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ハンガリー王シャロモン妃 ユディト

2010-08-13 01:05:55 | ハンガリー王妃
復縁を断固拒否!
シャロモン妃 ユディト


1054~1105以降/在位 1063~1074

ユディトは神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の皇女です。

生まれるとすぐにフランス王アンリ1世の王太子フィリプと婚約しましたが
1058年、兄である皇帝ハインリヒ4世がアンドラーシュと和平条約を締結した時に
婚約は破棄されて、アンドラーシュの王子シャロモンと婚約しました。

       

4歳だから分らなかったかもしれないけど「え~っ 」って思ったかもね。
フランス王妃になるつもりだったのに、ハンガリーってなによぉ、ってね。
とりあえずフランス王室はフランク帝国の名残がありましたから…

1060年、ベーラ1世に王座を奪われたシャロモンはドイツに避難して来ました。
シャロモンの母后アナシュタシアは、ハインリヒ4世に援助を頼み
おかげさまでシャロモンは1063年に王位につくことができました。

ユディトはシャロモンの即位後すぐに結婚したのですが、この結婚はうまくいかず
ふたりはお互いに浮気を繰り返していました。

1070年になると、シャロモンと従兄弟たちとの王位をめぐる争いが始まります。
1074年にシャロモンが敗れると、ユディトは夫を残してドイツに逃れました。

ハンガリーで投獄されていたシャロモンは、1083年に釈放されると
ユディトが暮らすレーゲンスブルクを訪ねやり直そうと訴えましたが
彼女は会うことさえ拒み、シャロモンを追い返しました。
「王じゃないあんたなんか!」ということだろうか…

シャロモンはその後再起をかけてモルダヴィアのペチェネグ族と手を結び
族長の娘と結婚しました。

ユディトはポーランド公子ヴワディスワフと1089年に再婚し、ソフィアに改名しました。

でも実はユディトは、ポーランドの真の統治者と言われたプファルツ伯Sieciechの
愛人だったみたいです。
ポーランド公(後の王)ボレスワフ2世のたったひとりの王子ミェシュコが
不思議な死に方をしたのは、プファルツ伯とユディトの企みだとみられています。
結局ポーランド公にはユディトの夫ヴワディスワフが就きました。

ヴワディスワフには先妻が生んだ公子がいたのですが、ユディトはプファルツ伯の力を借りて
非合法の長男ズビグニェフではなく、次男ボレスワフを継承者にしようとします。
ちなみに、ユディトが生んだ3人は皆公女でした。

しかしこの企みが露見すると兄妹ふたりは手を組んで統治をはじめ
プファルツ伯は追放されました。
1102年にヴワディスワフが亡くなった後は肩身がせまかったでしょうね?

ユディトは1105年にボレスワフ3世と協定を結びましたが亡くなった年ははっきりしません。
1110~1118年の間に娘のアデライデが結婚していて
その後じゃないか?と言われています。

どちらの国でもやりたい放題ですね?
性格についてのエピソードがないのですが、訪ねて来た夫を追い返すあたり
きっぱりした方だったようにお見受けします。

オーストリアのアドモント修道院に葬られました。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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