このゴールデンウイーク中に母の姉の主人が亡くなった。 私も母も血のつながりはなく、私は幼頃から、親戚の集まりなどではたまに顔をあわせては声をかけてくれるいいおじさんでした。
私の母も痴呆に入り、徘徊こそしなものの、今言ったことはすぐに忘れるし、日にちの確認は一日に何回もしなければならない。先日も近所で迷子になり、電話番号は覚えていて、知らない家か電話がかかり、「お宅のお母さん道に迷ったみたいで・・・送っ行きます」と親切に、母を送っていただいた。そんなことで、私は母に・・「桂のおっちゃん亡くなったそうやで・・」と告げた。
一瞬何のことか判らなかったみたいで・「へぇー」と言ってそのままなんかしていると、「誰が亡くなったん?・・」と聞いてくる。三回くらい同じ事を繰り返したのち、「通夜とお葬式・・どうすると?・・」とたずねると、「こんな状態やから・・行くのはやめておくは・・」と言う。私はそれを真に受けて、一人で通夜と葬式に参列する旨を親戚に告げた。
しばらくして二階で洋服ダンスを開けたり閉めたりする様子があった。
そして・・・今からすぐにでもいける用にと、喪服を鞄にいれて居間に降りてきた。
「通夜と葬式・・行くのか?」と再度聞くと、「そら私の実の姉のご主人やから・・いかなあかん・・」と言う。
判ったと・・返事をして明日の夜から一泊しなければならないことをゆっくりと言い含めた。
母の実家に泊めてもらうことは出来るが、京都までいくのに誰か付いていかなければならないので、私が母と一緒に行くことにした。私は深夜バイトがあり、通夜が終わって深夜バイトに行き、翌日の葬式に出るためと、母を迎いに行く為に次の日に、また京都に行けばいいのである。
母と電車に乗るのは本当にひさぶりである。
2年前に大腸癌の手術をしてからは体重が戻らなく、やせたままここまで来ている。
母は、ビニールの鞄に喪服を入れ、手には何時も銀行や役所に行く時にもつ、見るからに偽物のLVのパッチもんのバックを下げていた。手には指輪の一つもない。年配のおばさんたちが葬式の時にするような真珠のネックレスもない。黒い低いパンプスに、派手なプリントの水色の靴下が、子供ぽく印象的だった。ゆっくりと景色を見ながらの電車からの風景・・・かってこの路線を何回も乗っていた母の脳裏には何が映っていたのだろうか・・
通夜も終り・・とりあえず親族が集まり、葬祭会館での食事になった。
見る人見る人に・・「ちょと忘れぽなったから・・誰どした・・と聞きながら」
「ああああ・・・テルちゃん・」 テに発音が集中し、ルが下がる上賀茂なまりで話している。
故人も82歳での逝去であり・・悲しさの中にもどことなく朗らかさがある食事会になった。
母も喪主の姉の横に座らせてもらい・・・昔話しに笑いながら・・楽しいひと時を送っているように見えた。
桂のおじさん・・・こんな時にしかもう顔をあわせることが出来なったことが寂しく思います。
祭壇のお花や、参列者の方々を見ていると生前、本当に立派にまじめに生きてこられたのだろう・・と思いました。実は3年ほど前に母が入院した時、おじさんが黙ってお金を母に渡してくれました。
私はそのお礼も出来ずにいました。
・・また母の毎日の平凡な生活に、このようにアクセントをつけていただいた、このお葬式も、母には久々の自分のルーツの確認と、あの頃の昔話に夢中になれたことで気持ちが癒された思います。、
おじさんの葬式でこんなことを思うのも申し訳ないのですが、亡くなっても周りの人に気を使うその気遣いに・・改めてありがとうございますと心から手をあわせます。
亡くなったおじさんは、京都の市電の運転手でした。小さいころからそれは印象ににあります。
でも・・私も周りの従兄弟も(家族の方は別として)その市電の運転中の姿は見ることが出来ませんでした。というよりそのお姿を目に焼き付けることが出来ませんでした。
もし・・幼い私がその姿を運転席の後ろから見つけたら・・・感激していたことでしょう。
市電が通過するたびに・「おっちゃんおれへんかな?・・」と一人探したことを霊前に報告します。
市電が廃止され、バスのほうに移った時にはもう・・・私も生意気な人間になってましたので、それ以上の思いはありませんが、京都市交通局を定年まで勤められたことに本当に尊敬をいたします。
深夜バイトを終え、母を迎えに行きました。
上賀茂の実家で一晩過ごした母は、もう代替わりのしたその家で唯一、あの頃のことを知っている、おばさんといつまでも、半分かみ合わない話をしながら・・・笑っていました。
家や店が沢山建って、すっかり変ったけど、玄関をでて、北側の大田神社の後ろの山は・・・
「変らんへんわ・・」と言っていました。
そして・・・喪服を入れた安物のビニールの鞄と超安物のバックを持って歩きはじめました。
後ろ姿は、もうすでに亡くなった母の長兄の歩き方にそっくりでした。
「また・・おいでや・・」と上賀茂の里の方の優しい声に、50年ほど前にここから嫁いだ日のことが
薄っすらと賀茂の風と共に、母の思い出としてよみがえるのでしょうか?
それとも、黒いパンプスに水色の靴下が・・・ 戸田家7人兄弟の末っ子、で、おてんばだった少女に一瞬
戻れたのでしょうか?