SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

東京エンブレムで五輪を描く。

2016年08月08日 | 音楽・演劇・美術・文学
リオ・オリンピック開催中なので、しばらくは話題から遠ざかる東京オリンピックです。

エンブレムはシックなブルーで小さなパーツが知的に組み上げられており、見るたびに少しずつ好感度がアップしていきます。

このエンブレムに五彩を施し、オリンピックの五輪マークを描いてみました。

要素となる円が太いので、オリジナルのマークでは2色しか重ならない部分で「3色重ね」が出現します。

この部分の上下関係をどう描くかがポイントですが、エンブレム・パーツを一つずつ分けて処理しすれば解決します。

演劇「つか版・忠臣蔵」

2012年06月21日 | 音楽・演劇・美術・文学
 週末に久々に演劇を鑑賞しました。劇団扉座の「つか版・忠臣蔵」です。「つか」というのは「つかこうへい」で彼の原作によるものです。

 扉座主宰の劇作家で演出も手掛ける横内謙介はつか演劇に魅せられてこの道に入ったそうです。

 今回はすみだパークスタジオ倉と厚木市民会館の2会場で公演され、前者には「スカイツリー編」とサブタイトルが付いています。
 会場までのアプローチはそのスカイツリーを見上げながらで、今お江戸の話題を独占するのはスカイツリーと忠臣蔵という独特のロジックで、地味な三面記事ネタを感動の主従忠義のストーリーへと仕立て上げていく破天荒なストーリーがさく裂します。  

 地元振興の意気込みが感じられる舞台です。今週末24日まで。

小説 「悼む人」 ~ 勝手に映画化、配役発表

2011年07月12日 | 音楽・演劇・美術・文学

 「死」を真正面から取り上げた重いテーマの大作である。

 主人公は「悼む人」であるが、彼を追う週刊誌記者、末期癌で在宅治療を選択した彼の母親、彼と行動を共にする夫殺しの前科をもつ女性の3者の視点から交互に3回ずつ物語が語られ、その9章にプロローグとエピローグが付く11章構成で、読み応えがある。

 各語り部の家族において、死はそれぞれに重い意味を持っている。

 主人公の家族は進行中の癌と戦う母親の余命が限られており、全国を悼みの旅で巡っている長男と、自宅での出産を決意した妹の子供が果たして母親との対面を果たすことが出来るのか、という大きな流れが主筋となっている。

 語り部となる3人は当初「悼む人」の行為を理解できないでいるが、心の深い部分でその感化を受け、いつしか彼ら自身がその行為の受け継ぐ実践者となっていくようでもある。

 在宅治療は医療行為を施す側との強い信頼感とコミュニケーションによって成り立っており、症状がどう進行していくか読者にもよく理解できる。あらゆる感覚は遠のいても最後まで聴覚は機能するらしく、死への旅に向かう母親の一人称で最後の瞬間まで語られる最終章は圧巻である。

 夢や幻想が入り混じり、果たしてそれが現実に起こったかかどうかは分からないが、幸福感に満ちた至福の光景を共有することが出来る。作中で述べられる多くの悼む行為が、悼まれる側にとってどういう意味を持っているかもそこで明かされる。

 読書中、脳裏に浮かぶ映像では、主人公の「悼む人」を松山ケンイチが演じていた。その両親を戸田恵子と小日向文世。父親役は三谷幸喜がシリアスに演じてもいいかなと思った。週刊誌記者は竹内力、その父親が原田芳雄。殺人の前科がある女性を市川実日子または菊地凛子、殺されるその夫に渡部篤郎という豪華な配役である。

小説 「闇の子供たち」 ~ 映画と比較

2008年09月18日 | 音楽・演劇・美術・文学

 梁 石日(ヤンソギル)の原作。

 小説を、映画を見てから読んだ。映画も相当ハードだったが、原作はそれどころではない。これでもかの過酷な仕打ちが子供たちに襲いかかる。情を排したクールな筆致で、ここまで書くのかというリアルな描写に圧倒される。
 結果からいうと、小説に比べて映画はまだソフトだ。

 小説はタイとその周辺における幼児売春の実態、およびその改善に尽くすNGO活動がメインに描かれる。映画に出てくる江口洋介の新聞記者が登場するのはページ数も半分を過ぎてからだ。したがってもう一つのテーマである臓器移植の問題も後半になって顔を出す。

 映画はNGO活動に従事する宮崎あおいより、臓器密売を追う江口洋介を前面に出している。したがって主人公の逆転、二つのテーマの比重の逆転が大きな相違点である。

 集会が銃乱射の大乱闘になってくるクライマックスは、原作の場合もう少し大きな社会的うねり(労働者組合のデモ行進)として描かれる。映画ではNGO組織の集会でしかないので、それに対する警備体制が異常に大掛かりだし、NGOに反撥するグループがNGOに対してではなく警備の警官側に銃を向けるなどやや未消化に終わってしまった部分がある。

 原作は、しょせん他国で起こっている他人事で済ませられるのか?というテーマを前面に出している。映画もそこは同じだが、エンターテインメントとしてストーリーをもう一ひねり、主人公のダークサイドを描くエピソードが最後に追加されて余韻を残している。

フェルメール展 ~ 光は左上方より

2008年08月26日 | 音楽・演劇・美術・文学

 全生涯で30数点の絵画を残したオランダ・デルフトの画家フェルメールの作品7点を含むデルフトの巨匠たちの絵画展が東京都美術館で開催されている。

 ほとんどが室内画で床の大理石タイルの市松模様が「遠近法」を意識させる。隣り合った部屋の扉が開き隣室との関係性、空間の広がりを感じさせる。窓からの光が暗がりの中ににじむように拡がる唯一の光源として登場人物に立体感を与える。

 フェルメールはその数少ない作品の中で色々な試行錯誤もあったのだろうが、「左上方からの光が差し込む室内」という舞台設定にたどり着く。
 図学で影を作図する時、光は左上45度から当てる。単純な図形にその光を当てて作図したものを上下逆に眺めると図の凹凸が逆に見えてくる。左上なら自然で右下からだと不自然だと認識してしまうわけだ。
 人間の頭に刷り込まれた、生理的にも、もっとも物質が立体的に見える理想の角度にフェルメールはたどり着いたわけだ。

 そのもっとも得意とする背景の中であらゆる物語を一つの画面の中に封じ込め語り尽くす一つのスタイルが完成されている。

 日本を代表する映画監督・小津安二郎が常にローアングルでとらえた日本家屋の中で、家族の情景を描きつづけたのと似ている。

 ただし、もっとも印象に残った作品といえば、唯一例外ともいえる屋外の風景を描いた「小路」であった。
 建物を画面と平行において真正面からとらえており、その外壁の質感が緻密なリアルさで描きこまれた中に配置された人物の生活感、特に二人の子供がこの絵画に見飽きない魅力を与えていた。

小説「クライマーズ・ハイ」を日航機内で読む。

2008年08月19日 | 音楽・演劇・美術・文学

 お盆の帰省に航空機を利用した。往復行程と帰省先の滞在中に読もうと文庫本を一冊持っていった。

 機中で読み始めて、本の選択を誤ったことに気が付いた。

 書名は横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」、1985年の夏、お盆の帰省客を載せた羽田18:00発の日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落した事件が核になった小説だ。

 自分の行動と極めて近い条件設定で航空機事故が描かれた小説を、その同じ会社の飛行機の中で読もうというのだ。どう考えても趣味が悪い。

 だけど作品はとても良い。脚色され映画化されたが、これは原作にはかなわない。この文学的な香気がもう少し映画にも漂っていたらな・・・と思う。

コミック 「夕凪の街 桜の国」

2007年08月07日 | 音楽・演劇・美術・文学

 公開中の映画の原作本。

 漫画が省略の芸術であることを再認識できる。

 たとえばコマとコマの間。映画なら連続したフィルムのどれとどれを選択するかということだ。他はすべて省略してしまう。その「コマ」にしても実写は画面の隅まで作りこまないとリアリティが欠如してしまう。漫画は何を描いて何を描かないかを作者がコントロールできる。

 このことが大きな効果となって現れるのが被爆後10余年のヒロシマを描く、第1部の「夕凪の街」だ。映画に比べるとさらに過酷な状況をコミックはこの省略の技法で描き出す。省略と言うより「何も描かれない」ラスト近くの描写が最も衝撃的といえるだろう。

 映画はその部分が柔らかい夢のような描写になっている。
 もし映像で忠実に表現するなら真っ暗な画面に声だけが聞こえてくるのだろうか。コミックはそこを白い画面で表現している。人間の意識がだんだん薄らいでいくとき何色が見えるのだろう。

 コミックは3部構成で、映画の「桜の国」はさらに2つのパートに別れている。第2部「桜の国(一)」はヒロイン七波の幼少時のエピソードで、この時期に被爆者である七波の母と祖母が他界する。

 第3部「桜の国(ニ)」はヒロイン26歳のエピソードで、二つのパートの間で一家は引越しをしている。

 七波は以前住んでいた桜の美しい街をあまり好きではないことが分かる。それは二人の死の記憶が残る街だからだ。
 しかしその街は首都圏郊外の、「広島の記憶」とは無縁の美しい街だ。その街の象徴のようにヒロインの幼馴染、東子が登場する。作者自身の「ヒロシマ」との距離感を体現しているのがこの東子のようだ。

 家族の死と転居でヒロインの中の「ヒロシマ」は封印されたはずだったが、第3部で再びその封印が解かれる。封じ込めるのではなく、それをどう受け止め、これからの人生を歩んでいくかを、ヒロインは自分で決めなくてはならないのだ。
 
 という話が、ここに書いたほど深刻ではなくむしろ淡々と描写される。それは登場するキャラクターの造形のおかげでもあり、コミックという「省略の表現」を特徴とするメディアの力でもあるのだろう。

小説「ブレイブ・ストーリー」

2006年09月07日 | 音楽・演劇・美術・文学
 「過酷な現実を変える」というテーマの王道はタイムマシンもので、過去の変更による歴史の改変とタイムパラドックスがストーリーの核を形成することが多いが、本作はRPG好きという原作者、宮部みゆきが創造した「幻界」というバーチャル・ワールドに主人公が紛れ込んでゲームの世界を生身で体験するような趣向になっている。
 その「上がり」で現実世界を変えられる?という展開である。

 映画を見てから原作を読むと、普通はこれがあのシーンかと思いながら筋をたどることが多い。が、本作に関する限りその「思い当たるところ」がほとんど無かった。

 小説「ブレイブ・ストーリー」は単行本で上下2冊、文庫版で3冊または4冊という大長編である。
 現実世界も幻界の出来事もじっくり描きこまれている。それを2時間足らずの映画にするのだから「大胆な脚色」なしには成立しない。

 しかしその差が生まれたもっとも大きな理由は、小説と映画のターゲットの違いだ。小説は少年時代に抱いた冒険心を忘れない大人のための作品。一方映画は夏休みに公開されるアニメーションということからも明らかなように、もう少し下の世代も含めて対象にしている。

 小説の方はかなり重いし、現世と幻界が一種のパラレルワールドのように描かれて、登場人物も「一人二役」的な味わいがある。映画はその辺をバッサリと省略し、かといってその「重さ」の片鱗は残しているので、結果的に子供向きというよりはやや高めの年齢向きの作品になってしまった。
 したがって原作に比べてしまうとやや物足りないということになるし、なぜそうなっているのか説明不足の部分もあるが、映画は映画でそれなりに楽しめた。

 おなじ宮部作品の映画化で大林監督が撮った「理由」は、それこそ原作の一字一句がそのまま映像化された印象で本作とは対照的である。

 映画「ブレイブ・ストーリー」に対する宮部氏の感想を聞いてみたい気がする。

小説「ゆれる」~ ともに優秀な双子

2006年08月07日 | 音楽・演劇・美術・文学
 話題の映画と対を成す作品。

 映画より先ならば「原作」、映画のほうが先なら「ノベライズ」だが、あえて原作と呼ぶものがあるとすれば、それは著者である映画監督・西川美和の「夢」であるらしい。
 そこから二つの作品が、一つは映画、一つは小説という形式で生まれた、というべきではないだろうか。
 
 単なるノベライズではない、というのは小説の形式からも明らかである。8章に分けられた構成はそれぞれ、登場人物、誰か一人の主観で叙述される「かたり」となっている。
 しかし、読んでいて映画との違和感はまったくない。逆にいえば映画のカメラも完全な第三者の視点ではなかったということだ。その事が物語にミステリー的な要素を生んでいたとも言える。

 では映画と小説は同じかというと、これが微妙に違う。たとえば、主人公兄弟とその父親の兄弟関係がダブってくるところは、映画では比較的あっさりと表現されている。

 小説では映画が説明しないディテールが明らかとなる。逆に映画は、小説では言葉に乗らない世界(画面)の隅々にまで実際の物理的な形を与える。
 
 それは両者の表現の特質に起因するものだが、ある事実が逆に描かれていることもあるのだ。したがってどちらがニワトリでも卵でもない、両者は「対を成す」双子のようなものだ、という理解にたどり着くわけである。

 しかし、映画も小説も半端な出来ではない。なんという才能だろう。
 そして、それに見事に息吹を与えたオダギリジョーや香川照之という役者もまた、たいしたものだと驚き入ってしまう。