とにかく生きてみる。それも濃く生きてみる。今回からさらに濃く生きてみるを付けた。というのも、深夜バイトのやめ時を自分で決めかねている。長い放浪の旅はそれを始めるより、終わりを決めるのが難しいというが、刑務所に入ったつもりで、2年間は働けばといってくださった方の言葉に支えられここまで来た。そして体力的にもすっかりなれたし、職場の方たちとも抄くなからずもの信頼関係も持ち始めてきた。それでもこの深夜バイトをやめようとしているのは何故か?もう一度しっかりと自分に向きあって考えるべきである。やめたところで確実な収入の道があるわけでもなく、それはただただ、自分のエゴからきているものかもしれない。しかしずーとずーと心の奥に、「これじゃ死に切れんやろー」という思いがある。それどいったい私は何をしたいのか?が未だに見つけられず、その力のベクトルもかなり他方向に分散している気がする。
そこでだ、今回からとにかく生きてみるというテーマと共に「濃く生きる・・」というサブテーマーを付け足した。これからの人生、そんなに時間がるわけでもないのだから、毎日毎日を濃厚に生きてみて、そこで気づくもの、や出会う人や、起こる現象にしたがってみようと思う。そしてとにかく生きてみるブログを、今までの人生の禊という意味で、ラスト108回にしてみることにした。
108回を終える時、私は深夜バイトを辞め、必ず次のステージに行くことを自分に誓おうと思う。
108回の禊にブログは私の思ったことや、心の琴線に触れたことや、生涯大好きな女性とそのエロチックな可愛さなどを、書いて見たいと思う。それは自分のすべてや、身内のことを曝け出すこととなる。失礼な言い方になるかもしれないが、ストリップダンサーよりも、恥ずかしいことをするのだ。
そしてその108話を自分自身に対するこれまでの人生の禊として、感謝を込めて書き、次のステージに登場したいと思う。
ただ、そんなことをしたところで、何変わらないかもしれないし、変わるかもしれない。
ただそれまでは、とにかく生きてみよう・・・濃く生きてみようと思う。
ゴールデンウイークの野菜配達は、忙しさの極みである。各地の行楽地や繁華街へ集まる人達の外食が増えるのだろう。それは普段のスタッフの1.5倍の人員を持ってまでも、時間内に収まることはない。これは毎年この時期になれば必ずやってくる「祭り」見たいなものである。
そしてその時期普段会わない方や、退職され、超繁忙期のみに借り出された方たちとの懐かしい、プチ非日常が出来るのだ。忙しい時間の中で、何処となく楽しそうに作業する姿があちらこちらにある。この時期を迎えようやく、深夜バイト連は初夏を感じるのだろうか?
とにかく時間に追われ、忙しい中でも笑顔と冗談がとびかう深夜バイトは、祭りになっている。
その祭りのような雰囲気中で、午前3時を過ぎたくらいから妄想タイムに入っていく私がいる。
「祭りやん・・・これ」と思ってから、しばし祭りの後は、何故かさびしくなることを思いだした。
沢山の親戚や、近所の人が一人、二人と帰ってしまうと、今までいたところに急に、仏壇が目につきだし、はしら時計のカチカチと言う音がやけに耳につくようになる。残った母屋の人もため息をついたり、祭りで振舞われた、ご馳走を皿に小分けしたりして、落ち着きをとりもどそうとしている姿があった。私は子供心に心がきゅーとなる寂しさを感じたものだ。そしていつのころから、祭りの後のこの寂しさが一番心の風景に残るようになった。
そして、もう私の頃の時代ではなかったが、祭りのあとの男女の宵伽みたいな風習がこの国にあることを本で知った。高ぶった気持ちをそのままHまで進行していく祭りのおおらかさと、普段そんな出会いを恥ずかしいものと教えられながらも、その祭りの夜は密かに期待して薄化粧をしたり、部屋の戸を少し開けておいたりする、普通の娘さんのなんて可愛いらしい様のことや、100%確定のHでないけれども、ホローの風が吹いている今夜、女の寝床に忍び込みナニをするぞ!!と息巻く男衆の鼻息にも、憧れをもっていました。
ところが・・
深夜バイトの祭りが終わるとその高揚感につられて、今夜一発夜這い攻撃とは・・・・
往かないものか?など考えをめぐらしていました。うぅん・・・「今夜の夜這いではなく、ここでは朝からの夜這いになる・日が昇ればその幻も消えてしまかもしれないぞ・・・・」と思いながら、ひたすらキャベツの皮をむいていました。この祭りの高揚感は、ただただ疲れにしか変らないのだと思いながら・・・・
私は幼いころから、京都市の北のはしの上賀茂に預けられていた。両親が大阪で商売をやっていた関係で、祖母のいる田舎にいることが多かった。当然上賀茂の祭りにも参加させていただいていた。しかしやはりそこはよそ者であり、子供心にしっくりと祭りに溶け込まれなかったのが今でも記憶に残る。普段その田舎で遊んでいる子供連中以外にも多くの同い年に近い子供がぞろぞろと集まてくると、そのローカルパワーに圧倒され始めるのだ。大人たちは、地元の子供とおなじような半被姿や、大札や、抽選くじを私にあてがってくれるのだが、やはり何処入れないなじめなくなるような気持ちになった。普段預けられ先では、腕白坊主でかなり近所では名前が通っていたにもかかわらず、完全なアウェイー感が私にふりかかる。
本当に祭りに入り込めない幼い私がいつもそこにいた。そしてそれを感じとられないように、いかにも祭りを楽しんでいますよう!!的な態度をとるようにしていた。これは自分の弱さではないか?とその時いつもそう思った。しかし、何故祖母のいる田舎でも祭りに心底楽しめなかったのかは?という問いは今になって判ったような気する。
ようは・・私はなんぼ祖母の家、私の親の里であっても、そこに土着していないからのだあり、
町内を流れる川も懐かしく、今での遊んだ思い出がすぐにビジュア化されるし、近くの神社や、お菓子屋、などもそこを歩く度に、素晴らしい夏休みの思い出がよみがえる。
でも・・私は土着感はもてなかった。それは・・・楽しいことばかりだったからあろうと思う。
流れる川も、ローカルの子供には、嫌な思いでも沢山あるだろうし・・神社の風景では、近所に住む怖い人との接触なしではいかなかっただろうし・・・私が懐かしいと思う風景にも、地元の子供は恨みや恐れを持って生きてきていたのだ。だからこそ年に一回の祭りが、それに畏敬を抱き感謝を持つことになり・・・祭りの主役として生き生きと振舞えたのだろう。
今でも私はここに、この場所で死んでいくんだという土着意識がない。
旅芸人のように・・何処に行き、何処で果てるやらと言う意識でいきている。
流れ者というカッコいいものでもない・・ようは根がはえていない生き方でしかない。