SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画「青空のゆくえ」 ~ 東京にも空がある

2005年12月12日 | 映画(ア行)
 都心に近い中学の、3年生最後の夏休みを描いた作品。

 バスケ部のキャプテンをやっているクラスの中心的な生徒の転校が決まったことで、微妙に心が揺れ動きながらも絆を深めていく生徒達が等身大で描かれており、その姿は懐かしいと同時に、いとおしくもあり逞しくもある。
 「最近の中学生は・・・・」と構えてしまう人は是非一見を。彼らのこういう若さのあり方も悪くないものに思えてくるはずだ。

 話の核になっている淀みのような「謎」は一応落着はするものの、彼らの心の中で永久に消えることのないトラウマになっていくんだろうなあ。

 東京にもまだ青空があるんだと再確認できる。

映画 「ラヴェンダーの咲く庭で」

2005年12月10日 | 映画(ラ行、ワ行)
 ジュディ・ディンチとマギー・スミスの熟練アンサンブルにダニエル・ブリュールの気品ある若さが加わって、よく出来た大人の童話の趣がある作品。

 漂着した若者は記憶を失っているわけでもなさそうだが多くを語らないし、束の間のときめきの時間を失うのが怖くて老姉妹も聞きただそうとはしない。その中で小さなさざ波が生まれ若者のシンデレラ・ストーリーへとつながるが、作品全体としては老境の孤独と若さへの追想が胸に迫る。

 短編小説がベースになっているようだが、多くを語り過ぎないよく整理された脚本でハリウッド饒舌映画の対極にある。

映画「TAKESHIS'」 ~ 多重人格者の世界観

2005年12月09日 | 映画(タ行)
 F・フェリーニやウッディ・アレンの作品にはタイトルに「・・・・の」と監督名が冠される作品がいくつかある。
 本作のタイトルは「'」の位置からいうと複数のTakeshiたちの・・・・ということになる。Takeshiたちの何なんだ?というと「Takeshiたちの映画」ということだろうか。いずれにしても名前が売れていないことには付けられないタイトルである。

 一言で言うと、画家が自分のパレットを公開したようなものだと思う。それが作品かどうかは別として、創造の源であり、ひょっとして創造の秘密が発見できるかもしれないことは確かだ。
 そこから筆で一色ずつ画布に塗りつけていく、その筆のタッチと色の混ざり具合いの面白さを楽しめるかどうかが本作評価の分かれ目であろう。

 意図した色もあれば偶然混ざり合って出現した色もある。だけどそれらをひっくるめて北野ワールドなのである。
 映画に出てくるのは二人のTakeshiだが劇中劇の役柄も含めてもっと多重人格化した、まさにTakeshisの世界である。

映画「青い棘」 ~ 鑑賞環境の??

2005年12月08日 | 映画(ア行)
 実際の事件がモチーフになっているらしいがその経緯や主人公達の背景、動機など掘り下げていないので良く分からないまま終わってしまう。
 題材、配役からいってもまだまだ面白くなりそうなのに・・・・。

 ある時代にこもった熱気を描いていて画面から当時のデカダンな雰囲気が漂っており、現代の映画というよりも70年代のニューシネマのような感触である。

 あまり物語りに没入できなかったためか上映中の劇場が暗くないことが気になった。
 特にスクリーン左の非常口の上に設けられた避難口表示が、一応暗めにはしてあるようだが、それでもスクリーンを照らし、明るい場面は気にならないものの暗い画面の多いこの映画の効果を損なっていることに対して、それなりのこだわり作品を上映する劇場にしては・・・・と気になった。

ハリー・ポッターと炎のゴブレット ~ 娯楽大作?

2005年12月07日 | 映画(ハ行)
 年齢制限がある対抗戦の選手として、出場できないはずのハリーがなぜか指名されてしまう。

 それはどういう目的で誰が仕組んだものなのか?というのが本筋だが、映画はもっぱらその脇筋である対抗戦の模様をじっくり見せてくれる。3種目の戦いが見事な撮影で2時間半の長尺があっという間に終わってしまう。

 ただよく考えると、その「目的」のためにこれだけ大掛かりな仕掛けが必要なのだろうかという気にはなってくるが、ここは素直に楽しんだほうが良いだろう。

 多くの新しいキャラクターが登場するにもかかわらず、いずれも描写が淡白で人間的な魅力が感じられないのが惜しい。スペクタクル度に比べてドラマの弱さは否めない。

 また全編を通しての暗い色調も何とかならないのだろうかと思ってしまう。少なくともクリスマスシーズン、子供も見に来る娯楽大作でアート系作家のフィルムではないのだから。
 もっとも監督のマイク・ニューウェルはイギリス人でフィルモグラフィーを見る限りハリウッド型娯楽大作の監督ではないのだが。

「クロノス」 ~ キャラメルボックス公演

2005年12月06日 | 音楽・演劇・美術・文学
 
 人気劇団キャラメルボックスの公演だというので、まったく予備知識のないまま「クロノス」という芝居を見に行った。

 ロビーで原作本、梶尾真治著「クロノス・ジョウンターの伝説」が販売されていた。人の名前にしては奇妙な・・・・などと考えていたら、これがタイムマシンの名前であった。
 ただし過去に人を射出すると間もなく、それ以上の力で引き戻すという機械。現在にではなく未来に帰ってしまうわけだ。
 3つの短編の連作になっておりその内の一つが今回の舞台化作品。

 乙一の小説もそうだがタイムトラベルものは切ない要素がからんでくる。距離的な隔たりならともかく、何十年、何百年という時間に隔てられていると愛し合った二人は二度と逢えないか、再びあった時の年齢差は浦島太郎状態になってしまう。
 読者あるいは観客としては何とかしてあげたいと思うが、作者もそこを考え抜いてくれているのが良く分かる。 

 キャラメルボックスは来年、残りの2作を2本立てで舞台化してくれるそうだ。

英語劇 「マクベス」

2005年12月05日 | 音楽・演劇・美術・文学
 週末に日本人の演じる英語劇を見に行った。シェークスピアの「マクベス」。「米語」ではない「英語」だし、それも現代英語ではないので、分からないことを覚悟の上での鑑賞である。

 学生ESSの出し物なので演劇集団ではない。
 演劇は台詞が聞こえることが最低条件だから、舞台の上の発声が客席でどう聞こえるのか押さえておく必要がある。「よく通る声」は必ずしも「大きな声」を意味しないが、アマチュアがそこを誤解すると「叫び声の演劇」になってしまう。

 2時間を越える大作で登場人物も多かったが数人を除いては、声は十分大きいのに結局何を言っているのか、一つの台詞の中の一つの単語も聞き取れない人がいた。
 こちらの英語力がそもそも問題な上に役者としての発声訓練がなされていない問題が重なってしまった。せっかくの熱演なのにやたらと疲れたという印象のみが残った。

 外に出るとキャンパスの銀杏並木が雨に濡れていた。今年は黄葉が遅いので半分ほど散った状態。地面が落葉でカバーされ、枝に残った黄葉がアーチ上に続いて、視界は雨に潤んだ夕暮れの大気の中で黄色に染まっていた。

 芝居の中以上の夢見るような光景は現実の中にあった。

「眠れる砂漠」 ~ 学生演劇に「感動した!」

2005年12月02日 | 音楽・演劇・美術・文学
 先週末、ある大学の学園祭で学生演劇を見た。タイトルは「眠れる砂漠」。
 大変に良く出来ていた。パンフレットも普通配られる「ビラ」どころではない全8ページのカラーコピー版、と熱が入っている。

 何回かの公演が組まれているわけではなく、ただこの日一度だけの公演のために学生達はすべてをかけている。

 解説を読むと原作にかなりの改変が加えられているらしい。そこで、ネットで原作に当たってみた。両者を比べると大きな二つの変更点がある。
 一つは原作の冒頭で殺されてしまう預言者が上演版では復活し全編にわたってかなり重要な役を果たしていること。もう一つはラストの結末が180度異なることである。

 改変によって原作ではやや弱いかなと思われた部分が補強され、さらに原作にはなかったテーマが付加されている。もちろん原作のよさがベースにあればこそであるが、味わいが変わることなく魅力が増している。

 学生達、なかなかやるじゃないか。おじさんは「感動した!」のであった。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」

2005年12月01日 | 映画(ア行)
 ズバリこの時代を知っているわけではないが、私の幼少時は少なくともこの延長上にはあった。だから懐かしい。

 テレビ黎明期に家に受像機がやって来ることがいかに大きなインパクトであったか、町を上げての狂騒振りが面白く描かれている。現代のホームシアターどころではない。
 東京でもまだ地域のコミュニティが生きている頃のことだ。

 少なくとも、この時代までは文化や伝統が時代とともに姿を変えながらも緩やかに推移してきた。人間的な尺度の許容範囲内にあったわけだ。しかしその後の発達(と呼んでよいのかどうか分からないが)、加速度的な変化は目覚しいものがあり、時代がどこかで断絶してしまった。

 この映画の世界はもはや時代劇なのだ、と複雑な気持ちにもなった。

 随分ヒットしていると聞く。
 懐かしさというより、「明日に希望のもてる時代」に対する現代人の憧れが観客を集めているのかもしれない。