映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

おとなの事情

2017年03月27日 | 洋画(17年)
 『おとなの事情』を新宿のシネマカリテで見ました。

(1)イタリアンコメディと聞いて映画館に行ってきました。

 本作(注1)では、ロッコ(整形外科医;マルコ・ジャリーニ)とエヴァ(心理カウンセラー;カシア・スムトゥニアク)の夫婦が暮らすマンションに、友人たちが集まって夕食会が開かれます。



 映画の最初の方では、ロッコの家に集まる友人たちの出発前の様子が簡単に映し出されます。
 そして、迎える側のロッコは、自分の手料理を皆に振る舞おうと、キッチンで奮闘しています。
 他方、エヴァは、外出すると言う娘のソフィアベネデッタ・ポルカローリ)に、「グレゴリオと会うんでしょ」と言い、手にしていたものを見せて「これはコンドームでしょ?」と訊くと、ソフィアは「勝手に他人のカバンを見ないで」と怒ります。
 ソフィアが部屋に引っ込んでしまったので、エヴァはキッチンにやって来て、ロッコに「あの子、彼氏と会うのよ。あなたも嫌いでしょ?」と言います。ロッコは「嫌いだ。でも17歳なんてそんなもの。モット客観的になるんだ」と答えます。
 さらにエヴァが、「カバンの中にコンドームが入っていた」と告げると、ロッコは、「なんでそんなことがわかったんだ?」とエヴァが盗み見したのを非難しながらも、「とにかく、気持ちよく(ソフィアを)送り出そう」と言います。

 そんなこんなのうちに、ロッコの家の玄関の呼び鈴がピンポーンと鳴り、レレ(法律事務所勤務;ヴァレリオ・マスタンドレア)とカルロッタアンナ・フォッリエッタ)の夫婦(注2)が先ずやって来て、次いで、最近結婚したばかりのコジモ(タクシー運転手;エドアルド・レオ)とビアンカ(獣医;アルバ・ロルヴァケル)の夫婦(注3)が到着します。

 最後に、ペッペ(元学校教師;ジョゼッペ・バッティストン)が独りでやってきます。
 エヴァが「遅いなって言っていたところ。ルッチラは?」と尋ねると、ペッペは「風邪をひいた。帰るべきかな?」と答えます。これに対し、コジモが「振られたんだろ」と混ぜっ返します(注4)。
 ペッペが「何を話してたんだ?」と訊くと、ロッコは「どんな女なのか想像してたんだ」と答え、コジモは「よくやるだろ、髪の色がどうだとか」と付け加えます(注5)。

 こうして物語が始まりますが、さあ、この後どのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、食事会に集まった3組の夫婦と一人の男が、それぞれが所持する携帯を机の上に置き、かかってきた電話やメールをすべて公開するというゲームを行うことになり、それぞれは隠すべき秘密など持っていないと豪語してゲームに臨みますが、…云々というワンシチュエーション・ドラマ。最近見た『たかが世界の終わり』と類似の設定ながらも、本作はコメディですからまるで雰囲気が異なり、それぞれが内緒にしていた秘密が次々と暴露されて大騒ぎになって、というストーリー展開をなかなか楽しめる作品です。ただ、やっぱりこうした作品には、どうしても演劇臭さがつきまとってしまいますが。

 (以下では―特に注記では―、かなりネタバレしていますので、映画を未見の方はご注意ください)

(2)本作の舞台の大部分は、ロッコとエヴァが暮らす家の居間。
 主に会話するのは、そこで開かれた食事会のメンバーの7人(注6)。

 話をしているうちに、エヴァから携帯電話に関するゲームをしようという提案がなされ、皆に受け入れられます(注7)。
 ゲームが始まると、実に様々な秘密が暴露されて、食事会参加者の混乱ぶりは、映画を見ている方からすれば実に面白いものがあります。
 なにしろ、皆が皆、何らかの人に言えない秘密を抱えていたのだ、ということが明らかになるのですから(注8)。

 ただ、本作で描かれる携帯電話によるゲームで明らかになる様々な秘密といっても、人の生死にかかわる秘密とか、多額の負債に関する秘密とかいったものではなく、問題なのはせいぜい浮気といったところで、総じて言えば他愛ないものばかりではないでしょうか(注9)。
 でも、本作で秘密が次々に暴露されていくと、とても面白く、ワンシチュエーション・ドラマにありがちな演劇臭さは免れないとはいえ、出演者たちの息の合った演技によって、随分と面白く見ることができました。

 なお、興味深いのは、最後のシーン(注10)。
 これはどう解釈すればいいのでしょう(注11)?
 クマネズミは、単なる思いつきに過ぎませんが、この食事会が月食の起きた夜に開かれたことが関係しているのでは、と思っています。
 本作では、この食事会参加者がロッコの家のベランダに出て、皆で皆既月食を見たり、写真を撮ったりしているシーンが映し出されます(注12)。



 もしかしたら、皆既月食の持つ魔力によって(注13)、食事会参加者が集団催眠状態に陥ってしまい、ひた隠ししていた事柄を暴露する行動に出たのではないでしょうか?
 そして、その魔法の力は、月食が終わり食事会も終わった時点になると消滅して、参加者の精神状態は元に戻り、食事会の間に起きたことは全て忘れてしまったのでは、と考えてみましたが、どうでしょう(注14)?

(3)毎日新聞の細谷美香氏は、「ワンシチュエーションで展開するドラマでありながら、畳みかけるような会話のリズムに引き込まれ、愛と友情が試される怒涛(どとう)のラストまであっという間」だと述べています。



(注1)監督はパオロ・ジェノヴェーゼ
 脚本は、監督のパオロ・ジェノヴェーゼの他に4人が担当。
 原題は『Perfetti Sconosciuti』(Perfect Strangers)。

 なお、公式サイトによれば、本作は、「イタリアのアカデミー賞にあたる第60回ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で作品賞と脚本賞のW受賞を果たした」とのこと(「『グランドフィナーレ』や『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』といった「大物監督による強豪を抑えての快挙」のようです)。

 また、出演者の内、最近では、ビアンカ役のアルバ・ロルヴァケルは『五日物語―3つの王国と3人の女―』で、見ました。

(注2)ロッコの家に来る前のシーン(レレの家)では、カルロッタが、テレビを見ている娘のローザに「こっちへきなさい」と寝室に連れていき、その際に、まだテレビを見続けている息子のブルーノには「10時までよ」と命じます。これを見ていた義母(エリザベッタ・デ・パロ)が、「文句ばかり言うのね」と詰ります(ここらから、カルロッタと義母との厳しい関係―嫁姑問題―が伺われます)。

(注3)ロッコの家に来る前の場面の会話で、ビアンカは「ピルを止めたの」と夫のコジモに告げます(ビアンカは子供を欲しがっているようです)。

(注4)このあたりの会話の背景には、この食事会で、ペッペが恋人のルッチアを皆に初めて紹介することになっていた、という事情があります。

(注5)この後、ペッペが「月(Luna)が綺麗だ」と言ったところから、ビアンカが「ルッチラって良い名前ね」と応じ、さらにペッペが「エヴァ、どうしたら恋に落ちるんだい?」と尋ねると、エヴァは「どうして私に訊くの?」と訝しがり、ペッペが「君はそんなことを研究してるんだろ」と答え(エヴァは心理カウンセラーです)、さらにビアンカが「30分間話せば恋に落ちるわ」と言います。
 ペッペが「じゃあ、60分話したら?」と尋ねると、カルロッタは「猛烈に愛してしまう」と言い、レレは「そして、何も話さなくなる、それが結婚だ」と応じます。
 カルロッタは、箴言(?!)を語っています。

(注6)ただ、娘ソフィアは、食事会が始まる前だけでなく、食事会の最中にも登場します(ロッコに小遣いをもらうため)。
 そして、外出先のソフィアから、ロッコの携帯に電話が入ります。ソフィアが「グレゴリオが泊まりに来てくれっていうの。行きたいけれど、心の準備ができていない。でも断ったら、彼が怒る。どうしたらいい?」と尋ねると、ロッコは「パパとしては喜べない。ただ、これだけは言わせてくれ。将来、そのことを振り返って、笑顔になると思うなら行きなさい。そうでなければ、止めなさい」と答えます。さらに、ソフィアが「今日、コンドームをくれた時は恥ずかしかった。でも、ママには言わないで。話すと怒るだけだから」と話すと、ロッコは「話す価値はあるよ」と応じます。
 これらの会話は、机の上に置かれているスマートホンのスピーカーから流れて、その場にいる皆が聞いています。
 エヴァは「立派だった」、ビアンカは「カウンセリングのお陰ね」(実は、ロッコは、エヴァではないカウンセラーのカウンセリングを受けていたようなのです)、ペッペは「浮気じゃないんだから、騒ぐことじゃない」と言います。
 この場面は、本作中の名場面といえるのではないでしょうか?

(注7)皆の話が、次第に男女関係のことに及んでいきます。



 そして、カルロッタが「問題は、メールよりも浮気自体よね」と言ったのに対し、エヴァが「お互いの携帯を見ても、別れずにいられるかしら?」と尋ね、レレが「別に問題ないんじゃ」と答えると、エヴァは「誰も秘密はないの?皆聖人なの?」と訝しがり、「じゃあ、ゲームをしない?確かめるの。携帯を机の上に置いて、来た通信を見せ合うの」と提案します。
 ロッコが「何のつもりだ?」と疑問を呈すると、エヴァは「隠し事でも?」と聞き返します。
 そして、ビアンカが「やりましょうよ」と言い、ペッペも「子供の時のゲームみたいだ」と前向きなので、そのゲームをやることになり、皆がそれぞれ持っている携帯をテーブルの上に置きます。
 ゲームのルールは、メールが来たら皆にその内容を読み上げ、電話が鳴ったらスピーカーを通して会話すること。

(注8)例えば、レレからの依頼で、ペッペは携帯を取り替えます(レレが言うには、毎晩10時になると、浮気相手のクレメンティーニ嬢から写真入りのメールが届くとのこと)。そうしたところ、レレの携帯(本来はペッペの携帯)にルチオから電話がかかってきます。最初レレは「職場の同僚だ」と言ってやり過ごしますが、再度かかってきたので、レレが「しつこいぞ、明日話そう」と返事をすると、ルチアが「クソ野郎」と言ってきます。それを聞いたレレの妻のカルロッタが、「変でしょ。同僚がそんなこと言うなんて」と訝しがります。レレが「ちょっとオカシナやつなんだ」などと言い訳をするとカルロッタはドンドン突っ込んできて、ついにカルロッタは「セックスしたの?寝たかどうかはっきりして」と言うまでになります。レレも切れて、「結婚して10年、子供が2人いる俺が、男とやっているのを想像できるか?」とまで言うのですが、カルロッタは「自信ない」と落ち込みます。
 この話は大層愉快ですが、実は、レレがゲイだとされると、他の男達がレレを咎めだし、それを聞いたペッペ(本当は、ルチオとゲイの関係)が酷く傷ついてしまうという問題を引き起こします。

(注9)例えば、妻とは別の心理カウンセラーに通っていること(ロッコ)、夫以外の医師のもとで豊胸手術を受ける予定(エヴァ)、タクシーの営業許可を売りに出そうとしていること(コジモ)、義母を老人ホームに入れようとしていること(カルロッタ)、などなど。

(注10)新婚早々にもかかわらず、夫・コジモの浮気(相手のマリカから電話がコジモにかかってきて、「妊娠テストしたんだけど陽性だって」と言います)を知ってしまったビアンカが、ショックでトイレに閉じ込もったものの、かなり時間が経過して出てきたと思ったら、派手な化粧をして、指輪(コジモは、ビアンカではなく、マリカのために用意したものらしい)を指から外してテーブルの上に置き、そのまま居間から出ていってしまいます。
 ところが、しばらくしてロッコのマンションのエントランスから出てくるシーンを見ると、ビアンカとコジモは仲良く手を繋いでいるのです。
 他の参加者も、食事会の前と同じような雰囲気で、それぞれ帰っていきます(ペッペに至っては、定刻になるとどんな場所にいても行う体操を、橋の上でやっているのです!)。

(注11)劇場用パンフレット掲載の「Question」(パオロ・ジェノヴェーゼ監督へのQ&A)では、「脚本のトリックが巧妙ですが、あれは夢なのか、それとも実際の世界なのでしょうか?」との質問に対し、監督は「ゲームは実際にはプレイされませんでした。でも描かれた秘密は現実にあり、今後も隠され続けるでしょう」と答えています。

(注12)例えば2015年4月4日の皆既月食の場合(日本)、この記事を見ると、部分食の始めが19時15.4分で、その終わりが22時45.1分となっていますから、食事会の時間とおおまかには合うのではないでしょうか(本作では、最後にやって来たペッペが、上記の「注5」で記したように「月が綺麗だ」と言っていますから、その後から月食が次第に次始まり、食事会がお開きになった頃に月食も終了するのでしょう)。

(注13)例えば、この記事によれば、「古代の人々は、月の満ち欠けに神秘を感じ、そのサイクルと地上の森羅万象を結びつけて考えていた。そして、そこに人知を超えたパワー、つまりなんらかの「魔力」があると信じ、その力を手に入れ、活用したいと願うようになる。そこで発展してきたのが、呪術や魔術、占いといった行為だ」と述べられています。
 ここでは「月食」自体ではなく、「月の満ち欠け」に関することが述べられています。ただ、「月食」は、短時間のうちに起こる「月の満ち欠け」とも言えるのではないでしょうか。

(注14)尤も、この記事によれば、「月が陰になって隠れたっていうことはだ、月の魔力が減退しているのさ。感情や内面、可能性を司る月の魔力が減退し、また新たに蘇るこの月食。満月が照っている時には感情が不安定になるが、陰っていれば逆に安定するでしょうね」とのことで、まるで逆なのかもしれませんが。



★★★★☆☆



象のロケット:おとなの事情
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愚行録

2017年03月24日 | 邦画(17年)
 『愚行録』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)妻夫木聡の主演作と聞いて、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、夜、混雑しているバスの中。空いている座席は見当たりません。
 週刊誌の記者・田中武志妻夫木聡)は、窓側の席に座っています。
 武志が雨の降っている外をぼんやり見ていると、立っている中年過ぎの男が、「チョット、譲ってあげなさいよ」と武志に言います。ソバに立っている老婆が、「もうすぐ降りますから」と遠慮するものの、男がなおも「ボケっと座っているんじゃないよ」と言い募るものですから、ムッとした感じながらも、武志は老婆に席を譲ります。
 その際、武志は、脚に障害があるのでしょうか、倒れ込みます。
 ですがそのまま、停留所で停まったバスから降り、しばらく足を引きずって歩きます。
 そして、バスが十分に離れた頃合いを見計らって、武志は正常に歩き出します。



 次いで、留置場の面会室。
 娘のちひろの育児を放棄したことで逮捕された武志の妹の光子満島ひかり)が、アクリル板の向こう側に座っています。



 光子は兄の武志に、「兄ちゃん、なーに?来たのは半年ぶりくらい?チョット痩せた?」、「来てくれなくても良かったのに。すぐに戻るのだから」と言い、そばにいる女性を指して、「この人は弁護士のさん」と紹介すると、武志は「わかってる」と応じます。
 さらに、光子が「ちひろ、見てくれた?」と尋ねると、橘弁護士(濱田マリ)が「大丈夫」と答えます。
 そして、橘弁護士が「前に約束したよね」と言うと、光子は「そうそう」と頷いて、「何も喋っちゃいけないんだった」「私、秘密って大好き」と言います。

 武志と橘が警察署の外に出てきます。
 橘が「連絡もらった時、いつもの取材かなと驚いた」と言うと、武志は「自分のこととなると、橘さんしか思いつかなくて」「ちひろが無事でよかったです」と応じます。
 これに対し橘は、「ただ、回復しても脳に重い障害が残るよう」と答え、「回復してもしなくても、いずれにしても、起訴の可能性が高いでしょう」と付け加えます。
 武志が、「その間にこっちでも何かすることがありますか?」と尋ねると、橘は、「精神鑑定」、「光子さんの様子は何か変。責任を感じていないみたい」と答えます。

 こんな感じで物語は始まりますが、さあ、どのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、直木賞候補作の小説を映画化した作品。主人公の男やその妹のみならず、本作に登場する男女の行為には、どれもどこかしら愚かしさが伴います。その最たるものが一家惨殺事件。事件が起きて1年ほど経過してから、週刊誌記者の主人公が再度その調査に乗り出します。その過程で、主人公は様々な人間と会って証言を得るのですが、証言者の愚かしさもまた暴露されていきます。ハッピーエンドに至らない物語展開ながら、出演者らの熱演もあり、その重厚さに感銘を受けました。

(2)本作は、田向家の3人、すなわち、夫の田向浩樹小出恵介)と妻の友季恵松本若菜)、それに長女が惨殺され、その犯人は誰かを探るというストーリー(注2)。
 でも、本作がミステリー物なことを考慮して、これ以上はあまりネタバレはしないようにいたしましょう。
 以下では、本作を見て感じたことを少々書くにとどめます。

 本作のシナリオを書いているのは、『マイ・バック・ページ』や『もらとりあむタマ子』などを手がけている向井康介。実績のある脚本家だからでしょうか、原作小説には明示的に登場しない週刊誌記者・田中武志を本作において創り出して主人公とし、狂言回し以上の役割を与えています(注3)。
 そんなことによって、原作小説の映画化に際しては起こりがちなことですが、本作は、原作小説を離れて(注4)、映画独自の世界が描かれていると言えるでしょう。
 更に言えば、そのことによって、本作はミステリー物として1本の芯が通り、かなりまとまりが出てきたように思われます。

 ただ、本作においては、殺人の現場はごくわずかの時間しか映し出されず、また、主人公や妹の小さい頃の映像が挿入されることもなく、大部分は、妹を含めて、武志が接触する事件関係者が話す場面であり、さらにはその話の内容が映像化されたものです。確かに、この点からすれば、原作小説と同じような雰囲気を映画は持っているといえるかもしれません。
 といっても、原作小説が、どちらかというと、話が様々な方向に拡散してしまうような雑然とした感じを与えるのに対し、本作にあっては、主人公とその妹の印象が強く残ります。
 こうなるのも、本作で主人公が新たに措定されたことによっているとはいえ、主人公を演じる妻夫木聡と妹役の満島ひかりの熱演も大いに与っているものと思います。

 また、大部分の関係者が所属した大学(注5)を巡っての様々な出来事(注6)は、一体こんなことが現実に起こりうるのだろうかとの疑問が持たれてしまうかもしれません。ですが、原作者の談によれば、決して作り話ではなさそうです(注7)。
 そして、そうしたところは、映画でも原作に沿って描かれているように思われます。
 本作で描かれていることはフィクションですから、言うまでもなく現実には起きておりませんが、実際に起きてもおかしくない事件ではないか、という感じです。
 そして、本作はミステリー物ですから、リアリティーもその程度で十分なのではないでしょうか?

 なお、例えば、同じ場面が異なる語り手によって説明されるというのは、最近見た『お嬢さん』を思い起こさせます(注8)。

 さらには、田向家の3人が殺される事件(注9)については、『怒り』の冒頭で映し出される夫婦殺人事件を思い出しました。その事件の犯人も、本作の犯人と同じように、被害者に対してことさらな恨みを持っていたわけではないようなのです(注10)。

(3)渡まち子氏は、「劇中には、いくつかの驚きの仕掛けがあって、そのことが“愚行”という言葉を決定づけている。物語と呼応するかのように、映画全体の色彩が暗いトーンで統一されているのが印象に残る」として65点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「終局の意外性はあるものの、ミステリーとしてのおもしろさは不満足」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 りんたいこ氏は、「石川監督はこれが長編映画デビュー作だが、緻密な演出と大胆な構成、さらに陰影に富んだ映像で人間の二面性を際立たせることに成功している」と述べています。



(注1)監督は石川慶
 脚本は向井康介
 原作は、貫井徳郎著『愚行録』(創元推理文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、妻夫木聡は『怒り』、満島ひかりは『駆込み女と駆出し男』、小出恵介は『シン・ゴジラ』、臼田あさ美は『東京プレイボーイクラブ』、市川由衣は『海を感じる時』、濱田マリは『団地』、光子の精神鑑定をする医師役の平田満は『くちづけ』で、それぞれ見ました。

(注2)主人公の週刊誌記者・田中武志が、1年経過していますが、事件についての記事を書くために、関係者の渡辺(浩樹の友人:眞島秀和)、稲村(浩樹の大学時代の恋人:市川由衣)、宮村(友季恵の友人:臼田あさ美)、形(宮村や友季恵の交際相手:中村倫也)に聞きに回ります。

(注3)原作は、インタビュアーが聞き回った何人かの関係者のお喋りと、妹のモノローグとからできています。インタビュアーがどんな人間で何の仕事をしているのかなどは殆ど書き込まれておらず(インタビュアーの職業は、一応は「ライター」とされてはいますが)、インタビューを受けた宮村の話の中に「田中さん」が出てきて、妹のモノローグから、妹=田中であり、かつまたインタビュアー=兄と見なせるところから、インタビュアー=田中と分かる感じです。
 また、兄が関係者の内の一人を殺したというのも、妹のモノローグの中で記載されている事柄です。

 なお、原作でインタビュー記事が掲載されるのは、本作で取り扱われる人物以外に、一家惨殺事件が起きた住宅の近所に住む住民(女性)と、その事件で殺された長男の同級生の保護者(女性)がいます。

(注4)もう1点だけ例示すると、本作では、犯人が、街で友季恵を見かたにもかかわらず、友季恵に無視された感じがしてその後をつけて彼女の家まで行き、たまたま台所のドアに鍵がかかっていなかったため中に入り込んだ、というように描かれています。
 これに対し、原作小説では、犯人は、友季恵を見かけ家まで後をつけた後、一度自分の家に戻ります。そして、夜中の零時過ぎに包丁を持って友季恵の家に行って、風呂場の窓から侵入するのです。

(注5)本作では「文應大学」とされていますが、原作では「慶応大学」と明記されています。

(注6)例えば、学生の間の「内部」と「外部」の壁。
 原作小説には、こんな記述が見受けられます(宮村が話しています)。



 「(慶応大学には)《内部》《外部》という言い方があるんです。《内部》というのはつまり、附属高校から大学に来た人のことです。《外部》はその逆、私みたいに大学から入った人間です」、「(内部生である)《彼ら》にとって私らみたいに大学から入ってきた者は《外部》の人間なんです」、「実際は、中学から入った人たちの結束が固いみたいです」、「性別関係なく横の繋がりがあって、それから縦の繋がりもある」、「彼らは本当に仲がいいんですよ」、「彼ら内部生にとって、外部性は下に存在するものなのです。でも、そういう下層階級の中にも、拾い上げてやってもいい人間が存在する」云々(同書P.128~P.130)。

(注7)このインタビュー記事を御覧ください。
 なお、東大・慶大・早大といった一流校で、あの考えられない「集団強姦事件」が起きていることからすると、むしろこうした一流と言われる大学でこそ、考えられないことが起こるのかもしれません。

(注8)例えば、プール付きの別荘で開かれていたパーティー会場で、宮村は、尾形を奪ったとして友季恵の頬を叩きます(友季恵も反撃しますが)。同じ場面は、光子によっても回想されます。他方、『お嬢さん』では、同じ場面が侍女のスッキと秀子によって説明されます。



(注9)本作で殺されるのは3人家族ですが、原作小説では子供2人の4人家族。

(注10)尤も、『怒り』の場合、犯人は被害者と何らの接点もありませんでしたが(被害者の奥さんが、犯人に麦茶を出しただけ)、本作の場合は、犯人と被害者の妻とは、文應大学で親しかったのです。



★★★★☆☆



象のロケット:愚行録

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ラビング

2017年03月22日 | 洋画(17年)
 『ラビング 愛という名前のふたり』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)出演しているルース・ネッガがアカデミー賞主演女優賞にノミネートされているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は、1958年のバージニア州(注2)。
 夜、家のポーチに若い男と女が座っています。
 黒人のミルドレッドルース・ネッガ)が、「妊娠したの」と告げると、白人のリチャード・ラビングジョエル・エドガートン)が、「すげえ(good)、やったな」と答え、ミルドレッドが笑います。

 次いで、ドラッグレースの場面。
 2台の車がレースをするのを、白人、黒人が一緒になって見ています。
 その中には、リチャーやミルドレッドもいます。



 レースが終わると、ホームパーティーが催され、皆が踊ったりして騒ぎます。

 さらに、リチャードが働いている現場。
 モルタルを敷いた上にレンガを重ねていきます。
 自分の分担が終わると、リチャードは「悪いな」と言ってその場を離れます。
 同僚が「何処へ行く?」と尋ねても、リチャードは答えることなく駐車場に急ぎます。

 広い原っぱを見ながら、リチャードが「どうだ?」と訊くと、ミルドレッドは「何が?」と訝しがり、リチャードが「この土地さ」と答えると、ミルドレッドは「ここ?」と尋ね、リチャードが「ああ」と言うと、ミルドレッドは、「よく知っている場所だし、家の近くよ。ええ、気に入ってるわ」と応じます。



 さらに、リチャードが「ここに台所を設ける」などと地面を指して言うものですから、ミルドレッドがたまらず「リチャード、止めて、一体何の話?」と尋ねると、リチャードは、「ここを買ったんだ。この土地に家を建てる。僕らの家だ」と答え、そして「結婚してくれ」とプロポーズします。

 ミルドレッドは、姉のガーネットテリー・アブニー)にそのことを言います。
 すると、ガーネットは「彼は気が違ったのかも」と言いながらも、「式はいつ?」と尋ねます。
 ミルドレッドは、「すぐよ。ベビーが生まれる前に」と答えます。
 さらに、ガーネットが「彼は、私から妹を奪うのね?」と言うと、「いいえ、近所に住むのよ」と応じます。

 こうして、物語が始まりますが、リチャードとミルドレッドの将来にどんな困難が待ち構えているのでしょうか、………?

 本作は、実話に基づいて作られており、別の場所で結婚式をあげた白人の夫と黒人の妻の夫婦が、故郷の州で生活を始めたところ、その州の法律に違反するというので逮捕され、その後紆余曲折がありますが、およそ10年経過して、2人は連邦最高裁から、同法は違憲との判決を勝ち取ります。本作は、そういう事情を背景にしながら、事件の渦中の夫婦の暮らしぶりの方にもっぱら焦点を当てて、じっくりと描き出します。生真面目過ぎる作り方ながらも、こういう夫婦愛も実際にあるのだな、としみじみと感じ入りました。

(2)リチャードとミルドレッドは、ワシントンDCに行って結婚し(注3)、バージニア州に戻り、ミルドレッドの実家で一緒に暮らし始めましたが、真夜中にやってきた保安官(マートン・ソーカス)によって2人は逮捕され、留置場に入れられます。
 その際、保安官は、リチャードに次のように言います。
 「お前の父親はクロに雇われていた。お前には同情する。この町は人種がゴチャ混ぜになってしまっている。部分的にインディアンだったり、黒人だったり、白人だったりする。お前の生まれた場所が悪かったんだ。お前にはそれが自然だったのだから」、「だが、これは自然の法に反している。白人は白人であり、黒人は黒人なのだ。俺は、白人と黒人の結婚を見逃せない。これが神の掟であり、自然の理なのだ」。

 この背景にあるのは、バージニア州(注4)で制定されていた異人種婚姻を禁止する法律。この記事によれば、「白人」に分類される人々と「有色人種」に分類される人々の結婚を禁じた1924年人種統合法に反するとして、2人は逮捕され起訴されました(注5)。

 同じ趣旨の法律は、バージニア州のみならずほかの州でも制定されていました(注6)。
 日本から見るととても考えられない法律ながらも、この記事によれば、驚いたことに、「サウス・キャロライナは1998年まで、アラバマは2000年までこの法律を施行していた」とのことで、決して過去の話ではないのです。

 2人は裁判で、懲役1年の実刑判決を受けましたが、25年間バージニア州に一緒に戻らないという条件付きで執行猶予となります。
 それでラビング夫妻は、ワシントンDCに移り住むことになります。でも、見知らぬ土地での生活は大変で、ミルドレッドは、アドバイスを受けて、当時のロバート・ケネディ司法長官に手紙で訴えます。そのことで道が拓かれ、ついには、1967年に、異人種間の結婚を禁止する法律は違憲だとする連邦最高裁の判決を勝ち取ることになります。

 そんな話ですから、普通に考えれば、連邦最高裁に行き着くまでのプロセス、さらには最高裁の裁判を巡って、随分とプレイアップした描き方ができるはずです(注7)。
 ですが、本作では、その裁判の原告側(ラビング夫妻)の弁護士コーエンニック・クロール)とハーシュコプジョン・ベース)が行う弁論のサワリの部分が少しだけ描かれるに留められています(注8)。

 さらには、原告であるラビング夫妻がこの裁判を傍聴する場面も映し出されるはず、と思っていたところ、「大変な名誉ですよ」と出席を勧める弁護士に対し、リチャードは「そんなことはしません」と言い、ミルドレッドも「夫に従います」との返事(注9)。
 結局、コーエンからの電話連絡によって、2人は判決内容を知るに過ぎません。

 総じて、本作で描かれるラビング夫妻については、トテモ地味でおとなしく、実直で勤勉なアメリカ人という印象を受けます(注10)。
 でもそう描かれているからこそ、「ライフ」誌に掲載された写真に似せた場面が本作で映し出されますが(注11)、何ものにも代え難い十分の説得力を持っているように思いました。
 そして、そんなリチャードとミルドレッドとを、ジョエル・エドガートンとルース・ネッガは、他に代え難い俳優と見る者に思わせるような魂のこもった演技で演じています。

(3)渡まち子氏は、「英雄でも活動家でもない男女の愛が歴史を変えた。このことに誰もが感動を覚えるだろう。タイトルは、リチャードとミルドレッド夫妻の姓だが、それが“ラビング(愛)”であることが、映画を見終わった後、深い余韻となって心に残る秀作だ」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「庶民の生活の哀歓を描く水彩画のように穏やかな映像美がある」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 大久保清明氏は、「ミルドレッドがリチャードに妊娠を告げる冒頭の場面。彼女が言葉を発するまで、しばしの沈黙が流れる。夜のしじまを、虫の鳴き声だけが流れる。リチャードが、ゆっくりと笑みを浮かべ「よかった」とつぶやくまでに、やはり、ためらいの時間が流れる。そんな、人間のためらいの美しさが『ラビング』を貫いている」として★4つ(満点)を付けています。
 藤原帰一氏は、「愛しあう2人が結婚することのどこがいけないんだ。こんな単純なメッセージを観客の胸に届けるためには、行き届いた映画づくりが欠かせない。その技術を持った作品としてどなたにもお勧めいたします」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『MUD-マッド-』のジェフ・ニコルズ
 原題は「Loving」。

 出演者の内、最近では、ジョエル・エドガートンは『ブラック・スキャンダル』で見ています。

(注2)公式サイト掲載の年表などによれば、ラビング夫妻は、バージニア州キャロライン郡セントラル・ポイントで生まれ育っています。

(注3)小さな裁判所に行き、そこの裁判官の立ち会いのもと、結婚証明書を出してもらいます(なお、ミルドレッドの父親も同席)。

(注4)バージニア州は、イギリスから独立した最初の13州の一つですが、南北戦争の際は、奴隷制存続を主張するアメリカ連合国の方に加わっています。

(注5)ただ、この記事によれば、「1661年にバージニア州がもっとも早く異人種間の結婚を禁止する法律を通過し、違反した場合4,540 Kg のタバコ進呈を懲罰とし、30年後には、白人女性が黒人との混血児を出産した場合、その女性には5年間、彼女の子供には30年間の契約による強制労働を課す法律を制定した」とのこと。
 この記事が言う1661年の法律が、1924年の人種統合法の元になっているものと考えられます(ただし、同記事では、1661年にバージニア州が成立しているかのように記載されているところ、同州の成立は独立戦争後の1788年ですから、その記事が正しいとしたら、同法は植民地時代の法律ということになるでしょう)。

(注6)この記事によれば、「黒人と白人との異人種間結婚は、20世紀初めまで南部の全州(16州)で、州の憲法ないし法律で禁止されていた。北部でも、コロラド州、インディアナ州、アイダホ州、南北ダコタ州で禁止されていた。また、アリゾナ、カリフォルニアなど西武の7州と南部の諸州は、白人と東洋人との結婚も禁止していた」とのこと。

(注7)最近見た映画でアメリカの連邦最高裁が登場するのは、『黄金のアデーレ 名画の帰還』と『ブリッジ・オブ・スパイ』でしょう。後者に登場するドノヴァントム・ハンクス)は練達の弁護士ですが、前者のランディライアン・レイノルズ)は、本作のコーエンと同じく駆け出しの弁護士です。

(注8)コーエンは、自分の事務所を持たない駆け出しの弁護士で、最高裁案件など取り扱ったことがありませんから、かなり舞い上がっている感じで描かれています。

(注9)ただ、「裁判官に何か伝えたい事があるか?」とのコーエン弁護士の質問に、リチャードは「俺は妻を愛してると伝えてくれ(Tell the judge I love my wife.)」と答えます。

(注10)ジェフ・ニコルズ監督は、このインタビュー記事の中で、「制作の初期の段階から、できる限り、リチャードとミルドレッドの視点から映画を作ろうと決めていた。つまり、映画の構成も、トーンも、シーンのスタイルもすべて、この2人の人柄を反映したものになるということだ」、「少なくとも、この2人を人間としてきちんと描けていると思っているし、それが僕にとって重要なことだった」、「僕は、公民権運動に関する映画を作った監督として考えてほしくない。もし、それがテーマなら、もっと優れた監督が他にたくさんいる。それよりも、ある2人の人間に関する映画を作った監督だと思ってほしいし、彼らの本当の人となりを讃えたかったんだ」と述べています。

(注11)本作では、『ライフ』誌のカメラマンのグレイ・ブレットマイケル・シャノン)がラビング夫妻の家にやってきて、彼らの暮らしぶりをカメラで撮影します。ただ、その写真記事「結婚という犯罪」が掲載された雑誌(1966年)が、誰だかわからない人物によって車の座席に投げ込まれているのを見たリチャードは、自分たちが周囲にどのように見られているかを感じます。





★★★★☆☆



象のロケット:ラビング 愛という名前のふたり
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アサシン クリード

2017年03月20日 | 洋画(17年)
 『アサシン クリード』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)このところあちこちで見かけるマリオン・コティヤールが出演しているというので、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、「数世紀の間、テンプル騎士団(the Order of Knights Templar)は、神秘的なエデンの果実(Apple of Eden)を探し求めていた。彼らは、それが、人間の不服従の根源であり、自由意思の基になるものであると信じていた。その遺物を見つけ出し、秘密を解き明かせば、彼らは、思考の自由を支配できる力を持つことができるだろう。彼らの行く手を阻むものはアサシン教団(the Assassins)だけなのである」との字幕が映し出されます。

 次いで、「1492年 スペイン アンダルシア」の字幕。
 黄昏過ぎの暗闇の中、中世の城の中庭では、マントを深くかぶった人達がごそごそ蠢き、刀を研いだりしています(注2)。
 そして、アサシン教団の導師(mentor)が、「ついに異端審問が当地でも始まった。スルタンはグラナダで持ちこたえているが、その息子の王子が捕らえられれば、スルタンはエデンの果実を差し出すことだろう」「アギラールよ、テンプル騎士団の圧政から人類を守ることを誓うか?」と尋ねると、アギラールと呼ばれた男(マイケル・ファスベンダー)は「誓います」と答えます。
 さらに、導師が「エデンの果実が奴らの手に渡れば、彼らを妨げるものすべてを破壊することだろう」、「命を投げ出すことを誓え」と言うと、アギラールは「はい、我々の命など無であり、エデンの果実こそ全てです」と答えます。



 そばにいたマリアアリアーヌ・ラベド)も、誓いの言葉を述べます。

 ここで、本作のタイトルが流れます。

 大鷲が、雲の間を縫いながら、山の上を飛んでいきます。

 次いで、「1986年 メキシコ バハ・カリフォルニア」の字幕。
 フードをかぶった少年・カラムが自転車に乗っています。
 いるところは建物の屋上。スピードをつけて、隣の建物に自転車に乗ったまま飛び移ろうとして失敗し、地上に落下してしまいます。

 カラムが自転車で家に戻ると、母親・メアリーエッシー・デイヴィス)が椅子に座ったままですが、血を流して死んでいます。
 ソバにいた父親・ジョゼフブレンダン・グリーソン)が手に大きなナイフを持っています。
 父親は少年に、「大いなる目的のためだ」「奴らが来るから、早く行け。闇に生きろ」と命じます。少年は屋根伝いに逃げます。

 さあ、物語は、この後どのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、「エデンの果実」を巡る「アサシン教団」と「テンプル騎士団」との戦いを背景に、DNAに保持されている先祖の記憶を主人公に辿らせることによって、テンプル騎士団の現代の末裔が「エデンの果実」を手に入れようとて、…、という「ゲーム」に基づく物語。 
 舞台が、科学の発達した現代と、15世紀のスペインとの間で目まぐるしく変わり、正義派のように思える教団に“暗殺者”というネガティブな名称がついていたりするなど、何も情報を持たない者にとっては、物語の大まかな展開についていくのがやっとという感じです。おまけに、続編がありそうな雰囲気で終わるので、消化不良状態にもなってしまいます。  
 これでは、続編を見る気にはとてもなりませんでした。

(2)なにしろ、よくわからないことばかりです。

 本作では、ごく大雑把に言ってしまえば、世界を力で支配しようとする集団とそれを阻止しようとする集団との戦いが描かれています。
 後者が正義派であり、悪の集団である前者を打ち破るという、映画等でこれまでよく取り扱われてきたストーリーが、本作でも綴られます。
 具体的には、主人公のカラムマイケル・ファスベンダー)は正義派である後者に属し、前者の悪の集団に属するアランジェレミー・アイアンズ)らと戦うことになります。

 ところが本作では、前者に対し歴史上実在した集団の名称が与えられる一方で(この記事を参照)、後者に対しては“アサシン(暗殺者)”という現代のテロリストまがいの名称が付けられているので(注3)、わけがわからなくなります。
 そればかりか、カラムの先祖であるアギラールらの装束も、正体を隠すために、深いフォードをかぶり、アサシンブレードと呼ばれる「小型の隠し剣」(注4)を隠し持っています。まさに、テロリストそのものの格好です(注5)。
 それに、アギラールの末裔とされるカラムは、殺人事件を犯して死刑に処せられようとする男として本作に初めて登場します。とても、正義派には見えません。
 更に言えば、上記(1)に記したように、少年のカラムは、自分の父親が母親を殺したと思える現場を目にするのです。
 本作の主人公は、とても正義派とは思えない描き方をされています。

 さらに、アサシン教団は、公式サイトの「用語集」によれば、「人間の自由な意志や活動を尊重」するとされています。
 ですが、自由を求める集団が「アサシンのⅢつの掟」(注6)という鉄の掟で縛られているのは、本来的に矛盾しているのではないでしょうか?

 また、アランとソフィアマリオン・コティヤール)の父娘は、「アブスターゴ財団」(注7)の「アムニス」という装置を使って、カラムを通じて、「エデンの果実」の在り処を突き止めようとします。



 この「アニムス」は、公式サイトの「用語集」によれば、「(被験者の)DNAに保存された遺伝子の記憶を呼び起こす」装置とされています。
 でも、記憶は脳に保存されているのであり、遺伝子にそのような記憶など保存されてはいないのではないでしょうか?仮に、遺伝子に保存されているとしたら、一体、どの遺伝子の何処に保存されているのでしょう?また、仮に、記憶が遺伝子に保存されているとしたら、時間が500年以上も経過すれば、その遺伝子にはとてつもない量の記憶が保存されていて、とても遺伝子の形態を保持できないのではないでしょうか?
 それに、元々、記憶のような個人が個々別々に獲得するものは、次の世代に継承されないのではないでしょうか(注8)?

 もっと言うと、上記(1)に記したように、スペインのシーンが始まる冒頭に「1492年 スペイン アンダルシア」の字幕が流れます(注9)。これは、「エデンの果実」がC.コロンブスに関係してくるところから、彼のアメリカ大陸到達の年と連動させようとしたのかもしれません。
 ですが、彼がアメリカ大陸から戻ってくるのは、この記事によれば1493年ですし、その年も第3回目の航海に出発しています。
 アギラールは、一体いつコロンブスに会えたのでしょう(注10)?

 まあ、こうしたイチャモンは、描き出される映像が目をみはるような凄いインパクトを持っているのであれば、どうでも良くなるでしょう。
 確かに、15世紀のスペインを描いている映像は、アギラールとマリアが屋根伝いに逃げるシーンとか、上空を飛ぶ大鷲の視点からのものがあったりして(注11)、興味は惹かれます。



 でも、全体として、薄暗い中での映像が多く、特にアサシン教団側の人物はなかなか判別がつきません。
 それに、現代の時点でのアクションシーンでも、カラムに扮したファスベンダーが熱演しているとはいえ、通常のアクションシーンの行きを出ていない感じがします。

 なお、コティヤールは、父親・アランの影に隠れてしまいがちなソフィアを演じているために、期待したほどではありませんでした(注12)。

(3)渡まち子氏は、「この穴だらけ、かつ不親切なストーリーは、どうやら三部作の第一章ということが原因らしい。ともあれ、ラストも含めて、もやもやとした印象だけが残ってしまった」として55点を付けています。



(注1)監督はジャスティン・カーゼル
 ストーリーは、ゲームの「アサシン クリードシリーズ」に基づいています。
 原題は「Assassin’s Creed」。

 なお、出演者の内、最近では、マイケル・ファスベンダーは『スティーブ・ジョブズ』、マリオン・コティヤールは『マリアンヌ』、ジェレミー・アイアンズシャーロット・ランプリングは『リスボンに誘われて』で、それぞれ見ています。

(注2)画面が酷く暗くてはっきりしないのですが、アギラールの指が切断されるシーンがあるように思われます(下記の「注4」からすると、左手薬指を切断していたようです)。

(注3)この記事によれば、「暗殺教団」は、「イスラム教・シーア派の分派イスマーイール派(特にその一派ニザール派のシリアでの活動)に対する幻想的イメージに彩られた中世ヨーロッパ史料および東洋学、文学での呼称」であり、一時は「史実」として扱われたものの、「20世紀半ば以降、実際のニザール派の活動とは著しく乖離した伝説であることが判明している」とされています。
 本作における「アサシン教団」は、こうした伝説を拠り所にしているのでしょうが、本作を見る限り、彼らはイスラム教とは無縁の存在と思われますから、むしろ本作のために新たに作り出された架空の集団と考えるべきではないか、と思います。

(注4)公式サイトの「用語集」によります。
 なお、この記事の「登場人物」の「アンタイル」の項では、「特殊な刺突用の小刀(左手首に鞘がついており、小指に付けられたリングを引っ張ることで刃が飛び出す仕組み。アサシン達はこれの飛び出しが妨げられないよう皆左手薬指を切り落としている)」と説明されています。

(注5)まして、ラストで、カラムがアランの首を切って殺すのはISそのものではないでしょうか?

(注6)公式サイトの「相関図」の末尾に「アサシンⅢつの掟」が掲載されています。
 そのⅡ番めが「身をさらすなかれ」とされているところから、アギラーらは、誰だか判別を難しくする深いフードをかぶった装束を身につけているように思われます(ちなみに、他の掟は、「Ⅰ罪なき者に刃を向けるなかれ」「Ⅲ決して仲間を裏切るなかれ」)。
 この掟(クリード)が本作のタイトルとされているわけですから、相当重視されているものと思われます。

(注7)公式サイトの「用語集」によれば、「20世気に入ってから、テンプル騎士団が設立した多国籍複合組織」。アランは、そのCEO。ただ、テンプル騎士団の長老会の有力者であるエレン(シャーロット・ランプリング)は、アランの娘・ソフィアの研究がうまく成果を出さないために、資金援助の打ち切りを通告しています。

(注8)尤も、この点については、福岡伸一氏によるこの記事が、とても興味深いこと(必ずしも、「学習による成果、つまり生まれたあと後天的に身につけた行動は、次の世代ではいったんオールクリアされたゼロにもどる」わけではない)を記載しています。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「ストーリー」では「1491年」とされています。
 ただ、本作に関するIMDbの「Synopsis」でも「Spain 1492」とされています。

(注10)本作では、コロンブスがアギラールから「エデンの果実」を託されたことになっていますが、公式サイトの「用語集」の「エデンの果実」によれば、「(それを)手にした者は例外なく世界を変えてきた」とされているところ、それを受け取った野心家のコロンブスは、どうして「世界を変え」ようとせずに、墓の中に持ち込んだのでしょう?
 あるいは、アメリカ大陸到達が「世界を変え」たことになるのかもしれません。ですが、アギラールがコロンブスに会ったのは、そのことよりも後でしょうし、なにより、実際にアメリカ大陸を西欧人が発見したのは、ヴァイキングの方がずっと先のことだとされていますから、よくわかりません。

(注11)特に、大聖堂の上からアギラールらが「イーグルダイブ」する映像は(公式サイトの「用語集」によれば、「建物の屋根などから空中にジャンプし、縦方向に回転して、地上に着地する」)、なかなか良くできています。

(注12)想定される続編では、父親がいないために、コティヤール演じるソフィアの活躍が見られることでしょう。



★★☆☆☆☆



象のロケット:アサシン クリード
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お嬢さん

2017年03月17日 | 洋画(17年)
 韓国映画の『お嬢さん』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)久しぶりに韓流でもと思って映画館に行きました。

 本作(注1)の舞台は、1939年の朝鮮半島(注2)。
 始めの方では、雨が降る中、日本軍の兵隊が行進しており、その後を子どもたちが追いかけます。
 彼らが行ってしまった後、傘をさして赤ん坊を抱えた女が立っています。
 女は、庇の下で雨宿りをしている女たちの一人にその赤ん坊を預けて、立ち去ります。

 次いで、「第1部」の字幕。
 車が海岸通りを進み、人里離れたところに設けられている上月家の門の中に入ります。
 運転手が、後ろの座席にいる少女・スッキキム・テリ)に対し、「まだ寝てていいぞ、屋敷はずっと奥だ」と言います。
 車が進んでいく間、スッキが外を見ていると、やがて大きな屋敷に到着します。

 迎えた女(キム・ヘスク)が、「自分は佐々木」と言い、屋敷のことなどについて説明します。
 「この屋敷は、3つの棟からできている」、「母屋は、英国風と日本風が合わさっている」、「離れの棟は旦那様の書斎」、「もう一つは、使用人の棟」、「お前はお嬢さまの侍女だから使用人の棟で休むことはない」、「盗みを働いたら、即刻クビ」、「お前のことは、これから珠子と呼ぶ」。
 「お嬢さまの日常は単純。裏庭を散歩したり、旦那様に本を読んであげたり」。
 「旦那様は、本を読むのが好き。書籍愛好家の中では一番の富豪」。
 「時々停電になるが、怖がらないで」。

 スッキは、お嬢さま(秀子キム・ミニ)の寝室の直ぐ側の納戸のような狭い場所に設けられているベッドで横になります。
 すると突然、「お母様、お母様」という秀子の声が。
 スッキが慌てて秀子の寝室に飛び込み、「大丈夫ですか?」と尋ねると、秀子が「スン・ジャ?」と言うものですから、スッキは「スン・ジャはクビになって、私は新しい侍女の珠子です」と答え、さらに「悪い夢を見たのですか?」と訊きます。すると、秀子は「叔母(ムン・ソリ)がおかしくなって、あそこにある桜の木で首を吊ったの」「時々、月の出ていない暗い夜になると霊が現れる」などと答えます。

 こうして、スッキは上月家に入り込むことに成功しますが、さあ、これからどのような物語が語られることになるのでしょうか、………?

 本作の舞台は、1939年の朝鮮半島。偽伯爵が、莫大な資産を相続した日本人令嬢のもとにメイドを送り込み、その資産を奪い取ろうとするものの、…という物語。まあ、コンゲームを描いていますから、騙し騙されで、事態が二転、三転して物語は面白く、さらには、きれいに映し出される官能的シーンもかなりあり、娯楽作品としてはよくできています。ただ、韓国だけでなく日本での部分がかなりあり、リアリティのあるお話というよりも、全くのおとぎ話と言う感じになってはしまいますが(日本語と韓国語が入り混じっていて、返って理解しにくい部分があったりもします)。



(2)本作は、偽伯爵のハ・ジョンウがスッキと組んで、上月家の上月チョ・ジヌン)や秀子を騙して財産を詐取しようとするコンゲームを描くミステリーであり、内容的には「映画は三部構成からなり、第一部はスッキの視点で、第二部は秀子の視点で事件の顛末が描かれ、第三部では衝撃的な真相が明かされる」わけですが(注3)、それ以上は見てのお楽しみでしょう。
 そこでここでは、印象に残った点を少しばかり申し上げるにとどめましょう。

 本作では、何と言っても、成り上がりの上月とその姪の秀子が暮らす豪壮な屋敷の描写が素晴らしいと思いました。
 特に、書斎は大層広々と作られていて、入口の傍には書棚がいくつも設けられており、その奥の一段下がったところが畳敷きで、真中に書籍を読むための机と椅子が置かれています(注4)。

 その上、書棚に収められている本は、上月が収集した稀覯本ばかりなのです。
 あとでスッキが棚から払い除けて下に落としたものを見ると、どれも皆猥本であり(注5)、上月は、秀子にそれらの猥本を男の客人の前で読むように命じていたのです(注6)。

 また、出演者のうち、主役の秀子を演じるキム・ミニは、松たか子(あるいは松嶋菜々子でしょうか)似の美形ながら、体当たりの熱演をしていて、素晴らしいなと思いました。
 ラストのシーンばかりでなく(注7)、始めの方の入浴シーンも印象に残ります(注8)。



 さらに、侍女のスッキに扮するキム・テリは、オーディションで選ばれながら、新人とも思えない度胸の良さで見る者を圧倒します(注9)。

 ただ、ハ・ジョンウが演じる偽伯爵ですが、日本の華族は数が限定されていて、調べればすぐに当該人物が偽者かどうかわかるのではないでしょうか(注10)?
 それに、ハ・ジョンウが話す日本語は、勿論そんなことを言うのは求め過ぎではあるものの、今少し何とかならないのかな、とも思いました(注11)。



 本作は、朝鮮半島出身者でありながら日本人に憧れるばかりか、かなりネジ曲がった行動をとる上月と、なんとか秀子の相続した莫大な財産を掠め取ろうとする偽伯爵のハ・ジョンウの男性陣と、秀子と侍女のスッキの女性陣との戦いとも見られ、さらには、ラストまでの描かれ方からして、いろいろな社会的な意味合いを読み込みたくなるかもしれません。でも、クマネズミは、あえてそんなことをせずとも、騙し騙されが描かれる単純なおとぎ話として愉しめば良いのでは、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「145分の長尺だが、摩訶不思議な世界にどっぷり浸る、得がたい映像体験である」として70点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「ものがたりのおもしろさを堪能させる2時間25分だ」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督は、パク・チャヌク
 脚本は、監督のパク・チャヌクとチャン・ソギョン。
 英題は「The Handmaiden」。
 原作は、サラ・ウォーターズ著『荊の城』(創元推理文庫)。
 ただ、本作は、原作の舞台がヴィクトリア時代のイギリスとされているものを日本統治下の朝鮮半島に置き換えるなど、様々の改変を行っているようです。

(注2)以下は、映画の展開が速く追いつけなかったところもあって、取り違えている細部が少なからずあると思いますが、悪しからず。

(注3)劇場用パンフレットの「INTRODUCTION」より。
 ただ、実際には、「スッキの視点から描かれ」たり、「秀子の視点から描かれ」たりするというよりも、同じように映し出される様々のシーンについて、第1部ではスッキが第2部では秀子が話をするという具合です。第3部は、第1部と第2部を受けて、全体の結末が客観的に描き出されます。

(注4)書斎の入り口から書棚の間を通って机のある広間に行く感じは、チョット飛躍しますが、以前見たことがある韓国映画の『黒く濁る村』で描かれる地下通路を思い出させました。また、上月家には大きな地下室も設けられているのです。

(注5)本作において、ちらっと見えたものとか、読み上げられている雰囲気からすると、日本の江戸時代の春本とか、マルキ・ド・サドの翻訳本とかがあるようです。
 前者については、葛飾北斎の『蛸と海女』があったような感じがします(同春画を中心にして作られた新藤兼人監督の『北斎漫画』については、この拙ブログの「注8」をご覧ください。ちなみに、上月家の地下室の水槽では大蛸が飼われています!)。
 ただ、後者については、澁澤龍彦氏による『悪徳の栄え』(現代思潮社、1959年)くらいが最初であり、戦前には翻訳がなされてはいないように思うのですが(例えば、この記事を参照)。

(注6)秀子は春本を読むわけですから、それに書き込まれている「玉門」といった隠語なども大声で読み上げることになります(と言って、今やそんなものには余り卑猥な感じがありませんが、本作のように戦前だとしたら、かなり刺激的だったかもしれません)。また、猥本の中に描かれている体位なども、秀子に実演させてみたりもします。
 スッキは、こうした猥本を見て、ものすごい嫌悪感に襲われ、稀覯本で高価なものばかりにもかかわらず、棚から引きずり落とし、次々と破り捨ててしまいます。

(注7)キム・ミニとキム・テリの映像から、『アデル、ブルーは熱い色』を思い出しますが、年齢的な関係からすれば、同作のアデルアデル・エグザルコプロス)がキム・テリに、エマレア・セドゥ)がキム・ミニに該当するかもしれませんが、雰囲気からはその逆のような気もします。

(注8)スッキは、入浴中の秀子を見て、その美しいことに驚いて「お嬢さまは私の赤ちゃんです」と言ってみたり、歯の形が悪いために飴を舐めると口の中が裂けてしまうのがわかると、秀子の口の中に手を入れて、歯の先端を研いだりします。ここらあたりから、二人の関係は次第に親密なものとなっていくのでしょう。

(注9)町山智浩氏は、この記事によれば、「(キム・テリは)映画デビューでもう、全部やっちゃったっていうね。すっごいもう、こっから先はないだろう?っていうのをやっちゃってますけども」と語っています。
 なお、クマネズミは、デビュー作の『人間の値打ち』で体当たりの演技を披露したマティルデ・ジョリを思い出しました(同作の公式サイトの記事をご覧ください)。

(注10)ちなみに、この記事では、華族の1011家が掲載されており、その中には「藤原伯爵」なるものは存在しておりません。
 また、この記事によれば、確かに、「藤原家」は平安時代こそ貴族のトップでしたが、「藤原氏は平安時代末から鎌倉時代にかけて、「五摂家」という「摂政・関白を出す家」を決め、それぞれの家の名を名乗るようにな」って、「藤原」を名乗らなくなりました。
 こんなところからも、藤原伯爵が怪しいことはたちどころにわかるはずなのですが、上月も、自身が朝鮮半島出身者であるにもかかわらず、日本人になろうとしている人物だけに、簡単に騙されたというところでしょうか(ただ、佐々木夫人くらいなら、すぐに分かりそうな感じがします)。

(注11)この記事によれば、ハ・ジョンウは、「1930年代の日本語を完璧に話すために2ヶ月間ハードな講習を受けた」とのこと。
 でも、韓国語で話してくれてその字幕を出した方が、日本人にはずっとわかりやすくなるでしょう(英語版なら、そうなっていると思います)。



★★★☆☆☆



象のロケット:お嬢さん

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エイミー、エイミー、エイミー

2017年03月14日 | 洋画(17年)
 『エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)たまにはラブコメディも面白いかもしれないと思って、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、過去の思い出が描かれます。
 幼いエイミーキムの姉妹が車のボンネットの上に座っています。妹は、人形を腕に抱えています。
 その前で、父親・ゴードンコリン・クイン)が二人に向かって、「パパとママは離婚する。泣くな」、「ママがなんと言ったのか知らない。俺の方からわかりやすく説明する」と話し出します。
 そして、キムに向かって、「お前はその人形が好きだよな。けれども、この先その人形とだけしか遊べないと言われたらどうする?」と尋ねます。
 妹のキムは「悲しい」と答えます。
 父親は、「他にたくさんの人形があるのだから、これだけだと言われたら悲しいよな」、「それが、俺とママが離婚する理由だ」と言い、更に「一夫一婦制(monogamy)は悪だ」というフレーズを姉妹に何度も繰り返させます。

 次いで、「23年後」の字幕。
 主人公のエイミーエイミー・シューマー)が、ベッドで男(ジョシュ・セガーラ)とゴニョゴニョしています。
 エイミーは、「このゴムは初めて」、「デカすぎでやばい」、「先っぽが見えない」、「最初は準備運動を」など色々騒ぎ立てますが、事が終わると、いびきをかいて寝てしまいます(注2)。

 エイミーは、夜毎に違う男を次々と家へ連れてきては、次の朝には「バーイ」と言って別れるという生活をしています(注3)。
 エイミーのモノローグ、「セックスは好きだけど、主導権は譲っていない」。
 例えば、男が「ライブのチケット2枚あるよ」と言うと、エイミーは「それでいいわ」と応じて、「バーイ」と言って別れます。

 エイミーのモノローグ、「仕事もアパートもあるし、家族、友達も収入も恵まれている」。



 エイミーは、一応恋人と思っている男(ジョン・シナ)の家で眠ってしまいます。
 朝、目を覚まして「今何時?」と尋ねると、男は「7時半」と答え、さらにエイミーが「ここはどこ?」と訊くと、男が「スタテンアイランド」と言うものですから、エイミーは慌ててそこを飛び出し、街中を歩き、さらにフェリーに乗ります。

 そして、本作のタイトルが流れます。
 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、父親の教育によってうまく恋愛ができず、とっかえひっかえ男と関係を持っている主人公の雑誌編集者が、上司から記事を取るように命じられた相手のスポーツ外科医と、最後は熱烈な恋愛関係に陥るというラブコメディ。全米で1億ドル突破の大ヒットを記録しているとのことで、アメリカ事情に疎いクマネズミにはよくわからないギャグなどが頻発するとはいえ、まずまず面白い作品だなと思いました。

(2)主人公を演じるエイミー・シューマーは、35歳ながらも、全米No.1のコメディエンヌとされており(注4)、なおかつ本作の脚本をも担当するという幅広い才能の持ち主。
 彼女が演じる主人公の風貌とかダメぶりなどから、クマネズミは、『ブリジット・ジョーンズの日記』を思い出しました(注5)。

 なにしろ、同作で主役を演じるレニー・ゼルウィガーは、現在の年齢こそエイミー・シューマーより一回り以上も上ですが、シリーズの第1作目(2001年)の時は、本作出演時のエイミー・シューマーと同じ32歳であり(注6)、また、その第1作で彼女は、エイミー・シューマーと同じように、ゴールデングローブ賞にノミネートされてもいるのです(注7)。

 また、描かれる主人公についても、『ブリジット・ジョーンズの日記』の場合、出版社に勤めているのと同じように(注8)、本作でも雑誌(「S'Nuff 」)の編集者なのです。

 加えて、どちらも独身で、様々な男と付き合っています。
 ただ、ブリジット・ジョーンズの場合、第3作目では、同じ日にセックスしたために、どちらの男の子供なのかがわからなくなるという事態を招きますが、せいぜいそのくらいで、毎晩のように違った男を引っ張り込んでセックスをしているエイミーの奔放さには及ばないかもしれません(注9)。
 それに、ブリジット・ジョーンズの場合、なかなか達成できないでいますが、結婚して幸せな家庭を持ちたいと言う願望が強いところ、本作のエイミーの場合は、セックスは求めるものの、長続きする恋愛関係に入ることは、父親の教育方針をまともに受け入れていて(注10)、むしろ嫌悪しているようなのです。

 更に言えば、『ブリジット・ジョーンズの日記』には、ヒュー・グラントとかコリン・ファースといった大物俳優が出演しているのと同じように、本作でも、昨年アカデミー主演女優賞を獲得したブリー・ラーソンがエイミーの妹役として出演していますし、アカデミー賞助演女優賞のティルダ・スウィントンがエイミーの職場の上司の編集長役に扮しています(注11)。

 本作の主人公のエイミーですが、こんなに奔放過ぎる女性とはとても付き合いきれない感じになりますが、それでも、ダメ女ながらも一生懸命生きようとしているのはよくわかり、最後のシーンを見ると(注12)、ブリジット・ジョーンズ同様、まあ拍手を送ってやりたくもなってしまいますから不思議です。
 これも、ラブコメディの功徳なのかもしれません。



(注1)監督はジャド・アパトー
 脚本は主演のエイミー・シューマー。
 原題は「Trainwreck」(この記事によれば、「大失敗」とか、「酷い状態の人物」などの意味)。
 なお、この記事によれば、本作については、アメリカ国外で11もの違ったタイトルが付けられているとのこと(おそらく、原題の「trainwreck」の解釈が難しいからかもしれません)。
 それにしても、邦題は長すぎるのではないでしょうか?

 また、出演者の内、最近では、ビル・ヘイダーは『マギーズ・プラン―幸せのあとしまつ―』、ブリー・ラーソンは『ルーム』、ティルダ・スウィントンは『ヘイル、シーザー!』で、それぞれ見ました。



(注2)実は、これは嘘寝で、男が帰るよう促しているものと思われます。

(注3)“one-night stand”と言うようです。

(注4)この記事によれば、エイミー・シューマーは、「2016年に米経済誌フォーブスが発表した「最も稼いだコメディアンランキング」に女性として初めてランクイン」し(1700万ドルで4位)、「本作の主演で2016年ゴールデングローブ賞最優秀主演女優賞にノミネート」されたとのこと。
 また、この記事によれば、「2015年のTIME誌で「世界で最も影響力のある100人」に選出され」てもいるようです(この記事も)。

(注5)映画『ブリジット・ジョーンズの日記』については、その第3作目の『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』を取り上げている拙エントリをご覧ください。

(注6)本作は、3年前の2015年に制作されています。
 更に言えば、本作の冒頭に登場するエイミーは9歳とされ、その頃を回想している現時点のエイミーは、それから「23年後」とされています。ちなみに、妹キムとの歳の差は4年とされています。

(注7)ミュージカル・コメディ部門の主演女優賞(Golden Globe Award for Best Actress - Motion Picture Musical or Comedy)。

(注8)ブリジット・ジョーンズは、後でTV局に移りレポーターになりますが、いずれにせよ、マスコミに関係していることに変わりはありません。

(注9)挙句は、インターン生のドナルドエズラ・ミラー)とことに及ぼうとしたまさにその時に、彼の母親が部屋に入ってきて「まだ16歳よ!」と叫ぶのです。この件で、エイミーは雑誌社を解雇されてしまいます。

(注10)エイミーがそんな生活をするのは、妹のキムブリー・ラーソン)はまともに結婚していて子供までいるのですから、父親の教育方針に問題があったとばかりいえないでしょう。

(注11)そればかりか、アカデミー賞助演女優賞のマリサ・トメイやハリーポッター役で知られるダニエル・ラドクリフなども出演しています。さらには、プロのスポーツ界から、NBAを代表するスーパースターのレブロン・ジェームズが、エイミーの恋人アーロンの親友として登場しますし、テニスのクリス・エバートとか、アメフトのトニー・ロモなども顔を出すのです(さらには、ヒップホップアーティストのメッソド・マンも登場します←この記事)。
 なお、全くどうでもいいことながら、本作についても、『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』と同様に、劇場用パンフレットが作成されておりません(同作についての拙エントリの「注8」をご覧ください)。

(注12)エイミーは、編集長の命により、スポーツ外科医のアーロンビル・ヘイダー)と会って記事を書くことになり、すぐにベッドをともにすることになるものの、様々の紆余曲折があって距離をおいていたところ、エイミーは、バスケットボールのコートで、チアダンサー(ニックス・シティ・ダンサーズ)に混じって踊り、その後でトランポリンを使ってダンクシュートを試みます。ですが、失敗してマットに沈みます。そこにアーロンが駆け寄って、………。





★★★☆☆☆



象のロケット:エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方

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ラ・ラ・ランド

2017年03月12日 | 洋画(17年)
 『ラ・ラ・ランド』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)米国アカデミー賞の様々な部門でノミネートされている作品ということで、映画館に行きました(実際には、大本命視されていた作品賞からは外れてしまいましたが)。

 本作(注1)の冒頭では、ロサンゼルスのハイウェイの光景。ものすごい渋滞で、たくさんの車が停まっています。
 としたところ、車を運転していた人たちが次々と車から飛び出して、歌「Another Day of Sun」(注2)を歌い、踊りまくります。
 そしてタイトルが流れて、「冬」の字幕。

 車の中のミアエマ・ストーン)は、オーディションのためにセリフを覚えていて、前の車が動いたのに気が付かず、停車したままです。
 その後ろの車の中にいたセバスチャンライアン・ゴズリング)は、クラクションを鳴らして注意を喚起しますが、ミアの車が一向に動かないので、その車の脇に出て追い越します。
 その際2人は、チラッとながら顔を見合わせます。

 場面は変わって、映画スタジオ内のコーヒショップ。
 バリスタのミアが働いています。
 そこへ、オーディションが行われるとの知らせが携帯に入ります。
 ミアは「大変」と言って、上司に断りを入れ店を出ていこうとしますが、コーヒーを手にした男にぶつかって、服にコーヒーがかかってしまいます。

 ミアは、オーディションでは、電話がかかってきて「おめでとう!私も嬉しいわ」といったセリフを言うのですが、ほんのチョットやっただけで、審査員に「もう結構よ」と言われてしまいます。



 服が汚れてしまった挙句、オーディションもうまくいかないミアは、自分の部屋に戻ってベッドに倒れ込みます。
 ですが、同じアパートで同じ志を持ちながら一緒に暮らしている女3人に強く誘われ、ミアも仲間に加わって、パーティーに出向きます。ここらあたりでは、ミアを含めた4人が歌「Someone In The Crowd 」(注3)を歌い、そして踊ります。



 パーティーの帰り道でジャズバーにふらりと入り込んだミアは、ピアノを演奏するセバスチャンに遭遇しますが(注4)、さあこの後物語はどのように展開するのでしょうか、………?



 本作の舞台は、ロスアンジェルス。女優になる夢を持ってオーディションを次々と受ける女と、自分の店を持って好きなだけ演奏する夢を持っているジャズ・ピアニストの男が、ふとしたことから愛し合うようになって、それぞれの夢を追いかけるというお話。なんだか、最近見た『ブルーに生まれついて』と同じような設定ながら、そこはミュージカル・エンターテインメントの本作。スクリーンでは、次から次へと歌や踊りが披露され、楽しい気分になること請け合いです。

(2)本作はミュージカル作品ですから、上記(1)で触れた2曲の他にも、様々の楽しい曲が流れます。アカデミー賞の主題歌賞を獲得した「City of Stars」(注5)も、なかなか印象的な歌と言えます。



 そうした音楽を云々するには、クマネズミは、あまりにも貧弱な知識しか持ち合わせていないので専門家に任せることとし、ここでは、本作のストーリーに目を向けることにいたしましょう。

 本作のストーリーは、最近見た『ブルーに生まれついて』に随分と似ているように思いました(注6)。
 同作では、ジャズ・トランペットを演奏するチェット・ベイカーイーサン・ホーク)が主人公で、その恋人のジェーンカルメン・イジョゴ)とのラブストーリーが描かれています(注7)。
 確かに、同作で描かれているチェット・ベイカーは、本作のジャズ・ピアニストのセバスチャンとは違って、ジャズ・トランペット奏者であり、すでに一定の人気を得てもいます。
ですが、ドラッグをやり、なおかつそれが原因で前歯を折られて演奏ができなくなった窮地からなんとか這い上がろうとして色々努力をしています。そんなところは、自分の演奏したいジャズが弾ける場所を確保しようと努めているセバスチャンと似ているように思います。
 また、ジェーンは、本作のミア同様、女優の地位を確保しようと様々のオーディションに挑戦しています。
 そんな2人ですが、チェットが再起をかけてオクラホマからニューヨークに行こうとし、ジェーンに一緒に来るよう頼みますが、ジェーンの方は、自分にも重要なオーディションがあるからと言って拒みます(注8)。
 こんなところは、本作で、セバスチャンとミアが、互いに愛していると言いながらもそれぞれの道を歩むことにするのと軌を一にしているようです(注9)。

 とはいえ、違っている点も色々あるようです。
 例えば、本作のセバスチャンが夢として描いているのは、自分の好むスタイルのジャズ(注10)が演奏できる場所を確保することでしょう。
 それは、自己の表現として創造的にトランペットを演奏するチェットとは、姿勢が違っているように思えます。
 セバスチャンの思うところを達成するには、何も他人に聴かせずとも、趣味として、自分独りで好きなようにピアノを演奏しても、ある意味十分なのではないでしょうか?だからこそ、セバスチャンは、自分の好む音楽とは異なる楽曲を演奏するキースジョン・レジェンド)のバンドに入って、演奏もしてしまうのでは、と思えます。

 それはさておき、ミアとセバスチャンの2人は、はっきりと別れたわけではなく、互いに相手を愛している状態ながら(注11)、生活の場だけが離れてしまったわけで(注12)、にもかかわらず、ミアは、パリで撮影した映画が当たって人気女優になると、セバスチャンには何も連絡せずに、別の男と結婚してしまうのです。
 セバスチャンが、事業に失敗して行方不明にでもなったというのであればともかく、一応自分の店を持って、自分の好きなジャズ・ピアノの演奏もしているのですから、ミアの方でそうする意志があれば、すぐに連絡が取れたのではないでしょうか(注13)?
 でも、そうしなかったわけですから、別れる際にミアの言った「ずっと愛している」との言葉、そして本作のラブストーリーそのものは、酷く底が浅い、ということになるかもしれません。

 とはいえ、ミュージカルのストーリーにイチャモンを付けるなど、野暮の極みでしょう。
 それに、遠距離恋愛が成就することは、一般的にはなかなか難しいでしょうから(注14)、なにもミアとセバスチャンの2人に求めることもありますまい。
 加えて、ミアとセバスチャンは、遠くからですが、別れ際に目が合うと微笑みを交わし合うのですし(注15)。
 そうだとしたら、本作の終わり方は、むしろ大層オシャレなものといえるかもしれません。

 そんな埒もないことをアレコレ考えながら、クマネズミは、本作の歌と踊りの楽しさに身を委ねることができました。

(3)渡まち子氏は、「主演のエマ・ストーンとライアン・ゴズリングの見事な演技と、歌と踊りにも魅了される。懐かしいのに新しい、新たなミュージカル映画の傑作の誕生だ」として95点を付けています。
 前田有一氏は、「ミュージカルならなんでも大好き、な人でもなければ、おそらく冒頭の高速道路ダンスと、ラストのそれ以外は少々退屈な時間を過ごすことになるだろう」として55点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「これはかなりの映画オタクに違いないチャゼル監督のミュージカル映画への愛着と、豊富な知識が懐かしさを呼ぶ斬新なミュージカル映画。そして最後の15分間で観る者に語る。どんなに現実は厳しくてもミュージカルの描く世界には夢がある、と。だからミュージカル映画は素晴らしい。愛さずにはいられないのだ」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「テレビをつければトランプ大統領が顔を出すというこの時代、人間らしい気持ちを保とうとすれば現実から目を背けるほかには方法がないじゃありませんか。「ラ・ラ・ランド」は、まさにトランプ時代を生きるために欠くことのできない、貴重な現実逃避。さあ、あなたも逃げてください」と述べています。
 立川志らく氏は、「薄っぺらな内容ではあるがこの2人があまりに魅力的だからこれだけでもラブストーリーとして成立している。そこにMGMミュージカルのオマージュが入り、ダンスは神業ではないが2人が往年のスターに見える演出だから文句なしの傑作と相成ったわけである。必見!」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『セッション』のディミアン・チャゼル
 原題は「LA LA LAND」。
この記事によれば、「この映画のタイトルはロサンゼルスと「現実から遊離した精神状態」を意味する」とのこと。あるいは、この記事

 なお、出演者の内、最近では、ライアン・ゴズリングは『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、エマ・ストーンは『教授のおかしな妄想殺人』、J.K.シモンズは『ザ・コンサルタント』で、それぞれ見ました。

(注2)歌詞とその日本語訳は、例えばこちら。歌が聴けるのはこちら

(注3)歌詞とその日本語訳は、例えばこちら。歌が聴けるのはこちら
 なお、女3人のうちケイトリンに扮しているのは、ソノヤ・ミズノ

(注4)ミアは、その店から流れてくるピアノの音色に誘われて中に入ります。ただ、ピアノを演奏しているセバスチャンは、指示されたとおりに演奏しないとして、その店の支配人・ビルJ.K.シモンズ)によって解雇されてしまいます。

(注5)歌詞とその日本語訳は、例えばこちら。歌が聴けるのはこちら

(注6)なお、ミアがアルバイトをする映画スタジオ内のコーヒーショップの前にある建物の窓は、映画『カサブランカ』で実際に使われた窓であることを、ミアがセバスチャンに説明しますが、クマネズミは、これもごく最近見た『マリアンヌ』を思い出しました(その映画の前半の舞台がカサブランカなのです)。

(注7)『ブルーに生まれついて』についての拙エントリの(2)でも申し上げましたが、主人公のチェット・ベイカーは実在の人物だとしても、同作に登場するジェーンは実在の女性ではなく、同作全体はむしろフィクションの劇映画と見た方が良いのではと、クマネズミは考えています。

(注8)『ブルーに生まれついて』では、実際にはジェーンは、チェットが演奏するニューヨークの会場に現れます。ですが、チェットが歌う歌を聴いて、ジェーンはチェットの気持ちを理解し、チェットからもらったネックレスをその場にいた友人に渡し、会場から立ち去ってしまいます(同作についての拙エントリの「注9」を御覧ください)。

(注9)本作のラストの方で、ミアは、パリで撮影が行われる映画のオーディションで好感触をつかみ、セバスチャンも「きっと(オーディションに)受かる。勘でわかる」と言います。そうなると、2人は別れ別れになってしまいますが、セバスチャンは「受かったら没頭しろ。俺も自分の道を進む」「後は様子を見よう」と言います。そして、ミアが「ずっと愛している」と、セバスチャンも「僕も愛している」と言うのですが、………。

(注10)セバスチャンは、モダン・ジャズの初期の頃のビ・バップを特に好んでいるようです。
 例えば、家でピアノを練習しているシーンがありますが、その際は、セロニアス・モンクの「荒城の月」(「Japanese Folk Song (Kojo No Tsuki)」:音はこちらで)の音楽を聴きながら、それを真似しようとしています。

(注11)セバスチャンが、キースのバンドに入って演奏しているのを見たミアが、「あの音楽が好きなの?」「自分の音楽を弾くために店を持つのじゃなかったの?」と詰って喧嘩になったり、自分の一人芝居が不評だったことに落胆してミアが実家に引っ込んでしまったりと、2人の仲は決して順調ではありませんでしたが。

(注12)と言っても、ミアは、映画撮影のためパリに行くとはいえ、1年も2年もかけて撮影するわけではなく、せいぜい2、3ヵ月でしょう。パリで撮影した映画が当たったと言うのですから、ミアは、すぐにハリウッドに戻ってきて、次の作品の撮影に入ったのではないでしょうか?
〔追記:この点については、下記コメント欄の「KGR」さんからのコメントをご覧ください〕

(注13)セバスチャンにしても、ロスに残っていて、ミアが人気女優になったことがわかったはずです。彼の方から、どうして連絡を取らなかったのでしょうか?
 あるいは、セバスチャンは、ミアの足を引っ張ることはしないように連絡を控えたのかもしれません。
 とはいえ、ミアはセバスチャンに連絡しても良いのではないでしょうか?

(注14)と言っても、上記「注12」で申し上げたように、「遠距離恋愛」とするのは大仰すぎますが。

(注15)実際には、自分の店でセバスチャンが「City of Star」を演奏し出すと、本作は突然ファンタジーの世界となります。セバスチャンは、ミアと一緒にパリに行き、そこでジャズ・ピアノを弾くだけでなく、ミアと結婚して子供まででき、幸せな生活を送るのです。
 これは、あるいは、「City of Star」の演奏中にセバスチャンが抱いた妄想なのかもしれません。
 そうではなくて、もしかしたら、ありえたかもしれない未来を、もう一つの宇宙として監督が描き出したのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:ラ・ラ・ランド

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海は燃えている イタリア最南端の小さな島

2017年03月07日 | 洋画(17年)
 イタリアの長編ドキュメンタリー作品の『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』を渋谷ル・シネマで見てきました。

(1)本作が、ベルリン国際映画祭の金熊賞(グランプリ)を獲得し米国アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた作品と聞いて、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「ランペドゥーサ島、面積は20平方キロ。この20年間で約40万人の移住者(注2)が上陸。海峡で溺死した移住者の数は1万5千人と推定」との字幕。

 次いで、樹木の上の方を見上げている少年サムエレ(12歳)が映し出されます。
 樹木から張り出ている大きな枝に登って、細い枝を折り取り、ナイフで処理をします。
 下では犬が吠えるので、サムエレは「どうした、ディック?」と声をかけます。
 サムエレは、その木を降りて、今度は大きな岩の上に腹ばいになって、何本もの枝を処理して袋の中に入れます(注3)。

 さらに画面は切り替わって、屋根にレーダーが設けられている建物の中。
 海上の船と、救護所との無線の交信。
 「何人乗っているんだ?」
 「250人、助けてくれ」。
 「現在位置をどうぞ」。
 「助けてくれ、頼む」。

 夜間、海上を照らし出すサーチライト。
 回転するレーダーを積載する艦船が進んでいきます。

 ラジオの音楽を流すスタジオでは、DJのピッポ(注4)が、かけた曲に合わせて歌ったりしています(注5)。

 マリアおばさんの家のキッチン。



 ラジオから同じ曲が流れます。
 音楽のみならず、「島の沖合で船が沈没」「34人の遺体を発見」「明日、停電があります」といったニュースも流れます。

 これが本作のごく始めの方ですが、さあ、これからどんな映像が映し出されるのでしょうか、………?

 本作は、アフリカ大陸に最も近いイタリア最南端のランペドゥーサ島の現在を映し出すドキュメンタリー作品。一方で、その小さな島で営まれる住民たちの日常生活がどこまでも淡々と描かれ、他方で、難民・移民が味わうとんでもない悲劇が映し出されます。本作では、その2つは、決して交わることがありません。ですが、そうだからこそ返って、世界が現在抱える難民・移民問題の深刻さがよく分かる感じがしてきます。

(2)本作で印象的なのは、何と言っても、サムエレ少年の姿です。
 この島にやってくる大勢の移住者の姿は彼の目にまったく止まらず、一方で、友達とパチンコをして遊んだり、家で学校の宿題(注6)をやるかと思えば、他方で、大きくなって漁師になるべく、おじさんの漁船に乗ったりもします(注7)。



 さらには、島の医師のピエトロ・バルトロ(注8)は、もっぱら住民の診察をするのですが、他方で移住者の健康状態を調べたりもするので、その話は、とても興味深いものがあります(注9)。

 加えて、移住民が乗ってきた船の船倉に折り重なって横たわるいくつもの死体とか、救助される移住者の疲弊しきった姿はとても衝撃的ですが、それだけでなく、難民センターで、早速サッカーに興じもする若い移住者の姿は(注10)、心に残ります。
 また、難民センターに入れられた一人の難民の男が、自分たちが味わった苦難を歌にして歌っている場面にはショックを受けます(注11)。

 本作では、たくさんの移住民の存在は、島民の生活とは全く関係がないように描き出されています。とはいえ、少なくとも医師のピエトロ・バルトロは完全に巻き込まれていますし、サムエレ少年も“不安症気味”になったりして、間接的な影響を受けているのでしょう。

 日本は、こうした世界とは全く無関係のように見えるものの(注12)、移住民と先進国との距離は単なる程度問題であって、日本にしてもサムエレ少年のように、気づかないところでじわじわと何かしらの影響を受けているかもしれない、と思ったところです(注13)。

(3)渡まち子氏は、「淡々と現実を映しながら、その映像は、原初的な力強さを持つ島の自然や、慎ましい島民の暮らし、悲劇と憔悴の中でも生命力を失わない難民たちの表情を、美しくポエティックにとらえている」として80点を付けています。
 藤原帰一氏は、「こたえました。沈みかけたボートに凄まじい数の人間が乗っている映像と、平穏な村の暮らしが並べられることで、暴力が異常事態ではなくありふれた日常となった空間が見えてくる。そこがこたえるんです」と述べています。
 秋山登氏は、「ロージ(監督)の語り口は至って静かだ。説明は一切しない。彼の撮影する映像は実に美しい。海、空、森、光と影……。美しさがかえって悲劇を際立たせる。私たちは、命というもの、人生、運命に思いを巡らせ、喫緊の事態の重さを考えずにいられない」
 大場正明氏は、「ロージ(監督)は、ランペドゥーサ島という閉ざされた非常に小さな世界から、実に見事に普遍的な物語を引き出している」と述べています。



(注1)監督はジャンフランコ・ロージ
 原題は「FUOCOAMMARE」(Fire at Sea:由来については、公式サイトをご覧ください)。

(注2)政治的難民ばかりでなく経済的移民も混じっているでしょう(migrantと称すべきでしょうか)。

(注3)実はあとで、その枝を使って、友達とパチンコを作るのです。

(注4)PippoはGiuseppe FragapaneというMJの愛称のようです(ちなみに、彼の画像はこちら)。

(注5)MJのピッポは、リクエストにより、「FUOCOAMMARE(Fire at Sea)」をかけたり、さらには、ロッシーニのオペラ「Moses in Egypt」(解説はこちら)の第3幕からの曲〔「Dal tuo stellato soglio(汝の星をちりばめた王座)」〕が流れたりします。
 監督に言わせれば、これらの曲の選定にはそれなりの意味があるのでしょうが、本作で描かれている事実自体が見る者を圧倒しますから、そんな詮索はあまり意味があるようには思えません。

(注6)「コロンブス・デー」に関する雑誌の記事を読み上げます。

(注7)サムエレ少年は、イカ漁についていったのはいいのですが、海が荒れたために酔っ払って吐いてしまいます。あとで食事中に、おじさんに「船に酔って吐いた。おじさんはそういうことはないの?」と尋ねると、おじさんは「吐きはしないが、船には酔う」「海が荒れている時に、港の浮き桟橋で慣らすと良い」「パチンコなどで遊ばないで、桟橋で胃を鍛えろ」とアドバイスします。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で、ジャフランコ・ロージ監督は、ピエトロ・バルトロ医師について、「彼はこの島でただ一人の医師であり、この20年間、救助された移民・難民の上陸にすべて立ち会ってきた人物」であり、「上陸した移民・難民のうち、病院に行くもの、難民センターに行くもの、死亡したものを府営分けるのは彼」と述べています。

(注9)医師のピエトロ・バルトロは、一方で、サムエレ少年の良き相談相手となっています。
 サムエレ少年の左目が弱視であることがわかると、「良い方の右目を隠して、怠けていた左目に仕事をさせる必要がある」と言って、矯正メガネをかけるように少年にアドバイスします。



 また、「息が苦しくなることがある」と少年が言ってくると、医師は「不安症気味だな。緊張する点が問題だ。とりあえず、心臓の検査をするために心電図をとってみよう」と言ったりします。

 ピエトロ・バルトロは、他方で、移住民の妊婦の子宮を超音波検査で調べて、双子の胎児の手足が絡まっていることを見つけたり、また、PCのモニターに映し出される移住民たちの乗った船を見ながら、「この船には800人乗っていた」、「運賃は、デッキが1500ドル、中段は1000ドル、船倉は800ドル」、「状況は酷く、水も食料もない」、「約60人を緊急治療室に運んだ」、「一番イヤな仕事は死体の検分」、「たくさんの死体を見ているから慣れたろうと言われるが、とんでもない」、「彼らを袋に入れて運んでから棺に入れる」、「記録するために死体の一部を切り取る」、「彼らは死んでからも陵辱を受けるのだ」、「でも、これらは医師の務めなのだ」などと話したりします。

(注10)国別にチームが作られますが、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、エリトリアといった国名を耳にすると、随分たくさんの国から来ているのだなと驚きます。

(注11)歌われた歌のごく大雑把な概要は、以下の通り。
 “ナイジェリアから逃げた サハラに逃げた 大勢死んだ 今度はリビアに逃げた そこにもいられなかった 山は匿ってくれない 人も匿ってくれない だから海に逃げた そこでも大勢が死んだ ボートにいたのは90人 生き残ったのは30人 海は人が通る道じゃない 大勢が死んだ 自分の小便を飲んだ アフリカ人だから誰も助けてくれない 大勢が牢屋で死んだ リビアの監獄は酷かった それでも海に逃げた俺達はこうして生き残った”



(注12)公式サイトの「about the movie」によれば、「島の人口約5500人に対して、今は年間5万人を超える難民・移民がランペドゥーサ島へやってきている」とのこと。
 これに対し、この法務省資料によれば、日本の2015年における難民認定者数は、「難民認定申請者数7586人」に対して27人で、前年に比べ16人増加(人道上の配慮を理由に我が国での在留を認めた者が79人であり、これらを合わせると106人)。

(注13)ただ、弱視が治ってきて物事がよく見えるようになったサムエレ少年が“不安症気味”になったのを比喩的に捉えたり、本作の冒頭で救護所の方から無線で「現在位置をどうぞ」と尋ねるのが、観客に対する問いかけでもあると言ってみたりするのは(実は、劇場用パンフレット掲載の「レポート」によれば、ジャンフランコ・ロージ監督自身がそのように言っているのですが)、クマネズミは余り好みません。



★★★★☆☆



象のロケット:海は燃えている イタリア最南端の小さな島

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雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

2017年03月03日 | 洋画(17年)
 『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』を、渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編で見て良さそうに思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ピアノの音(注2)が車内に流れる中、運転する妻・ジュリアヘザー・リンド)がその曲を口ずさみ、夫・デイヴィスジェイク・ギレンホール)は携帯電話で話しています。
 ジュリアがデイヴィスに、「冷蔵庫を見てくれる?2週間前から水漏れなの」と頼むと、デイヴィスは「知らなかった」と応じ、さらにジュリアは「直してよ、お父さんがくれた工具で」と言うと、デイヴィスは「そんなのあったっけ?」との返事。
 さらにジュリアが、「2年前のクリスマスの時」「自分の問題じゃない、というの?」とデイヴィスの顔を見て言うと、デイヴィスは、顔を恐怖で引きつらせて「うわぁー」と叫びます。
 なんと、車が運転席に突っ込んできたのです。

 「デイヴィス」との声がして、病院の椅子でデイヴィスは目を覚まします。
 義父のフィルクルス・クーパー)が「ジュリアが死んだ」とデイヴィスに告げます。
 デイヴィスは、何もない手術台の方を見て、廊下に設けられている給水器で水を飲んでから、自動販売機でチョコレート菓子を買おうとします。
 ですが、コインを入れたにもかかわらず、チョコレート菓子が出てこないので、近くにいた病院の事務員に「チョコが出てこないんだけど」と言うと、その事務員は「それは業者が管理しているから、業者に言ってくれ」との返事。

 家の留守電に、デイヴィスの両親からの伝言が入っています。
 「電話をかけたけど、全然出ないじゃない」云々。

 家でデイヴィスは、一人で食事をし、一人でTVを見て、一人で寝ます。
 それから、ジュリアの葬儀が執り行われますが、デイヴィスは涙が出ないようです。

 デイヴィスは、病院の自動販売機で菓子が出なかったことについて、それを管理する業者のチャンピオン社に苦情の手紙を書き出します。
 「聖アンドレ病院の自動販売機714番で、M&M’sのチョコレートキャンディが出てこなかった」、「空腹だったので頭にきた」、「状況を精確に伝えたいだけ」云々。

 次の朝、デイヴィスは、何事もなかったかのように、いつものように朝7時15分の通勤電車に乗って会社に出勤するのですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?



 本作は、交通事故で妻を突然失ってしまった夫をめぐるお話。邦画の『永い言い訳』と同じシチュエーションながら、日本とアメリカとの風土の違い、夫の職業の違いなどから、随分と違った展開となります。特に本作では、原題の「demolition(解体)」に随分と重きが置かれて描かれていますが、主人公の立ち直りに子供の翌割が大きい点などは共通しているといえるでしょう。主人公を演じるジェイク・ギレンホールの演技の上手さに感心しました。

(2)本作を見ると、かなりの人が『永い言い訳』を思い起こすようです(以下は、屋上屋を重ねることになるかもしれませんが、悪しからず)。
 確かに、同作でも本作と同じように、映画が始まるとすぐに、主人公の小説家・幸夫本木雅弘)の妻・夏子深津絵里)が、乗っていたスキーバスの事故で亡くなってしまいます。
 また、幸夫は編集者の福永黒木華)と浮気をしているなど、普段から気持ちが離れていたのか、夏子が死んだことを知らされても、本作のデイヴィス(注3)と同様に、悲しみの表情を浮かべません。
 さらには、同作では、幸夫は、夏子の親友で一緒に亡くなった女(堀内敬子)の夫・陽一竹原ピストル)とかその子どもたちと接するうちに、夏子に対する気持ちを取り戻していきますが、これは、本作において、デイヴィスが、ふとしたきっかけ(注4)で知り合ったカレンナオミ・ワッツ)やその息子・クリスジューダ・ルイス)とコンタクトを持つうちに、死んだジュリアに対する気持ちが蘇ってくるのに似ていると言えそうです(注5)。



 ただ、大きく異なるのが、本作の原題「demolition」が指しているデイヴィスの破壊行動でしょう。
 その際に拠り所となったのが、義父のフィルの「何かを直す時は、まず分解しろ。そして、隅々まで点検する。それから、“組み立て直す”」という言葉でした。
 妻が亡くなると、まずデイヴィスは、通勤電車に乗っている時に、突然緊急ブレーキのレバーを引いて電車を停車させます(注6)。
 それから、ジュリアが水漏れを直してくれと言っていた冷蔵庫を、めちゃめちゃに分解してしまいます(注7)。
 また、会社の彼の個室に置かれているデスクトップのPCなどを壊してしまいます(注8)。
 さらには、住宅を取り壊している労働者のところに行って、手伝ったりもしますし(注9)、はては、自分の家も破壊しだします。



 こうした破壊衝動は、『永い言い訳』の幸夫には全く見られません。
 これは、幸夫が小説家であって、心の中に溜め込んでいるものを、普段から小説を書くことで吐き出しているからかもしれません。
 他方で、デイヴィスは、金融業という虚業に従事していて、大きな金額のお金を簡単に操作してしまうこと(注10)から生じるストレスが心の中に溜まりやすく、妻の死という大きな出来事に遭遇すると、水を堰き止めていたダムが決壊するように、何かに向けて吐き出さずにはおられない心境になリ、それが破壊衝動を呼び覚ましたのかもしれません。

 さらに言えば、日本のように、木造住宅が多かったり、様々な機械器具にしても小型のものばかりだったりするところでは、デイヴィスのような破壊衝動を向ける適当な物体があまり見当たらないということも、行動の違いに現れているのかもしれません。

 加えて、『永い言い訳』との違いをもっと言えば、同作でも陽一の子供の役割は少なくないものがあるとはいえ、本作におけるクリスほどではないように思います。
 クリスは、陽一の真面目な子供らと違って、問題児なのです(注11)。
 ですが、クリスは、デイヴィスの偽りのない姿勢を見て、心を許すようになり(注12)、また、デイヴィスもそんなクリスを見て、心が次第に立ち直ってくるようです。

 そして、本作もラストに向かって進行するわけですが、確かにラストのシーンでは、解体寸前だったメリーゴーランドを前向きに使うわけですから、まさに、破壊した後の“組み立て直し”に相当するでしょう。
 でも、これまでデイヴィスがさんざん壊してきた物の“組み立て直し”の場面は、本作では、殆ど描かれてはいないと思われますし、最後の最後のシーンは、まさに破壊そのものではないでしょうか?
 出来上がっているものを壊すということは、ある意味で容易なことではないかと思います。困難なのは、その後の“組み立て直す”ことです。
 本作は、その方向性に沿って物語が展開してはいるとはいえ、イマイチ弱いのではないかという感じがしました(注13)。

(3)渡まち子氏は、「「ナイトクローラー」以降、狂気をはらんだ人物を演じて抜群の上手さを見せるジェイク・ギレンホールが、本作でも、ひたすらモノを“ぶっ壊す”ことで、同時に自分の心を一度壊して再構築する現代人を怪演している」として65点を付けています。
 前田有一氏は、本作は「その長ったらしい邦題同様、よくまあこんなわけのわからない話をこれほど面白い映画にしたものだと感心させられる佳作である」として75点を付けています。
 金原由佳氏は、「今回はオリジナル脚本で、ヴァレ(監督)の演出にも遊びの要素が多い。カレンの息子が1960、70年代の米英の渋いガレージバンドに精通する設定で、そのリズムにうまく乗れれば、過激な喪の作業もすんなりと受け入れられるだろう」と述べています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「ヴァレ監督の映画では、主人公が突拍子もない行動で周囲とのあつれきを引き起こす。そしてその先に、生きる確かな手応えを獲得する。今作はいささか理が勝ち過ぎたきらいはあるものの、そっと背中を押すような終幕の力加減が心地よい。ギレンホールが難役を好演」と述べています。



(注1)監督は、『ダラス・バイヤーズクラブ』や『わたしに会うまでの1600キロ』のジャン=マルク・ヴァレ
 脚本は、『きみがくれた物語』のブライアン・サイプ

 なお、出演者の内、最近では、ジェイク・ギレンホールは『複製された男』、ナオミ・ワッツは『ヤング・アダルト・ニューヨーク』、クリス・クーパーは『8月の家族たち』で、それぞれ見ました。
〔ジェイク・ギレンホールについては、DVDで『ナイトクローラー』を見ました(この拙エントリの(2)を御覧ください)〕

(注2)本作についての「IMDb」の「Soundtracks」によれば、ルービンシュタインが演奏するショパン「夜想曲」(ノクターンOp. 9: No. 2)。

(注3)デイヴィスは、「ジュリアとは、共通の友人を通して、パーティーで知り合った」、「3時間後にセックスをした」などと妻のことについて語るだけです(なお、義父のフィルともうまくいってはいませんでした)。

(注4)チャンピオン社の顧客担当責任者のカレンが、デイヴィスが書いて送りつけてきた苦情の手紙を読んで、デイヴィスに興味をもったのがきっかけとなります。

(注5)モット言えば、『永い言い訳』の陽一は、学芸員・優子山田真歩)と親しい関係になりますが、本作のカレンも、会社の社長のカールC.J.ウィルソン)と関係を持っています。

(注6)通勤電車でいつも乗り合わせる男(ヤンキースタジアムで働いていると言っていました)が、「仕事は警備員。クソつまらん仕事。上司は30歳も若いやつ」と言うと、デイヴィスは「俺は、金融業。妻を愛していなかった。悲しい話だけど本当だ。彼女が死んでも、つらくもなんともない」と言い、それからレバーを引きます。

(注7)さらには、ジュリアが買った高価なカプチーノマシーンまでも。

(注8)義父のフィルに、「個室トイレのドアの軋みが気になる」とか、「あそこにある時計(120年前の祖父のもの)も分解したい。部品を机の上に並べたい」、「何しろ、中身が見たい」などとデイヴィスは言います。

(注9)デイヴィスは、住宅の解体作業を行っている労働者に、「50ドル、いや有り金の214ドル全部支払うから、手伝わせてくれ」と頼み込み、建物の壁を大きなハンマーで取り壊したりします。
 ただ、デイヴィスの住宅とか自宅の家具などを壊す行動は、時計や冷蔵庫を分解する行動とは異なっているようにも思えます。後者については、部品に分解した後に、再び組み立て直しができますが、前者については、元通りに戻すことは大層難しいでしょう。

(注10)デイヴィスは、自分の勤務先について、「自分は、27歳でコネ採用された」、「小さな会社だが、60億ドルといった大きな金額を動かしている」、「数字だけの世界だ」などと言っています。

(注11)例えば、アフガニスタンにおける米軍駐留のことを学校で言い出して停学処分を受けてしまったり、大音量で音楽を流しながらドラムスを叩いたりするなど。

(注12)クリスが食事中に「fuck」を多用得するのを見咎めたデイヴィスが、「fuckは良い言葉なんだ。でも、使いすぎると価値がなくなるし、馬鹿に見える」と注意すると、その場は聞き流していたクリスは、しばらくして「あれは正しいと思う」とデイヴィスに告げます。

(注13)でも、なまじ“組み立て直し”を描くと、まとまりの良すぎる作品になってしまう恐れがあります。本作がラストのラストシーンを付け加えているのも、手垢まみれのエンディングにならないようにするためではないか、と思われるところです。



★★★★☆☆



象のロケット:雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

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マリアンヌ

2017年02月28日 | 洋画(17年)
 『マリアンヌ』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)前回取り上げた『たかが世界の終わり』に出演しているマリオン・コティヤールが本作にも出演しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、プロペラ機の音がして、原題の「ALLIED」が映し出された後、夕日が沈んだ後に、主人公のマックスブラッド・ピット)が、落下傘で砂漠地帯に降下します。
 そして、「フランス領モロッコ 1942年」の字幕。

 マックスは、落下傘を外し、砂漠の中に設けられた土の道を歩きます。
 手にした双眼鏡で前方を見ると、1台の車がこちらに進んでくるのが見えます。
 念のためにピストルに手を掛けながら車を待つと、その車はマックスの前で回り込んで停まります。
 マックスが後部座席に乗り込むと、車はもと来た方向に走り出します。
 座席に置かれていたトランクを開けると、新しいパスポートや銃、資金が用意されています。
 運転手は、マックスに指輪を渡し、「あんたの“妻”の服装の色は紫で、目印はハチドリ」と告げます。

 カサブランカの市街に入ると、マックスは車を乗り換え、それでクラブに乗り付け、中に入っていきます。
 すぐに“妻”・マリアンヌマリオン・コティヤール)が見つかります。



 マリアンヌは、マックスと顔が合うと笑顔を返し、抱きついてキスをし、そこにいた友人たちに「私の夫のマックス・ヴァタン」と紹介します。
 友人の一人が「どのくらいここに?」と尋ねると、マックスは「6週間」と答えます。
 マックスは「失礼して、妻を連れ帰ります。空白期間を埋めないといけませんので」と言って、マリアンヌを連れてクラブを出ていきます。

 車の中で。
 マックスが「上出来だ」と言うと、マリアンヌは「あなもよ」と応じます。
 さらにマックスが「君の活躍は聞いている。パリ支局がやられたとか?」と尋ねると、マリアンヌは「今度の任務に関係しないことは話さない」と答えます。

 こうして2人はホテルに入って、外見上は夫婦を演じながら、その実は諜報活動をすることになりますが、さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作は、第2次大戦中に活躍したイギリス人とフランス人のスパイをめぐるラブストーリーです。ストーリー上の難点はいくつもありますが、ブラピとコティヤールという美男と美女の恋愛物語ということで大目に見れば、なかなかきれいな映像の連続なので、楽しんで見ることができるでしょう。いうまでもなく、こうした作品に反戦を読み取る必要性など、ありはしないでしょう(注2)。戦争が悲劇を生みますが、戦争がなければ本作の美男と美女は出会うこともなかったでしょうから。

(2)本作の劇場用パンフレットの「Production Notes」では、本作の物語が“実話”にもとづいているかのような解説がなされています(注3)。
 仮にそうだとしても、本作が依拠しているのはごくごく大雑把な枠組みだけであり、個別のエピソードはどれもフィクションではないかと思われます。
 というのも、例えば、最初の方でマックスとマリアンヌは、駐モロッコのドイツ大使らを殺害しますが、なぜわざわざそんなことをするのかよくわかりません(注4)。それも、大使館で開催されたパーティーという衆人環視の中で実行するとは、諜報活動をする者の仕業とも思えないところです(注5)。
 その後のストーリーにも、腑に落ちないところがいくつも見受けられます(注6)。

 でも、本作は、スパイが活躍するアクション物というよりは、公式サイトの「Introduction」が強調するように、「マックスとマリアンヌが繰り広げる切ないラブストーリー」「「感涙」のラブストーリー」なのでしょう(注7)。



 そう思ってみると、ドイツ大使殺害シーンにしても、マックスを演じるブラッド・ピットもマリアンヌに扮するマリオン・コティヤールにしても、大使主宰のパーティーに出席しているために2人が正装しているせいでもありますが、最初から最後まで実にきれいに撮れています。
 また、砂嵐の砂漠に置かれた車の中で2人が結ばれるまでの様々なやりとりも、二人の様子を覗き見する関係者を欺くためでしょうが、なかなか面白いものがあります(注8)。
 それに、そうした場面の背景として描かれるカサブランカの街について、本作を制作したゼメキス監督は、随分と意欲的に美しく描いているのですから(注9)。

 本作の後半になっても、印象的な場面がかなりあります。
 例えば、ドイツ空軍によるロンドン空襲の最中に、マリアンヌが病院の外で出産をする場面とか、撃ち落とされたドイツ空軍の爆撃機がマックスらの暮らすロンドンの住宅の直ぐ側に落下するシーンなど、なかなか見応えがあります。

 こんなところから、ブラッド・ピットもマリオン・コティヤールも、本作の役柄からすると歳を取りすぎているとする評論家(注10)がいるとはいえ、クマネズミの目には、さすがの美男・美女の取り合わせだなと思え、ストーリーの難点に目をつぶれば、楽しく見ることのできる作品なのではと思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「(ブラッド・ピットは)本作では、戦争が恋を生み、同じ戦争が愛を奪おうとする物語をダンディーかつセクシーに演じて存在感を示している」し、「国際的に活躍するオスカー女優のコティヤールの知的な美しさもまた絶品」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「「マリアンヌ」は決して長く後に残る映画作品ではないが、ストーリーが疾走しており、週末のディナーのお供ならば十分にその役を果たすだろう」として70点を付けています。



(注1)監督は、『フライト』や『ザ・ウォーク』のロバート・ゼメキス
 脚本は、『マダム・マロリーと魔法のスパイス』のスティーヴン・ナイト
 原題は「ALLIED」(とりあえずは、「枢軸国」に対する「連合国」の意味でしょうが、あるいはマックスとマリアンヌとの関係を暗示しているかもしれません)。

 なお、出演者の内、最近では、ブラッド・ピットは『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、マリオン・コティヤールは『たかが世界の終わり』で、それぞれ見ました。

(注2)本文の(3)で触れる渡まち子氏は、「サスペンス・タッチではあるが、本作は王道のメロドラマ。だがその根底にある反戦のメッセージを見逃してほしくない」と述べています。

(注3)劇場用パンフレットの該当箇所では、「彼(脚本家のスティーヴン・ナイト)は、互いの身分がばれると命の危険があることを承知の上で、恋に落ちた第二次世界大戦時の2人のスパイの話を聞いたという」、「ナイトを魅了した物語は、カナダ人のスパイと元教師のフランス人レジスタンスをめぐるものだった」と述べられています。

(注4)後から英国諜報機関の高官がマックスに話すところによれば、マリアンヌを英国諜報機関側にすんなり受け入れさせるために、危険人物視していた当該ドイツ大使をナチス側が人身御供として差し出したとのこと。
 でも、そうであれば、そしてそのことを英国諜報機関側が予め知っていれば、大使殺害計画など立案しなかったでしょう(大使暗殺を計画するのは、ナチス側ではなく英国側なのです)。
 また、そのことを英国諜報機関側が知らなかったとしても、当該ドイツ大使の存在は、死をもって排除しなければならないほど連合国側に酷いダメージを与えるものでなかったのではないかと推測されます(なにしろ、標的のドイツ大使は、ナチスによって反体制的と目されているくらいの人物なのですから)。

(注5)諜報機関が要人を暗殺するのであれば、今回の金正男暗殺事件のように(?!)、衆人環視の中で実行する場合でさえ、結局、真の犯人が誰であるのか捜査できないような状況にするのではないでしょうか?
 本作の場合は、目撃者を全員撃ち殺したわけではありませんから、すぐに身元がバレてしまうように思えます。
 それに、マリアンヌとマックスが、建物の外での爆発に呼応して、パーティー会場に置かれていた机の下に隠されていた銃器を取り出して乱射するわけながら、2人が全くの無傷で大使館を抜け出し、車に乗って逃走してしまうというのは、今時のアクション映画では見かけないほどの大雑把な描写のように思えます。

(注6)ほんの少し待てば、マリアンヌに対する嫌疑の真偽が判然とするにもかかわらず、どうしてわざわざマックスは、死の危険を犯してまでナチス占領下のフランスに調査に出向くのでしょうか、自分たちが24時間、機関の監視の下に置かれているのが明らかにもかかわらず、なぜ2人は大っぴらに脱出を図ろうとするのでしょうか、などいくつも疑問が湧いてしまいました。

(注7)「D姐(でぃーねえ)」によるこの記事の冒頭では、「昨年、アンジェリーナ・ジョリーとのまさかの離婚劇で一躍お騒がせ対象になってしまったブラッド・ピット。しかも離婚の一因と噂されたのが、共演者である仏女優マリオン・コティヤールとの不倫!とまで囁かれたのを覚えている人も多いと思いますが、その真相は別として、『マリアンヌ』こそがその問題の共演映画」と述べられています(尤も、同記事では「アテクシ的判定、シロ」とされていますが)。

(注8)例えば、マックスがモロッコにやってきた最初の夜、マックスは屋上でブランケットを敷いて寝ることになりますが(これは、任務を上首尾に遂行するために、男女の関係になるべきではないとの考えによっています)、マリアンヌが、最上階の部屋からランプを手にして「最初の夜から妻がソバにいないと疑われる」と呟きながらマックスのもとにやってきて、彼とキスをしたり、彼に「見ている人がいるから、どんどん喋って」と要求したりします。



(注9)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューの中で、ゼメキス監督は、「モロッコの風景については、私は、『カサブランカ』(42)を讃えたいと考えていた。当時のハリウッドでは想像もつかなかったような視覚効果を駆使しているとはいえ、この映画は私たちが古典的名作ですでに知っているカサブランカの街を思い起こさせるものにしたかったんだ」、「今や私たちはVFXでなんでもできる時代にいる。1940年台のヨーロッパや北アフリカの都市を再想像することができたよ」などと述べています。

(注10)本文の(3)で触れる前田有一氏は、「この青臭いストーリーとキャラ設定には、どう考えてもブラピ(63年生まれ)はおっさんすぎるし、マリオン(75年生まれ)はおばちゃんすぎる」と述べています。



★★★☆☆☆



象のロケット:マリアンヌ
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