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息子のためならなんでもやります!
カーロイ1世妃 エルジェーベト・ピアスト
1305~1380/在位 1320~1342
エルジェーベトはポーランド王ヴワディスワフ1世の王女ですが、幼い頃には
王の座にプシェミスル家のヴァツワフ3世(ハンガリー王ヴェンツェル)がいて
王座を主張するヴワディスワフ一家の暮らしは極めて危険なものでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ab/925bcd17e803bb9c93f870aeec605d5b.jpg)
カーロイ1世とは、父が王に即位した1320年に結婚しています。
エルジェーベトは15歳、カーロイは32歳でした。
エルジェーベトは宮廷が待ち望んでいた王子を次々と生みました。
全部で五男二女生まれています(ふたりの王女は最初の妃マリアの子説あり)
どうやら宮廷内では勢力が増したみたいで、威圧的な女性だったと言われています。
1342年、カーロイ1世が亡くなると、遺されたエルジェーベトは
ほぼ全ての力を子供たちに注ぎ込んだと思われる節があります。
中でも力を入れたのは王子たちの縁談!
特に16歳で王となったラヨシュ1世に、お似合いの妃を探そうと頑張りました。
まずは神聖ローマ皇帝カール4世皇女マルギット(7歳!)を嫁に迎えます。
しかしマルギットは7年後に亡くなりました。
エルジェーベトは息子の後妻選びに奔走しました。
ボスニア王ステファン2世に年ごろ(10歳)の王女がいると聞くと
「うちで教育してあげるから!」とご招待しました。
ステファン2世は嫌がっていたのですが、お招きはしつこかったみたいで
とうとう王女エルジェーベト・コトロマニッチをハンガリーへ送り出し
結局嫁にやることになってしまいました。
押しが強かったみたいですね
嫁には行きたくない家かも…
一方、王子アンドラーシュは親戚筋にあたるナポリ女王ジョヴァンナと結婚させました。
この結婚は失敗でした。
カラブリア公となったアンドレアス(アンドラーシュ)は、ジョヴァンナとともに
ナポリ王になりたいと主張しましたが拒否され、ナポリ王太子になりました。
けれどもナポリ王座を狙う人たちは他にもいるわけで、アンドレアスは身の危険を感じます。
そこで、頼りになるママにお手紙を書きました。
内容は「すぐ逃げ出したいから助けて~」というものでした。
ママ・エルジェーベトは「ボクちゃんが大変!」とすぐにナポリを訪れて
まずはローマ教皇に賄賂を渡してアンドレアスへの戴冠を約束させます。
そしてアンドレアスには毒殺から守ってくれる指輪を与えました。
しかし、教皇クレメンス6世が戴冠式をやりなおすと宣言すると
結局アンドレアスは反対派から暗殺されてしまいました。
おとなしくしていた方がよかったんじゃあないのか? 母の愛が裏目に出たようですね。
1370年、ラヨシュはポーランド王にも即位しました。
王妃エルジェーベト(コトロマニッチ)とポーランドを空ける間
母エルジェーベトに摂政を頼むことにします。
もともとポーランド王女だし、うまく国内の不満を抑えてくれるだろうという考えでした。
ところがこの目論みは大失敗でした。
ポーランド宮廷では威張り散らすエルジェーベトに対する議論が白熱しました。
とうとう護衛が殺されてしまい、ハンガリーに逃げ帰る始末です。
ハンガリーではやはり力を持っていたと思われるエルジェーベトは
嫁エルジェーベト(コトロマニッチ)を押さえ込んでいたらしいのですが
死後は彼女にブダ城を与えています。
耐え忍んでよかったね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp28.gif)
しかしエルジェーベト(コトロマニッチ)の人生は
姑亡き後さらに過酷なものになります …つづく
(参考文献 Wikipedia英語版)
カーロイ1世妃 エルジェーベト・ピアスト
1305~1380/在位 1320~1342
エルジェーベトはポーランド王ヴワディスワフ1世の王女ですが、幼い頃には
王の座にプシェミスル家のヴァツワフ3世(ハンガリー王ヴェンツェル)がいて
王座を主張するヴワディスワフ一家の暮らしは極めて危険なものでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ab/925bcd17e803bb9c93f870aeec605d5b.jpg)
カーロイ1世とは、父が王に即位した1320年に結婚しています。
エルジェーベトは15歳、カーロイは32歳でした。
エルジェーベトは宮廷が待ち望んでいた王子を次々と生みました。
全部で五男二女生まれています(ふたりの王女は最初の妃マリアの子説あり)
どうやら宮廷内では勢力が増したみたいで、威圧的な女性だったと言われています。
1342年、カーロイ1世が亡くなると、遺されたエルジェーベトは
ほぼ全ての力を子供たちに注ぎ込んだと思われる節があります。
中でも力を入れたのは王子たちの縁談!
特に16歳で王となったラヨシュ1世に、お似合いの妃を探そうと頑張りました。
まずは神聖ローマ皇帝カール4世皇女マルギット(7歳!)を嫁に迎えます。
しかしマルギットは7年後に亡くなりました。
エルジェーベトは息子の後妻選びに奔走しました。
ボスニア王ステファン2世に年ごろ(10歳)の王女がいると聞くと
「うちで教育してあげるから!」とご招待しました。
ステファン2世は嫌がっていたのですが、お招きはしつこかったみたいで
とうとう王女エルジェーベト・コトロマニッチをハンガリーへ送り出し
結局嫁にやることになってしまいました。
押しが強かったみたいですね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp17.gif)
一方、王子アンドラーシュは親戚筋にあたるナポリ女王ジョヴァンナと結婚させました。
この結婚は失敗でした。
カラブリア公となったアンドレアス(アンドラーシュ)は、ジョヴァンナとともに
ナポリ王になりたいと主張しましたが拒否され、ナポリ王太子になりました。
けれどもナポリ王座を狙う人たちは他にもいるわけで、アンドレアスは身の危険を感じます。
そこで、頼りになるママにお手紙を書きました。
内容は「すぐ逃げ出したいから助けて~」というものでした。
ママ・エルジェーベトは「ボクちゃんが大変!」とすぐにナポリを訪れて
まずはローマ教皇に賄賂を渡してアンドレアスへの戴冠を約束させます。
そしてアンドレアスには毒殺から守ってくれる指輪を与えました。
しかし、教皇クレメンス6世が戴冠式をやりなおすと宣言すると
結局アンドレアスは反対派から暗殺されてしまいました。
おとなしくしていた方がよかったんじゃあないのか? 母の愛が裏目に出たようですね。
1370年、ラヨシュはポーランド王にも即位しました。
王妃エルジェーベト(コトロマニッチ)とポーランドを空ける間
母エルジェーベトに摂政を頼むことにします。
もともとポーランド王女だし、うまく国内の不満を抑えてくれるだろうという考えでした。
ところがこの目論みは大失敗でした。
ポーランド宮廷では威張り散らすエルジェーベトに対する議論が白熱しました。
とうとう護衛が殺されてしまい、ハンガリーに逃げ帰る始末です。
ハンガリーではやはり力を持っていたと思われるエルジェーベトは
嫁エルジェーベト(コトロマニッチ)を押さえ込んでいたらしいのですが
死後は彼女にブダ城を与えています。
耐え忍んでよかったね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp28.gif)
しかしエルジェーベト(コトロマニッチ)の人生は
姑亡き後さらに過酷なものになります …つづく
(参考文献 Wikipedia英語版)