映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ニュースの真相

2016年08月26日 | 洋画(16年)
 『ニュースの真相』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)『ブルージャスミン』や『キャロル』で鮮烈な印象を残したケイト・ブランシェットが出演しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の始めの方では、共和党のブッシュ大統領の再選について、45%が賛成、49%が反対しているなどの世論調査の結果が言われています(注2)。
 そして、2004年10月の字幕が出て、本作の主役のメアリー・メイプスケイト・ブランシェット)が、編み物をしながら法律事務所のロビーで待っている姿が映し出されます。
 受付が「どうぞ」と言うので、メアリーは弁護士のハイビーアンドリュー・マクファーレン)の部屋に入っていきます。
 メアリーが編み物を手にしているのを見てハイビーは、「あなたが編み物を?」と言いますが、メアリーは、「急進的なフェミニズム運動家には似つかわしくないとでも?」といなします。
 そして、彼女は、自分の仕事について「20年間ニュース番組をやってきた。エミー賞を2回とった」、「私はプロデューサー。話を見つけてきて、チームを組んで、素材を切ったり貼ったりする」、「CBSの「60ミニッツ」をやっている」などと話します。

 映画はそこから半年ほど前の4月の時点に戻ります。
 「CBSイブニング・ニュース」のアンカーマンのダン・ラザーロバート・レッドフォード)の功績を称えるセレモニーが開かれ、CBSニュース社長のアンドルー・ヘイワードブルース・クリーンウッド)がダンの輝かしい経歴を紹介します。

 そして6月になると、メアリーは、ブッシュ大統領の軍歴詐称疑惑について、取材チーム(注3)を結成して調査にとりかかりますが、さあ、一体どんなことになるのでしょうか、………?

 2004年の米国大統領選の最中にブッシュ大統領を巡る疑惑がCBSから流されましたが、本作は、その報道を巡る実話(注4)に基づいて制作された作品。報道を担当したプロデユーサーが主人公で、伝説的なジャーナリストがアンカーマンを務める番組でそのスクープは公表されます。ところが、番組で取り上げられた新証拠の文書(注5)が偽造だとの強い批判に晒されます。本作では、真実を暴こうとするジャーナリズムの裏側を描き出そうとする意気込みは伝わってくるとはいえ、制作意図などが余りよくわからない感じがしました。



(2)事前に本作に関する情報をほとんど持たないで見たこともあり、本作も、『スポットライト 世紀のスクープ』と同じように、結局はメアリーたちの報道が正しかったということで終わるのだろうと、見ながらクマネズミは思い込んでいました(注6)。
 ところが、『スポットライト』とはまるで違って、その結末は随分と苦いものです。
 となると、どうして今頃になって、こうした作品を制作するのかな、と訝しく思えてしまいます(注7)。
 『スポットライト』のように、報道内容が真実であるとされれば、権力対報道という対立構造の中で報道が勝利したこととなって、それを映画にして公開することは大きな意味を持つことでしょう。
 ところが、本作のように、報道内容は誤報とされて、関係者が解雇されてしまうのであれば、そのプロセスを映画化することにどんな意味があるのでしょうか?
 あるいは、報道するに際しては十全な裏取りをしないと大変なことになるということを(注8)、本作は言いたいのでしょうか?でも、そんなことは、わざわざ映画にしてまで言わなくとも、人はよくわかっていることでしょう。
 もしかしたら、新証拠とされる文書について問題があると調査委員会に判定されたものの、実際は真正なものだったのだと、本作を通じて世の中に訴えたいのでしょうか?
 あるいはそうなのかもしれません。
 でも、それなら、まずそのように判定した調査委員会の判断を覆すような新たな事実を取り上げる必要があるでしょう。でも、本作でそんなものが描かれているようには思われません。それができないからといって、こうした作品を制作して雰囲気的に世の中に訴えるというのは、よく理解できないところです(注9)。

 しかしながら、本作で描かれているのが事実(あるいは、それに近いもの)としたら、問題の文書は決して捏造されたものではない(注10)としてCBS側はどうして社を挙げて反撃しなかったのか(注11)、なぜCBS側は簡単に調査委員会を設置してしまい、それもブッシュ寄りの委員の多い構成になってしまったのか(注12)、などよくわからないことも多いなという感じがしてきます。
 それに、一番注目すべきブッシュ大統領の軍歴詐称問題自体はどうなってしまったのでしょうか(注13)?
 あるいは、見る者にそんな疑いを抱かせるのが本作の狙いなのかもしれません。

 ただ、よくわからない感じが残るとはいえ、なにしろ、ストーリーがジェットコースターのように急速に展開しますし(注14)、それに、今最も脂が乗り切っているケイト・ブランシェットが主人公のメアリー・メイプスを熱演し、往年の名スター(今でも?)のロバート・レッドフォードがアンカーのダン・ラザーを演じているのですから、映画自体はなかなか面白く仕上がっていると思います(注15)。

(3)渡まち子氏は、「アメリカのジャーナリズムの苦い失敗を描いた映画だが、ラストに一筋の希望の光がみえたのが救いだった」として65点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「女性ジャーナリストとそのチームの努力で生まれた大スクープが一転してバッシングの嵐にさらされるまでの速さが怖い。孤立無援で真実の追求こそジャーナリストの命、と語るメイプスの聴聞会での毅然とした態度こそこの映画の最大の見どころ。女は度胸である」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)監督・脚本は、ジェームズ・バンダービルト(『ホワイトハウス・ダウン』の脚本)。
 原作はメアリー・メイプス著『大統領の疑惑』(稲垣みどり訳、キノブックス)。
 本作の原題は『Truth』〔原作の原題は『Truth and Duty』〕。

 なお、出演者の内、最近では、ケイト・ブランシェットは『キャロル』、ロバート・レッドフォードは『ランナウェイ 逃亡者』で、それぞれ見ました。

(注2)2004年の米国大統領選挙における民主党の大統領候補は、今の国務長官のジョン・ケリー氏。

(注3)取材チームは、メアリーのほかは、ロジャー・チャールズ中佐(デニス・クエイド)、ジャーナリストのマイク・スミストファー・グレイス)、ジャーナリズム学科教授のルーシー・スコットエリザベス・モス)から成っています。



(注4)この記事が、その内容について実に手際よく記載しています。

(注5)「キリアン文書」。
 劇場用パンフレット掲載の「キーワード」によれば、「ブッシュが第111航空団に所属していた際の上司で、故人のジェリー・B・キリアン中佐によって署名されたとされる、ブッシュの職務怠慢を裏付ける非公開の文書」とのこと。

(注6)ただ実際には、もしこのスクープ報道が真実だとされていたら、一大スキャンダルとなってブッシュ大統領の再選はおぼつかなかったのでは、ところがブッシュ大統領は、そんなにスキャンダルまみれになることもなく再選されたはずですから、そうなるとこの報道はどうなったのだろう、という疑問もクマネズミの頭の中には湧き上がっていましたが。

(注7)早くも2005年には本作の原作である『Truth and Duty』が出版されており、映画化されたのはそれから10年後のこと。

(注8)例えば、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「「ニュースの真相」と調査報道」の中で、筆者のジャーナリスト・高田昌幸氏は、「この映画の前半に思わず、「まずいよ、もっとファクトを詰めないと」とスクリーンに向かって言いたくなった場面があった」として、元空軍の将軍が文書の内容を否定しなかったことをもってメアリーが「将軍が事実を認めた」と判断してしまった場面を挙げています。高田氏は、「「否定しなかった」と「認めた」の間に横たわる差異、それらを含むわずかな「隙」が取材チームの命取りになっていく」と述べています。

(注9)そんなところから、この記事によれば、本作に対してアメリカの保守派などが大反発しているようです。

(注10)その当時存在しなかったWordを使わなくては打てない文字があるという問題は、その当時にあってもその文字を打つことのできるタイプライターが存在したということがわかり、解決したように思われるのですが?
 それに、メアリーは、調査委員会の席上、「文書の偽造者がいるとしたら、彼は、1971年の空軍のマニュアルについて深い知識を持っていなければなりません。ブッシュのオフィシャルな記録を知っている必要もありますし、テキサス空軍内の当時の関係者について全て知っていなくてはなりません。それにキリアン中佐がこうしたメモを保管していることも知っている必要があります。彼は、我々を騙すためにこうしたことを知っていなければならないのです。みなさんは、その彼がWordを使ってこの文書を作成したと考えるのでしょうか?」と、随分と説得力のある発言をしています。
 また、調査委員会の結論でも、この文書が偽物であると断定していないはずです。

(注11)ニュース・ソースの問題は、あくまでも隠し通せばいいのではないでしょうか?

(注12)とはいえ、逆の構成にすれば、委員会の中立性という点で攻撃されるでしょうが。

(注13)メアリーは、調査委員会に呼ばれた時の最後の方で、「私たちの報道は、ブッシュがその任務を果たしたかどうかについてでした。でも、誰もそんなことを話そうとしません。人々が話したいのは、フォントや偽造や陰謀説です」などと発言しています。



(注14)2004年の6月にメアリーのチームが結成され、しばらくして「キリアン文書」に辿り着き、9月8日に「60ミニッツ」で放送、直後からネットで批判が高まり、調査委員会が設置され、翌年の1月にメアリーはCBSを解雇されてしまうのです。

(注15)メインのストーリーもさることながら、本作では、ダラスに住むメアリーの家族が彼女の仕事をよく理解している点など、メアリーの私的な側面をも描き出しています。
 例えば、息子のロバートがインタビュアーの真似をしてメアリーにインタビューします。
 ロバートが「長い間いなかったけど、何をしていたの?」と尋ねると、メアリーは「ニューヨークでニュースの仕事をしていました」と答えます。
 ロバートが「それはどんなこと?」と訊くと、彼女は「いろいろ質問します。質問することによってリポーターは真実に辿り着きます」と答えます。
 ロバートが「カメラマンと一緒だった」と訊くと、彼女は「はい」と答え、さらにロバートが「僕は新しいカメラを持てるかな?」と訊くと、彼女は「それはお父さんに訊かないと」と言い、「インタビューはおしまい」と宣言します。




★★★☆☆☆



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トランボ ハリウッドで最も嫌われた男

2016年08月23日 | 洋画(16年)
 『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)映画『ヘイル、シーザー!』を映画評論家の町山智浩氏が解説している記事において、同氏が「この映画はね、奥の方でつながっている映画」であり、「これ、両方見ないとよくわからない」とした上で、本作についても合わせて解説しているのを見て、本作も早いところ見たいものだと思っていました。
 さらに、本作の主演のブライアン・クランストンがアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたことでもあり、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の始めの方では、1930年代の大恐慌時代にアメリカ人が随分と共産党に入党した、などの時代背景が字幕で示され、本作の主人公のトランボブライアン・クランストン)も、1943年に共産党に入党したとされます。

 本作の最初の舞台は、1947年のロサンゼルス郊外にあるトランボの自宅(注2)。
 トランボは、妻のクレアダイアン・レイン)や子供達と楽しく暮らしています。



 バスタブで湯に浸かりながらタイプを打つトランボの姿が映し出されたり、また『ジョーという名の男』や『夫は還らず』などのトランボが脚本を書いた映画のポスターが映し出されたりもします。



 さらに、トランボは、映画の撮影現場に出向いて、俳優のエドワード・G・ロビンソンマイケル・スタールバーグ)と台詞の調整をします。

 他方で、著名なコラムニストのヘッダ・ホッパーヘレン・ミレン)が、トランボのことを「筋金入りの共産主義者(registered communist)」と非難し、ストライキを報じるニュース映画の終了後、映画館を出ようとしたトランボ夫妻に、男が「裏切り者!」と叫んで水をかけたりします。



 さあ、この先トランボにはどんな運命が待ち構えているのでしょうか、………?

 本作は、大変な才能を持っていたにもかかわらず、戦後すぐの赤狩りによってまともな活動ができなくなってしまったハリウッドの脚本家・トランボの運命を描いた実話に基づく作品。トランボは、議会侮辱罪で実刑をくらいハリウッドを追放されながらも、偽名を使ったりして『ローマの休日』やB級作品の脚本を書いて厳しい時代を不屈の精神で乗り切り、復帰後も『スパルタカス』や『栄光への脱出』といった著名作品の脚本を手がけています。本作は、複雑な政治的な動きが実に手際よく取り扱われ、ジョン・ウエインやカーク・ダグラスなども実名で登場したりするので、娯楽映画として楽しんで見ることができる作品ではないかと思いました。

(2)このエントリの冒頭で触れた記事の中で、町山氏は、『ヘイル・シーザー!』の中に「10人ぐらいのハリウッドの脚本家がいて、集まっていて。共産主義について語っているっていうシーン」があり、「すっごく肝心の大事なポイント」にもかかわらず、「いまの若いお客さんがみるとなんだかわからない」だろうと思われるが、本作は「その10人のうちの1人の、実在の人物であるダルトン・トランボの伝記映画」だと述べています。
 クマネズミは、『ヘイル・シーザー!』を取り上げた拙エントリの「注7」において、この「10人の脚本家」(いわゆる「ハリウッド・テン」)のことを少し取り上げましたが、町山氏が「ダルトン・トランボにそっくりな人も出てきます。『ヘイル、シーザー!』の方に」と述べているにもかかわらず、同作を見た際には、クマネズミは気が付きませんでした。なにしろ、その時にはトランボについて何も知らなかったのですから!
 逆に、本作を見た目でもう一度『ヘイル・シーザー!』を見直してみたら、また面白いかもしれないと思いました。
 それに、町山氏が、「(本作は)いわゆる保守系メディアとかからすごく叩かれた」、「「トランボが弾圧されたっていうことよりも、トランボが信じていた思想に問題はないのか?」って言われた」、「(トランボは)ソ連を理想として信じるってい」っていて、「トランボはアメリカ政府と権力に対して言論の自由と思想の自由を掲げて戦ったんですけど。その頃のソ連には言論の自由も、思想の自由もないわけですよね。だからその矛盾が描かれていないって、この『トランボ』っていう映画はすごく批難されたんですよ」と述べている点には興味を惹かれます(注3)。

 ただ、本作におけるトランボは、共産主義を素朴に信じていたようにしか描かれておらず(注4)、そうなるのも、映画で主に描かれているのが1956年のフルシチョフ首相によるスターリン批判前の事柄なのだから仕方がないのではないか、ソ連の実態が明らかになり、しかもそのソ連が崩壊してしまった今の時点にたって当時のトランボを批判しても余り意味がないのでは、という感じがクマネズミにはします(注5)。
 むしろ、本作は、トランボの置かれていた当時の厳しい状況を、ジョン・ウェインデヴィッド・ジェームズ・エリオット)を登場させたり、当時のニュース映画を挿入したりすることで(注6)、なかなか巧みに描き出しており、さらには、ハリウッド・テンの一人としてアーレンルイス・C・K)という人物を作って(注7)、融通の利かない彼の行動から(注8)、逆にトランボが柔軟な思想の持ち主であることが浮かび上がってもくるのです(注9)。

 本作でもう一つ目を引くのが、トランボとその家族との関係です。
 自分たちは何一つ悪くないにもかかわらず、父親の思想のために大層酷い扱いを家族は受けることになります。ですが、妻のクレアの上手な執り成しがあったりして、一家のまとまりは返って強まります。
 トランボ一家のそれぞれが互いに抱く愛情の深さがうまく描かれている点からしても、トランボらが当時の連邦議会によって受けた理不尽な弾圧の不当さを、見る者は十分に感じることができるように思います(注10)。

(3)渡まち子氏は、「弾圧の被害者だった怒りや自分を売った人々への憎しみではなく、赦しに満ちたトランボは、アメリカの暗部である赤狩りを客観的な目で描くこの映画にふさわしい人物像だ。大人の映画ファンにすすめたい秀作である」として80点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「鋭いタッチの告発映画ではないのだが、半世紀以上まえの赤狩りが、遠い日のできごととばかりはかぎらない、という感覚はのこす」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 藤原帰一氏は、「映画は淡々と進むだけで、脚本家をモデルにした作品にしては脚本もごくふつうですが、もとの話に力があるので気になりません。奥さん役のダイアン・レインが適役だし、赤狩りの先頭に立つコラムニストを演じるヘレン・ミレンはさすがの演技」と述べています。
 向井康介氏は、「闘う脚本家の背中に、同業の僕は畏敬の念を禁じえないが、それと同時に、自主規制で自家中毒に陥り、互いの足を引っ張り合うことにしか関心のない現在の日本の精神性を憂えてしまう」と述べています。



(注1)監督はジョイ・ローチ
 脚本はジョン・マクナマラ
 原作はブルース・クック著『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(手嶋由美子訳、世界文化社)。
 原題は『TRUMBO』。

 なお、出演者の内、最近では、ブライアン・クランストンは、『GODZILLA ゴジラ』、ヘレン・ミレンは『黄金のアデーレ 名画の帰還』、マイケル・スタールバーグは『スティーブ・ジョブズ』、ルイス・C・Kは『ブルージャスミン』、エル・ファニングは『マレフィセント』、ジョン・グッドマンは『ミケランジェロ・プロジェクト』で、それぞれ見ました。

(注2)Wikipediaの記事によれば、『恋愛手帖』(1940年)によってアカデミー賞脚本賞にノミネートされたりしていますから、トランボは脚本家としてすでにかなり脚光を浴びており、自宅もかなり広大でした。

(注3)ただ、その記事の中で、町山氏が、『ローマの休日』における「真実の口」の場面について、「トランボ自身が議会で宣誓させられて「真実を言え」って言われて、それを拒否して刑務所にブチ込まれたっていう経験が入っているでしょう」と述べたり、「最後に「2人が出会って恋をしたことは誰にも言わない」っていうことになって」いることについて、「あのへんもトランボの「絶対に言わない」っていうことなんでしょうね」とまで述べたりするのは、やや穿ちすぎのような気もしますが。

(注4)例えば、娘のニコラエル・ファニング)との次のような会話があります。



 ニコラに「パパはコミュニストなの?」と訊かれて、トランボは「そうだよ」と答え、さらに「法律違反?」と訊かれると、トランボは「違う」と答え、「パパは危険な思想家?」と訊かれると、トランボは「パパは国を愛している」「政治は良いのだが、モット良くなりうるんだ」などと答えます。

(注5)しかしながら、いくら後になって分かったこととはいえ、スターリン政権下のソ連はヒトラーの第3帝国をも凌ぐ恐怖政治を行っていたのであり、そんなソ連を神聖視するハリウッド・テンらの行動がすべて是認されるべきものとはいえないかもしれません。それで、『ヘイル、シーザー!』のように、ハリウッド・テンが確保した身代金を持ってソ連の潜水艦に乗り込む男(チャニング・テイタム)を戯画的に描いて茶化したりするのも(結局、身代金の入ったバッグは海に沈んでしまいます)、また取りうる方向なのかもしれないと思ったりもします。

(注6)映画俳優組合の委員長だったドナルド・レーガンの議会における証言は、当時のニュース映画を使って描いています。

(注7)劇場用パンフレット掲載の「PRODUCTION NOTES」に、「ハリウッド・テンの視点や行く末を描くために、登場人物を追加した一人がアーレン・ハードだ。彼はブラックリストに載せられた他の作家たちを合わせた架空の人物である」と述べられています。

(注8)トランボが、勝ち目のない訴訟をするのはやめて、偽名でいいから脚本を書き続けて金を稼ぐべきだと主張したのに対し、アーレンは思想・信条を曲げずに、あくまでも訴訟を続けるべきだと主張します。

(注9)トランボが柔軟な思想の持ち主だからこそ、ブラックリストに載っているにもかかわらずトランボに仕事を回してくれる映画プロデューサーのフランク・キングジョン・グッドマン)が現れたり、また、カーク・ダグラスディーン・オゴーマン)がトランボに『スパルタカス』の脚本を書いてくれるよう依頼にやってくるのでしょう。

(注10)本作のエンドロールの最後に、本物のトランボがインタビューを受けている場面が映し出されます。そこでは、インタビュアーから、「オスカーをもらったらどうしたいですか?」と尋ねられ、トランボは、「13歳になる娘がいますが、彼女が3歳の時からずっと私はブラックリストに載っていました。彼女は、私が書いた映画のタイトルは全て知っています。ですが、これまでずっと秘密にしていました。それで、友人からあなたのお父さんは何をしているのと訊かれた時が大変でした。私はオスカーを彼女にあげたい。「もはや重荷になる秘密はないんだよ、私たちは名前を取り戻したんだよ」と彼女に言ってあげたい」と答えます。
 こんな思いをトランボが持っていたとしたら、この娘・ニコラの観点から映画全体を制作するということも考えられるかもしれません!



★★★★☆☆



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きみがくれた物語

2016年08月19日 | 洋画(16年)
 『きみがくれた物語』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)ここらあたりでラブストーリー物もいいだろうと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、本作の主人公のトラヴィスベンジャミン・ウォーカー)が観客に向けて話しています。「僕の話に注目してくれ。人生の秘密を教えるのだから。いいかい、全ては決断にかかっているんだ」、「人生を変えてしまう選択がある。今後の生活のどの瞬間も、その選択にかかっている」。

 次いで、病院の場面で、そこにやってきたトラヴィスが医師のライアントム・ウェリング)に、「彼女と話をしたくて」と言うと、ライアンは「それがいい」と答えます。さらに、トラヴィスが「僕にあんまり優しくするな」と言うと、ライアンは「あまり頑なになるな」と応じます。

 ここで7年前に遡ります。舞台は、ノースカロライナ
 若い男女が船に乗ってワイワイ騒いで遊んでいます。
 その船がトラヴィスの家の前の桟橋に着いて、皆が降りて、庭でバーベキューをします。
 酒が入り、大声で談笑し、流されている音楽のボリュームも上げられます。

 すぐ隣の家では、ギャビーテリーサ・パーマー)が、バッハの無伴奏チェロソナタをかけながら、医者になるべく勉強中。
 夜、トラヴィスが一人で庭の椅子に座っているのを見計らって、ギャビーは文句を言いに行きます。
 するとトラヴィスは、「あなたは僕を見ていたね?」と言います。
 それに対しギャビーは、「90メートルも離れているのに、どうやって見れるの?」と返します。
 トラヴィスは、自分の名前を告げ、「きみが名乗る番だけど?」、「なぜそんなに怒っているの?」と訊きます。
 ギャビーは自分の名前を言い、煩すぎることを非難し、さらに「オタクのバカ犬が、ウチの可愛いモリーを弄んだ。それで、モリーの乳首が膨らみ、体重も増えた。あなたに監督責任がある」と申し入れます。

 これがトラヴィスとギャビーの最初の出会いなのですが、さあこれからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、主人公の若い獣医が隣に引っ越してきた医師志望の若い女性と結婚するまでに至る話と、妻になったその女性が交通事故に遭って植物人間になってしまってからの話という2部構成になっています。ただ、それぞれの話は御都合義的な内容で新鮮味がなく、その上、それぞれの話が連続的に描き出されているせいでしょうか、一つの作品としてまとまりがなく、焦点がボケてしまっている感じがします(注2)。

(2)本作には医者が随分とたくさん登場します。
 といっても、主人公のトラヴィスは、父親・シェップトム・ウィルキンソン)と一緒にペットクリニックを営む獣医ですが。
 他方、ヒロインのギャビーは医師になろうと勉強中です(病院に勤めてもいます)。



 またその恋人のライアンは病院に勤務する医師なのです。
 このような設定にすると、ギャビーが飼い犬・モリーの診察をしてもらいにペットクリニックに行くと、そこでトラヴィスと顔を合わせることになったり(注3)、また、ギャビーの飼い犬・モリーの出産に際し、ギャビーが隣家のトラヴィスの助力を受けることにもなったりして、2人の仲が親しくなるのに好都合といえるでしょう。
 また、交通事故に遭って植物状態になったギャビーを診るのがライアンで、そのためライアンとトラヴィスが出会ったりすることにもなります〔これが、上記(1)で書いた2人の出会いの背景です〕。

 好都合なのはこれだけではありません。
 トラヴィスは、これまでモニカアレクサンドラ・ダダリオ)といい仲なのですが、彼がギャビーに惹かれているのを察知すると、モニカはさっと身を引いてしまうのです(注4)。
 それに、彼の妹・ステフマギー・グレイス)までも、彼がギャビーを選ぶようにそれとなく忠告したりします(注5)。

 これだけ環境が整っていれば、いろいろ紆余曲折はあるにせよ、トラヴィスとギャビーが一緒になるのは時間の問題でしょう。

 さらに言えば、本作の原題が『The Choice』とされているのは、前半だと、ギャビーが、医師のライアンと獣医のトラヴィスのどちらを選択するのか迫られるからでしょうし、後半では、植物状態のギャビーに対し、延命措置を継続するのかどうかの選択をトラヴィスがせざるを得なくなるからでしょう。
 でも、前者については、ギャビーは、ライアンとの婚約を解消し、トラヴィスの前からも姿を消してしまうのであり、実際には、決断しなければならない状況を前にして逃げてしまっているように思われます(注6)。
 また、後者についても、トラヴィスは、ライアンに「90日経過すると元に戻れる確率は1%になってしまう」と言われても、さらにギャビーがサインした「蘇生処置拒否を指示する書類」を見せられても、当惑するだけであり、しっかりとした判断に基づいて延命措置の継続を決断したようには思えません(注7)。



 それに、元々「選択」とか「決断」とかは、個別的な内容を云々しないでそれ自体を抽象的に取り上げてみても、それほど意味があるようには思えないところです。
 上記の(1)で書いてあるように、トラヴィスは、「人生は選択であり、何を選ぶ決断するかで人生が決まってしまう」というようなことを映画冒頭で仰々しく述べています。
 ですが、そんなことは事々しく言われるまでもないのはないでしょうか?人が生きているということは、毎瞬間あることを決断して選択しているのであり、また同時にあることをしないと決断していることでもあり、そんなことはアタリマエではないでしょうか(注8)?

 結局、ある時トラヴィスが病院に行くと、ギャビーは意識を回復していて、「遅いわよ!」と彼を迎えるのです。
 この結末は一体何でしょう?
 クマネズミには、きちんと決断できずに選択をズルズル引き延ばしていたら、たまたまこんな好結果がもたらされた、としか思えないところです(注9)。
 としたら、「人生は選択だ」「人生は決断だ」という格好のいいものではなく、「決断を先延ばしにしても、いい結果がもたらされることがある」という他愛無い教訓話になってしまわないでしょうか(注10)?

 クマネズミには、本作は、アメリカの恵まれた男女を巡る体のいいお伽話としか思えませんでした(注11)。



(注1)監督はロス・カッツ
 原作は、ニコラス・スパークス著『きみと選ぶ道』(雨沢泰訳、エクスナレッジ)。
 原題は『The Choice』(原作も:本作の邦題は、本作の原作者のベストセラー小説『きみに読む物語』に引きずられたものでしょうが、その意味するところがサッパリわかりません!少なくとも、原作の邦訳版のタイトルの方が意味は通ります。どうしてそのタイトルを本作の邦題にしなかったのでしょう?)。

 なお、出演者の内、トム・ウィルキンソンは、『グローリー 明日への行進』や『グランド・ブダペスト・ホテル』などで見ています。



 また、ニコラス・スパークスの小説を原作とする作品は、『親愛なるきみへ』と『きみに読む物語』(DVD:このエントリの「注10」の「補注」で少々触れています)を見ました。

(注2)常識的・素人的には、後半の物語をメインとして、前半の物語はもう少し簡略にして、主人公の回想という形で挿入すれば、一つの作品としてまとまりが出てくるのではないか、と思います。

(注3)トラヴィスの話から、彼の飼い犬のモビーは7ヵ月前に去勢手術を受けていて、モリーの妊娠には無関係であることがわかります。

(注4)モニカは、トラヴィスに、「私より彼女が好きなのね。プライドを捨てて。女なら誰でも戦う男を望んでいる。今、戦って。彼女もあなたを想っているはず」と言って、あっさりと去っていくのです。

(注5)ステフは、トラヴィスに、「モニカは好きよ。でもチャンスは隣家にある。兄さんは、困難な道を避けるものね」とけしかけます。

(注6)結局は、彼女の家にまで押しかけて行って強引にプロポーズすることによって、トラヴィスはギャビーと結婚することになるのですが。

(注7)母親の墓の前で、トラヴィスは、「時間がないのに決断がつかない」「きっと彼女は怒っているだろう、でも決められない。彼女を失うなんて…」と妹・ステフに言うだけです。ステフの方は、「彼女を失う訳にはいかない。文句を言う人がいたら、私が相手になる」と言っていて、むしろ彼女の方がしっかりと判断している感じです。

(注8)唐突で恐縮ですが、最近DVDで見た『恋人まで1%』(2014年)の冒頭でも、主人公のジェイソンザック・エフロン)が、「男と女には決断の時がある。共に歩むか別の道を進むか決めるんだ」といったことを観客に向かって喋ります。

(注9)トラヴィスは、秘密の場所(ギャビーにだけ教えた)に東屋を建て、そこにギャビーが家の軒にかけていた貝殻の飾り物をぶら下げますが、もしかしたらそれがギャビーの意識回復に効果があったのかもしれません(ギャビーが信じている月と星に貝殻が共振して、その波動がギャビーにまで伝わった!)!

(注10)まして、意識を回復したギャビーは「(トラヴィスが)耳元で話していたことは全部聞こえていた」と言うのですから、それがそのとおりならば、植物状態の患者については、今後延命措置を停止できなくなってしまうのではないでしょうか。

(注11)本作の劇場用パンフレット掲載の「story」には、トラヴィスについて「裕福ではないが」と記されていますが、海岸べりに比較的大きな家を持ち、また自家用の船に友人たちを乗せて遊びまわっているトラヴィスは、とても裕福な男だと思えてしまいます(まあ、日本的な基準なのでしょう!)。



★★☆☆☆☆



象のロケット:きみがくれた物語
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秘密 THE TOP SECRET

2016年08月16日 | 邦画(16年)
 『秘密 THE TOP SECRET』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編で見て、面白そうだなと思って映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭では(注2)、警察庁・科学警察研究所・法医第九研究室(通称「第九」)が行っているMRI捜査について字幕で簡単な説明が与えられ(注3)、次いで、解剖室に設けられている解剖台の上には、レイプ事件の被害者の死体が置かれています。
 担当の監察医は、「ネクタイのような布による絞殺」と言い、ソバにいた刑事の青木岡田将生)は、「20代後半の会社員」「数字を扱う職業」などと被害者のことを推定していますが、入ってきた眞鍋刑事(大森南朋)は(注4)、「グタグタ煩い」と言って青木の話を聞きません。
 監察医が「人工中絶の跡がある」と言うと、眞鍋は「最近の女どもはマッタク」と怒ります。



 次の場面は、眞鍋が容疑者として捕まえた男を取調室で尋問しています。
 眞鍋が「あの女に会ったのはお前だな?」と尋ねると、男は「受験勉強中だった」と答え、眞鍋が更に「10年付き合っていた女が去年結婚したな。その女はお前に嫌気がして逃げていったのか?」と訊くと、男は「もうやめてください」と答えます。
 この様子を青木は、取調室の隣室でガラス越しに見ています。

 青木が柔道場で汗を流していると、第九の捜査員・今井大倉孝二)がやってきて、「第九じゃあ体は使わんぞ」と言いながら、青木を第九の室長の・警視正(生田斗真)のところに連れて行きます。
 青木は、「明日付の異動なんですが」と言いながら、さらに「薪室長はどんな人なんですか」と尋ねると、今井は「会えば分かる」とだけ答えます。

 次の場面は、薪が聴衆に向かってMRI捜査の重要性について話をしています。
 薪が「MRI捜査とは、死者が生前に見た記憶を映像化して、それを元に捜査をするやり方で、記憶再現捜査だ」などと説明すると、会場から「どんなメリットが?」との質問があり、薪は「ローコスト」と答えます。また、「捜査員の安全性は?」との質問に対しては、「私を見てください。私はこうして皆さんの前に立っています」と答えます。

 こうした薪に青木は会うのですが、薪は、「第九はまだ正式な機関ではない。正式な機関となるために、一家殺人事件で行方不明になった長女・絹子織田理沙)を、犯人で死刑に処せられた男(椎名桔平)の記憶を探ることによって見つけ出したい」と青木に告げます。
 さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、死人の脳をスキャンしてその記憶を映像化して捜査を進める「MRI捜査」を開発した「第九」という法医学研究室を巡る近未来の物語。サイコパスによる連続殺人事件をこの捜査方法で解明しようとするところ、そこには難題がいくつも降りかかってきます。主人公の室長と新人捜査員が、どうやって困難を乗り切ろうとするのかが見どころになってきます。このところ、人間の脳とか記憶を取り上げている作品をいくつか見ましたが、本作は話の展開の仕方にいろいろ問題があるように思われました。

(以下では、本作が「ミステリー・エンタテインメント」とされているにもかかわらずネタバレをしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)人間の記憶とか脳とかに関心が高まっているのでしょうか、このところ、それを取り扱っている作品が増えてきているような感じがします。
 例えば、『スキャナー』、『インサイド・ヘッド』、『脳内ポイズンベリー』など。

 この中では『スキャナー』が、本作とかなり類似しているように思われます。
 なにしろ、同作の主人公の仙石野村萬斎)は、物体に触れてスキャニングすると、それに付着する残留思念を読み取れる超能力を持っているという設定なのです。
 脳内に蓄積されている記憶ではなく、客観的な物体に付着している思念・記憶を読み取る点が異なるとはいえ、他人の記憶をのぞき見て犯罪捜査を行うという点では同じように思われます。
 ただ、『スキャン』の仙石がスキャンして見る映像は、仙石の脳内に映し出されるだけのものにすぎないように思われますが、本作のMRI捜査で得られる映像は、第九に所属する捜査員が各自のディスプレイで見ることができるのです。
 そうであれば、『スキャン』の場合よりも本作のMRI捜査の客観性が高まっているように考えられます。

 そして、この映像を証拠として犯人逮捕に突き進めるように思えるところ、本作においては、脳内に保存されている記憶は主観を通しているため、法的な証拠にはならないとされています。
 これはどういうことでしょうか?
 あるいは、人が何かを見る場合、純粋客観的にではなく主観を通した上で見るために、その記憶は主観による歪みが伴ってしまう、ということかもしれません(注5)。
 ですが反対に、保存されている記憶自体は客観的なものであって、ただそれを当人が呼び出して見ようとすると(思い出そうとすると)、主観を通すために歪んでしまう、といったことは考えられないでしょうか?
 というのも、例えば精神を病んで幻覚が見えている患者でも、治療がうまくいった時はそうした幻覚は消滅してしまうのですから、保存されている記憶自体が歪んでいるわけでもないようにも思えるところです。
 仮にそうであれば、記憶を再現して得られる映像は客観的なものとして法的な証拠になるのかもしれません。

 まあ、それはともかく、本作でよくわからないのは、死んだ人の脳から取り出した記憶の映像は、何も薪とか青木とかが自分の脳内で再現させなくとも、捜査員が見守るモニターに映し出されるにもかかわらず、どうして彼らはわざわざヘルメットを被ってその映像を脳内に再現させようとするのでしょうか?脳内に再現すると鮮明度が違ってくるということでしょうか?



 また、脳内に再現されたり、モニターに映し出されたりする映像は、単なる映像であって音声はありません。したがって、検査対象の死者が何を考えていたのかは、殆どの場合読み取れないものと思われます(注6)。
 とすると、本作では、貝沼吉川晃司)の脳内映像を見た捜査員が何人も自殺したとされていますが、殺人の場面など見慣れたはずの捜査員がどうして死を選ぶのかよくわからない感じがします。
 特に、薪の右腕で親友だった鈴木松坂桃李)は、その映像を見て狂気に陥り、貝沼の脳を破壊した挙句、薪に自分を射殺してくれと懇願する有様です。



 ですが、貝沼の脳内映像は、28人を殺害した場面と、その殺害の意味が薪へのプレゼントだと貝沼自身が述べているものであり、貝沼がサイコパスだとわかっていれば、そうした映像を見てもそんなに取り乱すことはないように思えるのですが(注7)。

 よくわからない点をもう少し挙げると、貝沼は薪に当てつけるために28人を殺した(プレゼントした)とされていますが、さらに、9名の人間が同時に自殺した事件についても、貝沼の関与が言われています。ですが、どうして貝沼はそんなことをしたのでしょう(注8)?
 それと、貝沼と絹子の関係がイマイチよくわかりません(注9)。
 モット言えば、植物状態で寝たきりになっている青木の父親の関わる事件の方はどうなったのでしょう(注10)?

 そして、一番わからないのが、何が“トップ・シークレット”なのかという点です。
 もしかしたら、薪を中心とする恋愛関係なのかもしれませんし(注11)、あるいは、映画のラストに映し出される人々の実に楽しげな様子を写した映像(注12)がヒントになっている事柄なのかもしれません(注13)。

 本作がこのようにわからないのは、映画の方に問題があるのではなくて、むしろクマネズミの理解力に問題があるのかもしれません。そして、わからない点を解消するには再度本作を見ればいいのでしょう。ですが、そんな時間的余裕もありませんので、どうしても本作に対する評価は低いものになってしまいます(注14)。

(3)渡まち子氏は、「映像は斬新なセンスでビジュアル化されていて、引きこまれる。どこか無国籍な世界観や、科学という理詰めの中に怒涛の感情が流れ込む矛盾した設定など、不思議な手触りの作品に仕上がっている」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「生田斗真、岡田将生、松坂桃李といった若手の人気者をそろえたキャスティングといい、原作といい、監督の人選といい、ちょいと個性的なオンナノコ観客をターゲットに作ったと思われるが、この出来ではどうにもならない」として20点しかつけていません。



(注1)監督は、『るろうに剣心 伝説の最後編』などの大友啓史
 脚本は、『凶悪』の高橋泉と大友啓史。
 原作は、清水玲子氏の漫画『秘密―トップ・シークレット―』(白泉社)。

 なお、出演者の内、最近では、生田斗真は『グラスホッパー』、岡田将生は『想いのこし』、吉川晃司は『るろうに剣心』、松坂桃李は『人生の約束』、リリー・フランキーは『二重生活』、椎名桔平は『64 ロクヨン 後編』、大森南朋は『寄生獣 完結編』、大倉孝二は『ロマンス』、木南晴夏は『想いのこし』で、それぞれ見ました。

(注2)Wikipediaのこの記事によれば、原作漫画の舞台は2060年の日本とされているようです。

(注3)上記「注2」で触れたWikipediaの記事においては、「「MRI捜査」では、死者の脳から記憶を映像として再現する事が出来るが、解明不能な事件の真相にさえ繋がる有効な捜査手段でありながら、世間から強い偏見と反発に晒されていた。捜査を担当する職員たちも、凶悪犯罪に関わる凄惨な映像と日々向き合うことで苦悩し、心を病む者も多い」とされています。

(注4)眞鍋刑事は、映画版のオリジナルキャラクター。
 もう一人、精神科医の斎藤(リリー・フランキー)も原作漫画にはありません(絹子の父親が犯人とされた事件ではモルヒネが使われたことから、薪は眞鍋に、誰が絹子にモルヒネを渡したのか調べるように命じ、その捜査過程で斎藤が浮かび上がってきます)。
 ただ、こうした人物、特に斎藤をわざわざ設けなくてはならない事情がよくわからないところです。

(注5)いい加減な哲学史的知識からすれば、バークリー流の主観的観念論に依拠していそうです。

(注6)第九では、捜査員の天地木南晴夏)が、再現された映像に写っている人物の唇の動きを見て、その人物が何を話しているのかを読み取っています
 ただ、サイコパスの貝沼の場合、自分の姿を拘置所の鏡に写し、それを自分が見ることによって、自分自身が話している映像を脳内に残しましたが、それは最後の場面であり、大量の殺人を行っている時にはそんなことはしなかったものと思います。
 なお、よくわからないのは、拘置所の房内で自分の首を切って自殺する貝沼を薪が房の外から見ている場面が本作では描かれていますが、これは誰の視点から見た映像なのでしょう?

(注7)なにしろ、貝沼の脳内映像を見た鈴木が狂気に襲われた姿は凄まじく、松坂桃李も渾身の演技を見せています。しかしながら、見る方はどうしてそうなるのか、と訝しく思えてしまいます。
 ただ、貝沼の脳内映像を見ると貝沼に催眠術をかけられて人を殺すようになる、という事情があるのだったら話は別でしょう。でも、そんなことは本作で描かれていないように思われます。

(注8)貝沼はサイコパスのために何人でも殺人を犯すのでしょう。ただそうであれば、28人の殺人について薪との関係性をまことしやかに貝沼は言っていますが、それは単なる言いがかりに過ぎず、薪はその点をまともに受け取る必要は全く無いように思われます。

(注9)貝沼が行う自己啓発セラピーに絹子が参加している映像が映し出されたように思います。とすると、絹子の一家殺害事件は、貝沼の催眠術に従って行われたのでしょうか?でも、絹子は、元々サイコパスであり、男を何人も家に引っ張り込んで関係を持ち、それが分かってしまったために家族を殺したのではないでしょうか?

(注10)別に何もかも一つの作品の中で解決してしまう必要性はないのかもしれません。わからない部分は、映画を見た者の方であれこれ想像すればいいのでしょう。ただ、そうだとしても、どうして、ラストの方で、青木が寝たきりの父親を介護する姿を思わせぶりにわざわざ映し出すのでしょう?

(注11)薪と鈴木、薪と青木とのボーイズラブ的な関係か、あるいは、科警研の監察医・雪子栗山千明)と鈴木、雪子と薪との関係に関するものなのでしょうか?

(注12)地面すれすれの位置から見上げて写した映像なので、あるいは盲導犬の視点が捉えたものなのかもしれません。
 しかしながら、犬が見ている世界は、果たして人間と同じもの(視点が低いということしか違いがない)でしょうか?犬と人間とで脳の構造は違っているはずで、そうであれば脳内映像のあらわれ方も違ってくる(というか、人間の脳内では再現できない)のではないでしょうか?

(注13)世の中は殺人事件が絶えず起こるような暗いものではない、この映像で映し出されるように実に楽しげなものなので、世に中をモット信じなさい、ということでしょうか?でも、逆に、本作のようなエンタメ作品を映画館で楽しく見ている間にも、中近東では激しい戦争による民間人の犠牲者が何人も出ているのではないでしょうか?

(注14)「ミステリー・エンタテインメント」と銘打つ以上、一度見れば大体が納得できるように制作して欲しいものと思います。



★★☆☆☆☆



象のロケット:秘密 THE TOP SECRET
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ロスト・バケーション

2016年08月12日 | 洋画(16年)
 『ロスト・バケーション』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編を見て面白そうに思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、海岸でボールを蹴って遊んでいる男の子が、ウェアラブルカメラの装着されたヘルメットが流れ着いているのを目にします。
 男の子はそのカメラを手にして、保存されている映像を見ます。その映像には、サーフィンをしている男性が写っていますが、突然なにものかに襲われたようで、大声で叫んでいます。
 これを見た男の子は走り去りますが(注2)、海岸には壊れたサーフボードが打ち上げられています。

 ここでタイトルが入り、続いてメキシコの海岸に向う車が映し出されます(注3)。
 乗っている医学生のナンシーブレイク・ライブリー)が、運転している現地人のカルロスオスカル・ハエナダ)に写真を見せて、「以前、ママがここに来たことがある。これはその時の写真。妊娠していた。それで生まれたのが私」、「ママは癌で死んだばかり」などと話します。
 また、ナンシーは、「一緒に来た友達のアンナはホテルにいる。テキーラを飲み過ぎて悪酔いした」とか、「スペイン語は学校で教わっただけ。スペイン語よりも解剖のほうが得意」とも話します。

 目的地の海岸に着き、ナンシーは車から降ります。
 空中から俯瞰した映像が挿入され、そこが実に綺麗な入江であることがわかります。
 カルロスは「ここは楽園だよ」と言い、サーフボードを車から下ろします。



 ナンシーが謝礼金をカルロスに手渡そうとすると、彼は「うちはすぐそこだから」と言って受け取りません。別れ際にカルロスが、「ここからどうやってホテルに戻るの?」と尋ねると、ナンシーは「Uberよ」と答えますが、通じません(注4)。

 ナンシーは、日焼け止めオイルを塗ったり、ウェットスーツを着たりして、入念に準備をした上で海に入っていきます。



 既に、現地人のサーファーの男が2人海の中にいます。そのうちの一人が、ナンシーに「アメリカ人?」と尋ねるので、彼女は「そう、テキサスから来た」と答えます。

 こうしてナンシーは、とんでもない事態が待ち受けているとも知らずサーフィンを始めますが、さあいったいどうなるのでしょう、………?

 本作は、バケーションでメキシコのリゾート地にやってきた医学生が、凶暴なサメの襲撃から如何に独りで身を守るかというお話です。実に美しい海岸の風景の中に徐々に不気味なものが近づいてきて、彼女が独り狭い岩礁に取り残されてしまう上に、サメの襲撃が執拗を極めるものですから、見ている方のドキドキ感はこの上なく高まります。独り取り残された困難な状況からなんとか脱出するという映画はこれまでもいくつも作られているとはいえ、その中にあって本作はまずまずの出来栄えではないかと思いました。

(2)本作は、ある意味で、最近見たばかりの『シン・ゴジラ』と類似しているのかもしれません。何しろ、同作では、ゴジラという巨大生物(本作におけるサメに相当するかもしれません)に突然襲われた日本がいかにして単独で国土を守るのかが描かれているのですから。
でも、それでは話が大きくなりすぎてしまいます。

 むしろクマネズミは、本作のように動きのある作品とは対照的に動きの少ない作品ながら、『127時間』を思い出しました。
 同作では、米国ユタ州のブルー・ジョン・キャニオンに一人で自転車に乗って出かけた主人公のアーロンジェームズ・フランコ)が、誤って谷底に落下してしまいます。彼がどうやってそこから脱出するのか、というところが見どころの実話に基づいた作品です。

 両作とも、冒頭とかラストでは複数の登場人物が見られるとはいえ、大部分の時間は主人公一人の姿が映し出されます(注5)。

 そして本作では、サメに襲われたナンシーは、海岸から200mくらいのところにある岩場に逃げ場を見つけますが、そのまわりをサメがうろついているために動きが取れなくなってしまいます。



 加えて、その岩場は狭く、満潮になれば海面の下に隠れてしまうのです。そうなれば、サメの餌食になるのは必定でしょう。
 加えて、ナンシーは、サメに襲われた際に左足の大腿部に深い傷を負ってしまっていますし、また強い太陽光線にさらされてもいるのです。
 なんとか、早急にここを脱出して海岸にたどり着かないと、死ぬ他はありません。

 他方『127時間』では、本作のように凶暴な動物が襲ってくることはありませんが、ナンシーと同様にアーロンは隔絶した状況に置かれます。というのも、アーロンが谷底に落下した際、同時に落下してきた岩と石の壁との間に右手が挟まってしまい、身動きがほとんど取れない状態なのです。
 その上、アーロンが落ちたのは人が付近を通っても気が付かないほど入り組んだ谷底であり、なおかつ彼は携帯電話などの連絡手段も持ってはいません。
 なんとか自力でそこを脱出しなければ、死ぬほかないという状況です。

 こうした状況から脱出するために、本作では、ナンシーが、乾坤一擲、近くに浮かんでいる金属製の大きなブイのところまで泳いで行こうとします。
 また、『127時間』の方でも、のるかそるかの一大決心をします。

 その結果、ナンシーもアーロンもなんとか窮地を脱出することができるのですが、両作ともそこに至るプロセスが実に上手く描かれていて、単純極まるシチュエーションながら、見るものの関心を逸しません。

 更に言えば、両作においてはビデオカメラがかなりの役割を果たします。
 本作では、上記(1)のはじめの方に記したウェアラブルカメラの映像がナンシーの救出に繋がりますし(注6)、『127時間』では、谷間に落ちた自分の様子を持っていたビデオカメラに収め、救出後は、その映像を基に同作が制作されることになるのです。

(3)渡まち子氏は、「大ヒット作「ジョーズ」以来、サメ映画は常に作られているが、本作ではヒロインがたった一人で戦うこと、すぐそこに岸が見えているのにたどり着けないというもどかしい状況など、個性的な設定とサバイバルの方法に創意工夫があり、上映時間90分の間、緊張感が途切れることがまったくない」として70点をつけています。



(注1)監督は、ジャウマ・コレット=セラ
 原題は「The Shallows」(邦題はどのような意味なのでしょう?)。

 なお、ブレイク・ライブリーは、『ザ・タウン』で見ました。

(注2)これがラスト近くのシーンに繋がります。

(注3)本作の舞台はメキシコ海岸とされていますが、ロケ地は、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、「オーストラリア シドニーの約700キロほど北東に浮かぶ小さな島ロード・ハウ島」とのこと。

(注4)なお、ナンシーは、車の中で2度ほど目的地の海岸の名前をカルロスに尋ねるのですが、なぜか2度ともカルロスはまともには答えないのです〔1度目は無視しますし、2度目は「気をつけて」と言うだけです(まさか、“Cuidese”(?)という名称ではないでしょう!)〕。

(注5)本作では、ナンシーのそばに傷ついたカモメがいて、見ている方は心が和みます。他方、『127時間』でもワタリガラスの飛ぶ姿が映し出されるものの、アーロンとの交流はありません。

(注6)海岸で子供が見たのは、男のサーファーがサメに襲われる映像でしたが(その男のヘルメットにウェアラブルカメラが装着されていました)、ナンシーは、そのヘルメットを拾い上げて、自分の様子や家族へのメッセージなどを収録します。



★★★☆☆☆



象のロケット:ロスト・バケーション

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シン・ゴジラ

2016年08月09日 | 邦画(16年)
 『シン・ゴジラ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)評判が大層高いので、映画館に行ってきました。
 夏休みのこともあり映画館は満席状態で、公開から2週間も経っていないのに、もう劇場用パンフレットは完売状態でした!

 本作(注1)の冒頭は、先ずタイトルが映し出された後、東京湾羽田沖で漂流しているプレジャーボートの「グローリー丸」。海上保安庁の職員が乗り込んで船内を見るも、誰もいません(注2)。すると、付近の海に大きな水柱がたち、爆音も。
 他方で、東京湾アクアラインのトンネルの壁に亀裂が入り、海水が一気に流れ込みます。

 総理官邸では関係者が集められ、原因と対策が検討されます。
 原因としては、「メルトダウンではないか」「海底火山の噴出ではないか」(補注1)などの見解が各大臣から提出されるも、・官房長官(柄本明)は「そうは思えない」と言い、矢口・官房副長官(長谷川博己)が「巨大な生物の可能性」と口にすると、大河内・総理(大杉漣)から「そんなものがいるはずがない」と一蹴されてしまいます。
 外の廊下で矢口は、赤坂・総理補佐官(竹野内豊)から「いい加減なことを言ってかき回すのはやめておけ」と忠告されますが、矢口は「あらゆる可能性を考えた上で忠告した」と答えます。



 関係省庁の担当者らが集められ各種の会議が開催されますが、議論が紛糾するだけで埒が明かないところに、映像が届いて巨大生物であることが判明。
 3名の学識者が呼ばれるも有効な意見は得られず、矢口は志村・秘書官(高良健吾)の知り合いの尾頭・課長補佐(市川実日子)を呼んで話を聞きます。
 その間にも、謎の巨大生物は大田区の運河を進んでいきます。
 さあどうなるのでしょうか、………?

 本作は、東京の都心を縦横に破壊する巨大怪獣・ゴジラの動きをなんとかして押しとどめようとする人々の動きを描いた作品。3.11の時の対応ぶりを髣髴とさせる日本政府内の描き方になっている上に、自衛隊を動員してゴジラに攻撃を加える映像などが従来のもの比べて格段にリアルに描き出されており、映画全体に怪獣映画らしいエンタメ性が余り感じられないとはいえ(注3)、期待したものを上回る出来栄えです。

(2)総じて、本作における登場人物の喋りの速さとか、そこに詰め込まれている情報量の多さなどから、1度見たくらいではなかなかうまく咀嚼できない憾みが残ります。
 ですから、以下においては、思いついたことをとりとめもなくいくつか申し上げるに留めたいと思います。DVDで見直したりすれば、また違った見方ができるかもしれません。

イ)本作は、巨大怪獣が登場するファンタジー映画にもかかわらず、それを迎え撃つ日本の政治家や官僚らの対応ぶりが実にリアルに描かれていて、見る者を飽きさせません(注4)。
 それも、総勢で300名を超える俳優が様々な場所で次から次に短時間出演するものの、各登場人物がそれぞれきちんと丁寧に性格づけられているので驚いてしまいます。

 中でも女優の4人が印象に残ります。
 石原さとみは、『進撃の巨人』における兵器班長・ハンジのぶっ飛んだ演技とは異なっていながらも、米国大統領特使のカヨコ・アン・パタースン役を誠に活き活きとこなして目を引きますし(注5)、花森・防衛大臣役の余貴美子は、東京都知事に選出された元防衛大臣の小池百合子氏さながらの雰囲気を醸し出しています。また、尾頭・環境省自然環境局野生生物課長補佐役の市川実日子も、その冷静極まる喋り方などが如何にもの感じです(象牙の塔にこもる研究者とはまた違った研究者像なのでしょう)。
 それに、矢口の率いる対策本部で、一人黙々と皆にお茶を配る官邸職員役の片桐はいりも忘れられません。



ロ)本作は、「現在の日本に巨大な生物が出現したらどうなるかを描いたリアルシミュレーション映画」(注6)とされることが多いようです。
 確かに、現在の日本の状況からすれば、本作で描かれているような状況になってもおかしくはないでしょう。というか、本作の徹底したリアルな描き方からすれば、必ずやこうなる、と思えてしまいます。
 ただ、そうだからといって、本作を、例えば3.11のような大災害とか、外国による日本侵略といった状況にまで応用できるか考えると、そこには疑問が残ります。
 言うまでもありませんが、3.11の大津波、あるいは首都直下型地震などは、本作におけるゴジラ来襲のような想定外の事態だとしても、本作のようにいきなり自衛隊の出動が求められることにはならないでしょうし(注7)、その出動が求められるとしても、災害後の復興の場面が専らとなるでしょう(補注2)。
 また、外国による日本侵略の場合も、いきなり外国軍隊が敵前上陸し、それを自衛隊のヘリや戦車などが待ち構えるといった事態は考えられず、仮にそういう状況になるとしたら先ず考えられるのは、航空機とかミサイルによる地上攻撃といったものではないでしょうか?それも、日本の場合、海に囲まれていますから、攻撃してくる外国の状況をかなりの程度で事前に把握することができるでしょうから、そう簡単にはいかないと思われます(注8)。

 本作を見ながら、東京を襲うゴジラが象徴するものはなんだろうかと考えてしまいましたが、貧弱なクマネズミの頭脳をもってしては、ゴジラはゴジラなんだな、としか思えませんでした。

ハ)矢口がゴジラに対する作戦を「ヤシオリ作戦」と命名したことに興味を惹かれました。リアルな描写が沢山盛り込まれている本作の中に、こうしたファンタジックなところがあちこち顔を出すからですが。
 そこで、「ヤシオリ」をネットで調べると、この記事に遭遇しました。なるほど、日本神話のヤマタノオロチを討つ際に用いられた「八塩折之酒(やしおりのさけ)」なのですか(注9)。
 そうだとしたら、映画を見ている最中は、血液凝固剤を血管に注入せずにゴジラの口から流し込んで意味があるのかと思いましたが、映画制作者は意図的にそうしたのだなとわかりました(注10)。
 そして、ゴジラは、あるいはヤマタノオロチを模している部分もあるのかもしれません。
 例えば、本作のゴジラの形態は時間の経過とともに変化しますが(注11)、ヤマタノオロチの共時的な「8」を通時的なものとみなしているようにも思われます。

ニ)下記の(3)で触れる前田有一氏が、「この映画には、登場人物というよりは登場人物「群」がおり、人間ドラマではなく人間「群」ドラマがあるとみるべきである。そしてそれは、まさに日本人の本質を言い当てている」とまで述べているのにはどうかなと思ってしまいます(注12)。
 確かに、3.11における政府対応などを考えてみると、本作で描かれているようなものだったかもしれません。
 そして、欧米では個人に価値を置く個人主義が一般的なのに対して、日本は集団で行動しがちな集団主義の国だ、とよく言われてもいます。
 でも、果たして、「個」ではなく「群」で対応することが「日本人の本質」とまで言えるでしょうか?
 わざわざ戦国時代の個性あふれる武将らを持ち出すまでもなく、歴史を少々かじってみればそれが決して「日本人の本質」ではないことが分かるように思われます(注13)。
 いずれにしても、こういう作品を見て、そして直近の日本人たちを見て、簡単に日本人論を振りかざすのはどうかなとクマネズミには思えます。

(3)渡まち子氏は、「感傷的なドラマや恋愛劇はいっさいないので、一瞬も気を抜けない。エヴァに通じる作家性に貫かれた終末映画となったこの「シン・ゴジラ」には、賛否があるだろう。だが私はこの力作映画に“賛”だ」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「「シン・ゴジラ」は期待をはるかに上回る大傑作に仕上がって」おり、「ゴジラシリーズは回を重ねるごとに子供だましな作風になり、やがて飽きられてシリーズ休止。そして10年単位で休んだ後に再開、の流れを繰り返してきた。その都度マンネリの反省を踏まえた力作が登場することになるわけだが、「シン・ゴジラ」はそんな復活作の中でも別格の出来栄えである」として90点をつけています。
 柳下毅一郎氏は、「巨大怪獣の格好良さを強調する構図とカメラアングル、あるいは自衛隊の戦力を総動員しての対ゴジラ大作戦。それこそかつての特撮ファンが見たかった理想のゴジラ映画であろう。自作を引用してしまう庵野の限界をも見せたとしても」と述べています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「米国の要求、国際社会の圧力、それに対応する日本の苦境が生々しい。避難や疎開の光景は東日本大震災を思い起こさせる。われわれの平穏な日常がいかに脆弱な基盤の上に立つか。そこに震災後の日本が映る。処方箋はない。ただ希望は示す。破壊後の世界を描いてきた庵野の祈りだろうか」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)総監督・脚本は庵野秀明、監督は樋口真嗣

(注2)ボートの中の机の上には、メガネとか靴、宮沢賢治の詩集『春と修羅』(そこに収められている詩「春と修羅」はこちら)が遺留されており、また「私は好きにした。君たち(ら?)も好きにしろ」の書き置きも。
 これらは牧悟郎博士(岡本喜八の写真が使われています)のものとされますが、牧博士が、事故で海中に転落したのか、あるいは自殺したのか、一切わかりません。
 ネットを見ると、牧博士が海中に没してゴジラになって蘇ったと解釈する見方もあるようです(例えば、この記事)。その場合には、「呉爾羅」(この記事によれば、大戸島の伝説の怪物)=「阿修羅」なのかもしれません。

(注3)例えば、本作には格別のヒーローやヒロインが登場しません。ちなみに、この記事によれば、本作の山内章弘プロデューサーは、『シン・ゴジラ』の「新しさ」の一つは、「いわゆる普通の映画でヒーローになる人たちは出てこない映画」であり、そのように制作することが「庵野総監督の方針だった」と述べています。
 なお、山内プロデューサーは、同じ記事において、「今の日本人が震災後のさまざまな不安にどう立ち向かっていくのか。そのテーマを、ゴジラなくして、2時間のエンタメとして面白く見せることは難しい。僕らの財産であるゴジラで日本を覆う不安を象徴的に表現することで、物語として面白く見せることができるのです」と述べていますが、その点はどうでしょう?

(注4)この記事において、本作の佐藤善宏プロデューサーは、「完成した映画でファンタジーなのはゴジラだけ」と述べています。

(注5)本作における石原さとみの英語力については、この記事というよりも、同記事につけられている様々のコメントが参考になるように思います。

(注6)上記「注4」で触れた記事によります。
 なお、それがどのくらいのリアルさなのかは、例えばこの記事が参考になるかもしれません。

(注7)本作では、自衛隊出動の根拠として、有害性物を駆除するための治安出動なのか、兵器の使用が容易な防衛出動なのか、といったことが議論され、結局は脅威を取り除くための防衛出動ということになります。

(注8)外国が日本に攻撃を仕掛けてくることが事前に分かった場合、日本は自衛権の範囲内でどこまでのことができるのかは議論が別れることでしょう。

(注9)『古事記』のこのページに、スサノオノミコトが「汝等、釀八鹽折之酒、亦作廻垣、於其垣作八門、毎門結八佐受岐此三字以音、毎其佐受岐置酒船而、毎船盛其八鹽折酒而待」(この武田祐吉氏の現代語訳によれば、「あなたたち、ごく濃い酒を醸し、また垣を作り して八つの入口を作り、入口毎に八つの物を置く臺を作り、その臺毎に酒の槽をおいて、その濃い酒をいつぱい入れて待つていらつしやい」)と命じる場面が描かれています。

(注10)ゴジラの口の中に血液凝固剤を流しこむ実行部隊は「アメノハバキリ」とされていますが、アメノハバキリは、Wikipediaの記事によれば、「日本神話に登場する刀剣。須佐之男命がこの剣でヤマタノオロチを退治したと伝わる」とのこと((なお、この記事によれば、「天羽斬」は『古語拾遺』に出てくるようです))。

(注11)この記事によれば、今後進化する可能性のある形態までも含めると5つの形態が認められるようです(こちらの記事では、本作のラストまでで5形態)。

(注12)政治的な問題につながるので余り触れたくはありませんが、前田氏が、「日本単独で対処できない問題を同盟国や多国籍軍との連携でカバーするという集団的自衛権の欺瞞と恐ろしさを、端的に表現している。他国に頼ることでどれほどの国益を失うかを、きっちりと描いている」と述べている点ですが、それはそのとおりにせよ、言い換えれば、アメリカなどの西欧各国は、本国にゴジラが来襲する前に自国防衛のために、日本での核兵器使用を決めたわけで、それは西欧諸国が身勝手だということではなく、自国を守ることとはそういうことだということをも示しているように思われます(自国がゴジラの襲撃を実際に受けて始めてそれに対処するのではなく、自国から離れたところにいてもそれが自国を襲う恐れがあればその段階で対処するというのも自国を防衛するという考え方の中に入ってくるのではないでしょうか?)。

(注13)たまたま読んでいる本からの引用で恐縮ですが、『南朝研究の最前線』(呉座勇一編、洋泉社)所収の「朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!」という論考において、中井祐子氏は、「承久の乱前の院政期には、重要な事案でも院がごく少数の近臣に諮問するだけで決めてしまい、議政官会議が十分に機能していなかった。そのため、後嵯峨より前の院政は、院一人の思惑に左右される専制的な院政であった」と述べています(P.28)。こんな些細な例を見ても、日本ではいつも「個」ではなく「群」で対応する、というわけのものではなかったことが分かるのではないでしょうか?

 なお、池田信夫氏は、この記事において、「日本型デモクラシー」においては、「稟議書に象徴されるように、すべての意思決定はボトムアップで螺旋状に行なわれ、棚上げされた最高権力者は部下の決定に対して拒否権をもたない。後醍醐天皇や織田信長のように実質的な最高権力者になろうとする者はすべて倒され、徳川家康のように「天皇から授かった権威」によってその権力を飾る者が生き残る」と述べていますが、しかし、「これは日本独特の構造ではなく、天皇と将軍の関係は、中世初期のカトリック教皇と神聖ローマ帝国の皇帝の関係に近い」とも述べています。
 仮に日本人が集団主義的だとしても、それは「日本人の本質」といえるわけではないということではないでしょうか?

(補注1)この記事によれば、東京湾で海底火山が爆発することはありえないとのことです。

(補注2)なお、この記事に従えば、「いくらゴジラが圧倒的な破壊力を有していても、あくまで天変地異的な現象なのであって、「国または国に準ずる組織による我が国に対する急迫不正の武力攻撃」ではないのですから、害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当なはず」であり、武器を使用するなら「治安出動」も考えられるとのこと。




★★★★☆☆



象のロケット:シン・ゴジラ
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ヤング・アダルト・ニューヨーク

2016年08月05日 | 洋画(16年)
 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』を有楽町のTOHOシネマズスカラ座/みゆき座で見ました。

(1)ナオミ・ワッツアマンダ・サイフリッドが出演しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、イプセンの戯曲『棟梁ソルネス』(The Master Builder、1892年)からの引用です(注2)。
 そして映画が始まり、主人公のジョシュベン・スティラー)と妻のコーネリアナオミ・ワッツ)が、友人のフレッチャーアダム・ホロヴィッツ)とマリーナマリア・ディッジア)の夫婦の家に行って、彼らの赤ん坊を見ています。
 コーネリアが、赤ん坊に向かって『3匹の子豚』の話をします。「3匹の子豚がいて、木の枝を集めて家を作ったところ、狼がやってきて、…」と言ってジョシュの顔を見ると、彼は「狼はそれを吹き飛ばした、だっけ?」と言います。コーネリアは、「その前よ。子豚は家を建て直しました」と話を続けようとしますが、結局、話の続きがわからなくなってしまい、赤ん坊も泣き出します。
 そこへ母親のマリーナがやってきて、赤ん坊に乳を飲ませます。

 コーネリアとジョシュは自分たちの住まいに戻ります。



 コーネリアは、「とにかく3匹の子豚の話は覚えていない」「あなた、子供欲しいの?私はいらない」「魔法で子供が生まれるならいいけど」などとジョシュに言い、ジョシュも「今のままの生活でいいよ」と答えます。
 ジョシュが「ローマに行ったのは?」と訊くと、コーネリアが「2006年」と答え、ジョシュが「もう8年も経ったのか!」と言い、コーネリアも「あの頃は2人ともずっと若かった」と応じます。
 コーネリアが「去年は旅行していない」と言うと、ジョシュが「自分のドキュメンタリーを完成させる必要があたった」と答え、コーネリアは「でもまだ出来上がっていない」と応じます。
 そして、コーネリアは「あの2人はこのところセックスレスよ」とジョシュに言います。

 こんな風なジョシュとコーネリアの夫婦は、この後ジェイミーアダム・ドライバー)とダービーアマンダ・サイフリッド)の若い夫婦と出会うのですが(注3)、さあどのように展開していくのでしょうか、………?



 本作は、ニューヨークで暮らすドキュメンタリー映画監督の夫と映画プロデューサーの妻の中年夫婦が、監督志望の夫とアイスクリーム職人の妻という20代の若い夫婦と知り合って、ジェネレーション・ギャップを感じつつもお互いに影響を与え合うというお話。いつもながらのニューヨーク物(それもブルックリン物)ながら、今のそこでの人々の生活ぶりがいろいろとこちらに伝わってくる感じがして(注4)、会話の量の多さに少々辟易としながらも、まずまず楽しんで見ることが出来ました。

(2)劇場用パンフレットの「INTRODUCTION」に、「(ノア・バームバック監督は、)本作でも同じく等身大のミドルエイジ、アメリカで言うところのジェネレーションXの夫婦を主人公にしながらも、彼らをかき乱すミレニアル世代の若者たちとのモラルや価値観のズレ、成功への夢と野心のぶつかり合いにリアルかつユーモラスに迫り、誰もが共感できるエンタテイメントに結実させた」と述べられてもいるように、本作はジェネレーション・ギャップを巡る物語と受け取るのが一般的ではないかと思われます。

 でも、クマネズミには、アメリカの人々の生活ぶりを幅広く知らないせいでしょう、本作でジェネレーション・ギャップがそんなに明示的に描かれているようには思えませんでした。

 確かに、本作においては、ドキュメンタリー映画の監督である主人公のジョシュは、妻の父親で同じようにドキュメンタリー映画の監督であるブライトバートチャールズ・グローディン)と上手くいってませんし、自分に擦り寄ってきた監督志望の若者のジェイミーとも、結局は良好な関係を築けなくなってしまいます。
 こうなるのは、60代の義父や20代のジェイミーと40代のジョシュとの間にあるジェネレーション・ギャップによるものだと見ることもできるのでしょう。

 ですが、そんなに大仰なものではなく、単に、ドキュメンタリー映画制作を巡ってそれぞれが持つ考え方の相違によるものではないかと、クマネズミには思えてしまいます。

 ジェイミーは、映像の時系列が事実と異なっていても作品自体が面白ければそれでいいのではないかと考えているのに対し、ジョシュは、ドキュメンタリー映画はあくまでも事実のとおりでなくてはいけないと考えます(注5)。
 また、義父のブライトバートは、ジョシュがその編集に四苦八苦しているドキュメンタリー作品を見ていろいろ批判をし(注6)、また自分の業績を称える記念祝賀会に乗り込んできてジェイミーの映画制作の姿勢を批判するジョシュに対して、「異なるアプローチによって世界にアプローチをするのはいいことではないか」などと言います。
 ですが、映画を見た限りでは、そうした発言はそれぞれの個人的な見解であって、それがジェネレーション・ギャップからもたらされているようには思えないところです(注7)。

 更に言えば、ジョシュがジェイミーとダービーが暮らす家に行くと、アナログレコードが壁際に設けられた専用戸棚にぎっしりと並べられていたり、古い映画のVHSテープがいくつも置かれていたりします。
 これらも、若いニューヨーカーの最近の暮らしぶりについてクマネズミが無知なためなのでしょうが、ジェイミーの世代の特色が描かれているというよりも、むしろ、単にジェイミーの個人的な趣味のようにしか思えませんでした。

 また、映画のはじめの方では、上記の(1)で書いたように、子どもの問題が取り上げられています。ジョシュとコーネリアは、随分と努力したにもかかわらず子どもが出来ません(注8)。それで、親しかったフレッチャーとマリーナの夫婦とも幾分離れた感じになってしまいます(注9)。
 これは、ジョシュとコーネリアの夫婦が、同世代の仲間とは距離をおいていることを意味しているのかもしれません。でも、子どものいない夫婦など世代にかかわらずいくらでも存在するわけですから、これもジェネレーション・ギャップに関連付けて捉える必要もないように思えます。

 とはいえ、同時代の空気を吸って生きてきたということは人の考えの中で一定の意味を持つことでしょうから、具体的にそれがどんなものなのか提示するのは難しいにしても(注10)、「ジェネレーション」「世代」という捉え方を無碍に否定するわけにもいかないでしょう。
 それに、本作の中でなされている個々の会話はなかなか面白く、またジェイミーらに誘われてジョシュとコーネリアが参加する「アヤワスカ」(注11)の儀式などの風俗とか、登場人物が装う様々のファッションといったものはとても興味深いものがありました。

(3)渡辺祥子氏は、「中年世代と若い世代の出会いを通して描かれる出来事を見ながら、ウディ・アレンの作品群を思い出したのは、両者の持つ悩めるインテリ・ニューヨーカーの匂いに通じるものを感じるからだろうか?」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)監督・脚本はノア・バームバック
 原題は「While We’re Young」
 なお、邦題の意味するところがわかりません。どうして、3つの単語が併記されているのでしょうか?特に、『ヤング≒アダルト』についてのエントリの「注1」に書きましたように、「Young Adult」は「少女向け小説」という文学ジャンルをも表しているようですし。

 また、出演者の内、最近では、ベン・スティラーは『LIFE!』、ナオミ・ワッツは『ヴィンセントが教えてくれたこと』、アダム・ドライバーは『スター・ウォーズ フォースの覚醒』、アマンダ・サイフリッドは『親愛なるきみへ』で、それぞれ見ました。

(注2)引用された箇所では、棟梁のソルネスと不思議な少女ヒルデとの会話がなされていて、ソルネスが「若者たちは私を動揺させるので、ドアを閉めて閉じこもっている」と言うと、ヒルデは「ドアを開けて若者たちを中に入れるべきと思う」と答え、それに対しソルネスが「こっちから開ける?」と言うと、ヒルデは「そうすれば、若者たちは優しく静かに中に入ってくることが出来、それはあなたにとっても好都合なはず」と答えます(概要)。
 なお、この記事によれば、このイプセンの戯曲からの引用と、エンドロールで流れるポール・マッカートニーの「Let ‘Em In」の「Someone's knockin' at the door / Somebody's ringin' the bell / Do me a favor, open the door and let 'em in.」とが、約90分の間隔をおいて対応しているようです。

(注3)ジョシュはアートスクールの講師をしていますが、ある時、講義を聴き終わったジェイミーとダービーがジョシュのところにやってきて、「あなたの映画『パワーエリート』が大好きです」と持ち上げるので、彼らの間で話が弾みます。
 なお、『パワーエリート』は世評が高かったものの10年前の作品であり、その後ジョシュは作品を発表していない(次作の編集に長いこと取り組んではいますが)、という設定になっています。

(注4)と言っても、本作のアメリカでの公開は2014年ですから、「今」といっても3年ほど前のことになるのでしょうが!

(注5)突然連絡のあった高校時代の友人のケントブラディ・コーベット)のところにジェイミーが行くと、ケントは自殺未遂で入院していて、さらに彼がアフガン帰還兵なことまでもわかってきます。ジェイミーは、ケントに関する情報がこうした順序で明らかになっていったように映画を制作するのですが、ひょんなことから(病院でのケントの映像の中に、ダービーが作ったアイスクリームが写っていたのです!)、映画の撮影に入る前からジェイミーがこうした情報を予めすべて把握していたことを、ジョシュは突き止めます。
 そうだとすれば、ジェイミーの映画で描かれている物事の展開の仕方は作り物だということになります。ジョシュは、ドキュメンタリー映画はあくまでも真実を追求するものでなくてはならないという考え方に立って、嘘をついている映画を制作するジェイミーを非難します。
 これに対し、ケントに関する個々の情報は全て正しいのだし、単にその並べ方が事実とは違っているだけであり、でもその方が面白いのだからこれでいいではないか、というのがジェイミーの考え方です。

(注6)義父のブライトバートは、「いい素材を揃えたな」と言いながらも、「トルコの政治に関するところや、シャツ工場火災に関するところは必要なのか?」、「長すぎて理解するのに時間がかかる」、「退屈した」などと批判します。

(注7)現に、ジョシュは、義父がそうした批判をするのは「コーネリアと私の間に子どもがいないせいだからでしょう?」と、実に個人的なことを言い出してしまいます。

(注8)コーネリアは2度ほど流産したとされています。

(注9)ある晩、ジョシュとコーネリアが親しい友人のフレッチャーの家に行くと、子どもを連れた夫婦が集まってパーティーが開かれていました。こういうパーティーが嫌いだと思われて、ジョシュとコーネリアは招待されていなかったのです。

(注10)元々、ジェネレーションに関する議論は、日本人論とか血液型論などと同じように、対象が広大すぎてアバウトでいい加減なものになりがちなように思えるところです。

(注11)Wikipediaの記事によれば、「向精神性の飲料。服飲すると、嘔吐を伴う強力な幻覚作用をもたらす」とのこと。



★★★☆☆☆



象のロケット:ヤング・アダルト・ニューヨーク
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ファインディング・ドリー

2016年08月02日 | 洋画(16年)
 『ファインディング・ドリー』(吹替版)をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)評判がいいので映画館に出かけてみました。夏休みに入ったこともあり、映画館はちびっこたちでごった返していました。

 本作(注1)の冒頭は、ナンヨウハギドリーが登場して、「ハーイ、あたしドリー。何でも忘れちゃう忘れん坊なの」(注2)と言います。

 次いで、ドリーの両親が登場して、「みんなでお友達のフリをして遊びましょう」と言い、ドリーのパパが「隠れるから探して」と言ったのに対し、ドリーが「はい、パパ」と答えると、パパは「パパじゃない、友達だ」と注意します。



 ドリーは「1,2,3……」と数を数えるのですが、途中でそのこと自体を忘れてしまい、違う遊びをしだします。

 両親は流れの速いところの傍に行って、パパが「ここは激流」と言い、ママも「ここには絶対に入らないこと」と注意し、パパが「この間の歌は?」と尋ねると、ドリーは「♪激流……」と歌い出しますが、「忘れちゃった」と言い、「パパとママがドリーを忘れたら?」と聞き返します。これに対しては、両親は、「絶対にあなたを忘れない。そして、あなたも私たちを忘れない」と答えます。

 ここでタイトルが流れます。

 海の中では沢山の魚が泳いでいます。
 ドリーが、「こんにちは。私、ドリー。忘れん坊なの。助けてください。家族とはぐれたの。思い出せないの」と言っています。

 そして1年後。場所は、グレート・バリア・リーフ。
 ドリーは起き出して、カクレクマノミマーリンやその子のニモに「ねえ、あたし、何を探しているんだっけ?」と言います。



 次いで、学校で先生のエイが生徒を連れて遠足に出かけようとしています。
 マーリンはドリーに、「君は生徒に入らないほうがいい。君は何でも忘れるだろ。もし、君がはぐれたら、エイ先生が困るだろ?」と言うのですが、ドリーは「あたしはエイ先生の助手になります」と言って遠足についていってしまいます。
 ですがドリーは、遠足に行った先で、アカエイの大群が引き起こす激流に近づきすぎて、飲み込まれてしまいます。さあ、ドリーはどうなるのでしょう、………?

 本作は、『ファインディング・ニモ』の続編で、記憶力にハンディキャップのあるナンヨウハギのドリーが、はぐれてしまった両親を探し出そうと懸命に努力する様子が描かれます。ドリーには、カクレクマノミのマーリンとニモの親子とか、ミズタコのハンクなどが協力します。記憶障害などのハンディキャップがあっても、他の長所を発揮すればいろいろなことを達成できると言いたいのかもしれませんが、肝心のストーリーやキャラクターに前作ほどの奇抜なところが余り感じられず、ハラハラドキドキの大冒険物を期待していた向きにとっては、やや拍子抜けといったところでしょうか。

(2)前作の『ファインディング・ニモ』(2003年)は見逃していたので、本作を見た後にTSUTAYAでDVDを借りてきて見てみました。
 確かに大ヒットしただけあって、作品は大層良く出来ていて、最後まで一気に見てしまいます。

 ただ、この前作を見てから本作を思い返してみると、本作の雰囲気が何かそぐわない感じがしてきてしまいます。
 と言うのも、前作では、人間に捕まってしまったニモを探し出そうとする父親のマーリンが、「白いボートを見た」と言うドリーに遭遇するのですが、その際ドリーは、家族にはぐれて探しているなどといったことは何も話しません。単独行動をとっているナンヨウハギにすぎないように見えます。
 それに、全体的には前作のドリーは、親とはぐれた小さな子どもというよりは、むしろマーリンに近い年格好のように見えます。特に、ニモを探している時のドリーは、かけがえのない相手(ナンヨウハギとカクレクマノミというように種類が異なりますが)と一緒にいる感じのようにも見えてきます(注3)。それに、捜索の手伝いをするのが子どもということも考えにくいように思われます。

 ところが、本作では、ニモを見つけ出した前作の時点から1年後という設定にもかかわらず、なんだかドリーは、マーリンというよりもニモの「親友」という立場になっていて、なんとなく子供時代にあるかのような印象を受けてしまいます(注4)。

 それは言い過ぎにしても、前作の雰囲気が継続されるのであったのなら、ドリーは、両親というよりむしろ自分が愛する相手を探して子どもを作り家族を持とうとするのが適当のように思えてしまいます。
 なぜ、本作のドリーは、そんなにまでして両親を探し出そうとするのか、と訝しく思えてしまうのです。
 それでも、ドリーが両親のことを思い出すこともあるかもしれません(著しい記憶障害のためにチャンスが少ないにしても)。でもそれは、もう一度両親と一緒にその愛に育まれて生活したいということではなく、せいぜい自分のルーツ探しのためということのような感じがします。

 こうした感じになるのは、あるいは、吹替版の場合、前作と同様に、ドリーを室井滋、マーリンを木梨憲武が担当していることによっていることも大きいのかもしれません(注5)。ただ、前作のドリーに当時44歳の室井滋を当てたことからも、前作のドリーはそんなに若くはないと考えられていたのではないでしょうか?

 それと、ドリーの記憶障害ですが(注6)、人間のような緊密な相互の関係を持って社会生活を営んでいないように思える魚の場合、その点が生活していく上でどんな問題を引き起こすことになるのか(注7)、よくわからない感じがします(注8)。
 現に、ドリーは、本作の始まりの時点で、マーリンやニモらと一緒に楽しく暮らしているわけですから。
 そうであれば、ドリーの記憶障害はドリーの欠点といえるほどのものではなく、またドリーの長所とされる人間語の解読といった能力も、とって付けられたもののように思えてきます(注9)。

 でも、こうしたことは、映画のストーリーが面白ければどうでもいい点かもしれません。
その点で言うと、本作もなかなかのレベルに達しているとは思いますが、前作の『ファインディング・ニモ』には及ばないような気がします(注10)。

(3)渡まち子氏は、「誰もが同じである必要などない。一人ひとりの個性を尊重し、違いを喜び合える。それは、現実社会でも理想の世界だと誰もが気付くはずだ。何より自分の可能性を信じることの大切さを教えてくれている」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「とても暖かい、そしてパワフルなメッセージというほかない。ドリーやニモのような障害を持つ子はもちろん、あらゆる子を持つ親にとってこの映画は救いであり、心強い応援歌として届くだろう」として80点をつけています。



(注1)監督・脚本はアンドリュー・スタントン

 なお、『ファインディング・ニモ』の続編ということでタイトルが『ファインディング・ドリー』になるのでしょうが、前作がマーリンとドリーによるニモ探しだったのに対し、本作はドリーによる両親探しですから、タイトルがなんとなくすっきりしない感じもします。ただ、親探しを通じてドリーが自分探しをするということだと考えれば、まあこれで構わないのかもしれませんが。

(注2)ネットで調べると、ドリーは、短期記憶障害(short-term memory loss)と言っているようです。

(注3)ドリーはマーリンに、「あなたと一緒にいると、物事をよく覚えていられる。だから一緒にいないとダメなの」等と言ったりします。

(注4)なにしろ、エイ先生の学校に行って、生徒たちと一緒に遠足に出かけるというのですから!

(注5)本作の英語版においてドリーの声を担当しているのも、58歳のエレン・デジェネレスです。

(注6)上記の「注2」で記した点からすると、ドリーはいわゆる認知症の初期にあるような感じです。ただ、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」の中で製作のリンジー・コリンズは、「ドリーは日々の生活の中で、たとえばニモの名前など、細かいことをしょっちゅう忘れてしまいます。でも感情的な記憶、たとえば自分がニモとマーリンを大好きだということは決して忘れない。だから両親に対する愛情も、ずっとドリーの中に生き続けていたのです」と述べていますが。このことからすると、あるいは、ドリーは「健忘症」なのかもしれません(この記事によれば、「健忘は、記憶障害のうち、特に言語で表現できる種類のもの(宣言的記憶)が障害された状態を指します」)。

(注7)言うまでもなく、本作で描かれている魚の世界は現実のものではなく、人間の世界になぞらえて描かれたファンタジーの世界です。でも、魚の実際の世界がかなりの程度踏まえられていなければ、あえて魚の世界を描き出すこともないように思われるところです。

(注8)本作では、ドリーのみならず、カクレクマノミのニモのヒレの一つが小さかったり、ミズダコのハンクの足が7本だったり、ジンベエザメのデスティニーが弱視だったり、シロイルカのベイリーが自分のエコロケーションに問題があると思い込んでいたりしていますが(注)、同じようなことが言えるのではないでしょうか(例えば、ジンベエザメの弱視は、水族館の水槽に入れられているから問題となるにすぎないのではないでしょうか?)?



(注9)ドリーが人間に遭遇しなければ何の意味もない能力でしょう。

(注10)前作の場合、マーリンたちは、シドニーの歯医者の水槽から抜けだしたと思ったら、こんどは漁船の網に引っかかってしまうなど、いろいろ舞台が変化しますが、本作の場合は、カリフォルニアの海洋生物研究所を巡っての場面が多く、余り変化がつけられていないように思えてしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:ファインディング・ドリー
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森山中教習所

2016年07月29日 | 邦画(16年)
 『森山中教習所』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、夏休みのある日、食堂で大学生の清高野村周平)と同級生の松田岸井ゆきの)とが向い合って座っています。



 清高が「松田さん、やっぱりダメだ」と言うと、松田が「えっ?」と聞き返します。
 清高が、「何回もデートしたけど、やっぱりダメだった」と言うと、松田は「そっか」と答え、泣きながら「どうして?」と尋ねます。
 清高が「ほらっ」とティッシュを手渡すと、涙を拭きながら松田は、「てっきりOKだと思っていたのに。酷いよね、清高君って」と言います。
 そこへ店員が「牛丼特盛りの方?」と注文の品を持ってきたので、松田が「私です」「美味しそう」「いただきます」と言って、食べ始めます。
 清高は「俺、この夏、車の免許取ろうと思う」「この辺に教習所あったかな?」「松田さんも、一緒に取る?」と言い出します。
 松田は、「無理だと思うよ」と応じ、「どうして取るの?」と尋ねます。
 清高は「車に乗ればどこにでも行けるから」と答えます。

 次の場面は、夜間の橋。
 清高の乗った自転車が後ろから来た車に撥ねられてしまいます。
 清高は道路に倒れて動きません。
 撥ねた車から出てきたのは、運転していた轟木賀来賢人)と本田音尾琢真)。2人ともヤクザです。
 本田は、「やっちゃったよ。どうすんだよ。懲役20年はいくぞ」と騒ぎます。
 轟木と本田は、清高の乗っていた自転車を橋の上から下の川に落とし、さらに清高の体を車のトランクに押し込めて、その場を去ります。

 車の中では、乗っている社長(光石研)に、轟木が「車が凹んじゃいました」と報告すると、社長は「ボロだから構わないけど、ちゃんと教習所で運転を教えてもらった方がいい」と言います。
 トランクの中では、清高が携帯の音で気が付き、あわてて携帯を見ると、松田から「免許頑張ってね」とのメールが。

 その車が、夜間にもかかわらず森山中教習所に直行したことで、結局、清高と轟木はその教習所で運転を教えてもらうことになるのですが、さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作は、高校で同級生だった大学生と若いヤクザとが、偶然にも一緒に、田舎の廃校を利用している教習所で自動車運転の講習を受けることになって、云々というお話。同級生にもかかわらずほとんど付き合いのなかったため初めは打ち解けなかった2人ながら、講習や、教官との交流を通じてそれぞれ変化していく様子が面白おかしく描かれており、大きな事件が起こるわけではないものの、まずまず愉しめる作品です。

(2)本作では、女の子と付き合っているごくフツーの大学生である清高と、すでに社会人となって、それもヤクザ社会に所属している轟木という至極対照的な2人が、教習所で一緒に過ごすというなかなか刺激的な設定になっています。



 それも、普通であれば、いくら教習所で一緒になっても、ヤクザと大学生とで付き合いなど生じないでしょうが、教習所が過疎の田舎にあって生徒数がごく少なく、さらに2人が高校時代同級生だったという接点が設けられているために(注2)、最初から2人はフツーに話し始めることになります。
 自由で保護された大学生と、不自由で保護などされていない社会人とがうまい具合に絡みあうこととなり、その点では興味深いものがあります。

 とはいえ、タイトルにもなっている「教習所」の設定が十分に生かされていないような憾みがあります。
 確かに、非公認の教習所のために、そこを卒業しても技能試験(実地試験)が免除されるわけではないこともあり、随分とマイルドでいい加減な授業となるでしょう。おまけに、教官のサキ役を演じているのが麻生久美子ですし。



 それにしても、教習所の教官と生徒を巡るよくある話(注3)は一つも起こりませんし、また、轟木は、清高を跳ね飛ばすような運転をしていたのですから、運転の技量に何か問題があるはずですが、映画ではそうしたところは余り見られず、1ヶ月ほどの教習所通いから何を学んだのかよくわからないように思えます。
 これでは、わざわざ「教習所」をメインの舞台にし、なおかつタイトルにまで持ってきた意味が余りないようにも思えます(注4)。

 また、両親がおらず施設に入っていたという轟木の設定に対応させて、清高についても、冷えきった感じの家(注5)を出たいと考えているという設定にしています。さらに、教官のサキも子持ちのバツイチなのです(注6)。
 現代社会が抱える家族の問題を様々に表現しようとしているように思われますが(注7)、これでは盛り沢山すぎるのではないでしょうか?

 でも、総体的に大層ユルユルな雰囲気の映画にもかかわらず、ヤクザの指詰めシーンが描かれたり、不良外国人の生徒を轟木がスコップで殴りつけたりするなど、全体のトーンとは外れる要素も盛り込まれており(注8)、意外としたたかな作品となっているようにも思います。

 また、ラスト近くまでほぼ原作通りに描かれていた本作ながら、原作と違ったラストになっていますが、映画ならではの表現ではないかと思いました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「全体的にユルいムードが漂い、廃校を利用した教習所のほのぼのとしたたたずまいや、風変わりなキャラなどが、独特の世界観を作り出してい」て、「ユルユルな作品にみえて、これは案外、拾い物の青春映画かもしれない」として65点をつけています。
 暉峻創三氏は、「ドラマチックな物語展開で見せる映画でも、青春の悔恨や勝利感で感動させる映画でもない。それぞれの人物が背負う、互いに異なる空気感と、その一瞬の交差が見せる化学反応を繊細にすくい取っていくことで、観客を引っぱりつづける映画だ」と述べています。



(注1)監督は、『海のふた』の豊島圭介
 脚本は和田清人
 原作は、真造圭伍著『森山中教習所』(小学館)。

 なお、出演者の内、最近では、野村周平は『ちはやふる 上の句』、岸井ゆきのは『友だちのパパが好き』、音尾琢真は『日本で一番悪い奴ら』、麻生久美子は『俳優 亀岡拓次』、根岸季衣は『百円の恋』、光石研は『無伴奏』で、それぞれ見ました。 

(注2)それも、同級生にもかかわらず、高校時代1度しか会話を交わしたことがなかったという設定なので、その後の身の上についてはお互いに情報を持っていないのです。

(注3)例えば、質問に答えない教官、高みに立ってお説教をする教官、高圧的で怒鳴り散らす教官、などなどがどの教習所にもいて、教習所というとそうしたイメージを持っている人が多いのではないでしょうか(今は、昔と違い、クレームを受け付ける窓口が設けられていたり、教官指名システムを採用したりしている教習場が多いようですが)。

(注4)それでも、原作漫画のラストでは、松田と清高が森山中教習所のあった場所を訪れて、清高が轟木のことを思い出し、「なつかしいなぁ」とノスタルジーに浸り、そしてそこを離れていく車の後ろ姿で終わっていますから、まだ「森山中教習所」というタイトルに意味があると思います。
 ですが、本作の場合、同じような場面は挿入されているとはいえ、その後に、下記「注8」に記すようなシーンが付加されているので、「森山中教習所」のイメージが薄れてしまうように思いました。

(注5)清高の父親は、リストラの憂き目に遭い、随分といじけて家に引きこもってTVゲームばかりしており、激しい夫婦喧嘩も絶えない感じです。

(注6)加えて、ヤクザの抗争に巻き込まれ社長が乗っている車に銃弾が打ち込まれ、本田が死にますが、本作では、原作漫画で描かれているその場面ではなく、遺体安置室で本田の遺体に取りすがって泣く妻の姿を描いているのも、本作が家族に焦点を当てようとしているからなのでしょう。

(注7)さらには、サキとその子どものタカシ、サキの父親(ダンカン)と母親(根岸季衣)とが作り出す温かい家族的な雰囲気と、清高と轟木とを対比させてもいるのでしょう。

(注8)他にも、轟木の妄想ながら、轟木が乗ったショベルカーが社長の家を襲う場面などが描かれています。

(注8)原作のマンガは1巻本で、その説明的な部分が幾分省略されているとはいえ、映画はほぼ原作に忠実といえるでしょう。ただ、原作のオシマイの方では(P.244)、牛丼屋で松田と牛丼を食べている清高を車のフロントグラスから見付けた轟木が、社長を昼食に連れて行く場所をその牛丼屋から蕎麦屋に変えるところが描かれています。他方、本作では、踏切で松田と清高が乗る車が、社長と轟木が乗る車とスレ違い、お互いに見るともなしに見ている姿が描かれています。



★★★☆☆☆



象のロケット:森山中教習所

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ふきげんな過去

2016年07月26日 | 邦画(16年)
 『ふきげんな過去』をテアトル新宿で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、東京湾近くの運河が見えるところ(注2)。
 カコ二階堂ふみ)が不機嫌そうな面持ちで運河の縁に立っていす。そこへ、ギターを背負ったヒサシ山田裕貴)がやってきて、「なあ」とか「ねえ」とか言って彼女にまとわりついています。
 ヒサシが「ここ海だからいないよ」と言うと、カコは「運河」と応じます。さらに、彼が「海水が混じってるんだから、ワニなんかいない。本当にいると思ってんの?」と言うと、彼女は「伯母ちゃんが見たって」と答えます。
 焦れたヒサシが「どっか行こうぜ」と言うので、カコが「どこ?」と尋ねると、彼は「どこがいい?」と聞き返します。彼女が「ここじゃない世界」と答えると、彼は「何いってんの、お前」と呆れ返ります。
 今度はヒサシが「俺、お前の曲作っていい?」と尋ねますが、カコは「やめて」、「あんたのバンドなんかすぐに解散するから」、「私には未来が見えるの」と言います。
 そして、彼女は「喫茶店に行く」と言うと、彼は「やめとけ、あいつは人さらいだ」と脅かします。

 次は喫茶店の場面。
 店に置かれているTVの画面では、アメリカ大使館爆破事件のニュースが流れています。
 カコは、岩波文庫の『小さき者へ』を読むふりをしながら(注3)、カウンターの方を見ています。
 カウンターの前の椅子にはヤスノリ高良健吾)が座っていますが、ウエイトレスのエツコ墨井鯨子)と一言二言話をした後、喫茶店を出ていきます。
 カコがエツコを見ると、エツコは「ヤスノリちゃん事件って知ってる?」と尋ねるので、カコは「知りません」「何なんですか?」と応じます。

 カコが、商店街を傘を引きずりながら歩いていると、途中で、3人の女子高生と遭遇しますが、お互いに知らない者同士のようにスレ違います。
 ただ、そのうちの一人だけが、振り返ってカコの後ろ姿を見続けます。

 そして、随分とくたびれた感じのする食堂の店内。
 丸い大きなテーブルのところで、カコの母親のサトエ兵藤公美)と、祖母のサチ梅沢昌代)が豆を剥いています。
 サチが「(サトエがおんぶしている赤ん坊の名前を)決めないと、あれだろ?」と言うと、サトエも「そうね」と応じ、さらにサチが「豆にちなんだ名前をつけたらいいんじゃ」と言ったりします。
 客(児玉貴志)が「この子、大丈夫か?」というものですから、サトエは「今日はやる気ないみたい」と答えます。

 こんな風に映画は進んでいきますが、さあどうなることでしょう、………?

 本作は、東京の運河にワニの出現を待っているいつも不機嫌な女子高生が住んでいる住宅兼食堂に、爆破事件を起こして北海道で死んだはずの伯母がやってきて、その女子高生の部屋に寝泊まりすることになり、云々という大層風変わりな作品。一種のファンタジーでしょうから、例えば、展開の突飛さを楽しんでもいいのでしょうし、個々の会話の面白さを味わってもいいでしょうし、映画の持つ意味合いをあれこれ考えるのもいいのでは、と思われます。

(2)本作では、まず、東京湾沿いの運河にワニの出現を待つカコが描かれます。



 そればかりか、遠くの方に、女性(注4)が銛を手に運河を見下ろしている姿がぼんやり見えたり、ラストではそのワニが岸辺に打ち上げられていたりもするのです(注5)。

 また、16年前に北海道で死んだとされたミキコ小泉今日子)が、突然皆の前に出現したり、カコの部屋の窓から飛び降りていなくなったりします(注6)。



 こんなことから、本作は、運河沿いにある古びた食堂を舞台にしたリアルな作品のように見えながらも、内実は一種のファンタジーなのでしょう。

 ファンタジーですから何が起きても不思議はないとはいえ、映画を見ながらクマネズミは、ミキコやヤスノリはカコの幻想の産物ではないかと思いました。その二人はツマラナイ現実を爆弾を使って変革しようとしているものの、カコにはそんなことでは何も変わらないように思え、ますます不機嫌になります。ただ、見えるはずがないと思っていたワニの出現によって、ようやくカコはポジティブな感じを掴んだように見えます。それでは、このワニとは、いったい何でしょう?何しろ、見えないはずのものが現実の姿になって見えたのですから!でも、見えないはずですから、現実の姿ではないのでしょう。としたら、…?

 それで何かヒントが得られるかなと思って、見終わってから本作の劇場用パンフレットに目を通すと、掲載されているインタビュー記事で前田監督は、「未来子と果子、そしてカナ山田望叶)の3人は、同じ人物の45歳、18歳、10歳の断層で、普通は決して交わりません。でもそれを地層の断面図みたいに縦に並べてみたかった」と述べています(注7)。
 なるほど、カコは果子で過去であり(注8)、ミキコは未来子で未来なのか、そして同じ人物なんだ、とようやくわかります(注9)。
 それで、同じ部屋に3人が一堂に会して話したり、またヤスノリの屋敷の跡に船で一緒に出かけたりするのでしょう。



 そして、この人物について、45歳のミキコを起点としたら、18歳のカコと10歳のカナは過去でしょうし、カコを起点にしたら、ミキコは未来でありカナは過去になり、カナを起点としたら、ミキコもカコも未来というわけでしょう。

 ただ、18歳の時に運河でワニを見て顔を和らげるカコは、45歳の時にアメリカ大使館爆破事件を引き起こすミキコに繋がるのでしょうか?カコは、その時タッパーに入った爆弾を手にしているとはいえ、クマネズミには、ワニを見たことによって、カコはその爆弾を使わなくなるように思えるからですが(注10)。仮に繋がらないとしたら、カコは27年後の自分を変えることができることになるのでしょうが、その自分とミキコとの関係はどうなるのでしょう?

 それはともかく、本作については、上記の点ばかりでなく、劇場用パンフレットに掲載されているシナリオの「決定稿」(注11)や「年表」によって、何だそうだったのかと思わされることが多々あります。
 例えば、橋の上で男たちが争っているシーンがありますが、そのシナリオによれば、A組織に捉えられていたミキコをB組織のヤスノリが助けたということのようです(注12)。

 ただ、本来的には、観客が見る映画の映像だけで映画は完結すべきものと思われ、こうした参考資料によって補足しなければきちんとした理解が得られないというのは、どうしたことでしょう?
 あるいは、制作者側は、そうしたところは意図的に曖昧にしておき、観客の想像に任せたのかもしれません。逆に、何から何まで映画の中で説明されてしまうのも酷く鬱陶しいものです。
 でも、こうした参考資料が公刊されていて、それを調べればかなりのことがわかるというのでは、観客の想像に任せるということに余りならないのではないでしょうか?

 とはいえ、参考資料で分かるのは登場人物の関係性が専らであって、本作全体のわからなさが解明されているわけではありません。本作の持つ意味合いについては、この先もいろいろ考えなくてはならないでしょう。そして、本作の面白さもまたそういう点についていろいろ考えるところにあると思います(注13)。

(3)北小路隆志氏は、「あらゆる存在が無気力に見え、赤ん坊さえ「ぐったり」している世界。疑問や不満もなく退屈さを生きるばかりか、元気を出そう、夢を持とう、などと陳腐な説教を子供に垂れるでもない大人たちの姿が妙に感動的でさえある」と述べています。



(注1)監督‥脚本は、『ジ、エクストリーム、スキヤキ』の前田司郎

 出演者の内、最近では、小泉今日子は『マザーウォーター』、二階堂ふみ高良健吾は『蜜のあわれ』、板尾創路は『杉原千畝 スギハラチウネ』、山田望叶は『私の男』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の「プロダクションノート」によれば、「舞台は北品川」。

(注3)『小さき者へ』のはじめの方には、「お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い」とあり(青空文庫版より)、カコとサトエとミキコの関係を暗示しているように思われます(下記の「注12」をご覧ください)。

(注4)よくはわからないのですが、「海苔の本田の奥さん」と言われる女性なのでしょう。

(注5)シートを掛けられて死んでいると思われたワニがもぞもぞ動いたりして、見物人たちが慌てて逃げ出したりします。

(注6)さらに、その未来子を連れに来たヤスノリが、遠くの家の屋根の上に現れて、そこから下に飛び降りる場面も描かれます。
 にもかかわらず、カコが探しに行くと、その二人が、ヤスノリの部屋でいっしょにソバを食べているのです。

(注7)さらに前田監督は、「個人の記憶の中では出来事が時系列に並んでいるわけではなく、例えば未来に訪れる自分や家族の死がすごく近いことのように思えたり、昨日のことが忘却の彼方に消えていたり。過去と未来の区別がそんなにきれいに付いていない気がするんです」と述べていますが、なかなか説得的な気がします。

(注8)カコが同じ部屋で寝ているミキコに向かって、「なんで赤ん坊の私を置いて出て行ったの?」と尋ねた時、ミキコは「邪魔だったから、カコが」と答えたのにカコが「なにそれ」と言うのは、“カコ”が「果子」と「過去」の語呂合わせになっていることに気がついたからでしょう。

(注9)例えば、カコがカナに「学校つまんないの?」と尋ねると、カナは「つまんない、毎日同じようなことしかしないから」と答えますが、8年後のカコを彷彿とさせますし、カコがミキコに「伯母さん、何で死んだの?」と訊くと、ミキコが「あたしもつまんなかったの」と答えるところからは、45歳のミキコと18歳のカコとが同じ人物のように思われてきます。
 またカコが「ワニがいるわけない」と言ったらミキコが「いるわ、あたし見た」と答えますが、27年後のミキコならありうる言い方のように思われます(ラストで、カコはワニを見るのですから!)。
 ちなみに、カナに扮する山田望叶は、『私の男』で主人公役の二階堂ふみの幼少期を演じています!

(注10)劇場用パンフレット掲載の「年表」によれば、ミキコは父親(「下記注12」の写真の男)のビルを爆破するのは17歳の時で、18歳のカコよりも1つ歳下なのです。

(注11)最後に「採録シナリオではありません」との但し書きが付いています。

(注12)更に言えば、例えば、「ノリノホンダ」が「海苔の本田」、食堂の客である片足が義足のヒロシの息子がヒサシ、カコの祖母・サチの最初の夫が仏壇に置かれている写真の男(大竹まこと)で、ミキコはその男との間の子で、サトエはサチの2番目の夫との間の子、写真の男の妹の子がレイ黒川芽以)で、レイの子がカナ、などなど。
 なお、カコは、ミキコとタイチ板尾創路)との間の子で、ミキコが失踪した後、タイチと結婚したサトエが自分の子として育ててきたことは、映画の中からおおよそわかります。



(注13)例えば、次のようなツマラナイことを考えたりしました。
 前田監督は「人間は記憶で出来ています」と述べていますが、未来・現在・過去が記憶から出来ているとしたら、記憶の中身は見えたものばかりでしょうから、見えないものは見えないままであり、また、カコが言うように「私は未来が分かる」ことにもなるでしょう。そして、それらの見えているものを爆弾で破壊しても、なにも新しいものは見えてはきません。でも、記憶にとらわれない想像力があるとしたら、その想像力を働かせることによって、見えないものも見ることができるかもしれません。カコは、もしかしたら、想像力によってワニを見たことから、見えないものを見ることができるとわかり、それまでの不機嫌な顔を和らげたのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:ふきげんな過去
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