映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

22年目の告白

2017年06月24日 | 邦画(17年)
 『22年目の告白―私が殺人犯です―』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)TVドラマ『リバース』(注1)に出演していた藤原竜也の主演映画ということで映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、1995年1月の阪神淡路大震災の模様と、その年に起きた連続殺人事件(5人が殺されました)が早回しで映し出され、それから15年が経過した2010年4月27日に時効となったことが告げられます。

 次いで、2017年。
 刑事の牧村伊藤英明)と春日部竜星涼)が、路地でヤクザ(早乙女太一)を追っています。



 春日部が「待て」と後ろから追いかけ、牧村が先回りして、ヤクザを殴り倒します。
 春日部が「お前の店、橘組の系列だろ」と言い、牧村も「人生、やり直せ」と諭すのですが、ヤクザは「お前らに何がわかる」と反抗的な態度を示します。
 その時、牧村の携帯に課長(矢島健一)から、「お前、今どこにいるんだ。TVが大変なことになっているぞ」との電話が。
 それで、牧村らはその現場を離れます。

 牧村らが署に戻ると、TVが点けられていて、画面では、「あの事件の犯人が、自分から現れ、告白本を出す」とのことで、「会見場は物々しい雰囲気です」とアナウンサーが伝えています。
 そして、「前日に時効が成立した犯人が姿を表しました」と伝えると、課長は牧村に、「22年前、お前が捕まえられなかった犯人だ」と言います。

 会見場では、犯人だと名乗り出た曽根崎藤原竜也)が話しています。



 「1995年、私は苛立っていた」、「無能な警察は、私のもとにたどり着けなかったのだ」、「あの事件のすべてを今から語る」と言って、告白本を読み始めます。

 1995年1月の足立区での最初の殺人事件のことが語られると同時に、当時駆け出しの刑事だった牧村が先輩刑事の平田満)とともに現場に駆けつける様子が映し出されます。
 滝は牧村に「初めてだったな。熱くなるんじゃないぞ」とアドバイスします。

 曽根崎は、「3つのルールを設けた」、「第1は、被害者に最も親しい者に目撃させる」、「第2は、殺害は背後から縄を締める絞殺による」、「第3は、目撃者は殺さず生かしておく」などと語ります。

 さらに曽根崎の話は続き(注3)、「5番目の事件で、始めて目撃者(牧村)が被害者(滝)と逆転した。それでピリオドを打つことにした。この間、誰も私にたどり着けなかった」、「この告白本が私の罪滅ぼしだ」と述べた後、最後に「はじめまして。私が殺人犯です」と言って話を終え、タイトルが流れます。

 さあ、この後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、すでに時効が成立している5件の殺人事件について、自分が犯人だと述べている告白本を出した主人公をめぐるお話です。韓国映画をリメイクしただけあって、殺人現場が映し出されたりしてグロテスクな内容ながらも、話が2転3転して、最後まで飽きさせません。出演する俳優も、皆、力演していて、まずまず面白いエンタメ作品といえると思われます。ただ、時効が成立してから7年も経ってからどうして主人公が告白本を出すことになったのかが、イマイチよくわかりませんでした(話を現在時点にするためにこうするしか仕方がないのでしょうが)。

(2)本作は、韓国映画『殺人の告白』(2012年)のリメイクとされています(注4)。
 同作は未見なので、この記事などでそのあらすじを見てみると、本作は、かなりのところ『殺人の告白』に類似していると言えそうです。

 ただ、同作と比べると、問題になると思われるのは、例えば、次のような点でしょう。
イ)韓国でも、現時点では、殺人罪についての時効は日本と同様に廃止されています。
 ただ、廃止されたのは2015年であり、『殺人の告白』が制作された時点(2012年)では時効制度が実施されていました(注5)。
 他方、日本においては、2010年の刑事訴訟法改正によって時効が廃止されていて、映画制作時点の2017年では、すでに殺人罪についての時効がありません。
 両作とも、映画の中で取り扱われる5件の殺人事件が起きるのはかなり昔のことであり、時効の廃止と直接関係しないとはいえ、時効を巡る映画作品が、それがすでに廃止されている状況下で公開されるのか、それともその前に公開されるのかによって、観客に与えるインパクトは違ってくるようにも思われます。
 なにしろ、時効が有効であれば、類似の事件がいつ起きても不思議ではありませんが、すでに廃止になっていれば、類似の騒ぎが起きるとしても、かなり古い事件を巡るものとなり、その場合には、よほどの大事件でもない限り(大量殺人事件とか猟奇殺人事件など)(注6)、本作のような大騒ぎにはならないように思われます。

ロ)『殺人の告白』では、時効が成立してから2年経過して現時点の騒ぎとなるようです。
 他方、本作では、時効の成立から現時点まで7年も経過しています。
 犯人が告白本を引っさげて記者会見するのは、社会に大きな騒ぎを引き起こすのが目的なのですから、時効成立後できるだけ早い方が得策のはずです。
 他方で、告白本を執筆して出版にまでこぎつけるのにも時間がかかることでしょう。
 そう考えると、『殺人の告白』の2年というのは、十分納得できる時間だと思えます。

 他方、本作の7年という時間は、現時点で『殺人の告白』と同じようなシチュエーションを描き出そうとした場合には止むを得ないと思いますが、やや長過ぎる感じがするところです(注7)。
 5人を連続して殺したという事件自体は、まれに見る凶悪犯罪であり、当時の人々ならさぞかし大騒ぎすることでしょうが、それから22年も経過してしまった現時点で、あのような告白本とともに真犯人が名乗り出たとしても、はたして映画で描き出されたような大騒ぎの状況になるのか、疑問に思えるところです。

 でもまあ、それらのことはどうでもいいでしょう。
 むしろ、本作の後半の展開の方に、これでいいのかなと思うところがいくつかあるように思いました。ただ、そんなことまでここに記したら、本作の真骨頂であるどんでん返しの面白さが雲散霧消してしまいますから、このあたりで止めておきましょう。

 本作の出演者の内、藤原竜也については、冒頭で取り上げたTVドラマ『リバース』とは違って、輪郭のくっきりとした、とはいえ大層難しいキャラクターである曽根崎を随分と楽しんで演じているように見受けましたし、静的な曽根崎とは対照的に動的な牧村刑事に扮する伊藤英明も、説得力ある演技を披露しています。

(3)渡まち子氏は、「なかなか意欲的なリメイクであることは認めるが、終盤の展開は、どうも納得できない。自分への罰、あるいは歪んだ虚栄心、はたまた心の奥底のトラウマが判断を狂わせたと考えるべきなのか」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「藤原竜也は作品選びのセンスが良いのだろう、出演作品が大外れすることはまずない。韓国映画「殺人の告白」の日本映画版リメイクにあたる「22年目の告白-私が殺人犯です-」も、その主演映画として抜群の出来栄えである」として85点を付けています。
 森直人氏は、「監督は「SR サイタマノラッパー」で注目された入江悠。自主映画出身の俊英が、メジャーで剛腕を発揮した。観客を驚かせたいという健全な遊び心やサービス精神も詰まっている。これから観る人は幸せだ」と述べています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「テンポのいい展開で犯行や被害者遺族の悲嘆と怒り、メディアの狂乱ぶりを見せるが、後半に大ブレーキ。説明調で筋立てにも詰めの甘さが目立ち、テレビの2時間ドラマのラストシーンのよう」と述べています。



(注1)本年の4月期にTBSTVで放映された湊さかえ原作のミステリードラマ(この記事)。
 主演の藤原竜也の他に、小池徹平、市原隼人、三浦貴大、戸田恵梨香、門脇麦などが出演します。
 全話を録画して見たのですが、「僕の親友を殺したのは誰だ?」ということで最後まで引っ張っていきます。ただ、解明される真相は、死んだ親友(小池徹平)に深く関わる人達が、その死にも深く関わっているようでありながらもそうでもない感じでスッキリとせず、また主演の藤原竜也の役柄が狂言回し的で傍観者気味に事件を見ている雰囲気で、これもどうかなという感じがしました。

(注2)監督は、『太陽』の入江悠
 脚本は平田研也と入江悠。

 出演者の内、最近では、藤原竜也は『僕だけがいない街』、伊藤英明は『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、夏帆は『高台家の人々』、野村周平は『帝一の國』、平田満は『愚行録』、岩松了は『トイレのピエタ』、岩城滉一は『土竜の唄 香港狂騒曲』、仲村トオルは『64 ロクヨン 前編』で、それぞれ見ました。

(注3)曽根崎が語る5つの殺人事件のあらましは、以下のとおりです。
 第1の事件では定食屋の店主が、第2の事件では会社員が、それぞれの妻の目の前で絞殺されます〔第2の事件の夫婦の娘・美晴夏帆)は、今は書店で働いています〕。
 第3の事件では、銀座ホステスが、彼女を愛人としていた橘組組長(岩城滉一)の前で殺されます〔彼女の息子が戸田丈早乙女太一)〕。
 第4の事件では、病院の院長(岩松了)の妻が殺されます。
 第5の事件では、滝刑事がガス爆発で殉職し、これを牧村刑事が目撃します。

(注4)この記事によれば、『殺人の告白』は、「映画『殺人の追憶』(2003年)のモチーフとなった“華城連続殺人事件”からインスピレーションを得て作られた」とのこと。
 なお、「華城連続殺人事件」とは、「1986年から1991年にかけて10名の女性が殺害された連続殺人事件」のようです。ただし、その事件は、「2006年4月2日に時効が成立し、未解決事件」になっているそうです(『殺人の告白』は、当該事件の“10名の連続殺人”という点を取り出した上で、制作されているのでしょう)。

(注5)ただし、殺人罪などの時効は、2007年に、それまでの15年から25年に延長されています(日本でも、同様の延長が2005年に行われています)。

(注6)例えば、この記事をご覧ください。この記事を見ると、本作のような未解決で時効を迎えた大量殺人事件は滅多に起こるものではない感じがします。
 なお、1995年に「八王子スーパー強盗殺人事件」が起きましたが、発生日時が同年の7月30日午後9時ごろであり、時効廃止の刑訴法改正が4月27日施行のため、時効の適用はなく、現在も捜査が続けられています。

(注7)本作では、7年間という年月がどうして必要だったのかに関して、説得力ある説明が与えられていないように思いました。


〔追記〕2010年の「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」の附則第3条第2項では、「同法の施行前に犯した人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもので、この法律の施行の際その公訴の時効が完成していないものについても、適用する」と規定されていて、施行時点(2010年4月27日)で時効が完成していない事件については遡及的に適用することとしています(この遡及適用の規定は合憲であるとする最高裁の判決が、2015年12月に出されています←この記事)。
 そこで、2004年の刑事訴訟法の改正によって、翌年から時効期間が15年から25年に延長されましたが、その際も、同じように遡及的に適用することとされていたら、本作で取り扱われる1995年に起きた5件の殺人事件についても、時効期間が25年となっているはずです。
 ですが、2004年の刑訴法改正にあたり、遡及適用は規定されませんでした。
 そのため、本作で描かれる連続殺人事件の内の5件については、犯罪が行われてから15年目の2010年4月27日に時効が成立しました。
 ただし、最後の6番目の殺人事件〔牧村の妹・里香石橋杏奈)が殺されます。なお、里香の婚約相手が小野寺野村周平)〕については、里香が殺されたのが1995年4月28日であるために、2010年の刑訴法改正法附則第3条第2項が適用されて、時効の対象とはなりません。




★★★☆☆☆



象のロケット:22年目の告白 私が殺人犯です

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怪物はささやく

2017年06月18日 | 洋画(17年)
 『怪物はささやく』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、教会の鐘の音がした後、教会が壊れて、その前の墓地が地中に落下していくと思ったら、主人公のコナー少年(注2:ルイス・マクドゥーガル)がベッドで「ママ」と言って飛び起きます。
 そして、モノローグで「物語の始まりは、多くの物語と同じ」「子供と大人の狭間にいる少年が悪夢を見る」。
 コナーは窓の外を見ています。



 次いで、タイトルロールが流れます。

 朝になって、コナーは着替えをし、キッチンでパン焼き機にパンを入れ、洗濯物を洗濯機に入れます。そして、冷蔵庫から「吐き止め」を出し、焼きあがったパンを食べ、靴下を履きます。
 ベッドにママ(フェリシティ・ジョーンズ)が寝ているのを確認してから、登校するために家の外へ。

 学校のクラスでは、先生が「 e は自然対数の底であって、…」と教えています。
 その時、コナーのもとへ「放課後また会おう」と書かれたペーパーが回ってきます。
 雰囲気を感じて、先生が「コナー、疲れているように見えるが、大丈夫か?寝てないんじゃないか」と尋ねますが、コナーは「大丈夫です」と答えます。

 放課後になって、学校の裏庭でコナーは、同級生のハリージェームス・メルヴィル)によって、「何がそんなに楽しそうなんだ」などと言われて殴られます。ハリーの仲間が2人ほどいますが、見ているだけ。

 コナーは家に戻り、ママが「お祖父ちゃんの映写機」と言うプロジェクターを点けて、2人で『キング・コング』を見ます。

 夜になってコナーは、自室の机に向かってノートに絵を描いています。
 時刻が12時6分になると、鉛筆が独りでに転がって床に落ちたり、外では風が吹き出したりします。
 コナーが窓を開けて外を見ると、大きなイチイの木が怪物(リーアム・ニーソン)に変身してこちらに向かって歩き始めます。
 怪物と向かい合うコナーに対して、怪物は、「さらいに来たぞ。なぜママのもとに逃げないんだ?」と訊きます。コナーは、それに対して「ママに手を出すな!」と叫びます。



 すると、怪物は、「3つの物語を聞かせる。それを話し終わったら、お前が4つ目を話す。物語が真実であり、隠しているのは悪夢だ」などとコナーに言います。
 そして、コナーは机の前にいる自分に戻っています。

 これが本作の初めの方ですが、さあ、これから本作はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、ダークファンタジーの世界的ベストセラーを実写化した作品。難病の母親と暮らしている主人公の少年のもとに、ある夜、怪物が現れて3つの物語を話すからお前も4つ目の物語を話せと言うところから、この映画は始まります。映画で描き出される物語の中で語られる物語というように、作品全体が入れ子構造になっていますが、その意味するところは深く、少年を主人公とする映画とはいえ、大人の鑑賞にも十分に耐えるものだなと思いました。

(2)本作は、末期がんの症状を示すママの現実を主人公の少年が次第に受け入れていくという、一種の成長譚だと思われます。
 その際に中心的な役割をはたすのが、怪物が話す3つの物語です。
 第1の物語は王国の権力をめぐる物語、第2の物語は薬の調合師と牧師を巡る物語、そして第3の物語は透明人間の物語。
 怪物が3つの物語を話すと、怪物は、今度はコナーに4つ目の物語を話すように求めます。

 怪物の話を聞いたり、自分の話をしたりすることによって、コナーはママの現実をしっかりと受け止めることが出来るようになり、以後、地に足を着けて堅実に生きていくことでしょう。
 なかなか良く出来た全体の構成だと思われます。

 ただ、問題点がないわけではない感じがします。
 例えば、
イ)怪物は絶えず「真実を言え」とコナーに言いますが、怪物が話す物語が真実だと、コナーくらいの歳の少年にどうして分かるのでしょう?コナーには、単なるおとぎ話のようにしか思えないのではないでしょうか(注3)?

ロ)怪物は、コナーに真実の物語を求めますが、未成年だとしても、コナーには抱えている問題がいくつもあるはずで(注4)、そのうちのどれを話せばいいのか、本当のところはコナーにはわからないのではないでしょうか?それに、怪物が話すような物語を話せと言われたら困惑してしまうのではないでしょうか(注5)?そもそも、ここでいわれている「物語」とは、一体何なんでしょう?

 次いで、原作とかなり違っている点を挙げるとしたら、例えば次の2つでしょう。
イ)原作のラストは、本作のラストのエピソードは書かれていません(注6)。
 本作のようなエピソードをラストに付け加えることによって、怪物が話す3つの物語、あるいは怪物自体の出所が明示されることになり、見ている方も「ああ、そういうことか」と簡単に納得してしまうでしょう。
 それは、コナーと母親との強いつながりを示してもいるわけで、十分意味があるのでしょう。
 でも、そのように明示してしまうことによって、見る方の選択肢が狭められてしまうようにも思われます。あるいは、そのエピソードのようなことを考える観客もいるでしょうが、もしかしたら、3つの物語等はすべてコナー少年の無意識が創り出したもの(注7)、さらには、ユングの「元型」のように集団的な無意識が生み出したもの、などなど様々に考える観客も出てくるのではないでしょうか?
 クマネズミには、このエピソードはなくもがなという感じがしました(注8)。

ロ)原作では、リリーという少女がしばしば登場しますが、本作ではほんの少しだけ登場するに過ぎません(注9)。こうした少女をコナー少年の近くに配することで、映画はより幅が広くなり、またファンタジー性も増すように思われますが、なぜ役割を小さくしてしまったのでしょう(注10)?

 とはいえ、本作は、怪物が語る物語をアニメ化したり、怪獣をSFXによってかなりリアルに描き出したりしてもいて、コナー少年に扮するルイス・マクドゥーガルの秀逸な演技と合わさり、なかなか面白い作品に仕上がっているなと思いました(注11)。

(3)渡まち子氏は、「幻想的なアニメーションの素晴らしいビジュアル、怪物の声を担当するリーアム・ニーソンの深くしみいるような声、コナーを演じるルイス・マクドゥーガル少年の繊細な演技が心に残る」として85点を付けています。
 真魚八重子氏は、「監督のJ・A・バヨナは子どもの不幸を容赦なく描く。本作もファンタジーの域を超えて、現実的な避けがたい絶望がたちこめ、哀切極まりない。そんな寒々しさの合間を、孤独な者の心に寄り添うように妖しく美しいアニメが彩る」と述べています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「物語はファンタジーというより厳しく現実的。それを和らげることなく少年の目線で描き切った。それでも、母親に抱かれているような感覚が全編を包んでいるから不思議だ」と述べています。



(注1)監督はJ.A.バヨナ
 脚本は、原作を書いたパトリック・ネス
 原作はパトリック・ネス著『怪物はささやく』(創元推理文庫)。
 (元々、英国の女性作家のシヴォーン・ダウトがガンにために47歳で亡くなった際に、原案がドラフトで遺されていて、それを米国の作家のパトリック・ネスが完成させました)
 原題は「A Monster Calls」.

 出演者の内、最近では、シガニー・ウィーバーは『宇宙人ポール』、フェリシティ・ジョーンズは『博士と彼女のセオリー』、トビー・ケベルは『悪の法則』(トニー役)、リーアム・ニーソンは『沈黙-サイレンス-』で、それぞれ見ました。

(注2)コナー少年は、12歳ほどとされているようです。

(注3)原作では、怪物が、自分が話した物語について説明をするところが書かれています。
 例えば、コナーが「どっちもほんとなんて、ありえないよ」と言うと、第1の物語について、怪物は「ありえるさ。人間とは、実に複雑な生き物なのだからね。女王は善良な魔女であり、同時に邪悪な魔女でもあった」、「王子は殺人者であり、同時に救世主でもあった」と答え、さらにコナーが「何が言いたいのかよくわからない」と言うと、怪物は「人間の心は、毎日、矛盾したことを幾度となく考えるものだ」などと答えるのです。最後に、コナーが「じゃ、どうしろって?」と尋ねると、怪物は「真実を話せばいいんだよ」と答えるのです。
 常識的には、こうしたコナーの対応の方が普通に思え、経験の少ない少年は、怪物の説明に心から納得できるのでしょうか?

(注4)例えば、コナーは、ママに自分がハリーにいじめられていることを話していません。また、祖母(シガニー・ウィーバー)と気が合わないことはママも感づいているでしょうが、きちんとは話していないようです。それに、米国で別に暮らしているパパ(トビー・ケベル)のことについても話すことがいろいろあるでしょう。



(注5)実際にも、4番目の物語は、いわゆる物語の形式を踏まえてはおらず、コナー少年の真情の吐露にすぎません。
 その点からすれば、怪物が話す3番目の物語も、誰からも無視されていた透明人間が他人から見えるようになろうとしたという骨組みが語られるだけで物語とは到底言えないでしょう(実際には、コナーがハリーを倒す場面に連続的につながってしまいます←下記の「注11」もご覧ください)。

(注6)原作のラストは、「コナーは母さんを抱き締めた。二度と放してなるものかと抱き締めた。そうすることで、今度こそ本当に母さんの手を放すことができた」と書かれています(P.250)。

(注7)本文の(1)に記したように、怪物は、コナーがノートに絵を描き出した途端に出現するのですから(本作では、コナーがノートに四角い枠取りをすると、それが窓になって、その窓から教会とか墓地とかが見え、そしてイチイの木が怪物に変身するのです)。

(注8)劇場用パンフレット掲載の「About The Production」の中で、バヨナ監督は、(パトリック・ネスの脚本について)「この物語は死の暗い側面を描いているけれど、最後には“希望”が見える」と述べています。前回取り上げた『ちょっと今から仕事やめてくる』の拙エントリの「注6」で触れた「希望」がここでも登場します!

(注9)と言っても、クマネズミには、リリーが本作の何処に登場していたのか判然としないのですが(配役名までクレジットに掲載されているので、どこかに登場はしていたのでしょうが)。

(注10)おそらく、コナーと母親との関係をより一層強調するためなのでしょう。
 加えて、リリーについて、原作では、「コナーとリリーが生まれる前から、母さん同士が友達だった。だからコナーにとってリリーは、別の家で暮らしているきょうだいみたいなものだった」、「コナーとリリーはただの友達で、二人のあいだにロマンチックなことは何もなかった」、「母さんの“話”」は「だれも知らないはずだった」のに「リリーの母さんはまもなく知ることにな」り、「そのあとすぐ、リリーも」、「おかげで、みんなに知れ渡った」、「(だから)リリーを許す気になれない。ぜったいに」などと書かれてもいますし(P.46~P.47)。

(注11)つまらない事柄ですが、コナー少年が、怪物に唆されて家の中にある家具をかなり破壊しますが、これは『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』に登場するデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)、さらには恋人の息子のクリス(ジューダ・ルイス)を思い起こさせます(両作とも、古い時計が壊されます)。
 また、コナー少年は、3番目の物語の中で、自分をいじめるハリーに体当たりを食らわして倒してしまいますが、これは『ムーンライト』の「2.シャロン」におけるシーン―シャロン(アストン・サンダース)がイジメの張本人であるテレル(パトリック・デシル)を、椅子で思い切り殴り倒しすシーン―を彷彿とさせます〔尤も、シャロンはそのために少年院送りになりますが、コナーの方は、教頭(ジェラルディン・チャップリン)に、「校則に従えば、即刻退学。でも、できません。あなたを罰して何になるというの」と言われます〕。



★★★☆☆☆


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ちょっと今から仕事やめてくる

2017年06月16日 | 邦画(17年)
 『ちょっと今から仕事やめてくる』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、南の島の夜の景色(注2)。
 満天の星のもと、ヤシの木の生えている海岸。
 後ろ向きの女の子が、「私が死んだら、あの星になるの?」と訊くと、ソバのこれまた後ろ向きの父親らしい男が、「先ず生きなきゃな」と答えます。すると、女の子は「生きるってどういうこと?」と尋ねます。これに対して男は「希望を持つこと」と答えます(注3)。
 そして、タイトルが流れます。

 次いで、青山隆工藤阿須加)の部屋。
 蟻がたかっているブドウの入った箱などが酷く乱雑に置かれています。
 隆は、起き出して靴下を履き、TVで歌われている歌(注4)について「バカじゃないの」「でも、俺のことかも」と呟きます。

 隆が勤める会社の営業部の場面。
 部長の山上吉田鋼太郎)が、「お早うございます」と言うと、部下が「それでは朝の体操!」と叫び、皆が席の前に立ち上がって体操をします。その後、壁に貼ってある「社訓」(注5)を皆で唱和します。
 隆のモノローグ、「就活をしまくった俺は、この会社の内定をもらった時は喜んだ」。

 部長が「最多契約者17件、五十嵐!」と言い、報奨金を渡して皆に拍手を促すと、五十嵐黒木華)は「有難うございます」と言って頭を下げます。



 隆のモノローグ、「営業部長にとっては成績が全て」。

 部長が隆に「青山、大東広告からクレームだ。ロゴの字体が違うと言っている」と言うので、隆が「斎藤さんが、…」と言いかけると、部長は「今はお前の担当だ。ちゃんとチェックしろ」と怒ります。
 隆のモノローグ、「会社に貢献したいという気持ちはある。しかし怒鳴られると、…」。

 帰りがけに部長は、五十嵐に「今朝の報奨金はデートに使うのか?」と言ったり、隆に「さっきのミスの分は給料から引いておく」、「データをまとめて明日の朝一で報告してくれ」と言います。
 隆のモノローグ、「3ヵ月連続で残業は150時間を超えた。しかし、残業代は出ず、すべて基本給の内」。

 一人で会社に残って作業していると、母親(森口瑤子)から電話がかかってきます。
 母親が「食べたいものがあれば送るから」「今度いつ帰ってくるの?」と言うのに対し、隆は「わかった」「忙しいから切るよ」などと返事をします。

 山梨の実家では、母親が「1年半も帰ってこない」と嘆くと、父親(池田成志)は「忙しいんだよ」と応じます。


 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、ブラック企業に就職して生きていく気力が失せてしまった青年のもとに謎の男が現れて、という物語。青年が謎の男のことを調べると3年前に自殺していた人物ということが判明するのですが、付き合っていくうちに次第に青年は前向きに行きていこうとするようになります。こう書くと、いかにも今時ありがちな作品と思えるでしょう。正直のところ、小生も最初はそう思っていました。でも、しばらくすると、現代の若者の暮らしぶりの一端を捉えてもいる感じもしてきて、そう捨てたものではないなと思えてきます。全体として、出演者の一生懸命さがこちらに伝わってくる作品ではないでしょうか。

(2)映画に人生訓話めいたものを期待しないクマネズミにとっては、監督の姿勢(注6)とか、特にラストのバヌアツのエピソードには関心がもてませんが、それでも本作はそれほど捨てたものではないのかな、とも思いました。

 第1に、本作から、ブラック企業の実態の一端を垣間見られる感じがします。
 労働基準法もなんのその、とにかく契約を取ってこいという部長の方針の凄さは、その怒鳴り声によってよくわかります(注7)。
 そして、あのように毎日怒鳴られっ放しで、なおかつ夜遅くまで残業させられたら、隆でなくとも、「人は生きるために働くとしたら、俺は生きているといえるのか?」などと思いたくもなってくるでしょう。
 ただ、この会社のブラックさを徹底して描き出すためには、例えば、隆がこの会社を辞める際には、もっと激しく部長に迫るようにしたら、より説得力が出てきたのではないでしょうか(注8)?



 それと、五十嵐についてですが(注9)、黒木華クラスの女優を使うのであれば、「枕営業」によって成績を挙げている様子を描いてみたらどうだったでしょう(注10)?

 第2に、本作は、危うく駅のホームから転げ落ちて入ってきた電車に惹かれるところだった隆を、間一髪で助けたヤマモト福士蒼汰)とは一体誰なのか、を解き明かしていくミステリ仕立てになっています。
 何しろ、肝心なときには、ちょうどいいタイミングで出現し、適切なアドバイスをするのですから。それに、隆は、偶然にも霊園行きのバスの中にヤマモトを見出したりもするのです。



 加えて、吉田鋼太郎や黒木華といった脇役陣もさることながら、ヤマモトを演じる福士蒼汰と隆役の工藤阿須加がかなり力のこもった演技をしているので(注11)、ついつい熱心に見てしまうことになります。

 ただ、そうであるにしても、隆にとって、バヌアツに行くことが問題の解決になったのかどうかは、疑問が残るような気がします(注12)。

(3)渡まち子氏は、「ユニークかつ直接的なタイトルが何より印象的だが、重い題材を軽妙な語り口で描くスタイルが面白い。謎めいたヤマモトをさわやかに演じる福士蒼汰、ヤマモトに振り回されながら懸命に生きる生真面目な隆を演じる工藤阿須加の主役二人は好演」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「それこそ本編が始まる前から誰もがおやっ?と思う、そんな要素を持った映画である。そういう仕掛けはやりようによってはとても効果があるのだが、この映画はそのあたりがうまくない。ミステリ好きの一鑑賞者としては、少々残念である」として55点をつけています。
 暉峻創三氏は、「ヤマモトの超然たる存在感(時に風を伴って出現する演出も素晴らしい)がそれだけで存分に人々を救済する力に満ちているだけに、日本社会と対置された理想郷として提示されるバヌアツの場面は、やや蛇足だった感も否めない」と述べています。



(注1)監督は、『ソロモンの偽証 前編・事件』などの成島出
 脚本は、成島出と『草原の椅子』の多和田久美
 原作は、北川恵海著『ちょっと今から仕事やめてくる』(メディアワークス文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、福士蒼汰は『無限の住人』、黒木華は『海賊とよばれた男』、森口瑤子は『太陽』、小池栄子は『ブルーハーツが聴こえる』、吉田鋼太郎は『帝一の國』で、それぞれ見ました。

(注2)場所はおそらくバヌアツであり、言葉もビスラマ語だと思われます。

(注3)このシーンは、ラストの方でもう一度繰り返され、そこから父親のように見える男はヤマモトだとわかります。

(注4)歌詞は、「月曜日の朝は、死にたくなる。火曜日の朝は、何も考えたくない。水曜日の朝は、一番しんどい。木曜日の朝は、少し楽になる。金曜日の朝は、少し嬉しい。土曜日の朝は、一番幸せ。日曜日の朝は、少し幸せ。でも、明日を思うと一転、憂鬱」。

(注5)例えば、「遅刻は10分で千円の罰金」とか「有給なんていらない。体がなまるから」。

(注6)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューで、成島監督は「「ソロモンの偽証」はどんなに辛くても“死ぬな”という話ですよね。こっちは“希望はあるよ。見失っているだけだよ”という話で、そこがいいなと思いました」と述べています。
 例えば、本作の冒頭の場面と同じような場面が最後の方にも映し出されますが、そこでヤマモトに、「生きていれば辛いことがある。けれど、どこかに希望がある」、「なければ探せばいい、なければ作り出せばいい。それもなければ、一からやり直せばいい」などと言わせてもいます。
 でも、こうしたセリフはなくもがなであって、映画全体から感じ取りたい人には感じ取らせればいいのではないでしょうか?
 それに、隆はバヌアツに行って、本当に希望を見出すことが出来るのでしょうか?

(注7)勿論、弊害もいろいろ出てくるのであって、例えば、自分をよく見せようとして、他の社員が自分より大きな契約を取ってくるのを妨害すべく、PCに保存されている書類を密かに書き換えてミスを犯させる事件が、この会社に発生します。

(注8)隆は、部長から「これだから、最近の若いやつは使えないんだ」、「社会というものがわかってない」、「テメエの人生は負け犬で終わる」、「結局逃げるだけ、甘いんだよ」、「次の仕事が簡単に見つかると思ったら大間違いだぞ」などと思いっ切り怒鳴られますが、部長に対し「就活の時、この会社に簡単に決めてしまいました」、「懲戒解雇でもかまいません。3ヵ月前までは、このビルの屋上から飛び降りることを考えていましたから」、「自分に嘘をつかないで生きていきたい」、「青い空をいつも笑って見ていたい」と言い返すだけに過ぎません。

(注9)原作本では男性であるのを、本作ではわざわざ女性に変更したとのこと。

(注10)尤も、本作全体が持っている“爽やかさ”を著しく削いでしまうかもしれませんが!
 それに、これまでに出来上がっている黒木華のイメージにも合わないのかもしれません。

(注11)劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、「今回は福士蒼汰、工藤阿須加が他の仕事で忙しく、集中してリハーサル期間が取れなかったので、クランクインの5か月前から、二人のスケジュールが合う日をリハーサルに充てて、飛び飛びにリハーサルを行った」とのこと。

(注12)隆を呼び寄せた方は、自分が希望してバヌアツに行って、現地の子供たちに進んで算数の授業をしているのでしょう。でも、隆の方は、呼ばれたからとにかくバヌアツに行っただけのことですし、そこで何をしたいのかという“希望”があるわけではないでしょう。
 これでは、都会の生活は非人間的であり、田舎の生活が人間的だとする、あまりにも単純な物の見方の一つの現われのように思えてしまいます。
 隆は、山梨でぶどう園を営む両親の下を離れてわざわざ東京に出ていったのでしょう。バヌアツに行くのも、山梨の実家に戻るのも大した違いはないように思われます。東京でモット頑張る手もあるのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:ちょっと今から仕事やめてくる

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2017年06月13日 | 邦画(17年)
 『』を新宿バルト9で見ました。

(1)河瀨直美監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、階段をゆっくりと降りていく男(中森永瀬正敏)の後ろ姿が映し出されます。どこかの劇場でしょう、男は席に着くとイヤホンを耳に当てます。
 イヤホンからは、「テスト、テスト、イヤホンの聞こえは良いですか?この声はテストアナウンスです」などという声が流れます(注2)。

 そして場面は、外の通りの様子(注3)。人々がせかせかと道路を歩いています。
 バス停では、停車したバスから降りてくる人々と、そのバスの乗ろうと待っているサラリーマンたちが、タクシー乗り場にはタクシーを待つ人もいます。様々な音とか声がします。
そういう人々の姿を読み取りながら、女(美佐子水崎綾女)が道路を歩いていきます。

 次いで、劇映画『その砂の行方』の中の場面。
 木々の向こうには、穏やかな入江が見渡されます。近くに見える大きな家の庭には、背の高い樹木が植えられています。
 家の縁側に置かれた籐椅子に座る妻・時江神野三鈴)に向かって、夫の重三藤竜也)が「どうですか?」と訊くと、認知症の時江は「つまんない」と答えます。

 それは、モニター会の会場に設けられているスクリーンに映し出された映画の一シーン。
 音声ガイド制作に携わる美佐子が、スクリーンのそばで、自分が書いたナレーションを読み上げます。美佐子の反対側には、視覚障害者が数名モニターの席に着いていて(その中には、中森もいます)、美佐子のナレーションを聞いています。



 美佐子が勤務する映画会社の上司の智子(女優の時江でもあります:神野三鈴)が、「まず、ここまでにしましょうか」と言い、「まちこちゃん、何かありますか?」と尋ねます。
 まちこと言われた視覚障害者は、「“くろがみ”じゃなくて、“くろかみ”です」と応じます。
 他のモニターも、「チョット聞き取れない」「“砂像”と言われても、馴染みがない」「“すな”といった方が、…」「“サゾウ”と言われると、イメージが止まってしまう」などと言います。
 こうした意見に対し、美佐子は「検討します」と答えます(注4)。

 視覚障害者の明俊(智子の夫:小市慢太郎)が「「厚い雲の向こう、…」というところは良かった」と言うと、美佐子は「ガイドを沢山入れましたが、伝わったかって心配でした」と応じます。
 これに対して、中森が「伝わったかって、押し付けがましいことじゃないですか?」、「今のままなら邪魔なだけです」と指摘します。他のモニターも、「言葉がいっぱい入ってきてしまって」と賛同します。美佐子は「私は皆さんのためにと思って」と反論しますが、逆に、中森から「それが押し付けがましいっていうこと」と言われてしまいます。
 美佐子は「次回までに検討し、中森さんの邪魔にならないようにします」と答え、智子も「中森さんの言葉には、しっかりと向かい合ったほうが良いと思う」とアドバイスします。

 これが本作の始めの方ですが、さあ、この後、物語はどのように展開するでしょうか、………?

 本作は、映画の音声ガイド制作に携わる若い女と、弱視の天才カメラマンとを巡るラブストーリー。音声ガイドを制作するにあたっては、視覚障害者にそれを聞いてもらって手直しをする作業が必要で、その際にカメラマンと若い女性が知り合うのです。クマネズミは、視覚障害者のためにそんなに繊細な作業まで行われているなんて全く知りませんでしたから、本作はその意味で興味を惹かれましたが、それだけでなく、河瀬直美監督の初期の頃の映画作品の感じも幾つかの点で感じられたりするのも(例えば、『萌の朱雀』の舞台と同じような感じの過疎の山村が映し出されます:注5)、とても面白いと思いました。

(2)本作では、美佐子が、パソコンで映画作品を見ながら台本を作り、それをモニター会で視覚障害者のモニターに聞いてもらって手直しをしていくという、音声ガイド制作のプロセスが丁寧に描き出されています。
 美佐子は、上記(1)で見るように、最初、映画の画面に描き出されていることを目一杯視覚障害者に伝えようとして、盛り沢山な内容の台本を作ります。すると、モニターの視覚障害者から、返って邪魔なだけと批判されます。
 そこで、今度は、できるだけ説明を削ぎ落とした台本を持っていくと、それでは何もわからないと、言われてしまいます(注6)。

 美佐子の上司の智子は「映画というのはものすごく大きな世界。それを言葉によって小さくしてはいけない」などと美佐子に忠告しますが、本作を見ていると、この音声ガイド制作が、とても繊細な神経を要する大変困難な作業であることがわかってきます。



 でも、そうした困難さを乗り越えた優秀な音声ガイドに依れば、視覚障害者は、正常人が見て取ることの出来ないものまでも映画から受け取れるのでしょう。

 こうして美佐子は、劇中映画の監督・北林(出演者の重三を演じてもいます:藤竜也)にインタビューしたりして(注7)、音声ガイドの仕事や、ひいては自分自身のこと、特に家族のこと(注8)を見つめ直すようになっていきます。

 美佐子にとって決定的なのは、モニター会で中森と出会ったことでしょう。
 最初のうちは、自分が作成した台本について執拗に批判してくる人だと思ったのでしょうが、中森が出した写真集『flow』(注9)を見たりするうちに興味が出てきて、智子の代わりに拡大読書器を届けに中森のアパートを訪ねたりします(注10)。
 そうした中で、美佐子は成長していきますが、中森の方も大きく変化していきます。



 最初の内、中森は、弱視が進行するにもかかわらず、相変わらずカメラマンとして、愛用の二眼レフカメラのローライフレックスを手放さずに写真を取り続けています(注11)。



 ですが、色々の出来事があり(注12)、特に、美佐子との出会いがあったことによって、中森は自分の生き方を変え、ローライフレックスを捨て、更には杖を突きながら歩行するようになるのです。

 そうして、こうしたこと全体が、本作では、そのタイトルとなっている「光」、特に夕日の光で包まれて描き出されている感じがします。何しろ、中森が暮らす部屋には、西日が一杯に差し込んでくるのですから。
 ある意味で、『追憶』で描き出される夕日と似ているかもしれません。
 ただ、『追憶』の夕日は過去からのものであるのに対して(注13)、本作の夕日の光は未来に向いているのではないでしょうか(注14)?

 本作における主役の永瀬正敏の演技は、次第に視力が低下していくカメラマンという難役を、文字通り入魂の演技でこなしていますが、本作全体としては、音声ガイド制作者の美佐子の成長物語といった感が強く、美佐子役の水崎綾女が、とても瑞々しい演技を披露していて次作が期待されるところです。

(3)渡まち子氏は、「主観を排除し事実を正確に描写することで映画の輝きを言葉で伝える音声ガイドの難しさと素晴らしさが印象に残ったが、視覚障害者は目ではなく心で映画を“見る”というスタンスに、襟を正したくなった。暗闇で迷うことはあっても、コミュニケーションによって、きっと希望の光をみつけることができることを教えてくれる作品である」として70点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「視力が奪われることの苦しみとやり場のない怒りが身体を駆け巡るカメラマンの絶望を『あん』のときとはまた違った存在感を示して演じる永瀬。そしてそんな演技を他の出演者たちからも引き出す河瀬監督の演出力と透明感のある映像に見とれながら、ここには河瀬監督が考える映画のすべてがあると思った」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督・脚本は、『あん』の河瀨直美。河瀨直美監督の作品は、最近では、他に『2つ目の窓』や『朱花の月』とか『七夜待』を見ています。

 出演者の内、最近では、永瀬正敏は『ブルーハーツが聴こえる』、水崎綾女は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(ヒアナ役)、小市慢太郎は『ゾウを撫でる』、藤竜也は『お父さんと伊藤さん』で、それぞれ見ました。

(注2)この場面は、本作の劇中映画『その砂の行方』をバリアフリーで上映(美佐子の制作した音声ガイドの台本を樹木希林が読み上げます)する会の模様を映し出すラストの場面に繋がります。
 なお、『その砂の行方』のラストで映し出される砂丘は、『ゾウを撫でる』や『俳優 亀岡拓次』でも登場する静岡の中田島砂丘(前者についての拙エントリの「注3」や、後者についての拙エントリの「注12」をご覧ください)。

(注3)美佐子の住むマンション、中森が暮らすアパート、それに美佐子が勤める映画会社などは、奈良市街にあります(歩道橋などに書かれている地名などからすると)。

(注4)美佐子は、「砂像」を「砂で作った砂の像」などと書き直します。
 そして、ラストで樹木希林が読む台本では、「重三の手からスカーフが離れる。崩れる砂の女性像。跡形もなく消える。丘を登っていく重三。黙々と前に進む。夕日が強い光を放ち、肩越しに輝く」となっています(大体のところに過ぎませんが)。

(注5)『萌の朱雀』については、この拙エントリの(2)の末尾で、ほんの少し触れています〔付け加えると、本作に登場する美佐子の父親は失踪していますが、『萌の朱雀』のみちる尾野真千子)の父親・幸三國村隼)も失踪します(あとで自殺したことがわかります)〕。
 また、河瀬直美の作品でよく見かける印象的な木々の揺れは、本作でも見ることが出来ます(なお、この拙エントリの「注4」もご覧ください)。

(注6)中には、「前のより整理されていてスッキリした」「余白ができ、ジワーと感じる部分が出てきた」と評価するモニターもいますが、中森は、「今度のガイドは、初めてこの映画を見る人にとって酷いと思う。例えば、トップシーンについては空間を再現できない」と批判します。
 さらに、中森は、「ラストシーンでは、結局何も言わないんだ」、「逃げているんだ」と咎めます。これに対し美佐子は、「ラストは、見ている方に委ねたほうが良いかと」、「逃げてはいません。ただ、個人的な感情は避けた方が良いのかなと思ったのです」と反論します。すると、中森は「何も感じなかったんだ」と責めます。それに対して、美佐子は「それって、想像力の問題なのでは。中森さんの表情には、何の変化もありませんでした」と言ってしまいます。

(注7)美佐子が、北林監督に「重三は、監督の内面を表す存在ですか?」と尋ねると、北林監督は「そういうところもあるかな。爺さんであるところとか」と答え、さらに美佐子が「ラストシーンですが、「その表情は生きる希望に満ちている」とガイドするのは間違ってますか?」と訊くと、北林監督は「重三は、明日死んでしまうかもしれませんよ。生と死の狭間がだんだん曖昧になってくるんです」と、否定的なことを言います。
 それでも美佐子が「映画の中には希望がほしいんです」と言うと、北村監督は「重三が、あんたの希望になったら凄い」と言って立ち去ります。
 美佐子が「映画の中には希望がほしい」と言ったのは、あるいは、下記「注8」に記すように、彼女の母親が認知症であることを踏まえてのことかもしれませんが〔北村監督が制作した映画『その砂の行方』では、上記(1)で触れているように、重三の妻・時江が認知症なのです〕、もしかしたら、美佐子の映画に対する一般的な姿勢なのかもしれません。

(注8)奈良の山奥にある美佐子の故郷には、母親(白川和子)が一人で暮らしていますが、認知症の兆候が出てきているようです。母親の面倒を見てくれる隣人も、「お父さんが失踪した時の記憶が抜けている。そろそろ施設のこと考えた方がいいかも」と美佐子に言います。
 美佐子は、時々母親に会いに行くのですが、ある時、父親が失踪する際に家に残していった財布を見つけ、その中に、父親と自分が写っている写真があるのを見つけます。

(注9)この記事をご覧ください。

(注10)中森の部屋に入ると、天才写真家としてもてはやされた頃に撮影した写真でしょうか、たくさんの写真が所狭しと壁に掲げられています。
 そして、手紙がゴミ箱に捨てられているのを見つけた美佐子が、「これ間違って捨てられていますよ」と言うと、中森は「それは捨てていいんだ」と答えます。それに対して、美佐子が「このホテル、バリアフリーだから大丈夫ですよ」と言うと、中森は苛立って「向いてないよ、お前」と答えます。あとで中森は、「昔の妻の結婚式の招待状だ」と打ち明けるのです。

(注11)中森からローライフレックスを取り上げようとした写真仲間に対して、中森は「動かせなくなっても、俺の心臓だ」と言うのですが、相手は「もう止めなって」と忠告します。

(注12)例えば、中森が昼間だと思って電話したところ、実際は真夜中で、相手に心配されますし(「また徹夜しているんですか、いつ寝てるんです?」と言われてしまいます)、カメラを向けた相手に「いい天気ですね」と言うと、相手から「いいえ、今日は晴れてないと思います」と返されてしまいます。

(注13)『追憶』のラストで涼子安藤サクラ)が見る夕日は、昔、喫茶店「ゆきわりそう」の窓から涼子が見た夕日ではないでしょうか?

(注14)美佐子と中森は、中森が夕日を撮影した場所に一緒に出かけます。
 そこで、中森は愛用のローライフレックスを投げ捨てますし、それを見た美佐子は中森に口づけをします。
 また美佐子は、自分と父親が一緒の写真に写っている夕日が見える場所で、いなくなった母親に出会いますが、母親は「あのお日さんが山の中に沈んだら、お父さん帰ってくる」と言うのです。
 両方共、夕日に未来を託している感じがします。



★★★★☆☆



象のロケット:光

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美しい星

2017年06月09日 | 邦画(17年)
 『美しい星』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)三島由紀夫のSF小説の映画化と聞いて、映画館に出かけました。

 本作(注1)の冒頭では、レストランにおいて大杉家の食事会が行われています(注2)。
 父親の重一郎リリー・フランキー)と母親の伊余子中嶋朋子)、それに長女の暁子橋本愛)が席について食事をしていますが、長男の一雄亀梨和也)が遅れているようです。
 シャンデリアが大写しになった後、重一郎が、携帯電話をかけている伊余子に、「出ない?」「来れないなら、最初からそう言えよ」と言い、やって来たウェイターに「水、三つ」と頼みます。
 伊余子は、ウェイターに「もう少し待っていただけます?」と言います。
 重一郎は、なおも「時間が自由になるから、フリーターなんだろ?」と皮肉を言うと、伊余子は「そんなこと言わないで」と応じます。
 伊余子は暁子の皿を見て、「食べないの?オッソブーコ」と言いますが、暁子は「チョット」と答えるだけです。
 そこに電話がかかってきて、重一郎は席を外して外に出ます。

 レストランの外で、重一郎は、「今日はチョット無理。もう一人がまだ来ていないんだ」「明日は?」などと携帯で言っていると、一雄が自転車で到着します。

 伊余子は、メッセンジャーのバイトの格好のままの一雄を見て、「着替える時間がなかったの?」と尋ねますが、一雄は「急かすから」と応じます。
 一雄は、暁子が残しているオッソブーコを口にしながら、「こういうイベント必要?」と訊きます。

 ここでタイトルが流れて、TVの画像。
 キャスターの今野羽場裕一)が、温暖化対策に関するニュースを読み上げています。

 屋外の広場では、重一郎が出番を待っています。
 アシスタントの玲奈友利恵)が天気図を持ってくると、重一郎は「ここ、どのくらい下がっているの?」と尋ね、玲奈が「1004ヘクトパスカル」と答えると、重一郎は「これくらいなら崩れない」と言います。
 ADの長谷部坂口辰平)が「あと5秒ほど」と告げ、今野キャスターが「次はお天気です。大杉さん」と振ると、TV画面に重一郎が映し出され、「今晩は」「もう1月と言うのにどうしたんでしょう」「各地で4月並の暖かさ」「明日はさらに気温が高くなります」などと説明します。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、50年以上前に三島由紀夫が書いたSF小説を映画化したもので、他の惑星から地球にやって来た異星人が日本で一家を形成し(母親だけは地球人)、温暖化等の進む地球に対して警告を発し、その阻止に向けて地球人を立ち上がらせようとするお話。異星人といっても外形は地球人のままですから、すべて彼らの妄想と受け取り(注3)、この話自体を他愛のないものとみなすことも出来るでしょう。でも、円盤が登場するSF物としてそのまま受け取っておく方が、ずっと面白いように思われます。

(2)本作は、SF物であり、異星人が地球にやってきて地球人を救おうとするという点で、前回取り上げた『メッセージ』とある程度つながりを持っているように感じました。
 無論、本作に登場する異星人は皆地球人になりすましていますから、同作に現れる異星人のヘプタポッドとは外形がまるで違います。また、同作で専ら焦点を当てられているのは、地球人が如何に異星人とコンタクトを取りその目的を理解するのか、という点であり、最初から異星人が地球人と滑らかにコミュニケートしている本作とは雰囲気が全然違います。
 とはいえ、同作では、異星人が主人公に自分たちの武器(言葉)を与えることによって、地球人の結束を図ろうとするのと同じように、本作の主人公の重一郎は、温暖化や異常気象といった様々の問題が起こる地球を救おうといろいろ活動するのです(注4)。

 そのクライマックスが、重一郎と一雄や黒木佐々木蔵之介)との、TVスタジオにおける対決のシーンでしょう(注5)。
 重一郎が、「太陽系連合は私の大事な家族です。私は、火星人として、お隣の星のことを放っておけません」と言うと、一雄は「自分たちのしてきたことを忘れるなんて、自分勝手過ぎません?」「気づかないふりをして、未来を犠牲にしたんだ」と反論します(注6)。
 それに対して、重一郎が「地球人の頃の話はよせ。父親として子供たちに借りを残したくないんだ」と言うと、黒木が入ってきて、「ご高説拝聴いたしました。あなたの本当の目的は?」と尋ねます。それに対し、重一郎は「太陽系連合として、地球をこの危機から救いたい」と答えます。
 すると、黒木は、「地球に救う価値はありますか?」と再度尋ねます。重一郎が「だってこんなに美しい星なんだから」と答えると、黒木は、「自然が美しいのではなく、人間が美しいと感じるのです」「ですが、その自然に人は人間を含めないのです」「私は、人間が滅びるのを助けたい。そうすれば、地球は本当に美しくなる」と言います。

 ここらあたりを見ると、主人公・重一郎の主張は西欧的な感じがし、むしろ、ネガティブな存在のように見える黒木の見解に、日本的な“滅びの美学”“滅びることの美しさ”といった原作者・三島由紀夫の思想の一端が伺えるようで(注7)、興味深いものがあります(注8)。

 なお、三島由紀夫の原作をパラパラと読むと、色々改変されている点が見つかります。
 特に、原作小説では、本作のような地球温暖化といった問題ではなく、核戦争の危機をめぐり異星人が地球人に対し警告をします。映画化にあたり話をヨリ現実的なものにしようと、本作の制作者側はこの問題を取り上げることとしたのでしょう。

 ですが、地球温暖化問題に関しては、米国のトランプ大統領が、米国製造業の国際競争力を弱めるものだとして、パリ協定脱退を発表したばかりです(6月1日)。
 この発表に対しては、米国国内はおろか、世界各国からも非難の声が寄せられています。
 でも、元々、CO2排出量と地球温暖化との関係は、確定的なものではない(科学的に因果関係が十分に証明されたものではない)ようですから(注9)、トランプ氏の方針をあながち非難するわけにもいかないようにも思われます(注10)。
 だからといって、地球温暖化問題の重要性が雲散霧消してしまったわけでもないでしょう。
 ただ、他方で、このところ北朝鮮の核兵器の開発が一段と進み、アメリカ本土に対する核攻撃が可能となるのもそんなに遠いことではないと見られています。それで、一時は、米国の北朝鮮攻撃が近々ありうるのではないか、そんなことになったら日本に北朝鮮のミサイルが飛来することも考えられるのではないか、などとする報道までもなされました。
 こんな状況からすると、皮肉にも、原作小説の核戦争の危機が間近という設定(無論、米ソ対立という状況は変化してしまっていますが)を取り入れたとしても、それほど非現実的な雰囲気にはならないのではないか、とも思えるところです。

 出演者については、皆なかなかの演技を見せており、特に橋本愛は、『Parks パークス』で見たばかりながら、主演のリリー・フランキーと『シェル・コレクター』で共演していることもあるのでしょうか、本作でも際立った存在感を醸し出していました(注11)。

(3)渡まち子氏によれば、「三島由紀夫自身が“へんてこりん”と形容したこの小説のテイストを壊さずに映画化したのが何よりも収穫だ。しかも、この突拍子もない物語の登場人物に、ひょうひょうとしたリリー・フランキーをはじめ、若手アイドルをちゃっかり組み込んで、スター映画に仕上げてしまった点を評価したい」として65点を付けています。
 中条省平氏は、「原作の主眼は宇宙人と地球人の思想闘争にある。映画でこの部分を大幅に削るのは理解できるが、物足りなさが残るのも事実だ」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 真魚八重子氏は、「三島由紀夫の異色SF小説を、鬼才吉田大八監督が映画化。設定や物語が突飛(とっぴ)なので、本作の展開についていくためには、共鳴や感応のような感覚を抱けないと、置いてきぼりになりそうだ」などと述べています。
 小島一宏氏は、「一家が覚醒したのは単なる思い込みか、それとも太陽系連合からの警鐘か。やや大風呂敷を広げすぎた感は否めないが、ラスト近くに映し出されるきらびやかな夜景を見ながら「人類はこれでいいのか?」とも思わされた」などと述べています。



(注1)監督は、『紙の月』の吉田大八
 脚本は吉田大八と甲斐聖太郎
 原作は三島由紀夫著『美しい星』(新潮文庫)。

 出演者の内、最近では、リリー・フランキーは『お父さんと伊藤さん』、亀梨和也は『バンクーバーの朝日』、橋本愛は『PARKS パークス』、中嶋朋子は『家族はつらいよ』、佐々木蔵之介は『超高速!参勤交代 リターンズ』、赤間麻里子は『RETURN(ハードバージョン)』で、それぞれ見ました。

(注2)後から到着する一雄が、運ばれてきたケーキに立てられているローソクの火を慌てて吹き消すシーンがあるところからすると、一雄の誕生日を祝っての食事会なのでしょう。

(注3)それまで普通の地球人として暮らしてきた大杉家の人々が、ある時点を境にして、自分は異星人であると“覚醒”するのですから、その時点で3人(重一郎、一雄、暁子)が集団催眠にかかったとも解することができるかもしれません。ただ、その場合には、なぜ母親・伊余子だけが催眠状態にならなかったのかわかりませんし、それに、3人は、時点はほぼ同じにしても、違ったシチュエーションで“覚醒”するというのも、集団催眠という視点では解けないように思われます(原作小説では、4人が別々に円盤に遭遇します)。

(注4)TVの気象予報士の重一郎は、例えば、担当している「お天気コーナー」の中で、「皆さんは、地球規模の温暖化を長い間放置してきてしまいました」「このまま行くと、取り返しのつかないことになります」「地球は一つの生き物なのです」「何をしなければいけないのか、皆さんで考えましょう」などと力説します。



(注5)黒木は、国会議員・鷹森春田純一)の第一秘書ですが、実際には異星人のようですし、一雄は黒木のもとで使われています。
 なお、黒木は原作では登場せず、原作で書かれている羽黒等の仙台に住む3人に変わる人物として描かれているように思われます。



(注6)本作においては、一雄の水星人としての使命がイマイチはっきりとしないように思われます(尤も、黒木が一雄に「人間が決められないことを決めてやる」こと以外に我々が地球ですることは何もない、と言うところからすれば、それがある意味で使命なのかもしれませんが)。

(注7)例えば、三島由紀夫の『金閣寺』とか『豊饒の海』の四部作。

(注8)原作小説でこのシーンに対応するのは、大杉家の応接間における重一郎と羽黒等の3人組との対決でしょう(第8章~第9章)。
 そこで注目されるのは、重一郎が次のように述べていることです。
 「時間の不可逆性が、人間どもの平和や自由を極度に困難にしている宿命的要因なのです。もし時間の法則が崩れて、事後が事前へ持ち込まれ、瞬間がそのまま永遠へ結び付けられるなら、人類の平和や自由は、たちどころに可能になるでしょう」、「未来を現在に於て味わい、瞬間を永遠に於て味わう、こういう宇宙人にとってはごく普通の能力を、何とかして人間どもに伝えてやり、それを武器として、彼らが平和と宇宙的統一に到達するのを助けてやる。これが私の地球へやってきた目的でした」(P.282~P.283)。
 ここで言及されている「宇宙人にとってはごく普通の能力」とは、まったく『メッセージ』で描かれているヘプタポッドの認識の仕方と同じでしょう!そして、同作で描かれているヘプタポッドの地球到来の目的も、原作小説で語られている重一郎の「地球へやってきた目的」と同一なのです。
 ただ、原作小説では、宇宙人の能力を人間に伝えることによって、「水爆戦争後の地球を現在の時点においてまざまざと眺めさせ、その直後のおそろしい無機的な恒久平和を、現在の心の瞬間的な陶酔の裡に味わわせてやる」のだと述べられています(尤も、これは、人間の想像力があまりに貧弱なためにうまくいっていない、と重一郎は述べますが)。
 これに対して、『メッセージ』では、ヘプタポッドの言語を主人公の言語学者・ルイーズに習得させることによって、彼らの世界認識の仕方をルイーズに伝え、それで彼女は地球人の一致団結を達成できるのです。
 原作小説がかなり悲観的なのに対し、『メッセージ』は楽観的だと言えるかもしれません。

(注9)実際には、本作の中でも、一雄がその下で働くことになる国会議員の鷹森は、重一郎の主張に批判的であり、「温暖化は、人為的なものではなく、長期的な気候変動によっている」と言ったりします(どうも、太陽光発電のシステムを売り込もうとする会社のバックアップを受けているようです)。

 なお、Wikipediaのこの項をご覧ください。そこでは、地球温暖化に対する様々の懐疑論が取り上げられており、さらにそれらに対する反論も案内されています。素人のクマネズミには、どちらの議論が正しいのか判断がつきません。ただ、これだけ色々議論されているということは、少なくとも、CO2排出量と地球温暖化との関係が確定的なものだと簡単に言い切ることが出来ないのでは、と思えるところです。

(注10)それに、パリ協定には、元々法的な拘束力がないようですし。
 この点について、この記事によれば、「温室効果ガスの排出量削減目標の提出や、実績点検など、パリ協定の一部は法的拘束力を伴う。しかし各国の削減目標には法的拘束力はない」とのこと。といっても、この記事のように、だから「パリ協定には意味がない」わけではなく、国際条約の中で、長期目標〔産業革命前からの平均気温上昇を2℃未満に抑えることとされ(1.5℃未満目標にも言及)〕を設定したことなど重要な点が決められている、とする味方もありますが。

(注11)ただ、橋本愛が扮する金星人の暁子は、重一郎と一緒になって地球温暖化等の問題に取り組むことはせずに、「美の基準を正す」という自分に与えられている使命を果たそうとします。大学のミスコンの話とか、ストリートミュージシャンの竹宮若葉竜也)とのエピソードは面白いものの、本作の流れからは一人だけ浮き上がってしまっている感じがします(原作小説の暁子は、ソ連のフルシチョフ首相宛の手紙を書いたりします)。



 なお、これで、『Parks パークス』に出演した3人の女優―橋本愛の他に、永野芽郁石橋静河―が、皆、すぐにその後に公開された映画に出演したことになります(クマネズミも、結局、それらの作品をすべて見たことになります←永野芽郁は『帝一の國』、石橋静河は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』)。『Parks パークス』は、御当地物的な雰囲気がなきにしもあらずの作品ながら、こうしてみると、若手女優にとって節目となる重要な作品にいつの間にか持ち上げられつつある感じがします!



★★★☆☆☆



象のロケット:美しい星

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メッセージ(2016)

2017年06月05日 | 洋画(17年)
 『メッセージ』(2016年)を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)アカデミー賞のいろいろな部門でノミネートされた作品(注1)なので、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、湖の畔に建てられている本作の主人公・ルイーズ・バンクスエイミー・アダムス)の家の場面。居間の机の上にはワインのボトルやグラスが。でも誰もいない感じです。
 そして、ルイーズの声が流れます。
 「あなたの物語が、この日始まったんだと思ってた」(注3)、「記憶って不思議。いろいろな見え方をする」。

 次いで、ルイーズの子供のハンナを巡る映像が幾つか。
 まずは、赤ん坊のハンナ。ルイーズは、ハンナの手を握ったり、抱き上げたりします。
 次いで、家の前に庭で遊んでいる幼いハンナ。ルイーズが「くすぐり銃だ、降参しろ」と言うと、ハンナは笑って逃げます。
 さらには、少女のハンナ。ルイーズに、「大好きよ」と言ったかと思うと、「大嫌い」と言ったりもします。



 最後に、ハンナが病院のベッドに横たわっています。坊主頭になっているのは抗がん剤の副作用でしょうか。ハンナは死んでいるのでしょう、ルイーズは「戻ってきて」と、ハンナの頭をなでながら泣きます。

 その後、ルイーズは、病院の廊下を悲しみにくれて歩いています。
 ルイーズの声。「でも、時の流れがなかったら?」、そして「見方が変わったのは、たぶん彼らが出現した日だ」。

 次いで、大学の大教室の場面。
 ルイーズは、教壇の椅子に座って教室を見回し、「お早う。ガラガラね。みんな何処へ行っちゃたの?」と呟きながら、「とにかく始めましょう。今日は、ポルトガル語についてです」と言います。
 さらに、「ポルトガル語は、中世のガリシア王国の時にその基盤ができました。そこでは、言葉は芸術表現とみなされていました…」と話し始めたところ、教室のアチコチで携帯の音がします。学生が、「先生、TVのニュースを点けてもらえませんか?」と求めます。
 仕方なくルイーズは、黒板の奥にある大きなディスプレイを取り出し、スイッチを入れます。
 ディスプレイにはニュース番組の映像が映し出され、レポーターが「モンタナ警察も到着してブロックしています」「政府の機密実験の可能性も考えられます」「世界の各地の出現し、これは北海道の映像です」「衝撃が走っています」などと叫んでいます。
 すると、大学にサイレンが鳴り響き、ルイーズも「今日の授業はおしまいね」と言い、キャンパスにいる学生たちは一斉に帰宅し始めます。空には、ジェット爆撃機が何機も飛んでいます
 ルイーズは車で自宅に向かいますが、カーラジオでは「地球外から来た可能性もある」「なぜ1度に12隻も来たのか」などと言っています。
 家に戻ったルイーズは、母親に電話し、「ニュースを見ただけ。そのチャンネルの情報は信用しないで」「私は元気。何も変わりはないので大丈夫」と話します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどんな物語が始まるのでしょうか、………?

 本作は、突如、地球外の宇宙船が地球に12隻も出現したものの、その目的が皆目わからないために、女性の言語学者として著名な主人公が、その宇宙船に乗る地球外生命体との交渉に駆り出されて、云々というSF物語。地球外生命体の外形がどうなっているのか、彼らが使用する文字はどんなものなのか、結局彼らと人類との戦いになってしまうのか、などいろいろ興味を引く点が盛り込まれていますが、一番は、時間に関する考え方が彼らと人類とで異なっている点でしょう。勿論、従来のSF物と類似するところがいろいろあるとはいえ、最後までなかなか面白く見ることが出来ました。

(2)本作は、ごく大雑把にまとめれば、人類が、これまで接触したことのない地球外生命体とコンタクトをとって、その考えていることを理解しようとする物語、といえるでしょう。
 ある意味で、その行為は、一昔前の文化人類学者が、アフリカなどに残っていた未開の地に住む土着の人々のグループの中に分け入って、その文化を解明しようとするのに似ている感じがします(注4)。その際に鍵となるのは、それらの人々が使っている言語を理解することでしょう(注5)。
 本作でも、主人公のルイーズが大学で教鞭をとる言語学者とされていて、地球にやって来た地球外生命体の言語を理解する、というところに焦点が当てられています。



 ただ、文化人類学者等が未接触の人々とコンタクトを取ってその使われている言語を理解しようとするのは、調査対象が自分たちと同じ姿・形をしていることから、ある意味で当然とも言えるでしょう。
 でも、本作の場合、相手は、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』に登場するタコのような火星人と類似する異星人(ずっと巨大ながらも、頭部の下に7本の脚がついていて、それでヘプタポッドと呼ばれます)であり(注6)、そんな姿にもかかわらず彼らが言語を持っているに違いないと、関係する地球人はなぜ考えるのでしょうか?
 おそらくは、彼らが宇宙船(巨大な卵型をしていて、「the shell」と言われます)を使って出現したために、彼らは高度なテクノロジーを持った知性体ではないか、それに宇宙船が12隻同時に地球上に出現したからには彼ら同士でコミュニケーションをとっているのではないか、そうだとしたらコミュニケーション手段として何かしらの言語を持っているのではないか、と関係する地球人たちが感じたためではないかと思われます。

 それでも、彼らが、話し言葉と書き言葉(文字)を持っていて、話し言葉の解明は絶望的にしても書き言葉の理解ならなんとかなるだろうというところまで辿り着くのは、容易なことではないのではないでしょうか?
 というのも、ルイーズをヘプタポッドとの交渉チームに引き入れた現地の司令官のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)は、彼らの音声らしきものを録音して、その解明をルイーズらに委ねるものの(注7)、ルイーズが実際に乗り出すまでは、彼らの「文字」の存在などわからなかったわけですから。

 それに、ルイーズがボードに「Human」と書いて示した時に、ヘプタポッドが墨のようなもので形作った輪っかが「文字」(それも表音文字ではなく「表義文字」)だとどうして分かるのでしょう?



 それは、紙などに書き留められることなく、しばらくすると形を崩して消滅してしまうようですし、それに、ヘプタポッド同士でそれを使ってコミュニケーションをとっているようにも思えません。
 彼らにとって、“話し言葉”の他に、そのような“書き言葉”はどうして必要なのでしょう(注8)?

 ですが、それはどうでもいいことかもしれません。
 あるいは、ルイーズが言語学者であることから、あの輪っかのようなものは「文字」に違いないと閃いたのかもしれませんし。

 それになによりも、ヘプタポッドの文字を理解できるようになって、本作で一番興味をひく点、すなわち、彼らと人類とでは時間に対する見方が異なっているという点を、ルイーズがわかってくるのですから(注9)。

 この点については、劇場用パンフレットに掲載のReviewの「8 時間」において、映画評論家の小林真里氏が、「ルイーズは、地球上における過去から未来へ一方向で流れる時間軸(時間の矢)とは全く異なる「非直線的な」時間軸に生きるエイリアンから、彼らと同様に「未来がわかる」能力(武器)を授かる」と述べているところです。

 それで、ルイーズは、ヘプタポッドの言語(文字)を習得する過程で、次第に未来のことがわかるようになって、自分に生まれる子供(ハンナ)の未来の姿などについても、頭に思い描くようになるわけです。
 そうだとすると、本作の冒頭〔上記(1)をご覧ください〕で描かれるハンナの姿についての映像も、本作の物語を話しているルイーズの現在時点では、彼女の頭に思い浮かぶ未来の事柄ということに、あるいはなるのかもしれません(注10)。

 ただ、そうだとすると、時間を取り扱うSF物に特有のよくわからない点が本作に出てきてしまうようにも思われます(注11)。特に、未来のことが先取り的に現時点でわかってしまう点について(注12)。

 それでも、ヘプタポッド騒動が終わった後、ルイーズがイアン・ドネリージェレミー・レナー)に、「この先の人生が見えたら、選択を変える?」と尋ねると、イアンは「自分の気持ちをモット相手に伝えるかも」「ずっと宇宙に憧れてきたけど、一番の出会いは彼らとじゃない、君とだ」と答えて、2人は強く抱き合うのですが、これこそ、未来の脚本がすでに出来上がっている世界における恋愛なのかもしれないと、見る者に思わせる優れたシーンではないでしょうか(注13)?



 それはともかくとして、本作は、地球外生命体とコンタクトをとることはどういうことなのか、時間が直線的に流れるという認識の仕方とは違った認識方法がありうるのではないか、など、様々な点について見る者を色々考えさせるという点で、なかなか興味深い作品ではないかと思ったところです。

 なお、本作では、ルイーズを演じるエイミー・アダムスは、ほとんど出ずっぱりで、聡明で意志の強そうな言語学者の役柄を真摯に熱意を込めて演じていましたが、他方で、共演のジェレミー・レナーが扮するイアンが果たす役割がどうもはっきりしない感じでした(注14)。

(3)渡まち子氏は、「エイミー・アダムスをはじめ、実力派俳優たちの丁寧な演技が、深い人間ドラマを紡ぎ、生きることの意味を問う壮大な物語を作り上げた。またしても俊英ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の才能に驚かされた1本だった」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「(本作は、)未来に不安を持つ人すべてを励ます映画であるということだ。まさに、未来に希望などない時代ならでは。現代だからこそ登場した映画であるといえるだろう」として70点を付けています。
 藤原帰一氏は、「この「メッセージ」における友好的な宇宙人は、難民と移民が反発と排除を引き起こす時代において、他者と共存し、他者から学ぶことを選ぶお話として解釈することができるだろうと思います」と述べています。
 北小路隆志氏は、「優れたSF映画は僕らの日常を根底で支える「常識」に再考の機会を与える。世界が注目するカナダ人監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴの手腕が、ジャンルの枠組みの有効活用の点でも遺憾なく発揮され、近年まれなメジャー系SF映画の傑作が誕生した」と述べています。



(注1)作品賞、監督賞、脚色賞、美術賞、撮影賞、編集賞、音響編集賞、録音賞の8部門でノミネートされ、結局、音響編集賞に選ばれました。

(注2)監督は、『複製された男』や『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ
 脚色は、エリック・ハイセラー
 原作は、テッド・チャンが書いた短編「あなたの人生の物語」〔短編集『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫)に収録〕。
 原題は「ARRIVAL」。

 なお、本作の出演者の内、最近では、エイミー・アダムスは『ビッグ・アイズ』、ジェレミー・レナーは『エヴァの告白』、フォレスト・ウィテカーは『大統領の執事の涙』、捜査官役のマイケル・スタールバーグは『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』で、それぞれ見ました。

(注3)「I used to think this was the beginning of your story」。
 この「your story」が、原作の短編小説のタイトル「Story of Your Life」につながっていくのでしょう。

(注4)啓蒙的な著書では、例えば、山口昌男著『アフリカの神話的世界』〔岩波新書:この拙エントリの(2)で触れたことがあります〕などでしょうか。

(注5)一昔前だったら、言語学者・金田一京助によるアイヌ語習得の話を持ち出せばよかったかもしれません。
 この記事によれば、戦後すぐの国語の教科書には、金田一京助の「心の小径」というエッセイが掲載されていて、そこでは彼のアイヌ語習得の取っ掛かりとなった出来事(金田一が、ノートに乱雑な線を書いてアイヌ人に示したところ、「ヘマタ!」と言われたので、「ヘマタ?」が「何?」を表す言葉だとわかリ、それ以後アイヌ語の語彙が増えていった←ここには、その時ノートに書いた図が掲載されています)が綴られていたそうです(ただ、ここには、このエピソードの意味について疑問が投げかけられていますが)。
 なお、金田一京助については、玉川上水緑道の拙宅の近くのところに「水難の碑」が設けられていて(この記事、及びこの拙エントリの「ト)」をご覧ください)、その碑には、彼の四女が玉川上水で溺死したことが記されていて、それで少し調べてみて興味を持ちました。

(注6)宇宙人の外形としては、本作のようなタコ型を含む動物型の他にも、人間型などがあるようです(この記事)。例えば、『PK ピーケイ』に登場する異星人は、地球人と全く変わらない姿・形をしていますし、『宇宙人ポール』に登場する異星人・ポールも人間型でしょう。
 なお、本作に登場する異星人・ヘプタポッドは、墨で書いた文字のようなものを使いますが、外形ばかりではなく、そんなところからもタコ型と言えるでしょう〔ただ、タコ・イカは、本川達雄著『ウニはすごい、バッタもすごい』(中公新書)によれば、海中でこそ、その形態の特徴を活かせるようです。ヘプタポッドも、なにかしらの液体の中で生息しているのでしょうか?でも、そうだとしたら、人間を超える知性の進化は望めないようにも思われますが〕。

(注7)実際には、その録音にはノイズが多い上に、どのような状況下で録音されたのか等についての情報が不足しているために、ルイーズはその解明を放棄することになります。

(注8)例えば、あのような広大な帝国を築き上げたインカ帝国には、文字が存在しなかったとされています(この記事の「言語」の項)。

(注9)ラストの方で、ルイーズは、ヘプタポッドのコステロと話をします(もう一人のアボットの方は、地球人が持ち込んだ爆薬によって死んでしまいます)。
 コステロは「ルイーズには武器がある」「武器を使え」と言い、それが何を意味するのかわからないルーズは(実は、ヘプタポッドの文字がルイーズに贈られた「武器」なのですが)、「あなた達の目的は?」と尋ねると、コステロは「今、人類を助けること」と答え、さらに「3000年後に人類の助けが要るのだ」と言います。それで、ルイーズは「未来がわかるの?」と驚きます。
 ただし、ここらあたりの会話は、話し言葉ではなく、お互いの「文字」のやりとりによって行われます。

(注10)あるいは、ルイーズが話している時点は、本作で描かれるヘプタポッドとのコンタクウトがあった時点よりもずっと後のことで、映画の冒頭で描かれるハンナの姿は、ルイーズの過去の経験とも解釈できますが(ラストの方で、ルイーズは、「あなた(ハンナ)の物語は、彼らが消えた日に始まったの」とも言っていますし)。
 それに、最初の方で「記憶」と言ってたりもしますし(「記憶」といえば過去のことについてでしょう。ただし、ヘプタポッドに認識には「過去」も「未来」もないことになっていますから、「記憶」自体があるのでしょうか)。

(注11)例えば、自由意思の問題はどうでしょう。
 上記「注9」に記したように、ヘプタポッドは、「3000年後に人類の助けが要るのだ」とわかって、「今、人類を助ける」ために地球にやって来たと言いますが、3000年後に人類によって彼らが助かるのであれば、人類はその時まで存続していたことになるわけで、なにも「今、人類を助ける」必要もないのではないでしょうか?
 ただ、今人類を助けること自体もペプタポッドは予めわかっているとしたら?その場合には、予め決められている脚本通りのことを、その出演者がこなしているだけのことになります。一体、それは何を意味するのでしょうか?
 また、ルイーズは、この騒動の1年後に顔を合わせるシャン上将(ツイ・マー)から携帯電話の番号を聞き出すと、物語の現時点でその携帯電話を使って、シャン上将に核攻撃の開始を思いとどまらせるのです。でも、ルイーズは、シャン上将の妻の最後の言葉(物語の現時点では、シャン上将以外に誰も知り得ないはずの)をどうして知り得たのかという点はともかくも(携帯番号を聞いた際に、教えてもらったのでしょう)、このエピソード自体、予め書かれた脚本に従っているだけのことではないでしょうか?

(注12)ルイーズに未来のことがわかるという場合、無数に起こるはずの未来の出来事の内どれについてルイーズがわかるというのでしょう?あるいは、ルイーズに引き起こされることだけに限定されるのかもしれません。でも、ヘプタポッドは、少なくとも3000年後のことがわかるのです(あるいは、彼らの寿命は3000年を超えるのかもしれません。ただ、それにしては、人間の爆弾で簡単に死んでしまうのですが)。
 ルイーズ自身に起こることだけに限定される場合にしても、自分の知りたい未来を、無数に漂う未来の出来事のうちからどうやって選択するのか、よくわからない感じです。
 それと、未来に起こる「出来事」と言う場合の出来事とは一体どういうものなのでしょう?出来事とは、時間の継起によってつなぎ合わされた一連のものではないでしょうか?その時間がリニアに流れて初めて、一つの出来事としてまとまって認識できるようになるのではないでしょうか?そうならずに、すべての物事が同時に起こっているとしたら、無数の出来事が同時に併置されている感じとなり、とても認識できないのではないでしょうか?
 ルイーズが、ヘプタポッドから贈られた彼らの言語を習得して、世界の認識の仕方が変わったとされていますが、そのルイーズが、ヘプタポッドが出現してから帰還するまでの出来事の経緯を語る場合には、従来のリニアに時間が流れる認識の仕方によっているのは、どうしてでしょう?

(注13)それでも、ある時、「未来に起こることを自分は知っている」とルイーズがイアンに言うと、イアンは酷く怒って、家を飛び出してしまうという未来を、予め結婚する時点でルイーズは知っているのですが。

(注14)例えば、原作では、ゲーリー・ドネリー(本作のイアン・ドネリーに相当します)の解説する「変分原理」にかなり重要な役割が与えられていますが〔ハヤカワ文庫版のP.224~P.226では、ゲーリーが図を用いてルイーズに説明しています〕、本作では同原理に関する事柄はカットされています。



★★★★☆☆


象のロケット:メッセージ(2016年製作)
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マンチェスター・バイ・ザ・シー

2017年05月30日 | 洋画(17年)
 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)アカデミー賞の主演男優賞と脚本賞を取った作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(注2)という町の漁港から船が、外洋に向かって出ていきます。操舵室にはジョー・チャンドラーカイル・チャンドラー)がいて、舵を操っています。また、船尾の方には、ジョーの弟のリー・チャンドラーケイシー・アフレック)と、ジョーの一人息子のパトリック(幼い頃:ベン・オブライエン)がいて、ふざけ合ったりしています。



 リーが、「地図のように全体を見ていけば、物事がうまく進む」と言うと、パトリックが「地図を読めるの?」と尋ねます。リーは、「そうだ。お前のパパは全く良いやつだが、そこがわかっていない」と答えます。それから、リーが、「パパと俺のどちらかを選べといったら、どちらを選ぶ?」と尋ねると、パトリックは「パパ」と答えます。

 次の場面は、真冬で雪が降っている中、リーがアパートの周囲の雪かきをしています。
 場所は、ボストン郊外(注3)。
 リーはこのアパートの「便利屋」といったところで、そのメンテに関し様々なことをしています。雪かきの他にも、部屋の天井に取り付けられている扇風機の修理とか、ゴミ出しなどなど。

 例えば、浴室の水漏れのことで、リーはオルソン夫人(ミッシー・ヤガー)の部屋にいます。
 オルソン夫人が「何回直せばいいの?」と怒るものですから、リーは「配管工を呼びます」と答えます。そして、浴槽を見て「さっき、シャワーを使いましたか?」と尋ねます。彼女がが「使った」と答えると、リーは「シャワーを使ってみて、水が階下に漏れるかどうか見てみましょう」と言います。すると、オルソン夫人は、「私がシャワーを使っている最中に、漏れている箇所を探すの?」「よくもそんなことが言えるのね!」「いますぐ出ていかないと警察を呼ぶわよ」と猛烈に怒り出します。

 その後で、リーは上司(ステファン・ヘンダーソン)から、「どうして無礼な口の利き方をする?挨拶一つもない」「とにかく、オルソン夫人に謝ってくれ」と注意されますが、リーが「遅刻もせずに、アパート4棟の面倒を何から何までみてる」と反論すると、上司は「わかった、わかった、自分で話すよ」と矛を収めます。

 また、バーで独りで酒を飲んでいる際、リーは、前のカウンターに座っていた2人の客に近づいて、「前に会ったことがあったか?」と尋ね、その客が「いいや」と答えると、「どうして俺のことを見ていたんだ」と難癖をつけて殴りかかって喧嘩となります。

 これが本作の始めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開していくのでしょう、………?

 本作は、ボストンで働く主人公は、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーで暮らしている兄の急死を聞いて、急ぎ戻りはするものの、兄の遺児の後見人になるのを嫌がったり、早くその街を出たがったりします。というのも、主人公は、過去に、その街である重大事を引き起こしていたからであって、云々という物語。
 最初のうちは、回想シーンにいきなり移ったりすることが多く、筋をつかむのに骨が折れましたが、話がわかってくると深く引き込まれてしまい、主人公の内面が次第にほぐれてきて、兄の遺児らとの関係も変化する最後の方になると、深く心を動かされました。さすが主演男優賞と脚本賞を獲得した作品だな、と納得したところです(注4)。

(2)上記(1)で触れたバーでの喧嘩の後のこと、リーがアパートの周囲の雪掻きをしていると、携帯に「ジョーが危篤」という連絡が入ります。リーは「今すぐそちらに向かう。1時間半で着く」と答え、ボストンからマンチェスター・バイ・ザ・シーへ車で向かいます。

 この物語も、ある意味で、『カフェ・ソサエティ』についての拙エントリの(2)で触れた「二都物語」といえるかもしれません。
 ただ、本作は、ディケンズの『二都物語』のようにパリとロンドンを巡る歴史絵巻ではありませんし、『カフェ・ソサエティ』のようにロサンゼルス(ハリウッド)やニューヨークといった都市の様子を描き出すことを狙いとするものでもありません。なによりも、ボストンは、人口60万人を超える大都市であるにしても、マンチェスター・バイ・ザ・シーは、人口5千人ほどの小さな町なのですし。
 それでも、本作の主人公のリーは、何らかの理由で故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーを離れてボストンで暮らしているものの、兄・ジョーの急死で急遽故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに出向き、そしてまたボストンに戻ることになるのです。
 それに、ボストンでのリーの暮らしぶりとか、マンチェスター・バイ・ザ・シーでの出来事といったものが映画の中でじっくりと描き出されてもいるので、「二都物語」的な感じがするところです。

 加えて、本作では、リーを巡る人間関係で、ことさら「二」が強調されているようにも見えます。
 本作で中心的に描かれるのは、リーと、兄・ジョーの息子のパトリックルーカス・ヘッジス)の二人の関係です(注5)。



 また、その背後にあるのは、リーと兄・ジョーと二人の関係(注6)。



 さらには、リーとその元妻のランディミシェル・ウィリアムズ)との二人の関係もあるでしょう(注7)。

 リーにしても、マンチェスター・バイ・ザ・シーでの出来事の前までは、上記(1)の冒頭で見るように兄・ジョーやその子供のパトリックと一緒に遊んだり、友人を大勢自宅に招いたりして(注8)、ごく普通に振る舞っていました。ですが、その重大事が起こった後は、自分の殻に閉じ込もってしまい、ボストンにいる時は、仕事で必要最小限の付き合いをするだけですし、マンチェスター・バイ・ザ・シーに戻った時も、わずかの人と1対1で話をするだけでした(注9)。

 もう少し本作について言うと、映画で描き出される場面の時点が、最初のうちはなかなか掴み難い感じがしました。
 例えば、上記(1)の冒頭で記した場面と、次のリーが雪掻きをする現在時点の場面とでは、時点が8年ほど違っているようですが(注10)、突然画面が変わるので、つながりがよくわかりません。
 でも、途中から、なぜリーがマンチェスター・バイ・ザ・シーを離れざるをえなかったのかがわかってくると、最初の場面の意味合いも理解できるようになり、逆に、これはこれで脚本構成(あるいは編集)の一つの巧みなやり方なのだなと思えてきます。

 また、本作の山場のところで流れる曲名は何かなとネットで調べてみましたら、レモ・ジャゾット作曲の『アルビノーニのアダージョ』(1958年)であることがわかりました。
 メロディそのものはよく耳にするものの、名前まで知らなかったのですが、さらにWikipediaによれば、「トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され」てきたが、「この作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった」とのことで、驚きました。
 こうした曰くのある曲をこの場面に使うことに何か意味が込められているのかなとも、見る者に考えさせるところです(注11)。

 なお、本作でアカデミー賞の主演男優賞を獲得したケイシー・アフレックについては、クマネズミはこれまで数少ない作品しか見ておりませんが、本作における演技は、この人以外にありえないと感じさせるほど素晴らしいと思いました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「ボソボソと口ごもりながら話し、視線を落として猫背で歩くリーは、まるで自分で自分を罰しているかのように、影が薄い主人公だ。最小限のセリフと、表情や仕草だけでリーの絶望を演じ切ったケイシー・アフレックの抑えた演技が素晴らしい」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「ケネス・ロナーガン監督の長編3作目だが、とてもそうは思えないほどドラマの組み立てがうまい。とくに年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人が見れば、この映画の良さはすぐにわかる」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「アカデミー賞に相応(ふさわ)しい緊密なシナリオを、脚本家自身が堅実な演出を積みかさねて見応え十分な作品に仕上げた。とくに素晴らしいのは役者たちだ」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 稲垣都々世氏は、「声を押し殺して泣いた。人が生きていくとはこういうこと。もがき、苦しみながらも生きようとすることの重みが、静かに心に染み入ってくる」と述べています。
 藤原帰一氏は、「演出は上手と言えませんが、ここまで俳優と脚本がいいとそれだけで映画になってしまう。「ムーンライト」と並んで、アメリカ映画における人間描写の深まりを感じさせる作品です」と述べています。



(注1)監督・脚本は、ケネス・ロナーガン
 原題は「Manchester by the Sea」。

 出演者の内、最近では、ケイシー・アフレックは『インターステラー』(主人公の息子役)や『キラー・インサイド・ミー』、ミシェル・ウィリアムズは『テイク・ディス・ワルツ』、カイル・チャンドラーは『キャロル』で、それぞれ見ました。

(注2)ほとんど情報を持たずに映画館に行ったものですから、てっきり、著名なサッカークラブがあり、先般テロ事件(5月22日)が起きた大都市の「マンチェスター」を巡るイギリス映画なのではと思っていましたが、見てしばらくしたら、マンチェスター・バイ・ザ・シーというのは、アメリカ東海岸にあるボストン近くの漁港の町(ボストンの北東)の名前であり、本作もれっきとしたアメリカ映画であることがわかり、驚きました。

(注3)時点は現在時点。なお、下記「注9」をご覧ください。

(注4)アカデミー賞の作品賞には『ムーンライト』が選ばれましたが、同作も確かに優れているとはいえ、クマネズミに投票権があるとしたら、「作品賞」としては本作を推したいところです。

(注5)下記「注6」に記すように、リーはパトリックの後見人に指名され、弁護士から、ボストンを引き払ってマンチェスター・バイ・ザ・シーの方に住居を移すように求められます。ですが、リーはそれを受け入れることが出来ず、兄・ジョーの残した財産を処分して、パトリックについては、別の州にいる親族のもとで面倒を見てもらうことを考えます。これに対して、パトリックは、自分の生みの母・エリーズグレッチェン・モル)の元で暮らそうとします(エリーズは、アルコール依存症で、ジョーと別れていました)。しかしながら、これもうまく行かず、結局、パトリックは、リーの取り計らいによって、ジョーの親友のジョージC・J・ウィルソン)の養子となって、そこで暮らすことになります。
 パトリックの面倒を誰が見るのかという問題に対するリーの取り組み方が、最初と最後の方ではかなり異なってきますが、その違いにはリーの心のほぐれが感じられるところです。

(注6)兄のジョー(「うっ血性心不全」のため、余命が5~10年だと医者から言われていました)は、その遺言書において、リーがマンチェスター・バイ・ザ・シーで引き起こした事件を知りながらも(むしろ、知っていたがために)、リーを自分の息子・パトリックの後見人に指名していました。そうすることによって、ジョーは、リーの立ち直りを期待したのかもしれません。

(注7)偶然出会ったリーとランディとの会話のシーンは、とても感動的です(ランディは友人と一緒だったのですが、その友人は2人で話せるようにその場を離れます)。



 ランディが、「あの時、心が壊れたの(my heart was broken)。ずっと壊れたまま。あなたの心も壊れた。あなたに酷いことをした。ごめんなさい。愛してるわ。でも手遅れね。死なないで」と言うと、リーは、「俺は大丈夫。話せてよかった。もう何も思っていない」と応じるのです。

(注8)家の地下室で、リーとその仲間たちが、酒を飲みながら卓球に興じたりして、皆が大声で喚き散らしていたために、ランディから「うるさい、静かにして!」とたしなめられるほどでした(それで、皆を帰した後、飲み足りないと、リーはアルコールを買いにコンビニまで歩いていったのですが、………)。

(注9)「二」についてもう少し言えば、例えば、パトリックの彼女はシルヴィー(カーラ・ヘイワード)とサンディー(アンナ・バリシニコフ)の二人いますし、サンディーの母親・ジル(ヘザー・バーンズ)とリーは、その家で二人で向かい合わせに座ったりします(尤も、リーが世間話もしない硬い態度をとるので、ジルの方で音を上げてしまいますが)。

(注10)IMDbのこの記事(Synopsis)によれば、本作の現在時点は、冒頭のシーンから「roughly eight years」経過しているとのこと。すなわち、本作の冒頭シーンにおけるパトリックは小学校に通っていましたが、本作の現時点では高校の最上級生のようです(ラストの方で、リーが「ボストンで、予備の部屋の付いたアパートを探している。お前がボストンの大学に通うかもしれないから」と言うと、パトリックは「大学に進学しない」と答え、それに対しリーは「それじゃあ物置に使おう」と応じます)。

(注11)逆に、アチコチの作品で使われている通俗的な曲なので(例えば、この記事をご覧ください)、本作の山場の雰囲気が損なわれてしまったのではないか、との意見もあるようです(例えば、この記事)。

(注12)元々はマット・デイモンが自分で監督・主演をやるつもりだったところ、スケジュール調整がうまく行かずに、ケイシー・アフレックに譲ったとのこと(この記事)。ケイシー・アフレックが演じているところをマット・デイモンに置き換えてみたらどんな感じになるかを想像してみるのも、楽しいかもしれません(クマネズミには、とても憎めそうにない顔つきをしているマット・デイモンに、他人を拒絶しているリーの雰囲気を、ケイシー・アフレックほど巧みに演じられるとは思えないのですが)。



★★★★★☆


象のロケット:マンチェスター・バイ・ザ・シー


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カフェ・ソサエティ

2017年05月26日 | 洋画(17年)
 『カフェ・ソサエティ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)ウディ・アレン監督の最新作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、プール付きの豪邸におけるパーティ-の模様が映し出されます。
 場所はハリウッド・ヒルズにあるフィル・スターンスティーヴ・カレル)の邸宅、時代は1930年代後半。
 フィルは大物エージェント。人々が彼の周りに集まっています。
 そこに、ニューヨークで暮らすフィルの姉・ローズジーニー・バーリン)から電話がかかってきます。
 「ローズよ」「誰?」「あんたの姉よ」「ここの電話番号を知らないはずだが?」「メイドに聞いた」「要件は?」「ボビーがハリウッドに行く。仕事を見つけてやって」「ボビー?」「ボビーは私の息子。あんたの甥。あんたしか頼れないの」「力になれるとは思わないが」といった会話がローズとフィルとの間で交わされます。

 ボビージェシー・アイゼンバーグ)の家族について説明が入ります。
 “父・マーティケン・ストット)は貧弱な宝石商を営む。父と母・ローズはよく喧嘩をした。特に、フィルのことについて。
 姉のエヴェリンサリ・レニック)は、教師のレナードスティーブン・クンケン)と結婚していたが、レナードは共産主義者。
 兄のベンコリー・ストール)は、レストランに勤めていることになっていたものの、ギャングであり裏稼業で稼いでいた。”

 次の場面では、予め約束した日に、ボビーは、叔父のフィルの事務所に行き、秘書(ヴォニークリステン・スチュワート)に取り次いでくれるよう依頼すると、「会議中なのでお待ちを」と言われてしまいます。
 戻ってきた秘書が、「金曜日にまた来られますか」と尋ねるので、ボビーは「今から3日後ですね」と念を押して、その場を立ち去ります。そして、3日後にボビーが出向くと、ヴォニーは「ごめんなさい、フィルはアカプルコに行っています」と言うのです。

 業を煮やしたボビーは、母親・ローズに電話して「3週間たっても会えない」と嘆くと、兄のベンが「面白い街だぞ。電話番号を教えてやるから、女を紹介してもらえ。20ドルだ」と言います。ボビーは、「お金を出して寝ても、楽しくない」と応じます。
 父親・マーティが「フィルは冷たいやつだ」と言うと、母親・ローズは「フィルは忙しいのよ」と答えたりします。

 ここで、ベンとその仲間が、車のトランクから死体を引きずり出して穴に落とし、その上から生コンクリートをかけてコンクリート詰めにするシーンが挿入されます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作の時代は1930年代。ニューヨークからハリウッドにやって来た主人公の青年が、そこで美しい女性と出会い恋に目覚めますが、結局うまく行かなくなり、再びニューヨークに戻って大成功するものの、……というお話。黄金時代の1930年代のハリウッドとニューヨークの有様が二都物語のように映し出され、それを背景に甘くも悲しいラブストーリーが綴られていきます。相変わらずポンポン勢いの良い会話が飛び交い、またオールドファッションのジャズがふんだんに流れて、いかにもウディ・アレン監督の作品だなという感じがして、まずまず楽しめました。

(2)ウディ・アレンのこれまでの作品では、いろいろな都市が舞台となっていますが(注2)、本作のように、一つの作品の中で二つの都市を取り上げている映画は、余り見かけないように思います(尤も、クマネズミが彼の作品をことさらに見るようになったのは、せいぜい2006年の『マッチポイント』あたりからにすぎず、ごくごく狭い範囲に過ぎませんが)。
 それでも、『ブルージャスミン』(2014年)では、主人公のジャスミンケイト・ブランシェット)のニューヨークにおける豪奢なセレブぶりと、サンフランシスコにおける零落した生活ぶりとが対比的に描かれています。ただ、その作品の場合、ニューヨークのシーンは、ジャスミンの回想の中で捉え返されているに過ぎません。
 これに対して、本作においては、まず、ボビーのロサンゼルス(ハリウッド)での暮らしぶりが描かれた後に、ニューヨークでの物語が映し出されるのです。
 とはいえ、本作の場合、フランス大革命期のロンドンとパリを舞台に描かれているディケンズの『二都物語』ほど波乱万丈の物語というわけではありません。それでも、ロサンゼルス(ハリウッド)とニューヨークという二つの都市がほぼ同じウエイトで描かれています。

 そして、この2つの都市をつなぐのが、本作の主人公のボビーと、彼の愛するヴェロニカ。
 と言っても、ヴェロニカは、実際には2人の女性なのです。
 ハリウッド時代にボビーが付き合ったヴェロニカは、ヴォニーという愛称で呼ばれています。
 そのヴォニーは、ある男とボビーの二股をかけていて、最後にボビーは振られてしまいます(注3)。



 これに対して、ニューヨークでボビーが出会ったヴェロニカブレイク・ライブリー)は(注4)、ボビーとの間で子供ができると家庭に入り貞淑な暮らしぶりを見せるのです。



 あるいは、ヴォニーとヴェロニカで、ハリウッドとニューヨークを象徴させているのかもしれません。

 他方で、ボビーは、ハリウッドでは、フィルの事務所で雑用をこなしているにすぎませんでしたが(注5)、ニューヨークに戻ってからは、支配人となったクラブ「レ・トロピカ」が大当たりをして、一躍名士になります。



 図式的に言えば、ヴォニーの持っているハリウッド性(注6)といったものが、ボビーのニューヨーク性(注7)とぶつかりあってバランスが取れずに2人の関係は崩れてしまいますが、反対に、優れたニューヨーク性を持つボビーは、ハリウッド性を前面に出さないヴェロニカと釣り合ったのでしょう、その関係は保たれて子供までできるのです(注8)。

 さらに言えば、叔父のフィルと兄のベンも、この図式に載せることができるかもしれません
 まず、この映画に登場するフィルは、ハリウッドでエイジェンシーとして水を得た魚のごとく活躍しています(注9)。



 また、ギャングのベンは、本作の全体のトーンからすると、なんだか酷く異質な感じがするとはいえ(注10)、でも、ニューヨークに戻ってきたボビーを援助する必要不可欠の登場人物でもあるのです(注11)。

 あるいは、このハリウッド性やニューヨーク性といったものは、ウディ・アレン監督の中にある2つの傾向なのかもしれません。
 本作のような二都物語を制作することによって、80歳を超えているウディ・アレン監督は、自分というものを観客にさらけ出しているようにも思えます(注12)。

(3)渡まち子氏は、「本作はパンチ不足で物足りなさが残るが、シャネルの華やかな衣装と、アレンと初コラボの名撮影監督ビットリオ・ストラーロが映し出す魔法のような光が、人生のほろ苦さを雄弁に語っている」として60点を付けています。
 樋口尚文氏は、「これは辛うじてその残り香を知るアレンが、むちゃで活気ある都市の黄金期を礼賛するファンタジーなのだ」として★3.5(★4つのうち)を付けています。
 ロサンゼルス映画批評家協会会長のクラウディア・プイグ氏は、「ストーリーの軽妙さは魅惑的に見えて、新鮮味を欠く。ウディ・アレン監督の初期作品にありがちな感じを与えるため、熱烈ファンは魅了されるだろうけれど」として★2つ(★4つのうち)を付けています。
 渡辺祥子氏は、「片や80歳過ぎの監督ウディ、片やもうすぐ80歳の撮影監督ヴィットリオ、というベテラン映画人が楽しみながら作ったように見える人間臭い世界」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「シニカルなユーモアが利いたセリフとジャズの音色は、安定のアレン節。人生の選択をめぐる展開は甘さと苦さのブレンドが絶妙で、どこか中ぶらりんなラストも人生の滋味を感じさせる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『教授のおかしな妄想殺人』などのウディ・アレン

 出演者の内、最近では、ジェシー・アイゼンバーグは『グランド・イリュージョン』、クリステン・スチュアートは『アクトレス 女たちの舞台』、スティーヴ・カレルは『フォックスキャッチャー』、ブレイク・ライブリーは『ロスト・バケーション』、コリー・ストールは『ブラック・スキャンダル』、パーカー・ポージーは『教授のおかしな妄想殺人』で、それぞれ見ました。

(注2)アメリカの諸都市のみならず、ロンドン、パリからバルセロナ、ローマといったところまで。

(注3)ヴォニーについてモット述べれば、ボビーがハリウッドに来た最初の頃、ヴォニーは、フィルに命じられて、著名な俳優たち(スペンサー・トレイシー、ジェーン・クロフォード、ロバート・テイラーなど)の豪邸をアチコチ案内します。その際、ボビーに「この内のどれに住みたい?」と尋ねられると、ヴォニーは、「ビバリーヒルズは嫌い」と答え、さらに「女優志望では?」と問われても、「馬鹿な夢だとすぐに気づいた」と応じます。でも、フィルと結婚して、ニューヨークのボビーの店にやってきた時は、ハリウッド俳優たちのゴシップについて、自分からドンドン喋る女になっていました(女優にならなくとも、ヴォニーのハリウッド性が満開です)。

(注4)ヴェロニカは、市の広報係に勤務していて、ボビーと出会った時は離婚したばかりで、ボビーが午前1時半にもかかわらず誘うと応じたのです。その際、ジャズを演奏しているバーに行くのですが、ヴェロニカは、「ユダヤ人は異国的だ」とか「ユダヤ人は強引だ」などと言ったりします(ヴェロニカも、ボビーを憎からず思ったのでしょう)。

(注5)ボビーは、しばらくすると、ストーリーアナリストというポストに昇任しています。 ですが、結局ボビーは、「この街(ハリウッド)には失望した。結婚して、ニューヨークに行って、グリニッジ・ヴィレッジに住もう」とヴォニーに言うことになります。ボビーには、ハリウッド性の持ち合わせがあまりなかったのでしょう。

(注6)あるいは、人と人との交流から立ち上る祝祭性とでもいった感じでしょうか。

(注7)もしかしたら、企業を大きくしていく事業性とでもいった感じでしょうか。

(注8)ただ、ニューヨークのボビーの店にハリウッドのヴォニーが現れると、ボビーとヴェロニカの関係は影響を受けるでしょう。
 でも、ボビーとヴォニーは、一時的に昔のよりを戻すものの、ハリウッド性を持つヴォニーと、ニューヨーク性を持つボビーとでは、やっぱりうまい関係を持つことは出来ないのでしょう。結局、別々の場所で年末のカウントダウンを迎えることになってしまいます。

(注9)フィルについては、その仕事内容からすると、『ヘイル、シーザー!』に登場する“何でも屋”のマニックスジェシュ・ブローリン)に雰囲気が類似しているように思えました。
 尤も、フィルは、自分の抱える俳優を映画会社とか監督などに売り込むのが商売でしょうし、マニックスの方は、映画会社の中で起こる様々な問題を解決することが商売なのでしょう。

(注10)ベンについては、ギャングとして、コンクリート詰め殺人を仲間と行うシーンが何度か映し出されるのです。

(注11)ベンは、ギャングとして力を持っていたために資力があり、ボビーがハリウッドにいる時には仕送りをしたり、夢破れてニューヨークに戻ってきた際には、ボビーを助けるべく、自分が経営するナイトクラブの支配人に据えたりします(ボビーの家族は、しがない宝石商である父親の上がりでカツカツに生活しているにすぎず、戻ってきたボビーを援助することなど出来ない相談でした)。

(注12)もう一つ、本作に見られるのは、ウディ・アレン監督がユダヤ人であることのこだわりでしょう。
 例えば、ボビーは、ハリウッドにやってきたばかりの時、ベンから教わった電話番号を使って女を呼び出したのですが、その女の名前が「シャーリー」であるとわかると、「ユダヤ人の娼婦なんて」と言って、金を渡すものの寝ないですぐに帰してしまいます。
 また、ベンは、捕まって死刑の判決を受け、キリスト教に改宗して処刑されます。そして、そのことを聞いた母親・ローズは、「殺人と改宗なんて、何か悪いこと私がしたっていうの?その2つではどっちが悪いの?」と言いますが、父親・マーティは、「俺は、神の沈黙に抗議する。ずっと祈ってきたにもかかわらず、答えがないんだ」「ユダヤ教には来世がないのだ」などと言います。ここらあたりは、ウディ・アレン監督のユダヤ教に対する否定的な見方が表されているのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:カフェ・ソサエティ

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夜空はいつでも最高密度の青色だ

2017年05月24日 | 邦画(17年)
 『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を渋谷ユーロスペースで見ました。

(1)これまでその作品を色々見てきた石井裕也監督が制作しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、タイトルが流れた後、ビルの夜景。次いで、早朝の皇居周辺のジョギング風景。道路の信号とか行き交う自動車とかが映し出されて、最後に、とあるバス停。
 バスを待っている人たちがみな黙々とスマホを操作しています。
 空には飛行船が浮かんでいます。

 次は、主人公の看護師・美香石橋静河)が勤務する病院。
 美香が、「失礼します」と言って病室に入り、ベッドを片付けたりカーテンを引いたりしていると、別のベッドにいた患者が、「まだ37だって。小さい子を残して可哀想に」と声をかけます。
 美香は死者の顔に白い布をかけ、遺体が病室から運び出されます。
 付き添っていた遺族の男が「どうもお世話になりました」と頭を下げます。
 手を合わせ、遺体が運び出されるのを見守っていた美香は、「大丈夫、すぐに忘れるから」と呟きます。

 夕方、美香は、駐輪所に置いてあった自転車に乗って帰宅します。
 看護師寮の自分の部屋で、美香は、爪にマニキュアを塗りながら、「どうもお世話になりました」と口ずさみます。

 夜、美香は、自転車に乗って渋谷に向かいます。
 「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ 塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない」(注2)との美香の声。
 自転車は坂を降りていき、とある場所で停まり、美香は鍵をかけてビルの中に入っていきます。「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(注2)との美香の声。

 場面はガールズバーの中。
 バイトでバーテンダーをしている美香は、水割りを作ります。
 「君がかわいそうだと思っている君自身を 誰も愛さない間 君はきっと世界を嫌いでいい そしてだからこそ この星に 恋愛なんてものはない」(注2)との美香の声。
 美香は、酒を出します。
 客の男が「君は踊らないの?」と尋ねると、美香は「いや、…」と笑って誤魔化します。

 控室では、店の女たちがたむろしていますが、美香は壁に寄りかかって息を吐いています。

 次の場面はビルの建設工事現場。
 そこでは、慎二(池松壮亮)が、仲間の智之松田龍平)、岩下田中哲司)、フィリピン人のアンドレスポール・マグサリン)らと一緒に、日雇い労働者として資材の運搬をしています。



 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語は、これからどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、現代詩人の最果タヒの詩集をドラマ化したもの。といっても、ところどころにその詩集の言葉が引用されているだけで、全体は若い男女のラブストーリーとなっていて、決して映画が難解というわけではありません。むしろ、出演するのが、今が旬の池谷壮亮とか松田龍平、それに『PARKS パークス』に出演した石橋静河といった錚々たる若手・中堅俳優であり、社会問題をいくつも取り上げすぎているきらいがあるとはいえ、現代の若者の姿がうまく捉えられているように思えました。

(2)本作を制作した石井裕也監督の作品については、初期の頃の無類の面白さが、商業映画に進出するようになってから低減傾向にあるかなと密かに思っていたところ(注3)、前作の『バンクーバーの朝日』が底で、本作でかなり持ち直したかな、という感じです。
 本作では、現代詩を原作とするところが大層斬新ですし(注4)、飛行船が空を遊弋したり(注5)、アニメーションのシーン(注6)が突如飛び出すなど、フンタジックな面も色々取り入れられています。
 単なる素人の見解に過ぎませんが、石井監督にあっては、従来の日本の商業映画の路線にズボッと浸かりこんでしまわずに、いろいろ実験的な手法を試みてもらって、邦画の殻を打ち破って貰いたいものです。

 さて、本作の現代詩ですが、大体のところ、現代社会を浮き彫りにするための材料の一つとなっていて、映画の中にまで深く入り込んではいないのではないかという感じもしてしまいます(注7)。

 それは、本作で取り上げられている様々の社会問題についても言えそうです。
 例えば、慎二の隣人に住む老人(大西力)の問題。
 その老人から、慎二は文庫本を借りたりして付き合いはあるものの、ある時、同じアパートに住む主婦らが集まって、「隣の部屋からなんか腐った臭がする」と話しているのを耳にした慎二が、部屋の中に飛び込むと、その老人が熱中症で、本の上に突っ伏したまま亡くなっているのを発見するのです。
 ここでは、一人住まいの老人の熱中症に依る孤独死という(注8)、近年よく問題視される事件が取り上げられています。
 でも、部屋に踏み込んだ慎二は、「やっぱり」と呟くだけで、この問題に対しあくまでも傍観者然としています。

 また、「携帯9,700円、ガス代3,261円、電気2,386円、家賃65,000円、シリア、テロリズム、食費25,000円、ガールズバー18,000円、震災、トモユキが死んだ、イラクで56人死んだ、薬害エイズ訴訟、制汗スプレー 750円、安保法案、少子高齢化…、会いたい」という文字が空中に浮かぶところ、ここには、慎二たちの経済問題もさることながら(注9)、政治的・社会的問題までも列挙されています。
 でも、これらについても、慎二は眺めるだけであり、何か行動に移そうとするわけではありません。
 本作では、社会問題が色々取り上げられているとはいえ、総じて、現代の風俗といった感じで描かれているように見えます。

 しかしながら、本作においては、美香は最果タヒの詩に導かれて(注11)、慎二は片目で見える世界(注10)を一生懸命見ようとして、2人で手を取り合いながら、東京という街をアチコチ歩き回っているように思えます。まるで、空に浮かぶ飛行船から地上を見るように(注12)。

 要するに、本作では、経済問題とか社会問題とかそれ自体を描き出すことが主眼ではないようです。むしろ、それらのものから、さらには最果タヒの詩から立ち上る現代の東京が持っている臭いを身にまといながら生きている美香と慎二のラブストーリーが描き出されているというべきかもしれません。



 そのラブストーリーですが、この広い東京で何度も慎二と美香とが出会ったりするものの(注13)、恋人になった智之の突然死(注14)を美香が引きずっていたりして、なかなかしっくり行きません。なにしろ、慎二が「俺にできることがあれば、何でも言ってよ」と言うと、美香が「死ねばいいのに」と言うくらいなのです(注15)。
 でも、次第にほぐれてきて、ついには、美香が「私って、ほんと信じられないくらいダメな人間だよ」と言うと、慎二が「そうか、俺と一緒だ」と応じるまでになるのです。

 こうして、ドラマティックなラブストーリーとは程遠い2人の関係が綴られ、さらには石井裕也監督のお得意の“ダメ人間”まで飛び出すとはいえ、それだからこそ、今の東京ならばもしかしたらあり得るかもしれないと見ている者に思わせ、ラストの方の美香の「朝起きたらお早うって言おう。御飯食べると前はいただきますって言おう」「そういうことだよね」との言葉も、十分説得力があるようにクマネズミには思えました。

 なお、主演の石橋静河は、『PARKS パークス』では物静かな役柄で、余り目立ちませんでしたが、本作では、なかなか意志が強いながらも次第に心がほぐれていくという難しい役柄を、力いっぱい演じていて、今後が期待されます。



 また、共演の池松壮亮は、片目が見えず、また喋りだしたら止まらない癖があるという役柄を、いつものようにとても安定した演技でこなしています。



(3)渡まち子氏は、「安定した上手さをみせる若き演技派の池松壮亮と、石橋凌と原田美枝子の次女で、演技経験がほとんどない石橋静可という不思議な組み合わせが、孤独な男女のぎこちなさにフィットしていた」として60点を付けています。
 山根貞男氏は、「描かれる恋愛も、描く映画も、不思議なリアルさに満ちているのである。それが作品の流れを魅力的なものにし、東京の今を新鮮な姿で浮かび上がらせる」と述べています。
 佐藤久理子氏は、「もはや都会に生きることの鬱屈というのは、世界のどこでも基本的にはあまり変わらないのではないか、ということを感じさせる点で、本作は近視眼的な日本映画とは隔たる視野の広さをそなえている」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『バンクーバーの朝日』などの石井裕也
 原作は、最果タヒ氏の詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトル・モア)。

 出演者の内、最近では、石橋静河は『PARKS パークス』、池松壮亮は『だれかの木琴』、松田龍平は『ぼくのおじさん』、田中哲司は『悪夢ちゃん The 夢ovie』、幼い時分の美香の母親役の市川実日子は『シン・ゴジラ』、三浦貴大は『追憶』、野嵜好美は『ロマンス』で、それぞれ見ました。

(注2)最果タヒの「青色の詩」より。
「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない。夜空はいつでも最高密度の青色だ。君がかわいそうだと思っている君自身を、 誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい。そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない」(2015年12月27日のツイッターで投稿された詩)。

(注3)とはいえ、商業映画デビュー作の『川の底からこんにちは』(2009年)は、素晴らしい出来栄えなのですが。

(注4)上記「注2」で触れている詩の他にも、例えば、「彫刻刀の詩」も引用されます。
 「きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。みんながそれで、安心してしまう。水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。会わなくても、どこかで、息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。お元気ですか、生きていますか。きみの孤独を、かたどるやさしさ」(2014年10月20日のツイッターで投稿された詩。なお、最後の「きみの孤独を、かたどるやさしさ」は、使われていなかったようですが)。

(注5)『ガール・スパークス』(2007年)における空を飛ぶロケットを思い出させます(尤も、そのロケットは、本作の飛行船のように悠然と飛んではおりませんでしたが)。

(注6)美香と慎二がバス停でバスを待っている時に、空に飛行船を見て、慎二が「何か途轍もなく良いことが起こるかもしれない」と言うシーンの後、野良犬が車で運ばれ、子犬にガスがかけられ、燃やされ、煙突から煙が出て、灰が東京のアチコチに降りかかるというシーンが、アニメーションで描かれます。
 なお、上記「注5」で触れたロケットのシーンとか、『ハラがコレなんで』(2011年)の空に浮かぶ雲の様子などはアニメーション的な感じもします。

(注7)最果タヒの詩は、美香のモノローグの形で挿入されるに過ぎませんから。

(注8)後で慎二は、「死んでから2日も経つのに、内臓の温度が40度もあった」等と仕事仲間の岩下に話します。

(注9)その前に、慎二は、「ガールズバーで1時間7,000円も取られたら、俺たちの1日分の給料はほとんどなくなっちゃう。ガス代は…」などと智之に話し、「うるさいな」と言われてしまいます。

(注10)慎二は左目が殆ど見えないという設定になっていて、画面が2つに分割されて(スプリット・スクリーン)、左側が黒くなってしまう時もあります。
 ただ、美香は「世界が半分しか見えないんだ」と言いますが、片目が見えないからといって、無論、実際に、世界の半分が切り取られて見えるわけではないでしょう。視野はやや狭くなりはしても、頭を巡らせば、世界全体は見えるはずです(美香が「半分でも見えていれば上出来。普通、半分も見えていないんだから」という場合の“半分”というのには、いうまでもなく、比喩的な意味合いが込められているでしょう)。
 とはいえ、両目で見る場合と比べて、奥行きが不確かなものとなってしまうでしょう(遠近感が掴みづらいため)。
 慎二が社会問題などを見る目も、そんなところから、奥まで見ることは出来ずに表面を撫でるだけになっているのかもしれませんが。

(注11)上記「注7」では、最果タヒの詩がモノローグのため、本作の背景の一つになっているのでは、というようなことを書きましたが、実際には、上記「注2」で触れている「青色の詩」は、本作の背骨のようなものではないかと思います。
 特に、「君がかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい」の部分は、最後の方まで見かを引っ張っていきます(ラストの方で、美香は慎二に、「人を好きになるって、その人のことを殺すってことだよね」などと言うのです)。

(注12)飛行船を動かす動力は、路上で女(Ryoko野嵜好美)が何度も歌う「Tokyo Sky」(「頑張れAh」が繰り返されます)という歌でしょうか?

(注13)最初、居酒屋で、美香と慎二は、別々のグループながら、目と目が合います。それから、ガールズバーに智之や岩下と連れ立って行った時に、慎二はバーテンダーの美香と遭遇します。そして、夜、渋谷の繁華街をフラフラ歩いている時に、慎二は、自転車の美香と会います。

(注14)智之は、工事現場での仕事中に、若年性脳梗塞で倒れ、そのまま亡くなってしまいます。後で、美香が慎二に、「首元に傷がある人は、若くても脳梗塞を起こすことがあるみたい」「それだけで人が死ぬってすごくない?」などと言います。
 なお、美香は、智之の前にも、牧田という会社員の男(三浦貴大)と関係を持っていたようです。

(注15)その後、デートするようになって、慎二が「死ぬっていう言葉を使うな」と言っても、美香は、野良犬が捕まえられて保健所で殺される話をしたりします。



★★★★☆☆


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美女と野獣(2017)

2017年05月22日 | 洋画(17年)
 『美女と野獣』(2017年)をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)評判が大層高いので、映画館に足を運びました。

 本作(注1)の冒頭は、舞踏会のシーン。
 ナレーションが「昔、フランスの美しい城に若くてハンサムな王子が住んでいた。望むものはすべて手にした薄情な王子は、美しい物だけを城に集めた」。
 城の大広間では、大勢の美女が踊っていて、その中に王子(ダン・スティーヴンス)が入っていきます。
 オペラ歌手のマダム・ド・ガルドローブ(オードラ・マクドナルド)が、「王子の心をつかむチャンスを見逃すな」などと歌います。
 そこに、扉が開けられて、「招かざる客」の老婆(ハティ・モラハン)が現れます。
 老婆は一輪のバラを王子に差し出し、嵐を避けるために泊まる部屋を与えてくれるよう求めます。
 ですが、王子は冷たく突き放し、そのバラを捨ててしまいます。
 老婆は、「外見に騙されるな。美は内面にあるのだ」として、美しい魔女に変身します。
 王子は謝ろうとしますが、すでに手遅れ。王子の心には愛情がありませんから。
 老婆は、王子を醜い獣に変え、城とそこに住んでいる者全員に呪いをかけてしまいます。

 城の外に出ようとしなかった王子たちのことは、世間から忘れられます。
 愛し愛されることを王子が学べば、呪いは解かれるとされます。
 ただし、そこに残されたバラの花びらが全て散ってしまう前に。
 ですが、獣の姿となった王子は、年が経つにつれ諦めました。

 ここで、タイトルが流れます。

 次の場面は、フランスの田舎の村。
 朝日が差してきて、主人公のベルエマ・ワトソン)が家から出てきて歌います。
 「いつものように、パン屋がおいしいパンを作る」「変わらぬ朝、いつもの朝」…。
 教会の鐘が鳴り、皆が「ボンジュール」と言い交わしたりします。



 「どこへ?」と村人に訊かれたベルは、「本を返しに。ヴェローナの2人の恋人たち(two lovers in fair Verona)の物語(注2)」と答え、村の人達は「彼女は変わってる(she is a funny girl)。いつもひとりぼっち」「頭は雲の中」などと歌います。

 これが本作の始めの方ですが、さあ、これからどんな物語が綴られるのでしょうか、………?

 本作は、ディズニーのミュージカル・アニメーション『美女と野獣』(1991年)を実写化したもの。実は、それを見ていないものの、フランス映画の『美女と野獣』(2014年)を見たことがあります。それと比べると、本作はミュージカル仕立てのためでしょう、随分と単純化して作られている感じがします。でも、そのため、余計なものが削り落とされて、ゆっくりと本筋を追うことが出来ます。特に、本作においては、書物が重要な役割を果たしているのに興味を惹かれました。

(2)『美女と野獣』(2014年)と本作とでは、同じタイトルながら、依拠する原作に違いがあるようで(注3)、内容的に異なる部分がかなりあります。
 例えば、同作では、王子が野獣に変えられるプロセスが、随分と詳しく語られていますが(注4)、本作におけるそれは、上記(1)で見るように、随分とアッサリとしています。
 また、本作では、野獣に対立する人物としてガストンルーク・エヴァンス)が登場するところ、同作には、ガストンのように、ベルに首ったけで男前の男などは登場せず(注5)、野獣に対立する男としては、ならず者のペルデュカスとか、ベルの2人の兄(ジャン=バチストマキシム)が登場して、色々の騒ぎを引き起こします。

 本作が、簡素な筋立てになったのは、専ら、ミュージカルであることによるのでしょうが、逆にそうすることで、ベルと野獣とのラブストーリーがより一層前面に出てきて、見る者にとっても大層わかりやすい作品になっていると思います。



 また、本作では、同作と違って、書物に重要な役割が与えられていることに、クマネズミはいたく興味を持ちました。
 本作においては、ベルが野獣に心を開くきっかけとなったのが、野獣の城に設けられている立派な図書室に連れて行ってもらったことであり、そこに収められている書籍を読みこなしている野獣の知性が、本好きのベルにとって大層好ましく思われるのです(注6)。

 ちなみに、最近見た映画の中でも、本のことはしばしば言及されています。
 例えば、『夜は短し歩けよ乙女』では、「下鴨納涼古本まつり」が描かれて色々の書物が触れられますし、『はじまりへの旅』では、随分と程度の高い本を読みこなしている子供たちが登場します。また、『未来よ こんにちは』でも、高校の哲学の授業で、哲学の原書が使われている様子が描かれています。さらには、『お嬢さん』では、春本ばかりが大量に揃っている大きな書庫が映し出されたりします。
 本が好きなクマネズミには、このように映画の中で本が様々に取り扱われているのを見ると、映画の流れに関係するしないにかかわらず、興奮を覚えてしまいます。あるいは、クマネズミも、本作の中でベルが言われているように、“変わって(funny)”いるのかもしれませんが。

 いずれにせよ、本作はミュージカルなので、あまり細かいことに拘泥しても意味はなく、歌と踊りなどを愉しめばそれで十分なのでしょう。
 ただ、本作がアニメーション(1991年)を完全実写化したものとされていながらも、城の給仕頭・ルミエール(燭台に変えられています:ユアン・マクレガー)料理人・ポット夫人(ティーポットに変えられています:エマ・トンプソン)などが、CGによっているのでしょう、アニメーションと変わらない描き方をされているところは、やや首を傾げたくなりましたが。

 とはいえ、『コロニア』ではあまりパットしなかったエマ・ワトソンながらも、本作では、水を得た魚のようにみずみずしい演技を繰り広げていて、次作が大いに期待されます。



(3)渡まち子氏は、「アニメ版に忠実すぎる実写化という点は、賛否が分かれるかもしれないが、完成度が極めて高いエンタテインメントを見る幸福感に素直に酔いしれたい」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「つくづくこのストーリーは、好景気で能天気な時代にこそ合うおとぎ話だなと痛感する。アニメ版は91年に作られ、日本でもバブルの残り香があった頃だからまだよかった。しかしこの2017年に、アニメ以上に生々しい実写版を日本人はどう受け取るか。なかなか興味深いことだ」などとして60点を与えています。
 渡辺祥子氏は、「最近話題の『ラ・ラ・ランド』とは違う種類の陶酔と高揚感を与えてくれる。少し古風な造りだけれどここにあるのは心なごむ幸せだ」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督はビル・コンドン
 脚本は、ステファン・チボスキーとエヴァン・スピリオトプロス

 出演者の内、最近では、エマ・ワトソンは『コロニア』、ユアン・マクレガーは『T2 トレインスポッティング』、エマ・トンプソンは『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』、ググ・バサ=ローは『ニュートン・ナイト  自由の旗をかかげた男』(同作では、ググ・ンバータ=ローと表記)で、それぞれ見ています。

(注2)シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』のことでしょう。

(注3)1756年に出版されたボーモン夫人の物語と、1740年にヴィルヌーヴ夫人によって書かれた物語とがあるようです〔『美女と野獣』(2014年)に関する拙エントリの(2)をご覧ください〕。

(注4)城の王子は、禁じられていた黄金の牝鹿を弓で射殺してしまいますが、その牝鹿は、許嫁であった王女(実は森の精)の変身した姿であったことがわかります。王女の父親の森の神は、娘を殺されたことを怒って、王子らに呪いをかけるのです。

(注5)本作では、ガストンは、登場すると、従者のル・フウジョシュ・ギャッド)に、「私の未来の妻のベルは、この村で最も美しい少女だ」と言うのです。



 他方で、ベルの方は、私があんながさつな男の妻になるなんて想像できる?絶対お断り」などと呟くのです(ここらあたりは、ベルが野獣の知性に触れて心が開かれるようになることの伏線でしょう)。

 なお、ガストンの従者のル・フウも、勿論『美女と野獣』(2014年)に登場しませんが、ゲイのキャラクターとして登場するために、問題視する国もあるようです(といっても、ガストンとル・フウが一緒に踊る短いシーンにすぎないようですが←この記事)。

(注6)その際、沢山の本に驚いたベルが「素晴らしい!」と言うと、野獣は「君にあげるよ」と応じ、さらにベルが野獣に、「これらの本を皆読んだの?」と尋ねると、野獣は「全部じゃない。特にギリシア語のやつは(in Greek)」と答えます。それに対し、ベルが笑って「ジョークだったの?ジョークを言うのね?」と応じると、野獣はニヤニヤ笑って「まあね(maybe)」と答えます(「greek:ちんぷんかんぷん」←この記事)。

 なお、その前では、ベルがシェイクスピアの『ロメオとジュリエット(Romeo and Juliet)』の中の言葉を口にすると、野獣がその後を続けるので、ベルは驚きます。そして、ベルが「この劇が好きなの」と言うと、野獣はベルを図書室に案内するのです。

 図書室のシーンの後、ベルは、野獣にWilliam Sharpの詩「A Crystal Forest」を読んだりします(その詩の最後に、ベルは「私を見て、目覚めさせて、私はここにいる」と読みます。よくわかりませんが、どうもこの部分は映画用に作られたもののようです←この記事)。

 また、庭で野獣が読書しているのに気付いたベルが、「何を読んでるの?」と尋ねると、野獣が「何も」と隠すので、ベルは「『グィネヴィアとランスロット(Guinevere and Lancelot)』ね」と言います。すると、野獣は、「実際は、『アサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)』だ」と訂正したりします。

 さらに、野獣は、美しい魔法の本をベルに見せます。その本には地図が掲載されているのですが、行きたい場所を心の中に思うと、そこに行くことができるのです(それで、ベルは幼い頃に過ごしたパリを心の中に思ってみて、母親がなぜ亡くなったかを知るのです)。



★★★☆☆☆



象のロケット:美女と野獣

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