![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/fd/226c84cb8f12f098c34840644380bffb.jpg)
またまた、幼い王妃
マーチャーシュ1妃 カタリン・ポジェブラード
1449~1464/在位 1463~1464
フニャディ家…遡ればどこかで王族と繋がりがあるの “ かも ” しれませんが
見つけられませんでした。
マーチャーシュの父ヤノーシュは、当時ハンガリーに領土を拡大していた
オスマン帝国を敗るなどしてトランシルヴァニア公になり、摂政に就いていた人でした。
ラースロー5世が未婚で早世したため、国内はまたまた継承問題で大荒れです。
ヤノーシュが生きていれば王に選ばれたのでしょうが、1年前に亡くなっていたため
1458年に15歳の息子マーチャーシュが王に選出されました。
マーチャーシュはエルジェーベト・ツェリェと婚約していましたが彼女は亡くなります。
そこでボヘミア王イジーの王女、当時9歳のカタリンとの縁談が持ち上がります。
結婚の条件は、将来マーチャーシュをボヘミア王にするというものでした。
イジー王も王家との繋がりというより武勲によって王に選出された人で
王座は安泰ではありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/01/81825359b5369c93cdb450461f6c254c.jpg)
1463年、18歳のマーチャーシュと13歳のカタリンは結婚します。
上の画はお嫁に行く時のものでしょうか?
幼い娘を嫁に出す家族の不安と哀しさが表れていますよね。
カタリンは14歳で出産しましたが、母子ともに数日後に亡くなりました。
だから何度言ったらわかるのかいな! 14歳に子供を産ませるんじゃないってばよ!!
ハンガリー王国ったら、14歳で、出産で、亡くなる王妃が多い気がしません?
ハンガリーのために頑張ったのに・・・第1部
マーチャーシュ妃 ベアトリクス・アラゴーニア
1457~1502/在位 (マーチャーシュ妃)1476~1490
(ウラースロー2世妃)1491~1502
カタリンを亡くしたマーチャーシュは12年後、やっと再婚しました。
相手はナポリ王フェルディナンド1世王女ベアトリクスです。
マーチャーシュ31歳、ベアトリクスは19歳でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/74/e1413a4b39acebf69ebc67fb8117f8af.jpg)
ベアトリクスはイタリアン・ルネッサンスをハンガリー宮廷に持ち込みました。
マーチャーシュも興味を示し、ゴチック風だったブダ宮殿の改装に踏み切りました。
ベアトリクスは学術面のハンガリーの躍進にも大きな役目を果たしました。
政治面でも少なくない影響力を持っていたようです。
オーストリア侵攻の際には夫に同行してしていますし
ワラキアとの平和条約にも一役かってます。
マーチャーシュ王は、中世ハンガリーを頂点まで高めた王とされていますが
ベアトリクスが夫を大きく助けている気がしますよね。
しかし、でございます。
ベアトリクスとマーチャーシュの間にはお子様ができませんでした。
仲は良かったそうですけどね。
マーチャーシュはヴロツワフ庶民の娘ボルバーラとの間に男の子がおりました。
結婚前に生まれていた息子さんです。
で、息子だけならともかく母親も宮殿に呼び寄せちゃったのね… ベアトリクス大激怒![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp25.gif)
いくらできた嫁でもこれは納得いかないわ! というわけで
息子に領地を譲りたいというマーチャーシュとベアトリクスの諍いは
マーチャーシュが亡くなるまで続くことになります。
マーチャーシュが亡くなった後、ベアトリクスは次王ウラースロー2世と再婚します。
またまた問題が起こります… 第2部へつづく
(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)
マーチャーシュ1妃 カタリン・ポジェブラード
1449~1464/在位 1463~1464
フニャディ家…遡ればどこかで王族と繋がりがあるの “ かも ” しれませんが
見つけられませんでした。
マーチャーシュの父ヤノーシュは、当時ハンガリーに領土を拡大していた
オスマン帝国を敗るなどしてトランシルヴァニア公になり、摂政に就いていた人でした。
ラースロー5世が未婚で早世したため、国内はまたまた継承問題で大荒れです。
ヤノーシュが生きていれば王に選ばれたのでしょうが、1年前に亡くなっていたため
1458年に15歳の息子マーチャーシュが王に選出されました。
マーチャーシュはエルジェーベト・ツェリェと婚約していましたが彼女は亡くなります。
そこでボヘミア王イジーの王女、当時9歳のカタリンとの縁談が持ち上がります。
結婚の条件は、将来マーチャーシュをボヘミア王にするというものでした。
イジー王も王家との繋がりというより武勲によって王に選出された人で
王座は安泰ではありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/01/81825359b5369c93cdb450461f6c254c.jpg)
1463年、18歳のマーチャーシュと13歳のカタリンは結婚します。
上の画はお嫁に行く時のものでしょうか?
幼い娘を嫁に出す家族の不安と哀しさが表れていますよね。
カタリンは14歳で出産しましたが、母子ともに数日後に亡くなりました。
だから何度言ったらわかるのかいな! 14歳に子供を産ませるんじゃないってばよ!!
ハンガリー王国ったら、14歳で、出産で、亡くなる王妃が多い気がしません?
ハンガリーのために頑張ったのに・・・第1部
マーチャーシュ妃 ベアトリクス・アラゴーニア
1457~1502/在位 (マーチャーシュ妃)1476~1490
(ウラースロー2世妃)1491~1502
カタリンを亡くしたマーチャーシュは12年後、やっと再婚しました。
相手はナポリ王フェルディナンド1世王女ベアトリクスです。
マーチャーシュ31歳、ベアトリクスは19歳でした。
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ベアトリクスはイタリアン・ルネッサンスをハンガリー宮廷に持ち込みました。
マーチャーシュも興味を示し、ゴチック風だったブダ宮殿の改装に踏み切りました。
ベアトリクスは学術面のハンガリーの躍進にも大きな役目を果たしました。
政治面でも少なくない影響力を持っていたようです。
オーストリア侵攻の際には夫に同行してしていますし
ワラキアとの平和条約にも一役かってます。
マーチャーシュ王は、中世ハンガリーを頂点まで高めた王とされていますが
ベアトリクスが夫を大きく助けている気がしますよね。
しかし、でございます。
ベアトリクスとマーチャーシュの間にはお子様ができませんでした。
仲は良かったそうですけどね。
マーチャーシュはヴロツワフ庶民の娘ボルバーラとの間に男の子がおりました。
結婚前に生まれていた息子さんです。
で、息子だけならともかく母親も宮殿に呼び寄せちゃったのね… ベアトリクス大激怒
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp25.gif)
いくらできた嫁でもこれは納得いかないわ! というわけで
息子に領地を譲りたいというマーチャーシュとベアトリクスの諍いは
マーチャーシュが亡くなるまで続くことになります。
マーチャーシュが亡くなった後、ベアトリクスは次王ウラースロー2世と再婚します。
またまた問題が起こります… 第2部へつづく
(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)