SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画 「家の鍵」

2006年11月21日 | 映画(ア行)
 障害を持った息子と父親の再生の物語。

 冒頭に、それまで息子を育ててきた叔父らしい人物とその子の父親らしい男性の会話シーンがあり、その父子関係の「訳あり」度が示される。生まれて以来手放していた息子をリハビリ施設に入れる「旅」を、駅で叔父は父親に手渡したのだ。

 極めてクールな演出で涙、涙の「感動作」とはちょっと違う。

 その理由は息子役の造形にある。
 肉体的にも精神的にも障害を持っているが、たんに可愛い子、可哀相な子というだけではない。時にとても大人びた様子も見せれば悪態もつく、手のつけられない騒ぎ方もする。
 しかし理性では対処のしようが無いことに涙する父親を優しく抱擁するのは、その息子の方なのだ。自立した精神を持ち、時に大人以上に大きな愛で逆に父親を包み込んでいるようにさえ見える。

 血のつながりが持つ関係性は一方的なものではなく、愛を与えているつもりが愛され、保護しているつもりが実は保護されている。

 二人を見守るのが、同じ境遇の母親の立場にあるシャ-ロット・ランプリング、悟りの境地の裏側に深い苦悩が潜んでいることがわかる。

 親子関係の再生を暗示するハッピーエンドだが、息子に必要なのはリハビリではなく愛なのだと確信し、新たな苦悩を共有するという覚悟を持つにいたった、むしろ父親の成長物語といえるかもしれない。

映画 「手紙」 ~ もっと書きたくなった。

2006年11月20日 | 映画(タ行)
 犯罪が、被害者の家族だけでなく犯人の家族にもどのような傷痕を残すのかが丁寧に描かれている。

 この重いテーマは、短い出番ながら好演の杉浦直樹の台詞で語られる。主役3人も良いが、この杉浦直樹が最高に良い。(他の号泣シーンより杉浦の登場シーンが最も泣けた。)

 プリンターで出力された手紙も悪くない、と兄役の玉山鉄二に言わせているように、パソコンワープロ無しでは成立しない筋書きになっている。

 どこ(誰)からでも、またどこ(誰)にでも出せる「手紙」、それがキチンと配達されるからこそ人の心が通い合うことが可能になることを改めて感じた。ラストクレジットに特別協力:日本郵政公社とあった。民営化しても変わらないサービスを提供して欲しい。

 刑務所の検閲印が桜のマークだということを初めて知った。

映画 「父親たちの星条旗」

2006年11月16日 | 映画(タ行)
 ラストに日本軍を描いた「硫黄島からの手紙」の予告が付く。

 この二部構成からも明らかなように、監督のイーストウッドは戦争を複眼的に捕らえようとしている。この姿勢は本作だけをとっても明確で、敵と味方ではあっても、それが善と悪という関係では捕らえられていない。

 日本軍はほとんど姿も見えない、多分恐ろしく知力に長けた敵なのだろうと思わせるのだが、そこに悪意は見えない。前線で戦う兵士はお互いに何の悪意も持たず、駒として殺戮戦を演じさせられているに過ぎないのだ。

 「硫黄島から・・・」の予告を見る限り、そちらは戦争映画らしく戦場の葛藤が短い描写の中からほとばしっているが、本作の方はむしろ「戦争秘話」の趣が強い。したがって主人公が息子に語るという、現代からの回想がベースになるのだが、時制的には3つの時間が描かれるのでやや複雑になる。

 ドキュメンタリータッチの抑えた色調で、軍服に身を包むと俳優も見分けがつかない。さらに敵味方の感情移入も廃し、真の英雄とは何かという、懐疑的な眼差しを投げているので全体に極めてクールな印象がある。

 米軍にとっては楽勝戦のはずが思いがけずてこずってしまった訳だが、それでも圧倒的な物量差は歴然としている。そのゆとりから来るのだろうが兵士も戦いの現場を離れると余裕がある。何もない、死と隣り合わせの日本軍の悲惨とは明らかな差だ。

 そこが次なる作品でどのように描かれるのか必見である。

映画 「上海の伯爵夫人」

2006年11月10日 | 映画(サ行)
 人種の坩堝のような上海に戦争の足音が聞こえ始める時代の物語。

 「ナイロビの蜂」に続いて、ラブストーリーがからむ外交官役といえばこの人しかいないレイフ・ファインズの主演作。異国の地で時代に翻弄されながらめぐり会った男女が戦火をくぐって新たな船出をする。秋にふさわしいロマンチックな作品だ。

 難を言えば、ロシアの貴族階級がどのような状況で上海にたどり着いたのか分からないし、ヒロインの「伯爵夫人」が嫁ぎ先で疎まれる理由も今ひとつ説得力がない。ヒロインの娘が言うように、彼女の稼ぎで家族は生活しているのだから、何故?と思ってしまうのだ。

 日本人でただ一人、全編英語の台詞を流暢に操っているのが真田広幸。日本の軍部を操る影の存在だ。ただ、脚本のせいか演出のせいか、「ラスト・エンペラー」の坂本龍一などに比べるとやや平板な印象で「影」の部分の彫りが弱いように感じた。

 美しく撮られているので「魔都上海」という感じはしない。ボブ・フォッシー監督の「キャバレー」などに比べるとサラリとしている。

秋の味覚 ~ なんと言っても栗でしょう。

2006年11月09日 | 日常生活・事件


 少し前にNHKの「ためしてガッテン」で栗の甘みを引出しておいしく食べる方法を伝授してもらった。さっそく試してガッテンしようと思っていたところ、東京駅前の丸ビル地下で栗の店を発見した。

 その一角のみがデパートの催事場的なコーナーで、今月半ばまでの臨時的な出店らしい。年明けまで都内数箇所で日本の代表的な栗を「やきぐり」という形で提供している「くりはち」という店だ。

 その日は2種類並んでいた。違いがあるのか聞いたら、「まったく違う」ということで試食に及んだ。

 定番的な、甘みの強い「丹沢栗」と、栗の王様と言われている(そうだ)「利平栗」。どちらも立派な大粒なのだが後者はさらにひとまわり大きく、モチモチ感の強い食感だ。  

 結局、甘みと安さ(といっても200g1050円)で丹沢栗を買った。中を見ると10粒入っていた。1粒100円の計算だ。だけどスーパーの安い甘栗とは一味違う満足感がある。

 やたら甘いだけのマロングラッセが一粒200円以上もすることを考えたら絶対の買いだ。


映画 「カポーティ」

2006年11月08日 | 映画(カ行)
 かつて「冷血」が公開された頃のことは覚えている。
 ポスターもモノクロ、地味ながら凄そうで、惹かれるものの年齢的に娯楽として楽しむ映画ではなさそうな雰囲気が伝わってきた。撮影時、犯人役と犠牲になる家族役の役者は撮影まで顔を合わせないようにして迫真感を高めた、というようなエピソードが紹介されていた。

 今回はそれを書いたカポーティの物語。生育の過程でともに家族環境には恵まれなかった共通項が、犯人と作家を結びつける。

 何より素晴らしいのは画面に漂う荒涼としたカンザスの空気感だろう。事件の起こった家が冷え冷えとした大気の中にある、その圧倒的な存在感は犯人の「冷血」と事件を自分の名声に利用したカポーティの「冷血」を象徴しているかのようだ。

 犯人がなぜ、どのように犯行に及んだかというミステリー色は弱い。かといって犯人の心の闇、カポーティの生い立ちなどを描いた魅力的なエピソードが挿入されるわけでもない。
 それらは言葉で語られ、そういう過去を引きずったものとして現在の彼らの姿が提示されることになる。その意味で、カポーティの屈折した癖の強い性格をフィリップ・シーモア・ホフマンは見事に演じていると言えるだろう。

 映画「カポーティ」はもう少し面白くなっただろうに、という印象だが、未見・味読の「冷血」はDVDと文庫本を体験したくなった。