SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画 「チェンジリング」

2009年02月25日 | 映画(タ行)

 クリント・イーストウッド監督の最新作。アンジェリーナ・ジョリーの力演が光っている。

 子供の失踪劇が大きな事件へと発展していく。そのミステリーと権力側の腐敗による人権無視の恐怖がダブルコアになって複眼的構造の大作に仕上がっている。

 アカデミー賞のお膝元、ロサンゼルスの腐敗が摘発されるのだ。

 その二つの裁きが平行して進行する法廷がクライマックスとなる。が、ここで終わりか、と思う個所がいくつかありながらそこでは終わらず、事件が起こした波紋が隅々まで描かれて「その時代」が検証される。

 陰湿な事件を引き起こす腐敗した社会体制の絶望の中で、一人の女性の意思が世界に光を取り戻す。ロス市警は腐敗しているが、もう一方の事件を解決したのもまたロス市警なのだ。

 アメリカの良心再生の希望が込められているようだ。

映画 「少年メリケンサック」

2009年02月23日 | 映画(サ行)

 「クドカン」こと宮藤官九郎監督作品。

 なかなかパワーのある怪作コメディに仕上がっている。

 どういう年代の人が見に行くのだろう。音楽的には若者世代、宮崎あおいが出ているというので篤姫ファンだった人たち、は可能性があるかもしれない。だけどその昔パンクだった中年のおっさんたちは来るのだろうか?是非来て欲しいのだが。

 佐藤浩一は他の劇場で「誰も守ってくれいない」が上映中だ。何でもこなし、何をやってもさすがのうまさだ。だけど本作の怪演はすごい。しかし、それに輪をかけて田口トモロヲがまたすごい。

 現代の若者の清潔感から言ったら許しがたい「対極の不潔」が、パンクバンドの全国ツァーで同居しているこの奇跡。何とかなるもんだ。宮崎あおいは何度放り出したいと思ったことかわからないが。

 結局パンクとはこの映画の精神構造そのものではないのかと思えてきた。必見(ただし、見たい人のみ??)。

映画 「ガチ☆ボーイ」

2009年02月20日 | 映画(カ行)

 学生プロレスの映画で、覆面レスラーとして主人公がまとうコスチュームはどう見てもコメディのそれだ。

 「シコふんじゃった。」を超えられるのか、という興味で見たのだがまったく路線が違った。いたってシリアスなのだ。最近多い「記憶障害」がテーマになっている。

 それが判明するまでの主人公の奇妙な行動は、最初の期待=コメディ路線を走っていると観客に思わせるに十分だ。しかし真実がわかるにつれ、なんとも切ない青春映画に変貌してしまう。

 向井理演じるサークル・リーダーがめざすのはひたすら安全なショーとしてのプロレスだ。それが成り行き上、もっとも危険なガチンコ勝負にいたらざるを得ないラストのリングがクライマックスだ。練習は重ねたもののほとんど素人に近い主人公はいかに戦うのか?

 主演・佐藤隆太の細い体躯がこれでもかといたぶられて悲壮感が漂うが、その後の胸のすくような反撃で爽快感が溢れ出す。予定調和的にそれで勝ちました、とならないのがまたイイ。

 スタローンの「ロッキー」に近い感動だ。

映画 「レッドクリフ」

2009年02月19日 | 映画(ラ行、ワ行)

 ジョン・ウー監督の新作。partⅡの公開を間近に控えている。

 ウー監督はハリウッド・アクション大作が続いたが久々の里帰り作品。歴史大作でドラマの中にアクションも生きている。人物像の造形、物語の叙情、活劇の迫力と緩急自在に物語が息づいている。

 最近はスピード感重視のためか、何がどうなっているのか、敵か見方かもわからないようなカットで見るほうも疲れきってしまう作品が多い。が、本作は登場人物のアクションが迫力ある映像の中でもしっかりとらえられており、豪快な英雄たちの活躍が存分に楽しめる。

 ただでさえ登場人物の多い「三国志」をトニー・レオン、金城武に中村獅童以外馴染みのない役者陣で見せられて、ついていけるだろうかという不安があって、公開後時間がたったが今日まで見なかったのだ。しかし、それは杞憂に終わった。これ誰だったかな?という場面では必ず画面に人名のキャプションが出てくる。冒頭の時代背景の解説と合わせて、観客にはとてもありがたい配慮である。

 数ヶ月、あるいは数年たって公開される続編が何の説明もなくいきなり続き部分から始まるような作品があることを思えば天と地だ。

 「三国志」の中でもハイライトに当たる「赤壁の戦い」を二部作で描いたものなのでこれが「三国志」のすべてではない。それでもこの面白さ、ジョン・ウーのライフワークとして全作映画化なんて無理だろうな。

映画 「誰も守ってくれない」

2009年02月18日 | 映画(タ行)

 警察には加害者側の家族を護衛するという任務もあるらしいことが分かる。

 少年による幼児殺害事件が話の核になるが、その犯行がミステリーとして描かれるわけでもなく、動機を描く心理劇でも法廷劇でもない。

 犯人の家族がその後晒されることになる状況を描く社会派ドラマになっている。

 犯人の家族を社会的な制裁から保護するための手段としてその姓を変える必要があることから、いきなり離婚させられたのち、母方の姓で再婚手続きが取られる事を初めて知った。有無を言わせないこの権力も怖いと言えば怖い。

 主人公の刑事になる佐藤浩一は家庭の問題も抱えており、仕事と家族の板ばさみになる。さらに犯人の妹を保護する過程で以前担当した事件の被害者側家族とも接触することになる。この四者すべてから拒否され、文字通りの四面楚歌の状態からそれぞれの信頼を再び回復するまでの物語である。

 それにしても恐ろしいのはネットによる暴力だ。中世の魔女裁判やカルト教団のような一種の集団ヒステリーに近い怖さがある。何をどうするという明快な目的があるわけではない。誰かを槍玉に挙げて糾弾する、その行為自体が目的化している。

 したがって次の標的が見つかればそれまでの話となる。そういう時代に主人公たちも観客自身も生きているのだ。

映画 「トウキョウソナタ」

2009年02月17日 | 映画(タ行)

 昨年公開の黒沢清監督最新作。

 異常な設定の多い黒沢作品では珍しいホームドラマ。デヴィッド・リンチ監督が「ス
トレイト・ストーリー」を撮ったようなもの、と言えるのかどうか?

 ただ、ホームドラマといっても団欒のないバラバラの家族だ。「父親の権威」の虚構
性がテーマになっている。父親はリストラに遭遇するが、公開時よりさらに不況が深刻
化してきた今、一段と身につまされる話として目に映る。

 それぞれが家庭の外の何かと微妙に繋がっている。いずれも危うい繋がりだが唯一
次男の「ピアノ」だけがポジティブな方向性を持ち、家族再生への微かな希望の光となっ
ている。

 ラストシーンで演奏されるドビュッシーの「月の光」が余韻を残す。

映画 「イエスタデイズ」

2009年02月16日 | 映画(ア行)

 塚本高史・主演のタイムスリップが絡むファンタジー作品。

 親子の確執のような場面から始まり、最初、塚本のやや高い険悪なトーンの声に引いてしまったが、そのうちストーリーに引き込まれて最後には涙を流した。

 親の人生を子供が理解し、自らも成長するという話が、父親の死期が迫っているという舞台設定の中で進行する。父親の過去の心残りを解決するミッションを負う息子がタイムスリップする。

 この種の映画ではその異界への入口がどう描写されるかがポイントだ。本作の場合、画家を志していた父親のスケッチブックが鍵となる。現場を探し出しそのスケッチと見比べていると過去に入り込んでいる。

 再びそこに戻るまではほんの一瞬のようだから「過去」が夢なのか、心の中の想像なのか、あるいは本当にタイムスリップしているのか、良く分からない。

 ただ過去から重要な情報もキャッチしてくるので単なる夢、幻ではないようだ。

 こうなりたいという夢を実現できる人生はまれだ。やり残したことを含めてどう現実と折り合いをつけるか、誰もが直面するほろ苦い思いが画面から溢れてくる。

「ハイスクール・ミュージカル/ザ・ムービー」

2009年02月13日 | 映画(ハ行)

 原題は「HIGH SCHOOL MUSICAL 3: SENIOR YEAR」。
 1と2はTVムービーとして製作・放映されており、本作は初の劇場公開版ということで邦題は「ザ・ムービー」とうたっている。

 歌って踊っての青春ミュージカルであり、学園生活が華やかにショーアップされている。冒頭、大差で負けているバスケ試合の後半が突然ミュージカル攻撃になるので、そんなスタイルに慣れていない相手は逆転されてしまう。

 学園イベントにクラスのミュージカルが参加することになり、地の部分のミュージカルとステージ・ミュージカルの練習、本番が重層的に構成される。イベントは他の参加もあるのだろうがすべて割愛、このクラスしかないかのように話は進む。

 学園最後の年で、進学に揺れる心情が地のストーリーとして薄い味をつけている。

 親の言いなりになりたくないからと、バスケも舞台芸術も視野に入れ恋人の進学先からも遠くない大学に、という現代っ子らしい選択で幕。やや安直ながらも、そんなことに目くじらを立てる種類の映画ではないから、素直に歌と踊りを楽しもう。

 もうハイスクールは卒業なので、ザック・エフロン=トロイの大学生活を描くか、下の世代でハイスクール路線を継続するか製作陣の悩みどころだ。

映画 「レボリューショナリー・ロード」

2009年02月06日 | 映画(ラ行、ワ行)

 レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの「タイタニック」コンビが主役。船が沈没せずに家庭を持っていたらこんな未来が待っていた・・・?

 「革命通り」に住む、人もうらやむ理想の夫婦を演じなくてはならないストレスが徐々に二人を蝕んでいく。

 理想通りの人生なんてありえない。その現実とどう折り合いをつけていくかが普通の人々の実生活というものだ。その視点で見ていると、二人は唖然とするような解決法を選択してしまう。近所、同僚の驚きと戸惑いが観客の視点でもある。

 物語が進んでやはり何かがおかしかったのだと気付く。どの辺からか?ほとんど初めからでは・・・。狂気の兆しが微妙だとそれとは気付かれない。巻き込まれた周囲はある時点から大きく軌道がそれ始めて慌てることになる。

 親子4人の家族の出来事なのだが子供の気配がほとんどない。途中でああ子供がいたのだと分かる。そこからして何やらおかしな世界だったのだ。

 家を斡旋した、やはりタイタニック組のキャシー・ベイツ一家が近所に住んでいる。精神を病んでいるその息子が強烈な印象を残す。破壊者でありながら実はレオ夫婦のことを最も理解していたのかも知れない。

映画 「落下の王国」

2009年02月05日 | 映画(ラ行、ワ行)

 世界遺産の見事な光景に圧倒される。ターセム監督の「ザ・セル」に続く第2作。

 病床の青年が同じ入院仲間の少女に語る物語を映像で見せてくれる趣向だ。物語の中身がエキゾチックな冒険談で「千夜一夜物語」のような趣がある。

 青年は映画黎明期のスタントマンで撮影中の事故のために歩けなくなっている。

 物語の中に青年の事情、少女の事情が貫入して来るし、少女の父親像が青年とダブってくる重層的な構造になっている。物語の登場人物も「地」の部分に当たる病院内の現実の人物が二役で演じている。

 圧倒的な背景に比べて話の中の登場人物が語り手の駒のようで、衣装、風貌の割に個性が生きていない。

 前作「ザ・セル」はサイコキラーの異常心理を解明するためにその記憶の中に捜査官が入り込むという、異常に高いテンションの設定だった。今回は自暴自棄になっており自殺願望のある青年が、そのために・・・と、ややスケールの小さな話になってはいるが、視覚的な至福感は大いに満たされる。