SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画 「トンマッコルへようこそ」

2006年10月31日 | 映画(タ行)
 短い墨絵タッチの芸術的なタイトルから本編に入ると、いきなり緩急のメリハリある映像世界が展開する。理想郷のようなファンタジー世界に現実世界が侵入する、その両者の対比的な描写を行き来しながら物語は語られる。

 アーミッシュの世界を描くハリソン・フォードの「刑事ジョン・ブック/目撃者」と黒澤の「七人の侍」を合わせたような味わいがある。こちらは六人かと思っていたら、何とちゃんと七人になっていた。

 人間は世界を規定するあるストーリーの中で敵と味方を演じさせられているのだ。理想郷内のまったく別の規律の中では敵も味方も、あるいは北も南も意味をなさない。その別世界で「外界から理想郷を守る」という新たなストーリーを与えられた侵入者たちを観客は見守ることになる。

 監督のパク・クァンヒョンはこれが長編デビューだそうだ。やや荒削りながらも、寓意に満ちた物語が多くを語っている。

 ラストシーンは深い余韻を残す。すべてが夢だったら良いのに・・・・。

映画 「フラガール」

2006年10月30日 | 映画(ハ行)
 「しずちゃん」がユルいフラを披露するスポット予告を見たときはパスしようと思っていた。その後、社会派のかなりシリアスなトーンに予告が変わって、こういう映画なのかと認識を新たにしたところ、公開後の評判もなかなかで、これは見に行くか、という気になった。

 映画の王道を行く、まさに定石どおりの作品。すべてが収まるべきところにうまくはまってパワーのある作品になっている。
 ジャンル的には「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」系の未体験分野達成ムービーなのだが、学園祭で高校生がなにかやろうという訳ではない。「フラ」にいたる背景に社会的な要因があり、切羽詰った状況にヒロインたちが置かれているところに新味がある。そして、それゆえに泣ける。

 劇中の台詞にあるとおり「女性は強い」。松雪泰子、蒼井優、富司純子の3人が圧倒的に良く、男優陣がかすんでしまう。

 ハワイアンにも激しいリズムのものがあったり、またフラの動きが手話的な意味を持つことなど初めて分かることも多いし、全編を支えるジェイク・シマブクロの音楽も魅力的だ。

映画 「レディ・イン・ザ・ウォーター」

2006年10月27日 | 映画(ラ行、ワ行)
 ナイト・シャマラン監督のフェアリー・テール(妖精物語)。今回は最後のどんでん返し無しに純粋なストーリー・テラーに徹しようとしたようだ。なにしろヒロインの名前そのものがストーリーなのだから。

 冒頭のアニメで古い説話が語られる。さらに劇中では、祖母から聞いた話として同じストーリーがもう一段詳細に登場人物から語られる。これらを通じて映画の筋そのものは観客の頭にすっかり叩き込まれる。
 したがってこの先何がどうなるかは興味の対象とはなりえないのだ。

 興味を繋いでいくのはもっぱら、話の中の登場人物が映画の誰なのか、という一種の人物当てミステリーである。
 この辺が単なるストーリーテラーではないシャマラン流のひねりなのだろう。その人物当ての中でどんでん返しがあるにはある。しかし意外性に富んで鮮やかに決まる、とは言い難いのだ。

 結局、「『○○○○』のシャマラン監督」という、監督の頭に常に形容詞としてついて回るデビュー作を、今回も超えることは出来なかったようだ。

「シックスセンス」は余りに良く出来すぎた作品だったのだ。

映画 「16ブロック」 ~ 複数形じゃないの?

2006年10月26日 | 映画(サ行)
 面白い。と思ったらリチャード・ドナー監督作品だった。

 ブルース・ウィリスがうらぶれた警官役。よりによってクリスマスの夜になぜこんな事件に遭遇してしまうのかと嘆く「ダイ・ハード」の精悍なマクレーン刑事が、年を経てこうなったのだと思いながら見るのも一興か。運の悪い一日が、またしてもめぐって来るのだ。

 ドナー監督のヒットシリーズ「リーサル・ウェポン」同様のバディものだが趣向の違う「ちょっとイイ話」に仕上がっている。護送される証人役のモス・デフが小うるさい小悪党と思いきや、だんだん血も心もかようイイ男に見えてくる。

 観客だけでなく、主人公ブル-ス・ウィリスもそう思い始める当たりから俄然良心が目覚め、「ヒーロー」が蘇る。(ちょっと年はとっているが。)

 宣伝も比較的地味なのがもったいないくらい。鳴り物入りで公開されたナイト・シャマラン作品やデ・パルマ作品に比べたら絶対こちらがお勧め、というのが私の意見。

 原題は「16 BLOCKS 」。複数形無視の邦題が付いたが、かつて「15 ミニッツ」という複数形邦題作品もあった(こちらはデ・ニーロ主演)。

MNP ~ 安さはすべてに優先するか?

2006年10月24日 | 日常生活・事件
 MNP(モバイル・ナンバー・ポータビリティ):携帯電話の事業者を変更しても、番号を変更する必要がないシステム。

 新システムがスタートしたと言っても、契約事業社を変更すればどんなに気に入った端末でも使えなくなってしまう。もし好みのデジタル音楽を詰め込んだ端末だったら変更する気にはならないだろう。とにかく安ければユーザーはなびくと思っていないだろうか。
 端末は変わる、メールアドレスは変わる、長期使用で積み立ててきた割引率は減る、無料通話の繰越はリセットされる。何かメリットがあるのか教えて!、と言いたい。

 携帯は、事業者が固有の端末を各メーカーに開発させている。メーカーは複数の事業者に端末を提供しようと思ったら2倍、3倍の開発コストがかかることになる。

 固定電話の場合はどうだろう。NTTから日本テレコムに事業者契約を変更したところで端末を買える必要はない。

 携帯にはこれが出来ないのだろうか。まず気に入った端末を選ぶ。次にK社、N社、S社のどこと契約するかを選択する。より良いサービスを他社が始めたら同じ端末、同じ番号で事業者契約だけを変更する。

 事業者の方は端末販売部門の労力が必要なくなる。
 メーカーは、これまでだと最高のデザインを開発しても1事業社に提供すれば他社には供給できなかった。その各社用に分散していたコスト、デザイン開発を集約できるのだ。

 利用者、メーカー、事業者三社にとってメリットがあると思うのだが、それが出来ないのはどこにどのような壁があるからなのか?

映画 「トリスタンとイゾルデ」 ~ 哀しみのヒーロー、孤独のヒロイン

2006年10月24日 | 映画(タ行)
 暗黒時代のイギリスの物語。ただし、魔法使いは出てこない。

 ワーグナーのオペラとしてタイトルは聞いたことがあるものの物語を良く知っているわけではない。「ロミオとジュリエット」の原典だというが、登場人物の関係はこちらの方が複雑で単なる悲恋と言うより悲劇性が強い。
 二人の名前がそもそも哀しみと孤独の意味を持っている。

 対立する部族の状況がとても分かりやすくストーリーもすんなり頭に入ってきて面白い。ただし、コクがあるかと言えばややあっさり味だ。王の甥とトリスタンの関係、部族間の覇権をめぐる駆け引きなど、本来もっと「葛藤」があるはずだ。

 リドリー・スコットが製作総指揮に当たっている。映像にそれらしさはあるが、自身が監督すれば、さらにドラマに粘り気が出たことだろう。トリスタンの少年期を追加してあと1時間プラス、3時間の歴史大作なら見ごたえ十分といったところか。

 それにしても国の覇権をかけた争いが、ややのどかな隣村どおしの喧嘩といった味わいだ。血なまぐさい闘争をしている割には「憎しみ」が希薄だ。アイルランドとイギリスが互いに海を隔ててすぐそこに見えており、ちょっと奴隷狩りにでも行って来るか、という感じで舟を出している。

 近代戦と比較するのはそもそも問題があるが、少し時代を下ってメル・ギブソン監督が描いた「ブレイブ・ハート」あたりになってくるともう少し凄惨だ。

 ジェームズ・フランコはクールなマスクの下に悲しみをたたえて、なかなか良いと思う。

映画「プルートで朝食を」

2006年10月18日 | 映画(ハ行)
 コマドリの語りで物語が始まり、同様に幕が下りる。
 物語そのものは全体が36章の構成で、ポップな色彩に彩られたアルバムでも見るようにファンタジックな主人公の一代記が展開する。

 下手をすると危ない性倒錯者の話になりかねない題材をニール・ジョーダン監督は良質の切ないファンタジーに仕上げている。
 孤児の恋しい恋しい母探しの旅の物語だが、主人公は、自分の人生も母の人生も肯定的に受け止めており、切ないながらも爽やかな後味を残してくれる。劇中の台詞にもあるように、母を捜しているのに父親と出会い、不思議な絆が生まれる。

 関わりをもつ暴走族系ロックスターや尋問する警察官までもが、主人公の不思議な魅力に惹き付けられるところがなんとも微笑ましい。女性的な魅力と言うより、人間としての肯定的、前向きな姿勢と優しさのなせる技であろう。

 ニール・ジョーダン監督らしくアイルランドの政治的な情勢も背景にはあるが、これまでとは一味違うコメディである。リーアム・ニースンの役がリーアム神父というのは単なる偶然なのか?

 太陽系惑星の見直し論議が進む中、タイミングよく問題の冥王星(プルート)がタイトルになっている。

映画「ブラック・ダリア」

2006年10月17日 | 映画(ハ行)
 ブライアン・デ・パルマ監督の新作。

 ここ一番のケレン味を発揮する監督が、それぞれに闇を抱える訳ありの登場人物がうごめくハリウッドの夜を映像化するのだから、ゾクゾクするような世界を期待してしまう。

 予備知識としてある、本題の殺人事件はなかなか起こらない。当時の時代色、平行して描かれるまったく別の事件、警察の内部事情、それに関連した主役二人のボクシング試合など余裕たっぷりに周辺が描かれるのだ。これは相当な見応えがあるかも、と期待し覚悟したが・・・・。

 本題に入ると展開がやや説明不足だし、謎解きもあれよあれよと言う間に終わってしまう。ああそうなんですか、といういう感じで「闇」に迫る人物像の彫りが甘いようだ。
 スカーレット・ヨハンソンは主人公二人が惹かれるわけだから、さすがに美しくはあるのだが終始若奥さま風で影が感じらず、豪華な配役がもったいない。
 期待の「ケレン」もカット割が中途半端で不発に終わってしまう。

 劇中「BD」というイニシャルが登場するが「予備知識」段階ではこれが「ブラック・ダリア」だと思っていた。

 あと1時間長いバージョンならどういう作品になったかな、と期待は大きい。

映画「ワールド・トレード・センター」

2006年10月16日 | 映画(ラ行、ワ行)
 9.11テロがテーマというより、災害に遭遇した警官とその家族の絆を描いた感動作と言えるだろう。

 主人公のチームはまだそれがテロ攻撃であることも知らず、災害現場に乗り込んだとたん自分たちがビル崩壊の被害者になってしまう。2機目の激突さえ情報として伝わっていない時点での話だ。
 救出劇という閉じた世界に終始しているのでオリバー・ストーン作品としては物足りなく思う人が多いだろう。テロは単なる背景にすぎず、この物語を描くのにまったく別の設定はいくらでも可能なのだ。

 主人公たちは動けないので、映画として成立させるためには回想と救出を祈る家族の描写がウェイトを占める。
 画面が現場に戻ると息苦しく、やたらと長く感じる。しかし、身動きすら出来ない崩落現場の被災者が、朦朧とした意識の中で救出を待つ孤独感をリアルに描出するには、やはりあの時間が必要だったのだろう。

 何かに向かう男たちとその家族のドラマは「ライトスタッフ」や「アルマゲドン」などにも見られるハリウッド映画の一つのパターンだ。

映画「アダン」

2006年10月11日 | 映画(ア行)
 榎木孝明の熱演は鬼気迫るものがある。日本の画壇からは無視された天才画家の後半生が描かれる。

 離れていても一心同体のように描かれる小手川祐子の姉とアダン(パイナップルのような植物の実)の化身のような少女の幻影が物語に不思議なトーンを与えている。

 監督の出身地が青森のせいか一村の激しさを表現するのに劇中、叩きつけるように津軽三味線が流れる。のどかで大らかな奄美の三線の響きとは対極だが違和感はない。現地の方が見たらどう感じるのだろう。

 孤高の画家一村はややエキセントリックにさえ見えるが、作品の素晴らしさと画家としての純粋さが多くの人を惹きつけるのだろう。同じ画壇に身を置く友人や奄美で親身に世話をする陶芸家など、一村の周りの人たちの優しさ、温かさが心に染みる。

 もし日本画壇が一村に対して別の対応を見せていれば、あの熱帯的な生命の躍動を秘めた一村の絵を目にすることはなかったのかもしれない。