映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

土竜の唄 香港狂騒曲

2017年01月20日 | 邦画(17年)
 『土竜の唄 香港狂騒曲』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)第1作の『土竜の唄 潜入捜査官 REIJI』を見て大層面白かったので、第2作目もと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、東京のビル群の夜景が映し出され、そこに大きな檻を吊り下げたヘリコプターが飛んできます。
 そのヘリコプターを操縦するのは、前作のラストで「日浦組を作る」と言い放ったクレイジーパピヨンこと日浦堤真一)。



 檻に入れられているのは、前作で日浦や潜入捜査官・玲二生田斗真)らが闘った相手の蜂乃巣会のヤクザ連中(注2)。
 彼らはサウナに入っているとばかり思っていましたから、腰にタオルを巻いただけの裸の状態。
 そして、その檻の下には、玲二がこれまた全裸(新聞紙が大事なところにあてがわれているものの)でぶら下がっているのです。
 日浦は、玲二が飛び込めるように、運河の上を低空飛行しますが、玲二は気が付かず、通り過ぎてから「今、手を離せばよかった。下ろしてください!」と言うものの、後の祭り。日浦は、「兄弟、気分はどうだい?」と呟きます。

 ヘリがスカイツリーに近づくと、その展望台にいた純奈仲里依紗)は、檻の下にぶら下がっている玲二を見つけ、「玲二くん?!」と驚きます。

 ヘリは、数寄屋会の四代目会長・轟周宝岩城滉一)らがいるビルの屋上に降りていきます(玲二は、その時には檻の上部に移っています)。
 日浦は「骨付きヤクザをお持ちしました」と言って、檻を火の上に下ろし、自身はソコから飛び去ります。
 屋上では、クロケン上地雄輔)が、「焼きあがるまでキャンプファイヤーをお楽しみください」とフォークダンスの曲をかけるものですから、轟会長以下が「オクラホマ・ミキサー」に乗って、火の周りでフォークダンスに興じます。
 檻の中のヤクザたちは、火にあぶられて酷く熱いため、檻の上部にいる玲二の2本の足にすがりつきます。結果、玲二は大変な状況になってしまいます。でも、そこは「ブッチコイ!」と叫んでなんとか切り抜け、「俺の股間が抗争を未然に防いだ」と呟きます。

 他方で、警視庁では、瑛太)が組織犯罪対策部の課長に就任し、職員らの前で「ヤクザと癒着したはぐれ警官を撲滅しよう」と訓示をします。

 こんなところが、本作の最初の方ですが、さあ、この後、話はどのようになるのでしょうか、………?

 第1作では女優の活躍する場面が少なすぎる問題があるのではと思ったところ、本作では、主人公が付け狙う裏社会の大立者の娘を巡る話が展開されており、さらにチャイニーズマフィアとの対決で主人公らが香港に飛んだりして、一応のスケール・アップが図られているとはいえ、コミカルなシーンは第1作類似のように見え、また香港を絡まらせる必然性もあまり説得力があるようには思えず、第1作ほどの面白さは感じませんでした。

(2)第1作についての拙エントリでは、「本作に登場する女優の見せ場が余り多くないのは残念」と申し上げましたが、なんと本作では、前作同様に純奈役の仲里依紗のみならず、轟会長の娘・迦蓮役として本田翼とか、チャイニーズマフィア・仙骨竜のヒットガール・胡蜂役として菜々緒とかが(注3)、かなりの活躍をします(注4)。



 もともと、話の本筋が、轟会長から破門されたモモンガ古田新太)が迦蓮を誘拐し、チャイニーズマフィアが取り仕切る人身売買市場に売り渡された彼女を玲二らが救出するというものですから、女が色々と絡んできます。
 この点は、前作からの前進として評価すべきでしょう!

 ただ、本作にはよくわからない点がいくつもある感じがします。
 特に、後半の舞台をなぜ香港にしたのか、第1作が関西ヤクザ(蜂乃巣会)との抗争を取り上げていましたから次は海外にということなのでしょうが、よくわからない感じがします。

 確かに、迦蓮らの人身売買を行う市場は香港で開催されるという設定です。また、ヒットガールの胡蜂といった香港マフィアの手下が現れて、日浦や玲二と戦います。
 でも、人身売買が行われるパーティー会場などは、香港に限らず、どこにでも作れるものでしょう(注5)。
 それに、日浦や玲二が轟会長の命を受けて殲滅しようとするチャイニーズマフィア・仙骨竜のトップや幹部などが、本作では姿を一切見せないのですから、相手が殲滅されたのかどうかわからないままとなってしまいます。

 また、警視庁の課長の兜が、チャイニーズマフィアと通じているというのも、よくわからない設定です。
 もともと、兜課長が警視庁のエリートコースに乗っているというならば、採用とか昇進にあたって、監察官の方でその身辺をよく調べているはずです(注6)。
 それに、彼の父親が潜入捜査官に殺されたことから、ヤクザと癒着しがちな潜入捜査官、特に玲二を憎むという設定になっていますが、そんな個人的なことからチャイニーズマフィアとつながることまでには相当の距離があるように思われます(注7)。
 さらに言えば、兜はどうやってなにをしに香港に来たのでしょう(注8)?

 こうした様々な点からすれば、本作のラストの舞台を、何もわざわざ香港とせずとも、むしろ、東京で十分なのではないでしょうか?香港を使うというのであれば、東京では対処できない香港ならではのものをいくつも登場させるべきではなかと思ったところです(注9)。

 さらに言えば、玲二の裸のシーンが冒頭に見られますが、これは第1作の“全裸洗車”のシーンの二番煎じといったところではないでしょうか?

 とはいえ、もともと本作は馬鹿馬鹿しいこととして制作されているのですから、そんなつまらないことをいくら言い立ててみても、野暮の極みであり、何の意味もないでしょう。
 加えて、上に書きましたように、本作では女優陣の大活躍が見られるのですし、そればかりか、第1作と同じように、留置場に入れられた玲二のところに、谷袋警察署署長の酒見吹越満)、一美教官(遠藤憲一)、麻薬取締部課長の複澄皆川猿時)の3人がやってきて、イロイロ情報を与えた後、例の「土竜の唄」の2番を歌ったりするなど(注10)、なかなか面白いシーンがいくつも用意されているので、まずまず楽しんでみることができました。



(3)渡まち子氏は、「今回は原作の「チャイニーズマフィア編」がベースになっていて、前作にもまして、三池崇史監督の演出も、宮藤官九郎の脚本もハイテンションである」として60点を付けています。



(注1)監督は、『藁の楯』などの三池崇史
 脚本は、『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』などの宮藤官九郎
 原作は高橋のぼる著『土竜の唄 チャイニーズマフィア編』(小学館)。

 なお、出演者の内、最近では、生田斗真は『秘密 THE TOP SECRET』、瑛太は『64 ロクヨン 後編』、本田翼は『起終点駅 ターミナル』、古田新太上地雄輔は『超高速!参勤交代 リターンズ』、菜々緒は『グラスホッパー』、仲里依紗岩城滉一は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、堤真一は『海賊とよばれた男』、皆川猿時は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、吹越満は『友だちのパパが好き』、遠藤憲一は『ギャラクシー街道』で、それぞれ見ました。

(注2)数寄屋会の轟会長からは、蜂乃巣会の若頭・鰐淵菅田俊)を殺せと命じられていましたが、日浦は鰐淵と“五分の盃”を交わしただけでした。ですが、それが気に入らない組員が跳ね上がります。

(注3)さらには、轟会長の妻の毬子鈴木砂羽)も、玲二が轟会長のボディーガードとなってその家に行った時に登場します。

(注4)なにしろ、純奈(仲里依紗)は車の上に乗ってフロントガラスを足で踏みつけますし(下着が見えます!)、迦蓮(本田翼)も玲二に馬乗りになって腰を振り、さらに胡蜂(菜々緒)が美脚を見せながら鞭を振るったり虎をけしかけたりするのですから。

(注5)劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・デザイン」によれば、実際には東京の東宝スタジオに作られたセット。

(注6)ただ、兜の父親が殉職した警察官であったことから、詳しい身辺調査を行わなかったのかもしれませんが。

(注7)兜課長は、玲二に、「人間の醜さが一番わかるのが人身売買」、「俺は、人間のウソや醜さを暴きたいから人身売買に手を出す」などとうそぶきますが、全く理解しがたい理屈であり、単に自分の行動をウソで美化しているにすぎないように思えます。

(注8)日浦や玲二と同じように密入国によってでしょうか?それに、香港では、日本と同じような捜査権を持っていないはずですし。

(注9)実際には、そんなことなど充分に承知の上で本作が作られているようです。
 劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」には、「香港の“熱海”地区ってことでやろうよ」と言っている三池崇史監督の言葉が掲載されています!結果として、海外ロケは行われず、「香港は実刑部分の撮影のみ」ということになったようです。

(注10)壱番と弐番の作詞は宮藤官九郎。
 なお、壱番の末尾は「土竜の唄だよ 弐番はないよ」ですが、弐番の末尾は「参番もあるかもね」となっています。轟会長も健在のことですし、おそらく第3作が制作されるのでしょう(漫画の第43巻から突入する「シチリア・マフィア編」が基になるのでしょうか?)!



★★★☆☆☆



象のロケット:土竜の唄 香港狂騒曲

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ミス・シェパードをお手本に

2017年01月17日 | 洋画(17年)
 『ミス・シェパードをお手本に』を銀座のシネスイッチで見ました(注1)。

(1)82歳の高齢ながら映画やTVや舞台で元気に活躍しているマギー・スミスの主演作というので、面白いに違いないと思って映画館に行ってみました。

 本作(注2)の始めの方では、車のフロントガラスが映し出され、そこには何かがぶつかった跡が残っています。
 そして、「ほとんど真実の物語」(A Mostly True Story)の字幕があって(注3)、タイトルが流れます(注4)。

 次いで、作家のアラン・ベネットアレックス・ジェニングス)の家(注5)。
 ベネットは、書斎の机の上に置かれているタイプライターに向かって作業をしています。
 彼のモノローグ「ミス・シェパードの匂いには、かすかな尿の臭がする」、「彼女のお気に入りはラベンダーの香り」が入ります。
 すると、トイレの水が流れる音がして、ミス・シェパードマギー・スミス)がトイレから出てきて、玄関を通って家の外に置かれている車(バン)の中に入ります。
 それを見ていたベネットは、彼女の後を追いかけて、「通りにある公衆便所を使ってくれ」と言います(注6)。
 すると、彼女は「臭くて嫌だよ。私は根っからのきれい好きなんだ」と答えます。



 再びベネットのモノローグ「作家は二重生活だ。ものを書く自分と日常生活を営む自分」、「2つの自分はいつも話しているし、議論している」が入ります。

 ベネットがミス・シェパードを知ったのは、この街に引っ越してきた時に、動かなくなった車をベネットが押してあげたことから。
 さらには、ミス・シェパードが行き場がなくなった際、ベネットは自分の家の庭先を提供して車を駐車させます。

 こうして物語が始まりますが、さあ、この先どんな展開が待っているのでしょうか、………?

 本作は、劇作家と、彼の家の庭先置かれたおんぼろ車で生活する老婆との交流を描いているところ、戯曲を映画化したせいでしょうか、総じて動きが少なく、それに、マギー・スミス扮する老婆から、ホームレス特有の嫌な臭いがこちらにまで漂ってくる感じがして、クマネズミには映画の中に入り込めませんでした。

(2)本作は、イギリスの劇作家のアラン・ベネットが書いた戯曲(注7)を、さらに原作者が映画の脚本を書いて映画化したもの。
 なるほど、ミス・シェパードが運転する車にオートバイが激突する有様とか(注8)、坂道をミス・シェパードが座った車椅子が滑り落ちる様子とか、映画ならではのシーンが用意されてはいます。



 でも、駐車している車とベネットの書斎の場面が大部分であり、本作が、全体として動きの少ない地味なものになってしまっているのは、一つには、戯曲を基にしているからなのではと思えます。

 それと、描き方で少々うるさく感じられるのは、ベネットの内面の動きを観客に理解させるために、モノローグだけでなく、作者の分身を作り出している点です(注9)。
 ベネットには、作家としての立場で見ると、ミス・シェパードがすぐに近くにいて彼女をつぶさに観察できることによって、彼女の行動をヒントにした新作をものすことができるメリットがあります。ですが、隣近所との日常的な付き合いも重要であり、そうした面ではミス・シェパードの存在がひどく疎ましく思えてきます。
 こうしたことから、本作には、それぞれを表すベネットの分身が登場し、分身同士で盛んに議論したりするのです。
 ところが、本作には、ベネットの気持ちを表すモノローグも取り入れられているのです。
 もともと、登場人物の内面の動きといったものは、演じる俳優の表情とか身振りなどから観客が推測すれば十分なものでしょうし、わざわざ分身まで作り出すことまでしなくても、という感じです。

 とはいえ、現在NHK総合で放映中のTVドラマ『ダウントン・アビー シーズン5』でも活躍中のマギー・スミスは、本作においても元気なところを見せます。
 ただ、このTVドラマとか『カルテット! 人生のオペラハウス』などにおけるマギー・スミスの役柄は、高齢の現在において色々大活躍するのに対して、本作における彼女の役柄は、人々に隠れるように生きている老婆であり、積極的な活躍の場が与えられていないのが残念な点といえるでしょう(注10)。

 それでも、マギー・スミスが老婆を演じると、老人特有のプライドに裏付けされた頑固さ・意固地さがうまく表現されて、すぐ前に見た『幸せなひとりぼっち』よりも、むしろ本作にそのタイトルを付けた方がふさわしいのではとも思えてしまいます。

 ただ、ミス・シェパードの行為は、ある意味で、その車を駐車させている街に“ゴミ屋敷”を出現させたようなものであり、その街の雰囲気がリベラルなために一応は許容されてはいるものの(注11)、随分と迷惑をかけているようにも思います(注12)。ベネットは、自分の庭先を使わせるよりも、むしろ、早いところ彼女を施設に引き取ってもらうようモット動くべきではなかったでしょうか?

(3)渡辺祥子氏は、「英国の社会福祉が与えるビジネスライクな優しさ、彼女がいた修道院の非情。事故の誤解が生んだ恐怖。そんな中、心は通じ合わなくても何か触れ合うものが生まれた2人の関係にほんのり心が温まった」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)『マルガリータで乾杯を!』を見た2015年11月以来のシネスイッチです。
 銀座に行って時間が余った時にちょっと立ち寄るのに格好の映画館なのですが、最近はあまり銀座に行かなくなったこともあって、足が遠のいていました。

(注2)監督は、ニコラス・ハイトナー
 脚本は、原作者のアラン・ベネット
 原作は、アラン・ベネットの『The Lady in the Van』(1989年)。
 本作の原題も「The Lady in the Van」。

 なお、邦題の「ミス・シェパードをお手本に」は、直前に取り上げた「幸せのひとりぼっち」同様に意味不明です。いったい、誰が誰の何をお手本にするというのでしょう?
 尤も、劇場用パンフレットに掲載のエッセイ「至福のひととき」において、筆者の丹野郁弓氏は、「これは『ほとんど真実のストーリー』に自らを放り込んだ作家の自分探しの話である。………その意味でも、この邦題「ミス・シェパードをお手本に」というのはまことに内容にふさわしい名タイトルである」と述べていますが。

 また、出演者の内、最近では、マギー・スミスは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ジム・ブロードベントは『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』で、それぞれ見ました。

(注3)劇場用パンフレット掲載の岡野浩史氏のエッセイ「ある淑女の物語―The Lady In The Van」によれば、原作者のアラン・ベネットが、本作でミス・シェパードと呼ばれる老女に出会ったのは1968年頃で、彼が彼女の車を自宅の庭に駐車させることにしたのは1974年、そして彼女が亡くなるのは1989年、とのことです。ベネットは、都合“15年”ほど彼女と付き合ったことになります。
 ちなみに、本作の戯曲版が上演されてからこれも“15年”経過して、その映画版が制作されているのです!

 また、この戯曲は、2001年の秋に「ポンコツ車のレディ」とのタイトルのもと黒柳徹子(彼女の言葉はこちら)の主演で上演されています(どうして、本作のタイトルを「ポンコツ車のレディ」にしなかったのでしょう?驚いたことに、上記「注2」で触れたように、「ミス・シェパードをお手本に」というタイトルを絶賛している当の丹野郁弓氏が、戯曲の日本での上演にあたって翻訳をしているのです!)。

(注4)画面の半分には俳優やスタッフのクレジットが流れ、もう半分では、ピアノを演奏する女性(本作の主人公の若い頃を表しているのでしょう)の姿が映し出されます。

(注5)作家のベネットの家があるのは、北ロンドンのカムデン・タウン(例えばこの記事)のグロスター・クレセント通り23番地(カムデン・タウンのすぐそばには、ロンドン動物園とか、大英博物館などがあります)。

(注6)実際にミス・シェパードに言いに行ったのは、もう一人のベネットで、作家のベネットの方はその様子を書斎の窓から見ているのです。

(注7)アラン・ベネットが、自身の回想録『The Lady in the Van』(1989年)に基づいて戯曲化したもの(1999年)。
 上記「注3」で触れた岡野氏のエッセイによれば、ロンドンのWest Endで上演された劇の演出をしたのは、本作の監督のニコラス・ハイトナーであり、ミス・シェパードをマギー・スミスが、そして2人登場するベネットの内の一人をアレックス・ジェニングスが演じました。

(注8)オートバイの方からミス・シェパードが運転する車に突っ込んできたにもかかわらず、彼女は自分が轢いてしまったのだと誤解して、その場を逃げ出し、以後警察に見つからないよう車に隠れた生活をするようになったようです。でも、本作に見るように、“ロンドンの原宿”とも言われるカムデン・タウンに出没したら、すぐに分かってしまうと考えないのでしょうか?案の定、警官のアンダーウッドジム・ブロードベント)がやってきて、ミス・シェパードはお金を手渡さざるをえないことになります。

(注9)上記「注7」で触れているように、本作の戯曲版でもアレックスは2人で演じられています。

(注10)ミス・シェパードがピアニストとして活躍した若い時分の姿は、別の女優(クレア・ハモンド)によって演じられています。

(注11)本作には、何かとミス・シェパードを気にかける近くの住民〔ヴォーン・ウィリアムズ夫人(フランシス・デ・ラ・トゥーラ)とかルーファスロジャー・アラム)など〕が登場します。
 なお、劇場用パンフレットに掲載の「film location」のコラムでは、ベネットの家があるカムデン・タウンの「グロスター・クレセント通り」について、「ヴィクトリアン様式の家が立ち並ぶ閑静な住宅街。作家などの文化人たちが多く暮らしている」と述べられています。

(注12)ミス・シェパードが乗っている車の外観(汚いものを入れた袋がたくさん車の周囲に積まれています)とか、漂う臭気(尿を袋に入れて処理しています)などの問題から、いくらベネットの庭先に駐車しているからといって、周囲の住民にかなりの不快感を覚えさせているのではないでしょうか?



★★☆☆☆☆


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幸せなひとりぼっち

2017年01月13日 | 洋画(17年)
 『幸せなひとりぼっち』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。

(1)スウェーデンで大ヒットした作品というので、映画館に行きました。

 本作(注1)の始めの方は、スーパーで男(オーヴェロルフ・ラスゴード)が花を持ってレジに進みます。
 レジ係が「50クローネです」と言うと、オーヴェは「クーポンを使えば35クローネのはずだ」と咎めます。
 それに対して、レジ係が「1束なら50クローネで、2束なら35クローロネになります」と答えると、オーヴェは「おかしい、店主を出せ」と怒りますが、レジ係が「店主はランチ中です」と言うので取り付く島もありません。

 次の場面は、墓地にある妻・ソーニャ(注2)の墓に2束の花を捧げるオーヴェ。
 オーヴェは「商品1つの価格が商品2つの価格より高いのはおかしいだろう?2つの花束を持ってくるのは今回だけだ」と墓に向かって話しかけます。

 そこでタイトルが流れます。

 次の場面では、オーヴェが自宅を出て近所を歩いています。
 道路に煙草の吸殻が落ちていると、彼はそれを拾います。
 また、置かれている車のナンバーをノートに書き入れたり、ゴミ捨て場を見て、分別の仕方の誤りを正したりします。
 さらには、砂場に入って、砂の中に潜っているおもちゃを引き出したりもします。
 彼は、今では自治会長ではないのですが、その時と同じように町内の見回りを行っているようです。



 今度は、オーヴェガ働いている会社の事務所。
 会社の若い幹部から、「ここで何年働いています?」と尋ねられ、オーヴェは「43年」と答えます。するとその幹部が、「提案があります。あなたはまだ59歳。他の仕事をしてみてもいいのでは?」と言うので、オーヴェは「まさかクビに?」と驚くと、幹部は「あなたに合ったプログラムを紹介します」と言うのです。
 打ちひしがれたオーヴェが「ただ出ていく方が簡単では?」と言うと、幹部は「餞別があります。ガーデニング用のスコップです」と言って、彼にそれを手渡します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように進展するのでしょうか?

 本作は、愛する妻に先立たれ、子供もおらずひとりぼっちになってしまったにもかかわらず、相変わらずの頑固ぶりを発揮するために、一層周囲から孤立してしまった男が、隣人との関係を通じて少しずつ変化していく様子を描いています。そして他愛ないエピソードばかりながら、ほどよいユーモアが散りばめられていて、まずまず楽しく見ることができました。

(2)本作は、クマネズミにとっては『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2010年)以来のスウェーデン映画であり、さらにはスウェーデン映画史上3番目の観客動員数(注3)だということで、とても興味がありました。

 確かに、ユーモアのあるシーンが随所にありますし、またオーヴェとソーニャ(イーダ・エングヴォル)の出会いから一緒に生活するに至るラブストーリーも初々しくて好感が持てます(注4)。



 また、隣に来た一家、特に妊娠しているイラン人の妻・パルヴァネバハ―・パール)とオーヴェとの交流の描き方はなかなか興味深いものがあります(注5)。



 もっと言えば、妻の墓のところで、オーヴェが妻に語りかける話もなかなか味わいがあります(注6)。

 それにしても、本作の主人公のオーヴェについて、公式サイトの「イントロダクション」で「希望を見出せなくなった頑固な老人」とされたり、劇場用パンフレットの「ディレクターズノート」でも「ただの機嫌の悪い老人」と述べられたりして、「老人」扱いされているものの、実際には、上記(1)でも触れているように「59歳」に過ぎないのです(注7)。
 「59歳」ならば、高齢者の定義を75歳以上にしようという提言が行われている今の日本からすれば(注8)、とても「老人」とはいえない年齢でしょう(注9)。

 オーヴェが「老人」の範疇に入らないのであれば、彼が引き起こす様々の騒動も、いわゆる“老人の頑固さ”が生み出すものとも言えず、むしろオーヴェの元来の偏屈な性格がもたらすものではないかとも思えてきます。
 「老人」ならば仕方がないと笑って許容してしまうオーヴェの行動も、そうは笑えなくなるかもしれません。
 もともと、鉄道局に勤務するようになった最初から、彼は曲がったことが大嫌いで、あまり周囲に迎合しようとはしませんでした(注10)。そうした姿勢を43年間続けてきたわけで、見る方としては、こうした男に共感できるのかどうかということになってくるでしょう。

 オーヴェが、仮に70歳位の「老人」であれば、彼の人間としての価値ということよりも、むしろ「頑固な老人」の愉快な行動が描かれている、あるいは現代社会に共通する社会問題の一つではないかなどと受け止められることでしょう。
 年齢設定は、意外と重要な設定項目になるのではと思ったところです。

(3)村山匡一郎氏は、「冒頭のどこでも見かける頑固親父の姿から、物語の進展につれて次第に彼の人生が紐解かれていくが、映像はそんな主人公の出来事を、パネルを積み重ねるように描き出すことで、ノスタルジーを漂わせる素朴だが味わい深い世界となっている」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「年末に、疲れた心を温かくさせてくれるスウェーデン映画の佳作だ」と述べています。



(注1)監督・脚本はハンネス・ホルム
 原作はフレドリック・バックマンの小説『幸せなひとりぼっち』(ハヤカワ文庫NV)。
 原題は『En man som heter Ove』(英題は「A Man Called Ove」)。
 なお、邦題の「幸せのひとりぼっち」というのは、本作の内容とは相当乖離しているように思います。

(注2)ソーニャは、数か月前に癌で亡くなっているようです。

(注3)劇場用パンフレットに掲載されたヨハン・ノルドストム氏のエッセイ「“En man som heter Ove”はなぜ国民から支持されたのか?」によります。
 なお、ヨハン・ノルドストム氏は、そのエッセイで本作がスウェーデンでヒットした理由をいくつも上げていますが、その中で、本作で描かれている「北欧的ブラック・ユーモア」(例えば、「人生に嫌気がさし、天国の妻に会うのが待ちきれなくなったオーヴェの度重なる自殺未遂の描写」)を指摘しているのは興味深いことです。

(注4)自宅の火事で焼け出されたオーヴェが客車で睡眠をとっていて目を覚ましたら、列車は動き出していて、傍の席には本を読む若い女性・ソーニャがいたのです。彼女はオーヴェに、「教師志望なの」と言い、読んでる本はブルガーコフだと言います。彼女は、所持金のないオーヴェに代わって、車掌に料金を支払ってくれました。そのお礼をしようと彼女を探しますが、なかなか見つからなかったところ、3週間したら出会うことができて、そして、………(なお、最初のデートの時、ソーニャは15分遅刻します)。

(注5)オーヴェが亡くなった妻ソーニャのもとに行こうと自殺をしかかったところ、外で大きな音がしたので、何事だとばかりオーヴェが外に出てみると、隣に引っ越してきた一家のパトリックが、車を駐車場に入れようとして、オーヴェの家の郵便受けにぶつけてしまったのです。オーヴェは、仕方なく、その車を運転してバックで駐車場に入れてあげます。こうしてオーヴェと隣の一家との交流が始まります。

(注6)上記「注5」の出来事があった後、オーヴェは妻の墓に行って、「昨日、そっちへ行けなくってすまなかった。近頃の者は、車のバックもできないし、自転車のパンクも直せない」「お前がいてくれたなら!」と嘆き、「急げば、強にもそっちへ行けるかも」と付け加えます。
 (別の機会には、なかなか自殺できないことについて、オーヴェは妻の墓に対し「お前を待たせるのは初めてだな」と言ったりします←上記「注4」の末尾のカッコ内の「15分遅刻」が響くことでしょう)。

(注7)オーヴェを演じるロルフ・ラスゴードも1955年生まれで、せいぜい62歳といったところです。
 なお、オーヴェの年来の友人で、オーヴェから自治会長のポストを奪ったルネも、今や身動きができない車椅子生活の身で、オーヴェ以上に「老人」になってしまっています。

(注8)例えば、この記事
 尤も、「高齢者」と「老人」とは意味内容が異なるのかもしれませんが。

(注9)劇場用パンフレットの「ストーリー」では「愛する妻を亡くした孤独な“中年男”オーヴェ」とされています。スウェーデンも、日本と同じように、平均寿命が伸びていて、同じように社会の高齢化が進んでいるのではないでしょうか〔スウェーデンの男の平均寿命(2015年)は80.7歳で女のそれは84.0歳〕?

(注10)オーヴェが少年の頃、鉄道局に勤めていた父の職場に行った時に、客が落とした財布を巡って、父から、「何事も正直が一番だ。ただ、正直には後押しが必要だ」と言われたことが大きいように思われます。



★★★☆☆☆



象のロケット:幸せなひとりぼっち
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アズミ・ハルコは行方不明

2017年01月10日 | 邦画(17年)
 『アズミ・ハルコは行方不明』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)久しぶりに蒼井優の主演作ということで、遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、車のハンドルを握る手が大写しになります。
 そして、ドラッグストアの駐車場に停まったその車から、女(安曇春子蒼井優)が出てきて、タバコを吸います。傍の電柱には「探しています」のビラが貼られています。

 次の場面は、ミニシアター。
 館内では、一杯の女子高生が騒いでいますが、ブザーが鳴ると、場内は暗くなります。

 さらに、男(葉山奨之)が女子高生の一団にボコボコにされます。
 ラジオから「少女ギャング団による暴行事件が起きています。警察は、夜、男性が一人で歩かないよう異例の通達を出しました」との音声が。

 場面はまた変わって、2人の男〔学とユキオ太賀)〕と女(愛菜高畑充希)が、街のあちこちの壁などに、スプレーでアズミ・ハルコの顔を描いたり、ビラを貼ったりしながら走り回ります。

 次は、結婚式の2次会。
 女(今井菊池亜希子)が「キャバのお客さんと結婚したけど離婚した」と言うと、もう一人の女(春子)は「大変だね」と応じ、さらに今井が「結婚生活ってマジ大変」、「あいつ、1回も皿洗わなかった」と言うと、春子は笑います。

 警官(加瀬亮)が交番から出てきて、「探しています 安曇春子」のビラを掲示板に貼ります。そして、ここで本作のタイトルが流れます。

 さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 様々のエピソードが時系列的にきちんと並べられて映し出されず、行ったり来たりするために、最初のうち見ている方はかなり混乱してしまい、よくわからない点が色々残ってしてしまいますが、次第に見る方の頭も整理されてくると、異なる世代の女性が男性との関係で様々の問題を抱えながらも、エイっと前に向かっていこうとする姿が、実にエネルギッシュに捉えられていることがわかり、なかなか面白いと思いました。

(2)本作では、相互にあまり関係性を持たない3つのレベルの物語がつなぎあわされており、それも、時系列的にバラバラに映し出されるので(注2)、始めのうちは酷く混乱してしまいます。
 一つは、安曇春子が失踪するまでのお話、もう一つは、愛菜とユキオと学がグラフティーアートを街中に拡散する物語、さらに女子高生の集団が出会う男をボコる話、という具合。



 でも、それらの詳細は、劇場用パンフレットに掲載されている3段の年表に時系列的に書き込まれているので(注3)、ここに一々取り上げるまでもないでしょう。

 この映画で感じたのは、ともすれば動きのない安定した伝統的で保守的なものに囚われて埋没してしまいかねない地方都市(注4)で暮らしている女性たちが、都市の内部でうごめいている動的で破壊的なものによって突き崩され、新たな方向に進もうとする様子が、実にエネルーギーあふれる映像によって面白く描かれている点です。
 それには、本作のような時系列に囚われない描き方が随分と寄与しているように思います。

 そして、本作に登場する女性陣は、実に前向きであり、あるいはこの先何かが変わるかもしれません(注5)。
 他方、これに対する男性陣といえば、何かが変わる未来など望むべくもありません(注6)。

 ただ、この物語の要ともいえる春子の行方不明については、どうもよくわかりません。
 確かに、春子を取り巻く環境は相当劣悪で(注7)、それに幼馴染との関係が上手く行かなくなれば(注8)、いたたまれない気持ちになるのもわかります。
 でも、人はそんなことでいきなり失踪してしまうものでしょうか(注9)?
 常識的には、せいぜい、住む場所を変えて一人暮らしをするといったあたりではないでしょうか?
 それに、春子が姿を消したからと言って、警察に捜索願を出すのは誰なのでしょう(注10)?
 さらに言えば、本作のような状況においては、捜索願が出されても、警察の方は書類を作成するだけで、何も動かないのが通常なのではないでしょうか(注11)?
 実際のところも、ラストで瑠樹を抱いて春子が現れたところからすると、失踪後、高校時代の友人である今井の家で暮らしていたように思えます。人が姿を消した時、家人が真っ先に調べるのは友人関係であり、本作でも、親が今井の家に電話をすれば、春子がソコにいることなどすぐにわかるのではないでしょうか(注12)?

 そんなことはともかく(注13)、テロなどに襲われたりして厳しい状況に置かれている他の先進国に対して、総じて実に穏やかで何事も起こらなかった年末年始の島国日本を見ると、もしかしたら、本作は、閉塞した地方都市の有様を描いているのみならず、ガラパゴス化現象を呈している日本の現状そのものを描いているのかもしれない、と思ったりしました。

(3)渡まち子氏は、「女性が抱える鬱屈や諦念は、不思議なほど伝わってくるし、垢ぬけない場所で暮らすモヤモヤと未来への不安、それでも生きていく強さが、時系列を崩しエピソードをシャッフルしたぐちゃぐちゃな構成から、フワリと伝わってくる」として70点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「(登場人物)すべてに共通しているのは、地方都市の閉塞感を意識化することなく体感していることであり、女性にはさらに、男有利な社会への嫌悪感がある。こちらは、つよく意識され、彼女たちを行動に駆りたてる。その感覚はつたわってくるが、トリッキーな話法に気をとられて、うすまってしまった感もある。また、春子の世代以外の人物が、内面のない点景になってしまっているのも不満」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 林瑞絵氏は、「1度目の鑑賞で日本の今を活写する手腕に瞠目し、2度目で伏線の有機的つながりに気づき人間ドラマの深みも感じた。DVDやビデオ・オン・デマンドと映像視聴スタイルが多様化する中、再視聴まで計算した快作だ」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「監督を含め、ほとんどが20~30代のスタッフとキャストで製作された今作は若い世代の思いや感性が至るところに発露し、突っ込みどころも含めて楽しめる斬新な映画だ」と述べています。



(注1)監督は、『アフロ田中』の松居大悟
 脚本は瀬戸山美咲
 原作は、山内マリコ著『アズミ・ハルコは行方不明』(幻冬舎文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、蒼井優は『オーバー・フェンス』、高畑充希は『怒り』、太賀は『淵に立つ』、葉山奨之は『流れ星が消えないうちに』、加瀬亮は『FOUJITA』、菊池亜希子は『海のふた』、山田真歩は『永い言い訳』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、上記(1)で触れたミニシアターの場面は、本作のラストの方で映し出される場面(女子高生らは、ミニシアターを出ると攻囲する警官隊に遭遇しますが、彼女らが指で拳銃を撃つ真似をすると警官たちは倒れてしまい、その間を抜けて街の方に走り去ります)のすぐ前のものなのです。
 なお、雑誌『シナリオ』(2017.1)に掲載されたインタビュー記事の中で、監督の松居大悟氏と脚本の瀬戸山美咲氏は、「時系列をぐちゃぐちゃにしようというのは?」とのインタビュアーの質問に対し、松居氏が「原作が結構シンプルな話だから、これを普通にやってしまうと、勿体ない(と考えた)」と答えた後、さらに「松居:最初に瀬戸山さんに(原作にある)出来事を書き出してもらって/瀬戸山:それを切って短冊にして、会議室の机にワーッと並べて/松居:まあ、最初はこれでしょうって/瀬戸山:これはここじゃないかなって言いながら(シーンの流れを作り上げていった)」と述べています。

(注3)同年表は、安曇春子、木南愛菜、それに女子高生の3段に縦に分けられ、例えば安曇春子については、1995年7月の「〔曽我祖父の家・前〕(小学校時代)春子・曽我 段ボール箱の子猫」という記事から掲載されています。
 なお、マスコミ試写会時にプレスシートとして配布されたもの(劇場用パンフレットと内容は類似するように思われます)の中にもあるようです。

(注4)本作の主な舞台は足利市。
 ちなみに、最近のアニメ『聲の形』の大垣市とかアニメ『この世界の片隅に』の呉市、かなり以前の蒼井優主演作の『百万円と苦虫女』のさいたま市など、映画で取り上げられた地方都市は、とかく印象に残ります。

(注5)ミニシアターを飛び出した女子高生たちは、春子の幼馴染の曽我石崎ひゅーい)や学などを襲った後も、どんどん前に進んでいくのでしょう。
 また、曽我と一緒になろうとした春子、ユキオが好きだった愛菜、出戻りの今井、今井の息子の瑠樹は、ラストで同じ車に乗って海に向かって出発します〔本文の(1)でも触れているように、今井は、春子と高校時代仲良しで、同じ仲良しだったひとみ芹那)の結婚式で再会します。今井と愛菜は、キャバクラで先輩・後輩の仲〕。
 さらに言えば、春子が勤務する会社の先輩である吉澤山田真歩)も、社長(国広富之) らの冷たい視線や言葉を長年浴び続けていましたが、フランス系外国人と結婚してアフリカへ行くことになります。

(注6)春子が付き合っていた曽我にしても、どうやって暮らしているのかよくわからないそれまでの生活を続けていくのでしょうし、ユキオは土建の現場に出ていますし、アーティストになる夢が破れた学にしても、どこかに就職しなければと考えるようです。

(注7)春子の家は、祖母が認知症で満足に食事もできないことから、母親が絶えず苛ついているにもかかわらず、父親は我関せずとばかりにTVを見ているといった最悪の雰囲気です。また、春子の勤務先の会社でも、社長らの女子社員に対するセクハラ・パワハラ的な言動がどんどんヒートアップしています。

(注8)曽我が、結婚したばかりのひとみと付き合っていることを知って、春子は、彼に「好きだから付き合ってほしい」と訴えるのですが、「バカじゃないの」などと言われ突き放されてしまいます。

(注9)夢ランドで出会った時、ユキオに捨てられて「ユキオに復讐する」「死にたい」「死ねばユキオが悲しむ」と言う愛菜に対し、春子は、「死んだって、忘れるだけ」「幸せに暮らすことがユキオへの復讐になる」「一度消えてしまえば」「行方不明になった女の子は、ヘラヘラ笑いながら何処かで生きている」などと言います。
 春子は、自分と付き合おうとしない曽我に復讐しようとして行方不明という道を選んだのでしょうか?それにしては、曽我は随分とダメ男のように描かれていますが。

(注10)春子の家では、春子の存在は、両親の関心事項の外にあったかのように見えます(30歳近くにもなったのだから、早いところ結婚して家を出てくれというところでしょうか)。

(注11)失踪に事件性(殺人とか誘拐といった)があれば別でしょう、ですが、春子の場合にはそんなものはありえません。
 さらに言えば、交番の警官が行方不明のビラを掲示板に貼るといったことも、通常なら行われないのではないでしょうか?第一、そのビラは誰の費用によりどこで作成されたものなのでしょう?

(注12)あるいは、親からの電話に対して「知らない」と答えてほしいと、春子は今井に頼んでいるのかもしれません。でも、狭い地方都市のことですから、春子が今井の家にいることくらい、情報としてすぐに春子の家に届くのではないかと思います。

(注13)警察庁が作成した「平成27年中における行方不明者の状況」(平成28年6月)によれば、「行方不明」の原因のうち、「家族関係」が「疾病関係」に次いで多く(19.6%)、「異性関係」も2.0%ありますから、安曇春子のような事例もありうるのでしょう。
 なお、平成26年の「行方不明者届受理数」が82,035人なのに対し、所在確認数は80,232人となっています。



★★★☆☆☆



象のロケット:アズミ・ハルコは行方不明
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日本インターネット映画大賞―2016年度投票

2017年01月06日 | その他
 明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い申し上げます。

 昨年は、邦画57本、洋画48本の合計107本について、そのレビュー記事を拙ブログに掲載いたしました。邦画と洋画の見た数に結果として10ほどの差が出てしまったのは、昨年の邦画が全般的に質が高かったことを反映しているように思われます。
 
 さて、本年も、日本インターネット映画大賞運営委員会様から投票のお誘いを受けましたので、よろこんで応募することとし、投票内容をここに掲載いたします。

 なお、以下で選び出した作品は、拙ブログに昨年アップしたエントリにおいて付けた星の数が4つ以上のものの中から選び出しました。

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[作品賞投票ルール(抄)]
■選出作品は3作品以上5作品まで
■選出作品は2015年1月~2016年12月公開作品
■1回の鑑賞料金(通常、3D作品、4DX作品、字幕、オムニバス等)で1作品
■持ち点合計は15点
■順位で決める場合は1位5点、2位4点、3位3点、4位2点、5位1点を基礎点
■作品数で選ぶ場合は3作品各5点、4作品各3.75点、5作品各3点
■自由に点数を付ける場合は1点単位(小数点は無効)とし1作品最大点数は10点まで可能
■各部門賞に投票できるのは個人のみ
■ニューフェイスブレイク賞は男優か女優個人のみ
■音楽賞は作品名で投票
■私(ユーザー名)が選ぶ○×賞は日本映画外国映画は問いません
■日本映画の作品賞もしくは外国映画の作品賞に3作品以上の投票を有効票
■以上のルール満たさない場合は賞の一部を無効

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日本映画

【作品賞】
1位  「葛城事件       」    
2位  「リップヴァンウィンクルの花嫁」    
3位  「この世界の片隅に   」    
4位  「モヒカン故郷に帰る  」    
5位  「シン・ゴジラ    」    
【コメント】
 ダントツに優れていて心底圧倒された3作に、広島の年だった昨年を象徴する作品と、怪獣物として面白かった作品を加えてみました。

【監督賞】          
   [片渕須直(「この世界の片隅に」)]
【コメント】
 細部に対する監督の強いこだわりに驚くとともに、全体をラブストーリーとしてもまとまりのあるものに仕上げている点に、感服いたしました。

【最優秀男優賞】
   [三浦友和(「葛城事件」)]
【コメント】
 これまでの出演作には見られない迫真性のある演技は素晴らしいと思いました。

【最優秀女優賞】
   [宮沢りえ(「湯を沸かすほどの熱い愛」)]
【コメント】
 この女優の突き抜けた演技がなかったら、この作品はここまで面白いものにならなかったと思います。

【ニューフェイスブレイク賞】
   [杉咲花(「湯を沸かすほどの熱い愛」)]
【コメント】
 最早“新人”ではないのかもしれませんが、まだ19歳でもありますし、それにこれまでこの賞を受賞していないので。

【音楽賞】
  「君の名は。    」
【コメント】
 RADWIMPSが制作した主題歌や劇伴は、この作品にピッタリ寄り添っています。

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外国映画

【作品賞】
1位  「グランドフィナーレ  」    
2位  「スティーブ・ジョブズ 」    
3位  「キャロル       」    
4位  「PK ピーケイ     」    
5位  「山河ノスタルジア   」    
【コメント】
 1位の作品は、人生の晩年を音楽などの中で実に巧みに美しく捉えていると思いましたし、2位の作品では、偉大な男の特別な時期だけを取り出して上手く映画に仕上げているのに感心しました。3位と4位の作品は主演の俳優の力量が最大限に発揮されていると思いましたし、5位の作品のラストシーンは忘れられません。

【監督賞】          
   [ダニー・ボイル(「スティーブ・ジョブズ」)]
【コメント】
 2013年制作のものとは全く異なる作品に仕上げた手腕は高く評価されるべきだと思います。

【最優秀男優賞】
   [アーミル・カーン(「PK ピーケイ」)]
【コメント】
 実際には50歳を超えているにもかかわらず、実に若々しい肉体と演技を披露するのに驚きました。

【最優秀女優賞】
   [ケイト・ブランシェット(「キャロル」)]
【コメント】
 「ブルージャスミン」の演技も素晴らしいと思いましたが、「キャロル」における存在感は圧倒的でした。

【ニューフェイスブレイク賞】
   [マティルデ・ジョリ(「人間の値打ち」)]
【コメント】
 既に27歳ながら、美貌の持ち主であり、「人間の値打ち」で映画デビューし、半端でない演技力を披露しています。

【音楽賞】
  「ブルーに生まれついて 」
【コメント】
 主演のイーサン・ホークが歌う歌や、映画の中で演奏されるトランペットにうっとりとしました。
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【私が選ぶ○×賞】
   [名が体を表わさないで賞] (「君がくれた物語」)
【コメント】
 本作の原作者のベストセラー小説「きみに読む物語」に引きずられたのでしょうが、この邦題の意味するところがサッパリわかりません!

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 この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。
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海賊とよばれた男

2016年12月20日 | 邦画(16年)
 『海賊とよばれた男』を吉祥寺のオデヲン座で見ました。

(1)原作が本屋大賞を受けているので面白いかなと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「inspired by true events」の字幕があり、B29の前面の大写しがあった後、その胴体が開いてたくさんの焼夷弾が落とされます。
 地上では、それらが屋根に落ちたりして大火災となり、人々が逃げ惑います。
 飛行場の隅にはパイロットたちが集まっています。
 中の一人が「どうして2機しか飛べないのか?」と怒鳴ると、整備員は「燃料がないのです」と答えます。
 それでも、2機(注2)が飛び立って敵機に挑みますが、逆に撃ち落とされてしまいます。
 次いで、山の上から空襲の有様を見る主人公の国岡鐵造(60歳:岡田准一)の姿。

 そして、「1945/8/17」の字幕。
 まわりが焼け野原の中で焼け残った「國岡舘」の文字が見えるビルに、車が着きます(注3)。
 国岡商店の店員たちが広い部屋に集まっています。
 店員たちは、「何を話すのだろう?」、「ここの解散だろう」、「ここがなくなったら、明日からどうやって暮らしていけばいいのか?」など口々に話しています。
 そこに鐵造が入ってきて、「よう無事でいてくれた。先ずは愚痴をやめよう。戦争に負けたからといって、誇りを失うな。日本人がいる限り、この国は再び立ち上がる」、「この国は石油で戦い、石油で敗れた」などと話します。
 店員の一人が「ここに残っていいということですか?」と尋ねると、鐵造は「心配するな、一人もクビにはしない」と宣言します。

 あとで幹部が「店主、あの宣言はまずいのでは」と言うと、鐵造は「うるさい、クビを切るのは簡単だ」、「仕事はつくるもの」、「石油の商いを何とかする。それがダメなら、皆で乞食をしよう」と答えます。

 しかしながら、鐵造が「石油を融通してもらえないか」と石統(石油配給統制会社:注4)の社長の鳥川國村隼)に要請すると、鳥川は「あなたのところへは石油は回せない。あなたたちは、汚い手を使って、石油を横取りしたではないか」と答えます。
 さらに、「せめて石統に加入させてもらえないか」と鐵造が頼んでも、鳥川は「入れてもらえると思っているのか?甘いよ」とのツレナイ返事。

 こんなところから本作は始まりますが、さあ、物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、百田尚樹氏が出光佐三(注5)をモデルに書き上げた原作を映画化したもの。主人公は、早くから石油の重要性に目をつけ、メジャーの支配が厳しい石油業界の中にあって、その圧力に屈せずに強固な意思を持って業績を拡大した男です。それはそれでなかなか面白く描けているとはいえ、時流に反して、女性の役割が随分と小さく描かれているように感じました。

(2)本作は、近頃あまり見かけない男性路線を取っているように思いました(注6)。
 何しろ、目立つ女性のキャラクターとしては、綾瀬はるかが演じる主人公の最初の妻・ユキくらい。その彼女も、ほんの少し登場したかと思えば、すぐに離婚して画面から消えてしまうのですから(注7)、いったいどうしたことなのかなと訝しく思えてしまいます。



 実際の出光佐三氏は、後添えを娶り、5人の子供までいるのです(注8)。
 本作でも、そのことを全く無視しているわけではありません。主人公の最後の場面では、多くの親族が彼の病床の周りに集まるシーンが描き出されているのですから(注9)。

 でも、ラストの方で、小川初美黒木華)が、96歳になった鐵造のところに大叔母にあたるユキの遺品をもってくるというシーンがあって、鐵造はユキの思いを知ることになります(注10)、
 これによって、鐵造とユキの一途の愛が描かれたことになるわけでしょう。
 そして、ラストのシーンでは、北九州の海を突き進むポンポン船に、鐵造など國岡商店を支えた重要人物が乗り合わせている幻想的なシーンが映し出され、その中にユキが混じっているのです。
 ですがそこまでされると、見ている方としては、後妻さんの立場はどうなるの、鐵造の事業に何の関わりもなかった人なの、と思えてしまいます(注11)。

 さらに言えば、このような純愛路線に沿って鐵造のキャラクターを作り上げてしまうと、どうもその人物像が、ある意味で薄っぺらなものに見えてしまいます。
 確かに、本作では、海賊と呼ばれ不撓不屈の精神力を備えた鐵造の姿を、主演の岡田准一がなかなかの演技力をもって演じてはいます。
 ただ、いつも額にシワを寄せて眼光鋭く未来を見据える姿ばっかりというのでは、鐵造が持っていたに違いない幅の広さとか包容力の大きさといったものは、控えめな感じになってしまうのではないでしょうか?
 クマネズミには、鐵造が女性に対してどのように接したのか(注12)、といった彼のプライベートな面が同じようなウエイトを持って描かれて初めて、鐵造の全体像が見えてくるように思うのですが。

 尤も、本作のモデルとなった出光佐三氏は1981年(昭和56年)に亡くなった人物ですから、そのプライベートな面を直接的に描こうとすると、いくら登場人物の名前を変えたりしても差し障りが出てきてしまうのでしょう(注13)。
 とすると、例えば最近見た『ブルーに生まれついて』のように、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーを描きながらも、実在しなかった人物をヒロインに仕立て上げ一種のファンタジーにしてしまうのも、一つのやり方でしょう。
 あるいは、『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のように、主人公の生涯のある一時期に焦点を絞って描くというやり方もあるでしょう(注14)。

 本作のように、立志伝中の人物を巡って、その若い時分から96歳で亡くなるまでのほぼ70年間をほぼ時系列に沿って描く(回想シーンが何度も挿入されますが)というのも一つのやり方でしょうが、また違ったアプローチの仕方もあったのではないか、と思ってしまいました。

(3)渡まち子氏は、「「永遠の0」の作者、監督、主演が再び集結しているが、VFXの使い手の山崎貴監督がロケ撮影を駆使しているところに注目したい。特に海のシーンがいい。どんな苦境にもチャレンジ精神を忘れず立ち向かった主人公には、潮風が香る大海原が良く似合う」として70点を付けています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「伝馬船の旗、タンカーの旗、船を迎える人々の旗。そのはためきが鐵造の闘志を物語る。すべて視覚で表現しようとする山崎貴の力業だ」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。



(注1)監督・脚本は、『永遠の0』や『寄生獣』の山崎貴
 原作は、百田尚樹著『海賊とよばれた男』(講談社文庫:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、岡田准一は『エヴェレスト 神々の山嶺』、吉岡秀隆は『64 ロクヨン 後編』、染谷将太は『俳優 亀岡拓次』、鈴木亮平は『海街diary』、野間口徹は『シン・ゴジラ』(資源エネルギー庁の課長役)、ピエール瀧は『怒り』、綾瀬はるかは『高台家の人々』、堤真一は『日本のいちばん長い日』、國村隼は『ちはやふる 上の句』、小林薫は『深夜食堂』、黒木華は『永い言い訳』、光石研は『森山中教習所』、近藤正臣は『龍三と七人の子分たち』で、それぞれ見ました。



(注2)劇場用パンフレット掲載の「STORY」によれば、夜間戦闘機「月光」を指していますと(Wikipediaのこの記事によれば、「速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を挙げることはできなかった」)。

(注3)上記「注2」で触れた「STORY」によれば、「國岡舘」は銀座にありました。
 実際には、このサイトに掲載されている写真の「出光館」でしょう。

(注4)「石統」については、例えばこの記事をご覧ください。

(注5)出光佐三については、Wikipediaのこの記事をご覧ください。

(注6)クマネズミは、ダメな男、しっかり者の女というパターンの映画(特に、邦画で)がこのところ多くなっているのでは(例えば、『湯を沸かすほどの熱い愛』のような)、と思っているところです。

(注7)鐵造が部下の長谷部染谷将太)を連れて満州に出向いている最中に、ユキは離別の手紙を残して実家に戻ってしまいました。その手紙には、「ずっと考えておりましたが、この結婚は失敗でした。あなたは仕事に追われ、うちは寂しい思いが募るばかり。お暇をいただきたいと思います」と書かれていました。

(注8)このサイトの記事を見ご覧ください。

(注9)鐵造の孫に当たると思われる男の子が、ガラスケースに入った「日承丸」の模型を見るというシーンまであります〔盛田船長(堤真一)の「日承丸」は、実際には「日章丸」。「日章丸事件」については、この記事をご覧ください〕。

(注10)遺品のスクラップブックには国岡商店に関する記事がたくさん貼り付けてあり、鐵造が「あいつは俺に愛想を尽かして出ていったはず」と訝しがると、初美は「大叔母は、国岡さんの話を喜んでしていました。彼女は、出ていったのではなく、身を引いたのだと思います」「彼女はその後結婚せず、群馬の老人ホームで亡くなりました」と言い、鐵造はユキの思いを知ることになります。

(注11)そのように観客に思わせないようにするには、例えば、日承丸が原油を積み込んで日本に戻った時点で映画を終わらせればよかったでしょう。でも、そうすると、本作のもう一つの柱である鐵造とユキの純愛路線が描けないことになってしまいますが。

(注12)例えば、上記「注5」で触れたWikipediaの記事の「その他」のところに、「娘・真子は「父・佐三は徹底した儒教的・家父長的男女観を抱いていて妻と娘4人を「女こども」として軽蔑し、その自立を否定し人格的に抑圧した」と述べている」とあります(より詳しくは、上記「注8」で触れた記事をご覧ください)。

(注13)本作では、鐵造の親族としては兄の万亀男光石研)くらいしか登場しませんが、実際には、上記「注8」で触れた記事を見ると、その弟が出光興産の2代目社長になったりしていますから(「日章丸事件」の際は専務)、色々複雑な事情があったのでしょう(例えば、この記事の年表を見ると、2000年に「会長の出光昭介(佐三の長男)氏と社長の出光昭氏(出光計助の次男)が対立」したとか、本年に「昭和シェル石油との経営統合において昭介氏が異議を唱える」とかが記載されています←本作の裏の狙いは、経営統合問題における創業家支持?!)。

(注14)同作では、実在した作家のトマス・ウルフの書いた原稿が、実在する編集者のパーキンズのもとに持ち込まれるところから描き出されます。



★★★☆☆☆



象のロケット:海賊とよばれた男

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マダム・フローレンス!夢見るふたり

2016年12月16日 | 洋画(16年)
 『マダム・フローレンス!夢見るふたり』を吉祥寺プラザで見ました。

(1)メリル・ストリープの主演作というので、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭は、「based on true stories」の字幕が出て、1944年のニューヨーク。
 シンクレアヒュー・グラント)が、舞台の幕の前でハムレットの一節(注2)を朗唱した後、皆の拍手に対して、「ありがとうございます」、「次は、1850年のアラバマ州に遡りましょう」、「偉大な作曲家フォスターは、スランプでどん底状態にあります」と言います。
 幕が引き上げられた舞台(背景として木々の茂る邸宅が描かれています)の上では、憔悴したフォスターがピアノを前に座っています。
 そこに、舞台の上方から宙吊りの天使〔実は、フローレンスメリル・ストリープ)〕が舞い降りてきてフォスターの頭を撫でます。
 すると、ひらめきを得たフォスターは「Oh! Susanna」を演奏し出し、幕が下ります。

 楽屋では、フローレンスが「霊感を吹き込むような演技ではなかった」と言うと、シンクレアは「いや、素晴らしかった」と応じます。

 次いで、舞台の上でシンクレアが「今夜のフィナーレです」、「ヴェルディ・クラブ(注3)がおくるワルキューレの騎行です」と言うと、舞台の前のオーケストラがワーグナーの音楽を演奏し、幕が上がると、岩山を背景に槍を持つフローレンスを中心にしてワルキューレたちの姿が浮かび上がります。

 舞台が終わってパーテーが催され、フローレンスには記念品として時計が手渡されます。
 フローレンスは、「皆さんに感謝します。このクラブを作った時は、こうなるとは思いませんでした。25年間支えてくれた夫のおかげです。音楽は私の人生そのものです。今は世界大戦の最中、こうしたことが今まで以上に重要になっています。ニューヨークの音楽活動をこれからも支援いたします」と挨拶します。

 住まいにしている高級ホテルの部屋に戻って、フローレンスはベッドに横になります。
 シンクレアが「おやすみ」と言って、シェイクスピアのソネット(注4)の一部を朗唱すると、フローレンスは眠りに落ちます。
 シンクレアは、フローレンスの頭からかつらを外し、坊主頭にナイトキャップをかぶせ、脈拍を測りノートに記入すると、キスをして部屋から出ていきます。

 シンクレアはホテルを出て外を歩いて、自分の家に戻ります。
 家に着くと、愛人のキャサリンレベッカ・ファーガソン)が「お帰りなさい」と出迎え、彼女が「フローレンスは?」と尋ねると、シンクレアは「上々だ」と答えます。

 こんなところが本作の始まりですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は実話に基づいているとされ、類稀なる音痴の富豪の女性と、彼女をマネージャーとして支え続けた夫(事実上の)の姿を描き出します。なにしろ、最後にはあのカーネギーホールを観客で一杯にしてリサイタルを開催してしまうのですから、主人公の情熱はものすごいものがあると同時に、夫の献身ぶりも並大抵のものではなく、さらにまた専属の伴奏者の協力ぶりも特筆モノで、本作では、それらがなかなか巧みに描かれていて、まずまずの出来栄えでした。

(2)クマネズミは、本作を見るまでは、主役のフローレンスについて何の情報も持っておらず(注5)、とりわけ、カーネギーホールでリサイタルをやり、さらには「今もカーネギーホールのアーカイブの1番人気」であり、「アルバムは、デヴィッド・ボウイの“生涯愛した名盤”(注6)」となっていること(注7)など全然知りませんでした。
 それで、本作でフローレンスがものすごい調子で歌を歌いだすと、おかしいことはおかしいものの、本当に笑っていいものかどうか気になってしまい、かなり違和感を覚えてしまいました。
 音痴の人が一生懸命になって歌うのを笑ってはいけないと、言われてきましたし、特に彼女のように酷い音痴は、本人にどうすることもできないのでしょうから(注8)。 
 それに、この映画を見ている観客のクマネズミだって、陰で何を言われているかわからないのですから!
 
 といっても、フローレンスを見事に演じるメリル・ストリープには驚いてしまいます。



 なにしろ、『イントゥ・ザ・ウッズ』や『マンマ・ミーア!』とかで、圧倒的な歌唱力を見せつけているのですから(注9)。そして、その彼女が本作では実に無様な歌い方をするのですから(彼女が歌うモーツアルトの「夜の女王」の歌は、とてもその歌だとはわからないくらいです)!

 また、本作は、むしろ、事実上の夫であるシンクレアの献身的な努力がきめ細かく描かれており、それで見る方も何とかバランスがとれる感じです。



 シンクレアは、フローレンスが亡くなるまで35年間も事実婚状態でありながら、他方でキャサリンとの生活も営んでいました。
 こうしたところから、シンクレアは、フローレンスの財力を目当てに離れずにいたのだとも考えられます。でも、例えば、キャサリンから「そんなことをしたらお別れよ」と厳しく言われても、シンクレアは、フローレンスの歌を馬鹿にする若者に注意しに行くのですから、決してそうとばかりも言えないでしょう。
 むしろ、こうした場面を見ると、シンクレアはフローレンスをこよなく愛していたとも考えられるところです(注10)。それでも、シンクレアは、キャサリンも愛していて、キャサリンの不満が募ってくると(注11)、例えば、忙しいさなかに泊りがけでゴルフ旅行に行ったりします。
 常識的には理解するのがなかなか難しい人物であり、下手をすると悪者に見えかねない役柄を演じるヒュー・グラントは、むしろ愛すべき人間に見えるよう巧みな演技を披露します。

 更に、本作に欠かせないのは、フローレンスが歌う歌を伴奏するピアニストのコズメ・マクムーンでしょう。



 彼は、当初は伴奏を嫌がっていましたが(注12)、シンクレアの説得によって踏み止まります。
 それでも、フローレンスが狭いサークルで歌っている分にはかまわないにせよ、カーネギーホールという一般客が大勢入る著名な場所でフローレンスの伴奏をすれば、自分のキャリアに傷がつきかねません。ですが、最後には彼女の伴奏を進んで引き受けるのです。
 それを演じるサイモン・ヘルバーグも、映画では自分で演奏しているようで、なかなか頑張っています。

(3)渡まち子氏は、「劇中の登場人物がいつのまにかフローレンスを愛してしまったように、観客もまた、この奇妙な歌姫に魅了されるはずだ」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「音楽家の夢の殿堂、ニューヨークのカーネギーホールでコンサートを開く夢に向かって突き進んだ超絶オンチ歌姫、フローレンス・フォスター・ジェンキンス(1868~1944年)の奔放な世界を覗き見る」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「山場を活(い)かすように、カメラも音楽も最初は控えめ、それが山場になるとケレン味たっぷりの映画づくり。おかげで薄手の人情話で終わるはずの映画に思いがけない奥行きが出ました。やっぱり映画は観ないと分かりませんね」と述べています。



(注1)監督は、『あなたを抱きしめる日まで』のスティーヴン・フリアーズ
 脚本はニコラス・マーティン
 原題は『FLORENCE FOSTER JENKINS』。

 なお、出演者の内、最近では、メリル・ストリープは『イントゥ・ザ・ウッズ』、ヒュー・グラントは『噂のモーガン夫妻』で、それぞれ見ました。

(注2)「Swounds I should take it, for it cannot be but I am pigeon-livered and lack gall to make oppression bitter」〔このサイトの訳によれば、「畜生、おれはその通りだ。 おれは鳩のようにおとなしく、抑圧を跳ね返すだけの意地がない」云々(第2幕第2場604行目以降)〕。

(注3)このサイトの記事によれば、ヴェルディ・クラブは、1917年にフローレンスが設立したもので、400人を超える会員がいたとのこと。
 なお、同記事には、本作に登場する人物の顔写真が、それを演じる俳優の顔写真と対比して掲載されています。

(注4)「Let me not to the marriage of true minds Admit impediments. Love is not love」(ソネット116:このソネットについては、このサイトの記事をご覧ください)。

(注5)本作の主人公をモデルにして作られたフランス映画『偉大なるマルグリット』も見てはおりません。

(注6)この記事に、デヴィッド・ボウイの「お気に入りのアルバム 25選」が掲載されており、その一番末尾に「THE GLORY (????) OF THE HUMAN VOICE / FLORENCE FOSTER JENKINS (1962, RCA)」が記載されています(収録曲はこちら。声はこちらで聴くことができます)。

(注7)劇場用パンフレットの「INTRODUCTION」より。

(注8)Wikipediaのこの記事には、「彼女の演奏したレコードを聴くと、ジェンキンスは音程とリズムに関する感性がほとんどなく、極めて限られた声域しか持たず、一音たりとも持続的に発声できないこと、伴奏者が彼女の歌うテンポの変化と拍節の間違いを補って追随しているのがわかる」とあります。
 本作によれば、フローレンスは、メトロポリタン歌劇場の副指揮者・カルロデイビット・ハイ)のレッスンを受けたりしますが、音痴のままです。

(注9)前者については、例えばこちらをご覧ください。

(注10)フローレンスは勿論シンクレアが大好きだったでしょう。ある時、フローレンスはシンクレアに、「あなたの子供が欲しかった」と言うくらいです。
 おそらく、フローレンスは、前の夫から梅毒をうつされ(17歳の時)、生涯それで苦しみましたから(本作に登場する医師は、「梅毒で50年生き続けたのは初めてだ」と言います。また、フローレンスが実際には坊主頭なのも、治療薬の副作用によるものでしょう)、シンクレアとは夜の営みができなかったのでしょう。

(注11)ある時、突然、フローレンスがシンクレアの家にやってきたことがありました。キャサリンは姿を隠さねばならず、「自分の家なのに、どうして隠れなくてはいけないの?こんな生活に耐えられない」とシンクレアを責めます。

(注12)マクムーンはシンクレアに、「奥様は音程が外れています。何しろ、声帯が普通じゃありません」と言いますが、報酬のこともあり(フローレンスが「150ドル以上は支払えない」と言うと、マクムーンは「月にですか?」と訊き直し、彼女は「週よ」と付け加えます)、結局は引き受けることになります。



★★★☆☆☆



象のロケット:マダム・フローレンス!夢見るふたり

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ブルーに生まれついて

2016年12月13日 | 洋画(16年)
 『ブルーに生まれついて』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)予告編で見て興味を惹かれたので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、画面の真ん中にトランペットが大写し。
 「1966年、イタリアのルッカ」の字幕。
 男が床に倒れていて、その前にあるトランペットを見ます。
 すると、その中から大きなクモが現れます。
 倒れている男〔チェット・ベイカーイーサン・ホーク)〕は、トランペットに手を伸ばします。
 実は、そこは刑務所の中で(注2)、看守が「ハリウッドからのお客さんだよ」と言って、映画プロデュサー(movie director)を連れてきます。

 次の場面では、「1954年 ニューヨーク市 バードランド(注3)」の字幕。
 チェットがファンの女性たちに囲まれてサインを求められ、「俺とマイルス・デイヴィスとどっちが好きだ?」などと言っています。
 楽屋から客席を見ると、マイルス・デイヴィスケダール・ブラウン)らが来ています。
 そして、司会が、「カリフォルニアからやってきたジャズ界のジェームス・ディーン、クールのプリンス」などと紹介すると、サングラスを付けたチェットが、彼のクワルテットとともに舞台に立ち、演奏を始めます。



 演奏し終わると、観客から、「良いぞ」の声がかかり、チェットも「ありがとう、愛している」と答えます。
 続いて、マイルス・デイヴィスやディジー・ガレスピーケヴィン・ハンチャード)が演奏し、それをチェットは席に座って聴きますが、しばらくすると、隣りに座った黒人の女とホテルの部屋に戻ります。
 その女は、「まだやったことがないなんて信じられない。随分と真面目ね」と言いながら、麻薬を溶かし始め、それをチェットに注射をします。

 そこへチェットの妻・イレーネカルメン・イジョゴ)が戻ってきます。
 彼女は、「こうなるとわかってた。全部持って出ていって」と言います。
 ふと机の上を見ると、注射器があります。
 彼女が「それは何なの?マイルスのせい?」と言いますが、彼女の膝にしがみついているチェットは、「こうすると、ママの膝に戻ったみたいだ」と答えます。

 次のシーンには、「1966年 ロサンゼルス」の字幕が。
 そして、さっきの1954年の場面は、チェットの自伝映画の撮影風景であることがわかります。
 カチンコが映り、チェットとイレーネ役の女優ジェーンが楽しそうに談笑し、監督も「アドリブは歓迎だ」などと言い、スタッフが出入りします。



 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーの一時期を取り上げて劇映画として描き出したものです。彼は、大きな人気を勝ち得た時に、ドラッグが原因で前歯を折られて、演奏活動を続けられなくなりますが、必死に頑張って再度舞台に立つことができたものの、ドラッグからはついに逃れられませんでした。これが、彼を支え続けた女性とのラブストーリーの中で描かれていて、実に感動的な作品に仕上がっています。

(2)本作は、実在したチェット・ベイカーを描いている作品ながらも、フィクション的なシーンがかなり作り込まれており、むしろ劇映画としてみた方が面白いのではと思いました(注4)。
 例えば、上記(1)で紹介したように、本作の始めでは、1954年の出来事が映画の撮影ということで描かれていますが、実際にはそうした映画は製作されませんでした(注5)。
 なにより、本作で重要な役割を果たす女優のジェーンも実在しません(注6)。



 もとより、ある人物の伝記を映画化するといっても、ドキュメンタリーではなく俳優が演じる場合には、フィクションの部分がかなりの程度盛り込まれてしまうのは当然でしょう(注7)。
 あるいは程度の問題かもしれません。
 でも、ジャズに全くの素人のクマネズミにしてみれば、本作がチェット・ベイカーや彼を取り巻く人々を精確に描いていようがいまいが、物語として面白ければ何の問題もないと思えてしまいます。
 その上で、本作におけるチェットとジェーンとのラブストーリーは、なかなか良くできているのではと思いました(注8)。
 特に、最後の方で、オクラホマにいるチェットが、バードランドの舞台に再度立つためにニューヨークに行くという肝心な時に、ジェーンは自分にも重要な舞台のオーディションがあるから一緒に行けないと言って、二人の間に亀裂が入ってしまうのですが、バードランドでチェットが演奏し始めると、そのクラブにジェーンが現れるのです。この場面にはとても感動しました(注9)。

 それに本作では、主演のイーサン・ホーク自身が歌う「My Funny Valentine」とか「I’ve Never Been in Love Before」(注10)、あるいは「レッツ・ゲット・ロスト」(注11)、「虹の彼方に」(注12)、「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」(注13)など数々の名曲が登場するのですから堪えられません(注14)。

 間もなく公開される『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』も是非見たいと思っています。

(3)森直人氏は、「いわゆる伝記映画というより、ファンによる全力のトリビュート(称賛を込めた贈り物)と受け取るべきか」と述べています。
 小島一宏氏は、「全編を彩るジャズサウンドの心地よさ。映像の色彩や照明が醸し出すムード。そして、瞬きを忘れるほどの上質なシーンの数々に魅せられる」と述べています。



(注1)監督‥脚本はロバート・バドロー。
 原題は『Born to Be Blue』。

 なお、出演者の内、最近では、イーサン・ホークは、『6才のボクが、大人になるまで。』で見ました。

(注2)チェットは、公演先のイタリアにおいてドラッグで逮捕され、有罪判決を受けて投獄されています。

(注3)往年の名ジャズクラブ(この記事をご覧ください)。

(注4)公式サイトの「イントロダクション」には、「本作は一人の天才ミュージシャンの転落と苦悩を描くとともに、ある一人の女性との出会いによって再生する姿を描いたラブストーリー」とあります。

(注5)劇場用パンフレット掲載の菊地成孔氏によるエッセイによれば、この映画製作は実際には行われなかったものであり、従って、「本作は、この、頓挫した「ラウレンティス製作による、ベイカー伝記映画」が「製作されていた」という大胆な設定を基礎にはじまる」ということになります。
 さらに、菊地氏は「本作は、一言で言うと「ベイカーの人生=伝記からの素材を自由自在に再構成させた、完全なファンタジー」」とまで述べています。

(注6)劇場用パンフレットに掲載された川口敦子氏のエッセイでは、ジェーンについて、「ベイカーの生涯を彩った無数の女性をヒントにしつつ、旺盛な創意を注入して新たに生み出されたヒロイン」と述べられています。

(注7)上記「注5」で触れた菊地氏は、イーサン・ホークの歌について、「キーがすべて完全5度低い」と述べています。

(注8)なにしろ、ジェーンは、チェットの妻・イレーネによく似ているとされ、またチェットは、ジェーンに、「トランペットばかり演っていたから、恋愛経験が少ない」などと言ったりするのです。それで、ジェーンは、麻薬を止めるように親身になって言ったり、オクラホマのチェットの実家にまで一緒に出かけるものの父親がチェットを嫌うので、近くに車を駐車してそこで暮らしたりします。
 なお、ジェーンは、チェットとの会話の中で、チェーホフを引用しながら、「人が恋愛中の時に味わう感情こそ、ノーマルなものだ」などと言うほど知的な女性としても描かれています。

(注9)しかしながら、チェットは、バードランドの舞台に立つためにヘロインをやってしまい、なおかつ舞台では「許してほしい、この霧から抜け出せない僕を」「一度も恋をしたことがないんだ」などと歌うので、ジェーンは事情を悟り、涙を流し、そばにいたマネージャーのディックカラム・キース・レニー)に、チェットから貰った大事なネックレスを渡し、「これをチェットに返して」と言って立ち去るのです〔チェットが歌う「I’ve Never Been in Love Before」の歌詞については、例えばこちらの記事を〕。

 この場面は、最近見た『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のある場面(同作に関する拙エントリの「注16」をご覧ください)を思い出させました。

 また、ひどく飛躍してしまい恐縮ながら、中島みゆきのアルバム『恋文』に収録されている「恋とはかぎらない」の歌詞の中の「24時間そばにいたいってわけじゃない/でも1番肝心な時は逢ってね」を連想してしまいました。

(注10)前者については、このサイトでイーサン・ホークが歌う映像を見ることができます。
 なお、チェットが歌う2つの曲は、アルバム『CHET BAKER SINGS』に収録されています(こちらで聴くことができます)。

(注11)この曲についての本作での演奏は、こちらで聴くことができます。

(注12)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます。

(注13)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます)。

(注14)本作で実際にトランペットの音を出しているのは、カナダのトランペット奏者のケビン・ターコット(この記事)。



★★★★☆☆



象のロケット:ブルーに生まれついて
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疾風ロンド

2016年12月09日 | 邦画(16年)
 『疾風ロンド』を渋谷TOEIで見ました。

(1)阿部寛が主演の作品だということで、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、雪山の景色が映し出されます。
 カメラが接近すると、長く伸びているスキーコースを滑り降りる一人のスキーヤーの姿。
 次いで、医科学研究所で研究員が、試験管やシャーレを使って細菌を培養している様子が映し出されます。

 2つの場面が交互に映し出された後、ある地点で止まったスキーヤーの男は、周りを見回し、雪を掘り、持ってきたボックスから瓶状のものを取り出して、そこに埋めます。
 それから、すぐそばの木の幹に釘を打ってテディベアを掛けます。
 次いで、発信機と受信機をセットして、「さあ、ゲームの始まりだ」と呟きます。

 タイトルが流れ、「月曜日」の字幕(注2)。
 主人公の栗林阿部寛)の家の朝。栗林は、玄関の上り口で、滑って転びます。
 彼は「お前、またワックスかけたのか?」と息子の秀人濱田龍臣)に怒ると、秀人は「次からは気をつける。買ってもらったときの約束だから」と答えます(注3)。

 秀人は、誘いに来た友人と一緒に学校に向かいます。
 友人が「また喧嘩?」と尋ねると、秀人は「うるさいんだから」と応じます。
 さらに友人が「オヤジさん、何やってるの?」と訊くと、秀人は「研究所に行っている。でも、最近、研究していないみたい」、「中間管理職なのかな」と答えます。

 他方、栗林は、仏壇の妻の位牌に向かって、「年頃の男の子は難しいんだよ。お前がいてくれたら」と嘆いた後、出勤します。

 栗林は、研究所に着いて保管庫を調べると、重要な物がなくなっているのに気が付きます。
 大急ぎで所長室に行ってそのことを報告すると、所長の東郷柄本明)は「やっぱり本当か」と呟きます(注4)。
 所長は、「盗んだ葛原(戸次重幸)が3億円要求してきた」と言い(注5)、驚いた栗林が「3億円も用意できるのですか?」と尋ねると、所長は「負けてもらう」と答え、さらに栗林が「警察に連絡を」と進言すると、所長は「これがバレたら、皆クビだぞ」と答え、通報を拒否します。



 そんなところに、警察から「葛原さんが、事故で亡くなりました」との連絡が入るのですが、さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、人を大量に死に至らしめる恐ろしい炭疽菌が盗まれ、それを必死に探し出そうとする主人公らを巡るサスペンスコメディ。ですが、主役の阿部寛が、最後の肝心な時にも、事態が推移するのをただ待っているだけというのでは、しまりがなさすぎ。それに、炭疽菌という生物兵器にもなる恐ろしいものを取り扱っている映画にしては大味で、総じて「ゆるすぎる」感じがしました。

(以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらず、あちこちでネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作の主人公の栗林は、所長の厳命で、野沢温泉スキー場に行って炭疽菌の入った瓶を秘密裏に探すことになります(注6)。
 とはいえ、栗林は、スキーを大学の時に少しやったくらいで全くの素人だという設定(注7)。
 おまけに、スキーを履いて少々滑ったら、木に激突して靭帯を損傷し満足に動けなくなってしまいます。
 それで、炭疽菌の探索は、専ら、スキー場のパトロール隊員の根津大倉忠義)と、彼の後輩でスノーボードクロス選手の千晶大島優子)に任せ切りになってしまい、栗林自身は、スキー場のレストランなどでウロウロするばかりです。
 レストランの椅子に座って、頭髪をかきむしりながら、時間がただ経過するのを待つだけの主人公では、滑稽で面白いとしても、どうしようもありません(注8)。

 それに、本作は、危険極まりないとされる炭疽菌を巡るお話のはずですが、肝心の炭疽菌の取扱いがとても杜撰に見えるのはどうしたことでしょう?
 本来ならば、当初、栗林が炭疽菌の所在を保管庫で確かめようとする際に着用していた防護服が、どんな場合にも最低限必要なのではないでしょうか(注9)?
 もちろん、栗林以外の登場人物は、瓶の中身を正確には知らないのですから、普段通りで仕方ないにしても、炭疽菌の怖さをよく知っている栗林までも、炭疽菌の入った瓶を実に不注意に取り扱おうとします(注10)。

 この他にも、突っ込みどころは色々あるでしょう(注11)。

 とはいえ、炭疽菌を栗林が探索するというメインの物語の他に、医科学研究所の研究員・折口堀内敬子)の指示を受けてワダムロツヨシ)が炭疽菌を奪おうとする話なども絡んできて(注12)、それなりに飽きさせません。



 また、瓶を奪い取ったワダがスキーを滑らせて逃げるところ、それをスノーボードを履いた千晶が追う追跡劇は、なかなか見応えがあります。
 なにしろ、千晶役の大島優子が代役なしに演じたようで(注13)、最後はワダ゙とストックでチャンバラまがいのことまでするのですから。



(3)渡まち子氏は、「監督が「サラリーマンNEO 劇場版(笑)」の演出を手掛けた吉田照幸と聞いて、本作の脱力系ギャグに大いに納得。緊張と緩和がほどよいウェルメイドな娯楽作だ」として60点を付けています。



(注1)監督は吉田照幸(脚本にも参加)。
 脚本はハセベバクシンオー
 原作は東野圭吾著『疾風ロンド』(実業之日本社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、阿部寛は『海よりもまだ深く』、大島優子は『ロマンス』、ムロツヨシは『金メダル男』、堀内敬子は『永い言い訳』、戸次重幸は『ぼくのおじさん』、柄本明は『後妻業の女』、麻生祐未は『麦子さんと』、堀部圭亮は『殿、利息でござる』(代官役)、生瀬勝久は『謎解きはディナーのあとで』で、それぞれ見ました。

(注2)ただし、その後の話の流れからすると、ここまでの話が「月曜日」の出来事で、ここからの話は「火曜日」の出来事であり、栗林たちが野沢温泉スキー場に出向くのは「水曜日」のように考えられます。

(注3)おそらく、秀人(中学2年生)が熱中しているスノーボードを父に買ってもらった時に、使ったワックスの後始末をちゃんとやるという約束をしたのでしょう。

(注4)というのも、なくなっているのは、研究員の葛原が培養した危険極まりない「炭疽菌k-55」。葛原は「究極の兵器だ」と豪語し、それを聞いた所長は彼を解雇していたのです。解雇を恨みに思った葛原は、「後で後悔するぞ」と所長に言い、とうとう「k-55」を研究所から盗み出しました。

(注5)さらに所長は、葛原から送られてきた写真を栗林に見せながら、「ぬいぐるみは発信機だ」、「瓶はその下に埋めてあるらしい」、「金を用意すれば、瓶がある場所を教えてくれる」などと言います。

(注6)事故で死んだ葛原の遺品から、瓶が野沢温泉スキー場のどこかに埋められていることがわかります。ただ、テディベアに仕組まれた発信機からの電波を受信する受信機も遺品の中にありましたが、発信機の電池の寿命があと4日間で尽きるので、金曜日までに探し出す必要があります。

(注7)栗林は、ボーゲンでゆっくり滑ってもバランスを崩してしまうほどで、スキー場で知った幼い女の子・ミハル大田しずく)〔父親(堀部圭亮)に連れてきてもらっています〕に、栗林が「気をつけて」と言ったところ、ミハルから「オマエモナ」と言われてしまう始末。

(注8)炭疽菌の入った瓶は、最後には、栗林の息子・秀人の機転によってすり替えられており、結局、栗林自身は、この炭疽菌探索行においては何一つ貢献できませんでした。
 原作者の東野圭吾氏は、劇場用パンフレット冒頭の「AUTHOR’S COMMENT」において、「主人公の栗林和幸は、決して無能な人間ではありません。むしろ優秀で、状況によってはヒーローになれる人材でしょう」と述べていますが、本作からはそんな風にはとても思えません。

(注9)炭疽菌を持って出国しようとした折口とワダが成田空港で捕まった際、爆発物処理班の警察官(生瀬勝久)が、完全装備をして登場します(炭疽菌に対する配慮と言うなら、少なくともそのくらいはするべきでしょう。ただ、その警察官が瓶の中身を確かめますが、でてきたのは、……)。

(注10)いい加減な取扱いから、栗林は瓶を床に落としてしまい、瓶が割れて中身が外に出てしまいます(栗林が、慌てて「生物兵器だ」などと叫ぶものの、中身はすり替えられていて、単なる胡椒でした。根津が「今、生物兵器とか言いませんでした?」と尋ねると、栗林は「そんなこと言わないよ」と猫をかぶります)。

(注11)例えば、医科学研究所の東郷所長役の柄本明は演技過剰気味で、一人だけ浮き上がっている感じがします。

(注12)栗林の息子・秀人は、野沢スキー場で地元の中学生・育美久保田紗友)と知り合いになりますが、育美の同級生の母親(麻生祐未)が娘をインフルエンザで最近亡くしていることから、本作の話に絡まってきます。ただ、このエピソード自体、地元の中学生を話に絡めようとするために作られたような取ってつけたわざとらしい感じがしてしまいますが。

(注13)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、大島優子は、「9歳からやっていたスノーボードを、仕事に活かすことができて、とても嬉しい」などと述べています。



★★☆☆☆☆



象のロケット:疾風ロンド
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五日物語―3つの王国と3人の女―

2016年12月06日 | 洋画(16年)
 『五日物語―3つの王国と3人の女―』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)予告編で見て面白いと思い、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、ロングトレリス国の城(注2)の外に、様々な芸人たちが集まっています。
 城の中にカメラが入っていくと、王(ジョン・C・ライリー)と王妃(サルマ・ハエック)の前で芸人たちが芸を披露しています。
 火を使った芸に、一緒に見ている廷臣たちが笑います。
 芸人の中に身重の女がいることがわかります。
 王も笑うものの、王妃は笑わず、ついには立ち上がってその場を離れます。



 王妃の後を追う王は、「落ち着くのだ。私が悪かった。身重の女がいるとは知らなかった」などと王妃に言いますが、王妃は、部屋に入るとそこら中のものを壊し始めます。
 王は、「私が悪かった、許してくれ。私が何とかする」と言います。

 次の場面では、フードを深くかぶった背の高い魔法使いの男(フランコ・ピストーニ)が、王と王妃の前に現れます。
 王が「何者だ」と問うと、男は「私が何者であろうと、話は陛下にとり大事なこと」と答えます。
 そして、男が「お望みはお子様?」と尋ねると、王妃は「子供が得られるのなら、死をも厭わない」と答えます。
 それで男は、「危険を犯しても海の怪物を探し出し、生娘に料理させるのです」、「怪物の心臓を王妃様が食べれば、懐妊するでしょう」と言います。

 それで、王が潜水具を身に着け、手に槍を持って水の中に入っていきます(注3)。
 王は水の中に怪獣を見つけると、槍を突き刺します。
 怪獣がのたうち回ったために、王は突き飛ばされ死んでしまいます。
 他方、家臣たちは、怪獣から心臓を取り出します。
 そこに王妃が現れ、その心臓を持ち去ります。

 王妃は、その心臓を生娘に料理させます。
 生娘は、心臓を鍋に入れますが、鍋から立ち上る湯気にあたると、その腹が膨らんできます。
 他方、王妃は、部屋で心臓を貪るように食べます。

 結局、王妃も懐妊し、二人はそれぞれ赤ん坊を生みます。
 こんなところが、本作の始まりの部分ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょう、………?

 本作は、17世紀にイタリアで作られたおとぎ話『五日物語』に基づいて作られたファンタジー。3つの王国にいる女たちについての3つの物語が描かれています。話自体も面白いのですが、映し出されるイタリアの3つの城とか深い峡谷や洞窟などを背景とする映像美もなかなか素敵な作品です。

(2)本作は、イタリアのおとぎ話『ペンタメローネ』の51話の中から、『魔法の牝鹿』、『生皮を剥がれた老婆』、『ノミ』の3つを選び、統一的な視点(「女の性(サガ)」を描く:注4)に立って原作をかなりアレンジしつつ、ファンタスティックに描き出しています。

 例えば、上記(1)ではじめの部分を紹介した物語は、『魔法の牝鹿』に基づいています。
 すなわち、このサイトの記事(「魔法の牝鹿 イタリア 『ペンタメローネ』一日目第九話」:注5)に従えば、原作でも、王妃は、自分の子供と「乙女」(召使女)が産んだ子供とが仲がいいことに嫉妬心を覚え、火傷を負わせたりします。
 でも、原作では、むやみに子供を欲しがるのは、本作のように王妃ではなく王の方であり、また、全体としては、2人の子供(特に、「乙女」が産んだ子供)に焦点が当てられています。
 他方、本作では王妃に専ら焦点が当てられ、彼女は、王の死を代償にしても子供がほしいと思い、さらに産んだ子供・エリアスを独り占めしようとして、生娘の産んだ子供・ジョナを亡き者にしようとします(注6)。
 それで、本作の王妃は2度までも魔法使いを頼ることになります(注7)。

 ただ、こうした改変は、「女の性(サガ)」という本作のテーマに従って、主人公の王妃が「“母になること”を追い求め」る姿を強調しようとするからなのかもしれません(注8)。
 でも、生まれてきた2人の子供の父親は一体誰なのでしょう?
 原作と違って本作では、王妃が怪物の心臓を食べる段階で王はすでに死んでしまっていますから、特にわからなくなってしまっています。

 すべてこうしたことは、王妃の女性性を協調するために仕組まれているように思えてしまいます。
 ですが、男性側の観客として言わせてもらえば、子供を溺愛する父親だって数多く存在するのであり(注9)、子供を欲しがったり、生まれた子供を溺愛したりするのは、何も女性の専売特許とも思えないところです。

 とはいえ、そうしたいちゃもん(注10)をこうしたおとぎ話につけてみても、あまり意味があるとも思えません。
 それに、本作が「女の性(サガ)」をテーマとして描いているという点自体、日本語の公式サイトで言われている一つの見方に過ぎないともいえます(注11)。
 ことさらそんな見方に囚われることなく、海の怪獣が出てきたり、エリアスとジョナを襲う怪物が登場したりするのを(注12)、ファンタジーとして愉しめばいいのでしょう(注13)。

(3)渡まち子氏は、「こだわりのアーティストが作った、大人のための濃厚なファンタジーである」として70点を付けています。



(注1)監督はマッテオ・ガローネ(脚本にも参加)。
 原作はジャンバティスタ・バジーレ著『ペンタメローネ』(ちくま文庫)。
 映画の原題は「Il racconto dei racconti」(英題は「tale of tales」)。

 なお、出演者の内、最近では、ストロングクリフ国の王役のヴァンサン・カッセルは『美女と野獣』で見ました。
 また、 『ミラノ、愛に生きる』や『ボローニャの夕暮れ』に出演していたアルバ・ロルヴァケルが、『ノミ』に基づくハイヒルズ国の話の中で、王女・ヴァイオレットベベ・ケイブ)を鬼(オーガギヨーム・ドロネー)から救い出そうとするサーカス一家の母親の役を演じています。

(注2)ロケ地は、シチリア島の「ドンナフガータ城」。

(注3)この場面の撮影が行われたのは、シチリア島の「アルカンタラ渓谷」とされています。

(注4)公式サイトの「イントロダクション」に、「400年の時を経て、世界最初のおとぎ話が描くのは、現代と変わることのない女の“性(サガ)”」とあります。

 なお、この文章の内の「世界最初のおとぎ話」というのは、確かに『ペンタメローネ』が400年前に書かれたものとしても、例えば、日本のおとぎ話の典型である「かぐや姫」は1000年くらい前のものですから(Wikipediaのこの記事)、成立しないのではと思います(Wikipediaの「ペンタメローネ」に関するこの記事が言うように、「ヨーロッパにおける最初の本格的な民話集」なのでしょう)。

(注5)あるいは、このサイトの記事

(注6)エリアスとジョナを演じるのは、IMDbによれば、双生児の兄弟(クリスチャン・リージョナ・リー)とのこと。



(注7)原作においては、「長い白ひげを生やした賢者」の話を聞くのは1回だけです。
 他方、本作の王妃は、エリアスを探し出しジョナを亡き者にしようとして、2回目の要請を魔法使いにします。そして、王妃は怪獣に変身して、エリアスやジョナに襲いかかります。

(注8)公式サイトの「ストーリー」に、「ある王国では、不妊に悩む女王が“母になること”を追い求め」とあります。

(注9)例えば、秀頼を溺愛した秀吉。

(注10)さらにいちゃもんをつけるとしたら、例えば、『生皮を剥がれた老婆』に基づくストロングクリフ国の話では、どうして妹の老婆・ドーラハイリー・カーマイケル)はあれほどまでに若さと美貌を求めるのでしょうか〔妹は、燃えたぎる野望を持つ姉のインマシャーリー・ヘンダーソン)と違って、変化を好まず、貧しい生活のままで良いと思っていたのではないかと思います〕?



 また、ハイヒルズ国の話では、王女・ヴァイオレットが嫁いだ鬼はなぜ殺されなければならないのでしょうか(描かれているだけでは、鬼は別段悪いことをしているようにも思えないのですが←あるいは、人間を殺して食べていたのでしょうか)?
 特に、ハイヒルズ国の話では、最後に王女が鬼の首を国王(トビー・ジョーンズ)に見せて、「こんな男のところに私は嫁いだのだ!」と言って非難しますが、婿選びの際に国王は既に鬼を見ているのではないでしょうか?

(注11)これも一つの見方に過ぎませんが、本作における王妃の行動を見ていると、魔法のような外力に頼って自分の欲望を達成しようとしてもろくな結果にしかならない、という教訓が得られるのかもしれません(なにしろ、王妃が焦って怪獣に変身せずとも、エリアスはジョナをもう追いかけることはないでしょうから)。

(注12)さらには、3つの王国の城〔上記「注2」の「ドンナフガータ城」、アンドリアの「デルモンテ城」(ハイヒルズ国)、アブルッツオ州の「ロッカスカレーニャ城」(ストロングクリフ国)〕とか様々の自然の景観〔上記「注3」のアルカンタラ渓谷、トスカーナの「ソヴァーナの洞窟」(ハイヒルズ国)、「サッセートの森」(ストロングクリフ国)〕も楽しむことができます。

(注13)なお、ハイヒルズ国の話の中では、王女・ヴァイオレットが城の中でギターを演奏しながら歌う歌う場面が描かれています!





★★★☆☆☆



象のロケット:五日物語  3つの王国と3人の女

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