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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド王リチャード2世妃 アン

2008-10-19 21:39:35 | イングランド王妃・王女
凶兆とともに輿入れ
リチャード2世妃 アン・オブ・ボヘミア


1366~1394/在位 1382~1394

お人好しが仇となって廃位に追い込まれることになるリチャード2世は
神聖ローマ皇帝カール4世の娘アンと結婚しますが
実はこの結婚、イングランドの議会や貴族は大反対でした。

      

(ちなみにリンブルク家は、それまでフランス王家との婚姻が多く
 ここで両国に何かがおこったのかもしれません。調べてみます)

当時リチャード2世にはミラノ卿ベルナボの娘との縁談があり
彼女は13,000ポンドという持参金があったのに対し
アンには一文も持参金がなく(皇帝の娘なのに?)
イングランドにこれといって利益をもたらさなかったためです。

それでも二人は結婚しますが、アンがイングランドにやって来た時の身支度が
とても質素だったため、国民がっかり
さらにはアンが乗ってきた船が、彼女を降ろすやいなや粉々に砕け散ったということで
「凶兆とともにやってきた」とまで言われる始末
さらにさらに、アンは自国から多数の使用人を引き連れて来て宮廷費が嵩んでしまい…と
とにかく不人気な王妃でした。

でもそんな雑音はよそに、二人は一緒に領地を回ったり
名だたる寺院を訪ねたりとかなり仲睦まじかったようです。
それに、アンは農民一揆の首謀者の恩赦などを進言し
徐々に優しい人柄が知られていきました。

彼女が亡くなった時、リチャード2世はふたりで過ごした離宮を見るのは忍びないと言って
破壊を命じています。 お城を破壊!! いくらなんでもやりすぎでは?

後年リチャード2世は亡くなるとアンの遺体と指をからませて埋葬されました。

国内に不穏な動きを抱え、叔父や従兄弟との政争に明け暮れたリチャードにとって
アンとの生活は至上の歓びだったのかもしれませんね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

これさえあれば、あなたも英国王室通
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イングランド王エドワード3世妃 フィリッパ

2008-10-16 01:48:15 | イングランド王妃・王女
死が王を変えた
エドワード3世妃 フィルッパ・オブ・エノー


1314~1369/在位 1328~1369

既に王となっていた16歳のエドワード3世に嫁いだ時、フィリッパは14歳。

     

またいとこだったため法王の許可をもらって結婚しました。

エドワード3世が18歳になるまでは、皇太后であるイザベル・オブ・フランス
のさばっていたためおとなしくしていたのかもしれませんが
かなりアグレッシヴな王妃だったようで、王とともに戦場へ出向いた上
激励のため兵士に一席ぶったりしたらしいです。勇ましいね

また産業の振興にも熱心で、実家のあるフランドルから羊毛の技術者を呼び寄せたり
石炭の発掘を奨励したりしています。
羊毛と石炭といえば、後々までイングランドで栄えた産業ですよね。

その上、とても教養があったということで、いったい非のうちどころはないのかね?
と思っていたら、後年かなりコロコロに太ったらしいです。
でもそこがまた、母性的で友好的で家庭的に見えたというから
素敵な太り方(?)ですね   肝っ玉かあさんみたいな・・・

エドワード3世は、有名な “ ガーター騎士団 ” を創設したりして
騎士道精神に溢れた王で、そりゃあもてたでしょうし、愛人もいました。
中には“ フェア・メイド・オブ・ケント ” と呼ばれた絶世の美女
ソールズベリー伯夫人ジョアンの愛人説もありますが
妻フィリッパのお気に入りでもあり、後に息子エドワードと再婚もするので
噂に過ぎないんじゃないかしら? でも中世だしなぁ・・・

ともあれ、フィリッパが存命中はさすがのエドワード3世も
妻を気遣って(怖れて?)おおっぴらな浮気はなかったようですが
41年の結婚生活の末フィリッパが亡くなると、妖婦アリス・ペラーズに溺れ
政治も含め、何もかもあやつられてしまいます。

エドワード3世は愛想をつかした子供や家臣に看取られることなく
懺悔僧が寄り添う中、ひとり寂しく亡くなりました。 哀しいのぅ
(アリス・ペラーズは王の死期が迫ると宝石を持って出ていってしまいました)

フィリッパが生きていれば、家族に看取られて幸せな最期が迎えられたかもしれませんね。

夫より妻が長生きした方が、老後は幸せだってよく聞くけどやはりそうなのかしら?
男性陣はどう思われますか?

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

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イングランド王エドワード2世妃 イザベル

2008-10-15 01:47:49 | イングランド王妃・王女
王を処刑においやった王妃
エドワード2世妃 イザベル・オブ・フランス


1292~1358/在位 1308~1327

イングランド王国史上一番の愚王といわれるエドワード2世の妃イザベルを
稀代の悪女と見るか境遇の犠牲者と見るかは意見の分かれるところです。

私は女なので、やはり夫によって人生を変えられてしまった哀れな女性じゃないかな
なんて思います。
       
慈愛たっぷりの前王妃マーガレット・オブ・フランスの姪にあたりながら
彼女を “ フランスの女豹 ” と言われてしまうほどの蛮行に駆り立てたものは
いったいなんだったのでしょうか?

エドワード2世には結婚前から、父王に反対されようが議会から追放を言い渡されようが
離れられない寵臣(男ね)がいました。
前王が亡くなると、エドワードはそのピエール・ギャブスタンに高位の爵位を与えるわ
摂政に指名するわの大盤振る舞いで、貴族から反感をかっていました。

結婚後もそれは変わらず、イザベルの宝石をピエールが欲しがった時には
ピエールに味方して彼女から取り上げてしまいます。
また二人で着飾って旅行気分で戦場に出かけたり遊び歩いてイザベルをないがしろにします。

フランスのカトリーヌ・ド・メディシスとよく似てるパターンだけど
相手が男なだけにやりきれないですね

追放になったピエールと王が一緒に逃げ出したり、スコットランドに大敗したりして
とうとう国内が反国王に傾き始めた頃、イザベルは愛人マーチ伯と、
皇太子を伴ってフランスに渡り、エドワード2世廃位の機会をうかがいます。

1326年にイングランドに攻め込んだイザベル一行は
待ちわびていた反王派の助けもあって、2ヶ月ほどで王を廃位に追い込みます。

さて、廃位となったエドワード2世ですが、幽閉中に謎の死を遂げてしまいます。
これはイザベルとマーチ伯の差し金だったことが明白でした。

15歳の王エドワード3世の母イザベルとマーチ伯は
王が幼いのをいいことに女王と国王のように振る舞っていました。
しかし、エドワード3世が18歳の時無断で処刑をしたとして怒りをかい
マーチ伯は極刑、イザベルは幽閉となり、以後28年間閉じ込められたまま暮らしました。

もしエドワード2世が父王のように愛情深く頼もしい夫だったら?
イザベルはこんな風にならなくてすんだのかもしれませんね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

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イングランド王エドワード1世妃 マーガレット

2008-10-15 00:50:32 | イングランド王妃・王女
歳の差を越えた愛
エドワード1世妃 マーガレット・オブ・フランス


1282~1317/在位 1299~1307

前妻であるエリナー・オブ・カスティルをとても愛していたエドワード1世なのでしたが
政治的戦略から9年後にフランス王フィリプ3世王女マーガレットと再婚します。

      

ちなみに、系図からはイングランド同様フランスも
ブルグント王国との関係を重要視していたことが伺い知れます。

さて、再婚した時、エドワード1世60歳、マーガレット17歳
幸せな歳の差カップルの方はたくさんいるかと思いますが、やはり驚く

当時はよくあったことかもしれませんが、やはり可哀想だと思ってしまいます。
(誰だか忘れちゃったけど、すごく年上の王と結婚させられて
 早く死んでもらいましょうと、連日連夜ダンスをさせたという王妃がいました)

でもマーガレットは違ったみたい。
エドワード1世とマーガレットはとても幸福だったようで
厳格な王の怒りを鎮めることができるのは、マーガレットひとりだったようです。
しかも子供も3人生まれてますよぉ エドワード1世、頑張りやさん!

彼女は2歳年上の義理の娘メアリー(後に尼僧になります)とは固い友情で結ばれ
2歳年下の皇太子エドワードやその友人たちを
父王の怒りからかばってあげるなどしていました。

皇太子は感謝の気持ちを込めて、マーガレットに高価な指輪を贈ったとされていますが
もしかしたらマーガレットのことが好きだったんでしょうか?

もし、妻になったのがマーガレットだったら、後年の彼の不幸はなかったかしら? 
それともマーガレットが甘やかしたために
愚かな王になってしまったのかしら? 悩むわ・・・

26歳でエドワード1世を亡くしたマーガレットですが、フランスへは帰らず
「王の死は私に全ての死をもたらした」と言ってモールバラ城に引きこもり
10年後に亡くなりました。

エドワード1世は賢王の誉れ高い王ですが、二人の王妃にこんなにも愛されるとは
人としてもとても立派な人だったんでしょうね
何より、王自身が王妃をとても愛したことが
二人の王妃にとってはこの上ない幸せだったに違いありませんよね

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

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イングランド王エドワード1世妃 エリナー

2008-10-15 00:50:08 | イングランド王妃・王女
12の十字架を残した王妃
エドワード1世妃 エリナー・オブ・カスティル


1241~1290/在位 1272~1290

エドワード1世とエリナーの結婚はカスティーリャ&イングランド両国にとって
フランスを牽制するための政略結婚でした。

           

エドワード1世同様、ヘンリー2世の血を受け継いでいるエリナーですが
最初ブルグント家では、ナヴァール王テオバルト2世に嫁がせるつもりでした。
しかし、それがうまくいかずエドワードとの結婚になりました。

それでも二人の中は極めて良かったらしく、エリナーにとっては良い結果だったのかも

36年余の結婚生活の後、王位継承などの件でスコットランドを訪れる途上で
エリナーは急死してしまいます。
エドワード1世は旅を中止しロンドンへ戻りますが
その際エリナーの棺とともに宿泊した場所に “ エリナー・クロス ” と呼ばれる
十字架の塔を建てました。

               
             (現存するエリナー・クロスです)

こんなに美しい塔を12も建てるなんて
エドワード1世の、エリナーへの深い愛が伺い知れますよね

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

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イングランド王ヘンリー3世妃 エリナー

2008-10-12 08:50:35 | イングランド王妃・王女
イギリス人嫌いのイングランド王妃
ヘンリー3世妃 エリナー・オブ・プロヴァンス


1224~1291/在位 1236~1272

9歳で王になったヘンリー3世は、29歳の時にプロヴァンス伯の娘エリナーと結婚。
エリナーはこの時12歳です。
ちなみにエリナーの姉妹はヘンリーの弟コーンウォール伯リチャードと結婚しています。

この、兄弟姉妹同志で結婚するパターンは多いですよね。
どの国がどの国との国交に力を入れていたか、あるいは敵対していたかが
王侯貴族の結婚から伺い知れます。
       
       

ヘンリー3世自身は外国人(主にポワトゥー人)嫌いだったらしく
国内でも権力を持つ外国人への反感は大きかったようです。

そんな中、エリナーは輿入れに4人の叔父(サヴォイ人)を同道し
その人たちが居座ちゃった上に、その家族が要職を得たりしたことで非難を浴びます。

そんなことを知ってか知らずか、エリナーはイングランド人が嫌いで
サヴォイ人やポワトゥー人ばかりを相手にしていたため非難に拍車をかけてしまいます。
のんきというか意識が足りないというか

でもどうでしょう?
12歳で外国へ(それもしょっちゅう戦争してる相手の国へ)嫁がされて
すぐに王妃になり、“ 王妃としての自覚を持ちなさい ”と言われてもねぇ・・・

それに彼女は輿入れから3年間子供ができなかったということで
いろいろと噂されたらしいんだけど、12歳だってば
そんなことが余計彼女を頑なにしてしまったんじゃないでしょうか?

教育によるものか、本人の資質によるものか分かりませんが
王妃として外国でも立派にやっていけるタイプと、適応できないタイプがいますよね。
後者で有名なのはマリー・アントワネットとかエリザヴェータなんか。

世が世なら国の崩壊の一因になってしまうかもしれない王妃の立場。
12歳の肩には重すぎますよね

しかし、そんな彼女も家族への愛情は強かったみたいで
長男エドワードが病気で死に瀕した時には、3週間修道院で祈ったりしています。
また、ヘンリー3世の死後もフランスに帰らず、子供や孫に囲まれて暮らし
孫息子ヘンリーを看護し死なせた時には心底悲しんだようです。

フランスで普通に結婚していたら、良き夫人となって
いらざる非難を浴びることはなかったっかもしれませんね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

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イングランド王ジョン妃 イザベル

2008-10-11 03:02:49 | イングランド王妃・王女
               こちらはイザベル・オブ・アングレーム

王妃になれなかった妻
ジョン妃 イザベル・オブ・グロースター


?~1217/在位せず

ヘンリ-2世の末子ジョンは、父親には溺愛されていましたが
母エリナーや父王が持つ広大な領土は、すでに3人の兄たちに分けられた後でした。

そこで父王は、祖父ヘンリー1世の婚外子グロースター伯領の女相続人である
イザベルに目をつけます。

      

しかし、彼女は素行が悪かったらしく、近親関係にあるという理由で離婚されます。
彼女は王妃になれなかったばかりか、爵位や領土まで召し上げられてしまいます。
これはヒドい
結婚が無効なら、彼女のもののはずじゃないか!
無一文てことはないと思うが、裸同然で放り出されたようなもんです。

彼女は爵位も領土も失ったけど、次々と有力者と再婚してます。
よっぽど魅力的だったのではないかと・・・



ロマンティックな再婚をした
ジョン王妃 イザベル・オブ・アングレーム


1188~1246/在位 1200~1216

イザベル・オブ・グロースターと離婚したジョン王は
さっさと2度目の妃を迎えますが、その時相手のイザベルは12歳

       

彼女は婚約者もいたのですが、むりやり21歳も年上のジョン王と
結婚させられてしまいます 。

婚約者であったラ・マルシュ伯子ヒューは激怒
彼がおこした内乱が、フランス対イングランドの抗争にまで発展します。
(もともとフランス側にはジョンの即位に異を唱える貴族が多かったのです)

イザベルはジョン王との間に二男三女を産んでいますが
28歳の時に王が亡くなると、以前婚約者であったヒュー・ル・ブルンと再婚します。

もし、ヒューが結婚しないで16年間彼女を待っていたとしたら
かなりロマンティック
残念ながら、分からないんですけど・・・

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

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イングランド王リチャード1世妃 ベレンガリア

2008-10-09 19:07:15 | イングランド王妃・王女
一度もイングランドを見ていない
リチャード1世妃 ベレンガリア・オブ・ナヴァール


1174~1236/在位 1191~1199

リチャード1世はフランス王女アレと婚約していましたが
どうやら父であるヘンリー2世に寝取られちゃったらしい・・・
(ちなみにアレは、母であるエリナー・オブ・アキテーヌの前夫ルイ7世が
 再々婚してできた娘です。グチャグチャですな

   

リチャードは、その時は婚約を破棄しなかったんですが、王になった後
十字軍遠征の途上で、いきなりナヴァール王女ベレンガリアと結婚してしまいました。
(ちなみにナヴァールは、当時分かれていたスペインの一国)

その理由としてあげられているのは、アレの兄であるフランス王フィリプ2世と
リチャード1世の仲が、十字軍遠征途上で険悪になってしまったからということです。

でも、もしかしたら父親が手を出しちゃった相手なんかいやだなぁ…
って思いもあったんじゃないかしら。

それにリチャード1世は、以前ナヴァール宮廷を訪ねた時からベレンガリアが好きだったらしく
チャンスを狙っていたという説もあります。

いずれにせよ、母エリナーがナヴァール宮廷からベレンガリアを連れ出し
(なぜ母親が十字軍遠征に?)二人はめでたく結婚したということです。

リチャード1世は十字軍に参加したりオーストリアで幽閉されたりで、
在位10年間でイングランド滞在期間はのべ6ヶ月(王ですよ
戴冠の時と、弟ジョンが反乱を起こした時に帰国しただけです。
したがってその後結婚したベレンガリアは結婚生活8年間で
一度もイングランドを訪れませんでした。

ベレンガリアは25歳で未亡人になっていますが
宗教生活に入って再婚はしなかったようです。

しかし、ハタと気がついたが、二人が結婚した時、ベレンガリアは17歳で
リチャード1世と17歳差ですけど、青年時代に見て恋したって、いくつの時の話し?
25歳くらいの時に8歳の子を見初めたってこと?
それじゃあロリロリじゃないのぉ

王家に生まれるっていうのも幸福なことだかどうだか・・・
そんなオジさまに好かれちゃうなんてね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

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イングランド王ヘンリー2世妃 エリナー

2008-10-09 01:20:59 | イングランド王妃・王女
フランス王妃からイングランド王妃へ
ヘンリー2世妃 エリナー・オブ・アキテーヌ


1122~1204/在位 (フランス王妃)1137~1152
          (イングランド王妃)1154~1189

彼女、フランス王の3倍の領土を持ってました
だから、美しかったのかどうかは別にして求婚者多数だったようです。
そんな中から彼女が選んだのはフランス王太子ルイでした。

      

天も味方するというかなんというか、そのルイとの婚礼の日に
王であるルイ6世が亡くなり、エリナーはいきなりフランス王ルイ7世妃になります。

しかしながら、莫大な領土と富を持つ家庭のお嬢様として
贅沢三昧に育てられた彼女ですもの、案の定傲慢な女に成長しちまいまして
「欲しい物は欲しいのよ! やりたいことはやるのよ!」とばかりに行動したため
離婚する事になります。
(離婚理由は、当時の貴族お得意の『縁戚関係があったため』ですが
 いったいこの時代、有力貴族で縁戚のない家なんてあるのかね?)

一番有名なエピソードは、初恋の人で叔父にあたるアンティオキア公に会いたいばっかりに
十字軍についていき、少しでもそばにいたいと駄々をこねて作戦まで変えようとしたこと。
アンティオキア公となにかあったかどうかは分かりませんが
これが二人の間の亀裂を大きくします。

でもさすがは広大な領土持ち
離婚後の彼女にも求婚は殺到し
結局離婚3ヶ月後にイングランド王候補、ヘンリーと再婚します。

一説には離婚に先立つ事3ヶ月ほど前、ヘンリーが臣従誓約のためフランスを訪れた際に
エリナーが見初めたといわれてますが、本当にそうだとしたら
アグレッシブな女性ですよね

では結婚後は?というと、世継ぎの男の子も次々と生まれたんですけど
広大な領土の譲渡を巡って二人の間に溝が生じ
家族間の争いからフランスを巻き込んでの抗争にまで発展します。

加えて11歳年下のヘンリー2世は愛人がいて、これが息子たちの反抗心を煽ったとも
いわれています。

有名な愛人はフェア・ロザモンドで、実在はしていましたが
エリナーが暗殺したというのは嘘みたいです。
ただ、ロザモンドの墓を掘り起こし遺棄したのは彼女の指示だったらしい。
おそろしいよぉ

ヘンリー2世が息子たちとの争いの心労から逝去した後は王母として長生きし
末弟で最愛の息子イングランド王リチャード1世の死後隠居して82歳で没しました。

ところで、当時の資料で残っているエリナーの肖像はコレ

              

上の肖像画とは似ても似つかないが、プリミティヴでいいですね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』
      福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』
      桐生操氏『世界悪女大全』)

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有名な歴史上の女性が満載
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イングランド王スティーヴン妃 マティルダ

2008-10-07 00:48:11 | イングランド王妃・王女
初代イングランド女王即位を阻止した
スティーヴン王妃 マティルダ・オブ・ブーローニュ


1103~1152/在位 1135~1152

「ちょっと、あんた! 話しが違うじゃないのっ 」と
怒ったかどうかは知りませんが、スコットランド王マルカム3世の娘メアリーを母に持ち
イングランド王ヘンリー1世妃マティルダの姪にあたるマティルダ・オブ・ブーローニュは
ヘンンリー1世の娘マティルダを破って夫スティーヴンを王にした豪傑。

       

ここから “マティルダ” でややこしくなるから気をつけてっ!

先王ヘンリー1世は息子二人を失ってから、甥のスティーヴンに王位を譲る約束をしますが
娘のマティルダ皇后が未亡人となって帰国したことから娘への王位継承を画策します。

そこで奮起したのがスティーヴン王の妻マティルダ・オブ・ブーローニュです。

とにかく夫を王位に就けるべく、人質になったり、囚われの王スティーブンを助け出したりと
『ランボー』なみの活躍です。

ただ、当時は女性への王位継承というものに反対する貴族が多く
その後押しを受けたというのはあるかもしれません。
マティルダ皇后は女王の宣言を出しますが、貴族の反対にあって
戴冠をしないまま敗退してしまいます。

ちなみに、マティルダ皇后(神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世未亡人)はこんな感じのお方。

              

ドイツでは人気があったらしいんだけど
イングランドではいまひとつだったんですって なぜかしら?

最終的には、マティルダ皇后が再婚したアーンジュ伯ジョアフリーとの間に生まれた
ヘンリー(2世)へ王位を継承するということで丸くおさまりましたが
もし、1153年にスティーヴン王とマティルダの一人息子ユースタスが
若くして亡くならなかったら、事情は変わっていたかもしれないですね。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『英国王妃物語』)

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イングランド王ヘンリー1世妃 マティルダ

2008-10-06 00:16:42 | イングランド王妃・王女
慈悲深き王妃
ヘンリー1世妃 マティルダ・オブ・スコットランド


1080~1118/在位 1100~1118

未婚だった兄王ウィリアム2世の逝去によりイングランド王になったヘンリー1世の妻
マティルダ・オブ・スコットランドはサクソン王エドマンド2世の曾孫にあたることから
イングランド人の人気を得たかったヘンリー1世の目に留まります。
よそ者の王様の苦労が伺えますね

      

マティルダは父であるスコットランド王マルカム3世が戦死したため
叔父を頼ってイングランドへやって来て、修道院で暮らしていたのですが
ヘンリー1世に見初められて王妃になりました。
(マルカム3世は、有名なマクベスに父王を殺され、仇をとって王になった人です)

修道院で暮らしていただけあって信仰心は厚く、慈悲深い人だったようです。

ヘンリー1世はかなりの好色で、愛人は少なくとも6人、婚外子は20人
のぼったらしいんですが、マティルダとの間に生まれた二男二女のうち
次女マティルダ以外は全て死亡してしまうという不運にあってしまいます。

愛人の娘が自分の兄であるスコットランド王アレグザンダー1世の妃になるって
どんな気持ちなんでしょうね? 複雑だったのかしら? 
当たり前だと思ってあきらめてたのかしら?
私には理解不能です



存在感がないのですけど・・・
ヘンリー1世妃 アデライザ・オブ・ルーヴァン


1102~1151/在位 1121~1135

肖像画が見当たらないんですよね
さしあたって有名なエピソードはカール大帝の子孫だっていうくらいで・・・

19歳の時に、マティルダを失った53歳のヘンリー1世と結婚しています。
完全なる政略結婚(どんな政略かはわかりませんけど)。 可哀想に

子供はおらず、ヘンリー1世の没後アランデル城に隠居し、
その後アランデル伯ウィリアム・ドゥ・アールビーニーと再婚しました。

文学の奨励に励んだらしいですが、この頃のイギリス文学って何があったかしら?
叙情詩とか、そんな感じですか?

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』『スコットランド王国史話』)

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イングランド王ウィリアム1世妃 マティルダ

2008-10-04 13:12:37 | イングランド王妃・王女
初代イングランド王妃
ウィリアム1世妃 マティルダ・オブ・フランダース


1031~1083/在位 1066~1083

以前どっかで、趣味は家系図と書いたんですけど
作成した家系図がなんの役にもたってないので、(たたないか
家系図をもとに女性の歴史なんかを、ゆるゆるとひもといてみようかと思いました。
最初に家系図を作成したイングランドからスタートしようと思います。

英国王室史の中では、ウイリアム1世からが正式な王となっていますが
ウィリアム1世はフランスからやって来た王様で
それ以前はアルフレッド大王やエドワード王などサクソン系の王が
イングランドを(一部だけど)治めていました。
デーン人(デンマーク系)の王が治めたこともあります。

マティルダ・オブ・フランダースは5代さかのぼると
アルフレッド大王の娘エルフトリュードにたどり着きます。
ヘンリー1世は、マティルダのその血筋に目を留めます。
     

自分のイングランド王の地位を強化すると同時に
イングランド人のご機嫌もとっちゃおうという作戦です。
(ウィリアムは最後のサクソン王ハロルド2世を破って
 イングランド王になりました。エドワード王はハロルド2世の義兄)

ウィリアム1世はイングランド王でありながら、当然ノルマン公でもあるわけで
イングランド統治に忙しい夫に変わり、マティルダがノルマンディーを治めます。
あまり一緒にいる時間はなかったのかしら

彼女の功績として大きく取り上げられている『バイユーのタペストリー』

         

ウィリアム1世がイングランド王になるまでの活躍を綴った
70メートルにも及ぶタペストリーは、史実に忠実かどうかは別にして
時代考証には役に立ってるみたいです。

タペストリーって織物でしょ?
一人でぎっこんばったんやったわけじゃなくて、沢山の人がかり出されたとは思うけど
皆に混じって王妃が織ってたら素敵ですよね
ハンドクラフトの醍醐味は、自らの手で作り上げる事ですからね。

ウィリアム1世の不在に加えて彼女は悩ませたのは、たぶん長男ロベール。
戦国の世の習いとはいえ、王位を狙って父親に反抗して軍をおこしたり
父親に傷を負わせたり。
結局彼は弟であるヘンリー1世に反乱軍をおこしますが、王位には就けず
哀れな末路をたどります。
マティルダはそれを知らずに亡くなって幸せだったかも・・・

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
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コメント (1)
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