265746c2d5fabbad36048a1348.jpg)
こちらは聖ラースロー1世とアデルハイドの王女ピロシュカ
ここから6人、駆け足でまいります
ゲーザ1世妃 ゾフラ
王が目まぐるしく入れ替わった時代、王妃に関するエピソードがないので
家系図のみでやりすごしてみます。
ベーラ1世の長男で、シャロモンを倒して王に就いたゲーザ1世の最初の妃は
リンブルク伯の娘ゾフラ(~1075)です。
後の王カールマーンの母后です。
ゲーザ1世のふたりめの妃はビザンツ皇帝ニケフォロス3世の姪にあたる
シュザナデーネ(1058~1082)
ゲーザ1世の後を継いだ弟聖ラースロー1世は神聖ローマ皇帝への反抗心から
ドイツ対立王シュヴァーベン伯ルドルフ1世の娘アデルハイドと結婚。
王女ピロシュカはビザンツ皇帝ヨハネス2世妃になりました。
ピロシュカの子、皇帝マヌエル1世は、この後ハンガリーにやけにちょっかいをだしてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/71/ca64df6a7e49cea74c8768f281c12cd4.jpg)
聖ラースローを継いだのはゲーザ1世の王子カールマーンでしたが、少し障害があり
実弟スラヴォニア公アールモシュのクレームと戦う日々が続きました。
最初の妃ブジラ(1078~1102)はシチリア伯ルッジェーロ1世の娘です。
カールマーンは使節を送り求婚しましたが、シチリア伯は使節の身分が低いとして拒否、
次にゴヤールの司教が送られましたがこれも拒否されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/4c/5a9acf8d807d2976329d33df18728c4b.jpg)
とうとう弟のアールモシュが送られ、結婚はやっと承諾されました。
アールモシュもいざとなったら助けてくれたのね…
でもアールモシュはいつまでも王位を主張したので、後に目をつぶされちゃいます。
ブジラはイシュトヴァーン2世の母后ですが、息子が即位する前に亡くなりました。
ふたりめの妃はキエフ大公ウラディミール2世公女エウフェミア(1099~1139)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/cb/cdd49638d391d17f9602476d98002ad2.jpg)
カールマーンは知的ではありましたが障害があったため、エウファミアは浮気にはしり
すぐにキエフに送り返されました。
故郷でボリスという男の子を生みましたが、カールマーンは認知しませんでした。
しかし彼は後々ハンガリー王位を主張します、もちろん。
エウフェミアは故郷近くの修道院で余生を送りました。
家系図が前後しますが、カールマーンを15歳で継いだイシュトヴァーン2世の妃は
カプア公ロベルト1世の公女クリスティナですが、詳しいことはわかりません。
子どもは生まれなかったようです。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ここから6人、駆け足でまいります
ゲーザ1世妃 ゾフラ
王が目まぐるしく入れ替わった時代、王妃に関するエピソードがないので
家系図のみでやりすごしてみます。
ベーラ1世の長男で、シャロモンを倒して王に就いたゲーザ1世の最初の妃は
リンブルク伯の娘ゾフラ(~1075)です。
後の王カールマーンの母后です。
ゲーザ1世のふたりめの妃はビザンツ皇帝ニケフォロス3世の姪にあたる
シュザナデーネ(1058~1082)
ゲーザ1世の後を継いだ弟聖ラースロー1世は神聖ローマ皇帝への反抗心から
ドイツ対立王シュヴァーベン伯ルドルフ1世の娘アデルハイドと結婚。
王女ピロシュカはビザンツ皇帝ヨハネス2世妃になりました。
ピロシュカの子、皇帝マヌエル1世は、この後ハンガリーにやけにちょっかいをだしてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/71/ca64df6a7e49cea74c8768f281c12cd4.jpg)
聖ラースローを継いだのはゲーザ1世の王子カールマーンでしたが、少し障害があり
実弟スラヴォニア公アールモシュのクレームと戦う日々が続きました。
最初の妃ブジラ(1078~1102)はシチリア伯ルッジェーロ1世の娘です。
カールマーンは使節を送り求婚しましたが、シチリア伯は使節の身分が低いとして拒否、
次にゴヤールの司教が送られましたがこれも拒否されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/4c/5a9acf8d807d2976329d33df18728c4b.jpg)
とうとう弟のアールモシュが送られ、結婚はやっと承諾されました。
アールモシュもいざとなったら助けてくれたのね…
でもアールモシュはいつまでも王位を主張したので、後に目をつぶされちゃいます。
ブジラはイシュトヴァーン2世の母后ですが、息子が即位する前に亡くなりました。
ふたりめの妃はキエフ大公ウラディミール2世公女エウフェミア(1099~1139)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/cb/cdd49638d391d17f9602476d98002ad2.jpg)
カールマーンは知的ではありましたが障害があったため、エウファミアは浮気にはしり
すぐにキエフに送り返されました。
故郷でボリスという男の子を生みましたが、カールマーンは認知しませんでした。
しかし彼は後々ハンガリー王位を主張します、もちろん。
エウフェミアは故郷近くの修道院で余生を送りました。
家系図が前後しますが、カールマーンを15歳で継いだイシュトヴァーン2世の妃は
カプア公ロベルト1世の公女クリスティナですが、詳しいことはわかりません。
子どもは生まれなかったようです。
(参考文献 Wikipedia英語版)