映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ヒメアノ~ル

2016年06月28日 | 邦画(16年)
 『ヒメアノ~ル』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)吉田恵輔監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、岡田濱田岳)が用具を使ってビルの窓を拭いています。
 すると、先輩の安藤ムロツヨシ)が、「岡村君、ストップ!」と声をかけてきます。
 岡田が「岡田です」と注意すると、安藤は岡田の靴で汚れてしまった床を指差して「余計な仕事を増やすなよ」と言うので、岡田は「すみません」と謝ります。でも安藤が「反省しているように見えない」と怒るので、岡田は「すみません、生まれつきこういう顔なんで」となおも謝ります。

 休憩時に岡田は安藤に、「趣味は?」とか「彼女は?」と尋ねると、安藤は「何もない」と答えます。さらに岡田が、「自分も何もしていません。毎日、ダラダラしています。もやもやした感じがしないですか?」と訊くと、安藤は「不満のない人なんかいないよ。その不満を動力にして生きている」と答えます。そして、安藤は、「俺は毎日恋をしている!」と言います。

 そして、ファストフード店の場面。
 岡田が「どの子ですか?」と尋ねたのに対し、安藤が「あの子だ」と言うので、岡田はその店員(阿部ユカ佐津川愛美)を見ます。たいそう可愛い子なので、「とうてい無理。動物としてカテゴリーが違う」などと言ってしまいますが、安藤は「動物として希望をなくしたらオシマイだ」と答えます。
 次いで、店の外の椅子に座っている男(森田森田剛)を見て、安藤は「あいつはいつも良からぬ目で彼女を見ている」と言います。
 その男を見た岡田は、「森田君じゃないかな」と言ってその男の元に行って、「森田君、岡田。高1の時同じクラスだった。なんか雰囲気変わったね。この店よく来るの?あそこにいる先輩が、君がよくこの店に来ると言っていたけど」と言うと、森田は「いや、来ないよ」と答えます。

 こうして本作の主要な4人が登場しますが、さあこれから物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、古谷実の漫画作品を実写化したもので、一方で、主人公と職場の先輩と若い女性との関係が描かれ、他方で、主人公の高校時代の同級生のことが別の話として映し出されながら、後半になると一気に主人公らの関係に入り込んできます。この同級生は、高校時代に酷いいじめを受けたことが契機となってサイコキラーになっていて、無闇矢鱈と人を殺していきます。さあ、主人公らはどうなるのでしょうか、…といったところですが、主人公と若い女性との関係がごくごく平凡なレベルで描かれるのに対して、サイコキラーが行う殺人は陰惨極まりないものばかりで、そのギャップの大きさに見る方は圧倒されてしまいます。

(2)吉田恵輔監督の従来の作品では、『なま夏』(2006年)の益雄三島ゆたか)とか、『机のなかみ』(2006年)の馬場あべこうじ)、『純喫茶磯辺』(2008年)の裕次郎宮迫博之)、『さんかく』(2010年)の百瀬高岡蒼甫)といった大層特色のある登場人物が、作品をとても面白くしていました(注2)。
 それが『ばしゃ馬さんとビッグマウス』(2013年)や『麦子さんと』(2013年)では、そういった型破りの登場人物のウエイトが低下してきて(注3)、前作の『銀の匙』(2014年)ではスッカリ影を潜めてしまいました(注4)。
 ところが、本作は、以前の吉田作品の路線に戻るだけではなく(注5)、そこでも見られなかったほど酷く異常な人物を描いているので、見ている方は驚いてしまいます。
 なにしろ、本作に登場する森田はサイコキラーとされ、例えば、何の関係もない家に上がり込んで、その家の妻を殺し、テーブルに置かれていた料理を食べている最中に夫が戻ってくると、その夫を殺し、更には見回りに来た警官までも殺害してしまうのですから酷いものです(注6)。



 それを増幅するのが、岡田や安藤の描き方。



 フリーターで清掃会社の清掃員として、夢も希望もなく、ただ不満を一杯抱えながら、毎日働くだけの生活を送っています。これは、『机のなかみ』のフリーターの馬場とか『さんかく』の百瀬と類似する面があるように思われます。
 本作では、一方で、この2人のどうしようもないダメさが面白く描かれているからこそ、他方で、サイコキラー森田の途轍もなさが浮き彫りになると思います。

 そこで、阿部ユカです。



 本作は、阿部ユカと岡田と安藤の三角関係が描かれています。
 そしてそうした関係は、吉田監督の以前の作品にもよく描かれていました(注7)。
 といっても、以前の作品では男1に対して女2の三角関係が中心的でしたが、本作では変形されて、女1に対して男2になっています。
 さらに、本作の場合、安藤は阿部ユカを強く片思いしているだけで、実際の関係を持つには至りません。
 ただ、そういう存在としては、もう一人森田がいるでしょう。最後を除いては彼女と関係を持つに至りませんが(注8)、彼は阿部ユカにしつこくつきまとうのですから。

 そういう彼らを差し置いて阿部ユカは、特段その気がなかった岡田を自分の方に顔を向けさせ(注9)、一緒に暮らすようになります。可愛子ちゃんにしか見えない阿部ユカですが、実は「10人ちょっと」と寝たことのあるしたたかな女(注10)であることが見えてきます(注11)。
 本作は、サイコキラーとしての森田の描写は圧倒的なものがあるとはいえ、さらに、阿部ユカを巡る男3人についての作品としても見ることができるのではないでしょうか?

 最近の3作では“ハートフル”な傾向が強くてやや残念な感じが否めないところ、本作では、以前の路線を引き継いで更にその上を歩もうとする姿勢が見て取れて、今後の吉田監督の作品が大いに期待されます。

(3)渡まち子氏は、「本作のタイトルが映画のはじめではなく中盤に突然挿入されるのは、日常と非日常の2つの相異なる世界は、実は表裏一体でいつでも混じり合うのだという強烈なメッセージに思えた。暴力や流血が多いので見る人を選ぶ作品だが、一見の価値があるのは間違いない」として70点をつけています。



(注1)監督・脚本は吉田恵輔
 原作は、古谷実著『ヒメアノ~ル』(講談社)(古谷氏の漫画を実写化した作品としては、『ヒミズ』を見ています)。

 なお、公式サイトでは、タイトルについて、「“アノール”とはトカゲの1科である。イグアナ科アノール属に含まれるトカゲの総称。165種ほどがある。(ヒメアノール=ヒメトカゲ)となるが、“ヒメトカゲ”とは体長10cmほどで猛禽類のエサにもなる小型爬虫類。つまり、“ヒメアノ~ル”とは強者の餌となる弱者を意味する」と述べられています。

 また、出演者の内、最近では、濱田岳は『信長協奏曲』、ムロツヨシは『幕が上がる』、駒木根隆介は『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』、佐津川愛美は『グラスホッパー』、山田真歩は『ばしゃ馬さんとビッグマウス』で、それぞれ見ました。

(注2)『机のなかみ』と『純喫茶磯辺』についてはこの拙エントリを、『なま夏』についてはこの拙エントリの「注2」をご覧ください。

(注3)『ばしゃ馬さんとビッグマウス』に登場する天童安田章大)のビッグマウスぶりとか、『麦子さんと』における主人公の母親の彩子余貴美子)の傍若無人ぶりが目に付くくらいです。

(注4)『銀の匙』についての拙エントリの「注5」をご覧ください。

(注5)吉田監督自身が、このインタビュー記事において、「「ばしゃ馬さんとビッグマウス」「麦子さんと」「銀の匙 Silver Spoon」とハートフルな映画が続きましたが、それ以前は割とダークトーンなものを撮っていて、またそっち側をやりたいなって思いました。実録ものをやろうか、とかいろいろ考えた結果、「ヒメアノ~ル」がプロデューサーとの話題に上がって。まさにストライクな作品だったんです」などと述べています。

(注6)原作漫画では、森田がサイコキラーであるのは生まれつきのものであるように描かれているそうですが(原作未読のためわかりません)、本作では、高校時代に受けたひどいいじめに拠るものとされています。それでも、生まれつき持っていたサイコキラーの体質が、激しいいじめによって発現したとみなせるのかもしれませんが。

(注7)この拙エントリの(2)をご覧ください。

(注8)阿部ユカは岡田の家に移り住んで森田の追求を逃れていましたが、遂にそれを知った森田が、岡田の家のキッチンの窓ガラスを割って鍵を開け、阿部ユカの帰りを部屋の中で待ち構えることになります。さあどうなることでしょう、………?

(注9)阿部ユカは、自分から進んで「私の好きな人は岡田さんです」と岡田に対して言います。さらに、「一目惚れというか、タイプなんです」とも付け加えます。

(注10)岡田が阿部ユカに付き合うのを断ろうとしたところ、「バレなければ大丈夫ですよ。こっそり付き合っても、二人が黙っていればバレません。私と付き合ってください」と、阿部ユカの方から積極的に言うのです。

(注11)阿部ユカが岡田をリードして性的行為をしている場面と、森田が、自分を殺しに来た和草駒木根隆介)と久美子山田真歩)を逆に殺してしまう場面とが交互に映し出されるところがあります。これは、あるいは阿部ユカ=森田ということを言おうとしているのでしょうか?森田は、自分と同じものを無意識に感じ取って阿部ユカを付け狙っていたのかもしれません。本作に続編があるとしたら、そこでは猛禽としての阿部ユカの本性が曝露されることのなるのではないでしょうか?
 なお、安藤が岡田に、「運命の人を奪ったら、チェーンソーでバラバラにしちゃう」と言い、なおかつ安藤の部屋にチェーンソーが置かれているのですから、安藤にも森田的な要素が伺えるのかもしれません(森田をサイコキラーとラベリングして片付けても、実は、人は誰しもその要素を多少なりとも持っている、ということでしょうか)。



★★★★☆☆



象のロケット:ヒメアノ~ル
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教授のおかしな妄想殺人

2016年06月24日 | 洋画(16年)
 『教授のおかしな妄想殺人』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)ウディ・アレン監督の最新作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公のエイブ(哲学科の教授:ホアキン・フェニックス)が車を運転しています。その内心の声が、「カントいわく、理性では片付かず、答えの得られない問題がある」云々と語ります(注2)。
 車は赴任先の大学に到着し、エイブは学部長に会い、彼女から「長旅だったのね。あなたの活躍を期待している」と激励され、その秘書によって教官用の家に案内されます。でも、その家でエイブがまずしたことはアルコール(シングルモルト)を飲むこと。

 それからエイブの歓迎会が開かれ、出席者の一人から「あなたの状況倫理に関する論文は良かった」などと言われ、またそこで科学科教授のリタパーカー・ポージー)とも出会います。



 次の場面では、教室で、エイブがカントの倫理学について、「カントは、“嘘をついてはならない”という道徳律を守るためには、“刺客に隠れ家を訊かれたら教えなくてはならない”と言っている。だが、アンネ・フランクを匿っている家にナチスがやってきて“ユダヤ人がいるか?”と訊かれたら、“Yes”と答えるべきなのだろうか?」などと話しています。

 その後も授業を続けるエイブですが、ある時、学生のジルエマ・ストーン)を呼び出して、「君のレポートは、思考が新鮮で、また構成も良い」と褒めると、ジルは「偶然性に関する先生の考えに刺激を受けた」、「先生の著書中の難解な部分を説明してください」などと返事をします。



 こうしてジルはエイブと出会いますが、さあ、これから二人の関係はどうなるのでしょうか、リタも絡んでくるのでしょうか、………?

 本作は、殺人事件を巡る実に他愛ない小話といった感じの作品ながらも、『her 世界でひとつの彼女』などで活躍しているホアキン・フェニックスが大学の哲学科教授となり、『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』で主人公の娘役を好演したエマ・ストーンがその教え子になるというたいそう魅力的なキャストで見る者を惹きつけます。加えて、カントとかフッサールなどが台詞で飛び出し、またバッハの無伴奏チェロ・ソナタまで流れるのですから、随分と楽しんで見ることが出来ました。

(2)とはいえ、本作には、“irrational”と思えるストーリー展開が散見されます。
 例えば、科学科の教授のリタは、夫を持ちながらも、エイブを見た途端にメロメロになってしまいますし、教え子のジルも、提出したレポートを評価してくれただけで、ボーイフレンドのロイジェイミー・ブラックリー)を差し置いてエイブに走ってしまうのです。ですが、哲学研究者としていくら名が通っているとはいえ、エイブ御本人は中年すぎの男なのですから、このモテ男振りには驚きます。

 また、エイブは、レストランの後ろの席での話を盗み聞きしただけで(注3)、そこで話題になっていたスパングラー判事(トム・ケンプ)を亡き者にしようと思い立ってしまうのですから、呆気にとられます。殺人という重罪を犯すのであれば、まずは、関係者らに話をもっとよく聞いてみて、確かなことなのかどうか確かめようとするのではないでしょうか?

 それに、エイブが、判事を殺害したり(注4)、ジルを殺そうとする(注5)際のやり方は、とても杜撰な感じがします。

 しかしながら、本作は、殺人そのもの(注6)を巡るサスペンス作品というよりもむしろ、人殺しをする前後におけるエイブ自身や、彼とその周囲の人たちとの関係の変化といったことが中心的に描かれているのではないかと思えます。
 そうであれば、短い上映時間の中に収めるべくその他のことが省力気味に描かれていても、ある意味で当然なのかもしれません。
 例えば、エイブがリタやジルといい中になるのも、もっと時間の経過の中で描き出すこともできるでしょうし、エイブが完全犯罪に一層配慮した行動を取るように描くことだって可能でしょう。
 ただクマネズミには、ウディ・アレンは、わざとそうした方面はなおざりにして、殺人を犯す前のエイブの落込みよう(注7)とか、殺人を実行した後のはしゃぎよう(注8)といった方面に力点を置き、それにエイブとジルとの関係の変化とか、そこに哲学がどのように関係するのか(注9)といったことを描き出そうとして映画を制作しているのでは、と思えました。
 そして、それらのことは、なかなか興味深く描かれているように感じました。

 加えて、ジルが演奏会やピアノのレッスンでバッハの「前奏曲とフーガ」を弾き、またパーティーでは学生がバッハの無伴奏・チェロ・ソナタ(注10)を演奏したりしますし(注11)、またクマネズミには理解不能ながらも関心のある哲学者の名前がふんだんに台詞の中に飛び出したりするのですから(注12)、なかなか楽しく本作を見ることが出来ました。

(3)金原由佳氏は、「本作では得意の会話劇をあえて寸断し、主人公ふたりの独白を挿入、会話の底に隠れる真意をシニカルに露呈する」とし、「それにしても、老境に入ったアレンの変化が気になる。会話の愉楽を再び撮る日はやってくるだろうか」と述べています。
 渡辺祥子氏は、「(ウディ・アレンが)殺人を得々と自慢する妄想男エイブをどう扱うのか。そこを見どころにして迎えるフィナーレにのぞくのは、齢80歳にして見せるウディ流の反省?罪には罰を与えるかそれとも勝利の喜びか。老いても意地の悪さは変わらない」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。



(注1)監督・脚本は、『マジック・イン・ムーンライト』のウディ・アレン(最近では、他にも『ブルージャスミン』とか『ローマでアモーレ』など)。
 なお、本作の原題は「Irrational Man」。

(注2)「その頃、エイブは心を病んでいた」、「とにかく変わっていた」といったナレーションが入ったりします。後の話からすると、親友がイラクで殺されたのがトラウマになっているということもあるようです(また、12歳の時に母親が自殺したとも話されています)。

(注3)後ろの席では、女とその家族らが、女の子どもの親権をめぐって議論します。女は、「判事が弁護士と結託していて、このままだと子供の親権は向こうに取られてしまう。そうなると、子供達は地下室に置かれて大変な目に遭うことになる。毎晩眠れない。子供達を連れてヨーロッパに行きたい。あの判事が死ねばいい」などと話しています。

(注4)毒殺用の青酸カリを入手するのに、勤務先の大学の化学室の薬品庫に忍び込むというのですから(その鍵はリタのかばんから盗み取ります)、短絡的に過ぎます。案の定、彼の顔を知る教官とそこで遭遇することになります(その場はなんとか言い逃れますが)。



(注5)いくら、エイブにアルバイトをした経験がありエレベーターの構造に詳しいからといって、あんなことをすれば他の階の者が利用できなくなりますし、それにエイブの作業を他の誰かが見ていないとも限らないでしょう。
 さらには、エイブがジルと関係していたことは大学等で周知の事柄ですから、ジルが死んだ時には、彼女のそばにいたエイブの過去も警察に調べられ、エレベーターに詳しいことも明るみに出るのではないでしょうか?
 あるいは、エイブは、ジルの傍にいなかったと主張するのかもしれません。ただ、その場合には、自分のアリバイをどうするのでしょう?
 他にも、かご(リフト)が来ないのにドアが開くのかという疑問も湧いてきます(でも、このサイトの記事によれば、ロック装置が摩耗していればそういうことも起こりうるとのこと。エイブがそのことを知っていて、ロック装置に細工をしたとすれば、映画のようなことも起こりうるのでしょう)。

(注6)エイブは、判事を殺したことを“実存的選択”だとし、またサルトルが「地獄とは他者のこと」と言ったことで、あるいは正当化しているようです(ここらあたりのことは、このサイトの記事が参考になるかもしれません)。
 そうなると、エイブが自首すべきだと言い張り、そうしないならば警察に通報すると宣言するジルは、カントの倫理学に従っていることになるのでしょうか?

(注7)エイブは、ジルに、「死に取り憑かれて、自殺しか頭になかった」とか、「心も身もボロボロだ」と語ったりしています。リタとベッドインしてもうまく行きませんし、学生らが興じているロシアン・ルーレットに加わって、弾丸が1発入ったピストルを自分の頭に向けたりもします(その際には、エイブは、「教科書に優る実存主義の授業だ」と言います)。

(注8)エイブは、スパングラー判事を毒殺した後、憑き物が取れたように元気ハツラツとしてジルとも付き合い出します。リタとのベッドインもうまくいきますし(リタが「野獣のようだ」と感嘆します)、また、『ハイデッガーとファシズム』(ちなみに、この拙エントリの「注13」などにおいて、この問題について少々触れています)を途中まで書きながらも、息苦しくなって途中で放棄していたところ、殺人の後になると書き続けることができるようになります。
 ただ常識的には、目標達成に向かって突き進んでいるときは、意識が集中して元気にもなるでしょうが、目標が達成された後には、むしろ虚脱感に襲われてしまうのではないでしょうか(特に、標的とされた人物は、エイブの生活に全く何の関わりも持たないのですから、その人物を排除したからといって、簡単に闇が晴れてしまうことにならないのでは)?
 尤も、本作の場合、深い鬱状態だったエイブが、殺人という目標が定まりそれに邁進すると、鬱状態を脱出し、こんどは強い躁状態になったというような感じを受けます。

(注9)エイブは、アメリカで主流となっている分析哲学ではなく大陸の哲学を研究しているのは、そちらの方が刺激的だからだと言います。ただ、彼が自殺しようとするまでに落ち込んでいる時には、その哲学は余り助けになっていません。ところが、実存主義的な行動として殺人を犯すと、とたんに心の闇は晴れてしまうのです。とはいえ、その彼に対しては、ジルから強烈な批判が浴びせられ(上記「注6」で触れたようにカントの倫理学に拠るのでしょうか)、結局エイブが打ち負かされることになります。

(注10)本作で演奏されたのは第1番。
 ちなみに、クマネズミは、超スローテンポの低レベルながらも、その第3番をクラシック・ギターで演奏すること(例えば、このサイトが参考になるでしょう)にとりかかっている最中です。

(注11)そういえば、『無伴奏』や、特に『孤独のススメ』でも、バッハの曲が随分と流れていました。
 尤も、この記事によれば、「本作ではラムゼイ・ルイス・トリオの「Wade in the Water」や「Look-A-Here」などが全編を通して使用されており、そのファンキーなグルーヴ感が話をテンポよく進めることに一役買っている」とのことで、バッハ以外の音楽にも耳を傾けなくてはなりません(本作で流れるラムゼイ・ルイス・トリオの「The 'In' Crowd」については、このサイトで聴くことが出来ます)。

(注12)本作では、本文(1)で触れたカントのみならず、キェルケゴール、フッサール、サルトルといった著名な哲学者の名前が飛び出します。
 また、エイブの書斎の机の上に置かれていたドストエフスキーの『罪と罰』の余白には、判事の名前のみならず、ハンナ・アーレントの名前と「悪の凡庸さ」という言葉が書き込まれていました〔エイブは、罪の意識なしに大量殺人を犯したアイヒマンのことを想起したのでしょうか?なお、この点については、上記「注8」で触れた拙エントリの「注8」をも御覧ください〕。



★★★★☆☆



象のロケット:教授のおかしな妄想殺人
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団地

2016年06月21日 | 邦画(16年)
 『団地』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)阪本順治監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、浜村淳の朝のラジオ放送が流れている中で、主人公のヒナ子藤山直美)が、団地3階の部屋のガラス戸を開け、ハタキをかけたり掃除機を動かしたりしています。
 次いで、ヒナ子がベランダに出て下を見ると、前庭では少年(小笠原弘晃)が棒を握りしめて立っています。
 また、老婆が押していたシルバーカーから植木鉢がこぼれ落ちてしまいますが、通りかかった日傘をさしている青年(真城斎藤工)が、「花に怪我がなくてよかったですね」と言いながら、こぼれた土をかき集めて元に戻してやります。

 これを見ていたヒナ子は、部屋の中に入って夫の清治岸部一徳)に、「あんた、真城さんや」と言い、再びベランダに出て下にいる真城に「真城さん!」と声をかけると、真城は「五分刈りです」と答えるので、ヒナ子は「ご無沙汰です」と注意します。
 さらに真城が、「そちら802号室ですよね?」と尋ねるので、ヒナ子が「302号室や。ここが8階には見えないでしょ」と答えると、真城は「802の8とは8階のことなんですね」と感心した素振りを見せます。

 ヒナ子らの部屋に入ってきた真城に、清治が「長い間贔屓にしてもらったのに、突然廃業してしまい、すいませんね」と謝ると(注2)、真城は「いつもの薬を送ってもらえませんか?全てこちらで手配しますから」と要請し、清治の返事を待たずに「ありがとうございます」と言い、さらに「どうして廃業したんですか?」と言ったところで床に倒れてしまいます。
 慌てて清治が漢方薬を処方し、それをヒナ子が真城に飲ませると、真城はすぐに起き上がります。清治が「そんなにすぐに効くのかな」と訝しがると、真城は「効果きしめんです」と言い、それをヒナ子が「効果てきめん」と注意します。

 真城が帰った後、清治は、今真城に使った生薬を補充するために、食卓が置かれている床の下に設けられている収納庫の扉を開け、中に入り込みます。そこには、沢山の漢方の生薬が置かれているのです。

 こんなヒナ子と清治ですが、団地の他の住人との関係、それに真城との関係はこの先どうなるのでしょうか、………?

 本作は、息子を亡くして漢方薬の店をたたんで団地に引っ越してきた夫婦を巡るお話。団地らしいエピソードがいろいろコミカルに描かれているところ、後半で大きく転調します。クマネズミは面白い展開の仕方だなと思いますが、これをどう捉えるのかで本作の評価は全く違ってくることでしょう。

(2)本作は、最近見た是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』と同じように団地を取り上げています。
 ただ、同作が写実を旨としているのに対し、本作は途中からSF調になり、見ている方はあっけにとられてしまいます(注3)。何しろ、宇宙人がヒナ子らの部屋に現れるのですから!
 でも、もしかしたら、むしろ是枝作品の方が観念的な作品であり、本作のほうがリアルなものといえるかもしれないな(注4)とも思いました。

 もう少し申し上げれば、『海よりもまだ深く』の母親・淑子樹木希林)は、長い間の団地住まいを脱出して一戸建ての家に住むことが夢。他方、本作のヒナ子らは団地に引っ越してきてまだ半年で、何か馴染めないものを周囲に感じて(注5)、これまた早いところ脱出したいと思っている様子です(注6)。
 ただ、『海よりもまだ深く』では団地脱出は単なる淑子の夢で終わっているのに対して、本作ではSF調に転化するとはいえ実現に向かって関係者が動き出すのです。
 一見すると、『海よりもまだ深く』のように、何事も起こらずに単調な同じ生活がこれからも継続するとする方が現実的のように思えます。しかしながら、それはそういうものでしかないと現実を観念的に捉えるからそうなるのではないか、とも思われます。
 むしろ、宇宙人が現れて脱出を支援してくれるのだと考える方がリアルなのかもしれません。少なくとも、映画の上ではそうではないでしょうか(注7)?
 特に、団地の各部屋には、あのように狭い空間にシステムキッチンとかユニットバスやトイレなどがきちんと設けられて、まるで宇宙船の中のような具合になっているのですし、おまけに上階の部屋なら窓から下の情景を見ることができるのですから、いつそのまま宇宙空間に打ち出されてもおかしくないように思えます(注8)。

 ツマラナイことを申し上げましたが、実際のところは、すべてヒナ子か清治の夢(あるいは妄想)の中の話とすれば済むのかもしれません(注9)。
 でも、それをリアルな話として理解しようとしてもまた一興ではと思ったところです(注10)。

(3)宇田川幸洋氏は、「終盤は、SFに転調する。くわしくはかかないが、そこからが長く、ウェットで、そこまでのコメディーのいい風味をすべて帳消しにするまで、なくもがなの世界観(異世界観?)のリクツをならべる。オチで遊びすぎて、元も子もなくなった」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 山根貞男氏は、「団地生活を面白おかしく描く喜劇。そうには違いないが、中身は単純な喜劇ではない方向へと向かう」などと述べています。
 ただし、この映画評は映画のあらすじを述べているだけで、批評になっていないように思います。



(注1)監督・脚本は阪本順治(『人類資金』、『大鹿村騒動記』、『行きずりの街』など)。

 なお、出演者の内、最近では、岸部一徳は『FOUJITA』、石橋蓮司は『グラスホッパー』、大楠道代は『I’M FLASH!』、斎藤工は『高台家の人々』、濱田マリは『娚の一生』、竹内都子は『ハラがコレなんで』で、それぞれ見たことがあります。

 なお、主演の藤山直美については、この拙エントリの(2)で触れたことがあります。
 加えて6月19日に、上海国際映画祭で藤山直美は本作で最優秀女優賞を受賞しました。

(注2)ヒナ子と清治は、商店街で漢方薬局「山下漢方」を営んでいましたが、息子の事故をきっかけに、半年ほど前に団地に引っ越してきたのです。

(注3)予告編を見て、団地自治会の皆が集会所で楽しそうにフォークダンスを踊っている場面がラストになるのかなと思っていましたが、さにあらず。その光景は、団地の自治会会長選挙に立候補した清治の妄想(会長に当選したら3ヶ月に一回そうした集いをしようと、清治は考えています)にすぎないのです!

(注4)というのは言い過ぎで、『海よりもまだ深く』は写実的でありながらも観念的なところも伺えるのに対し、本作は観念的な作品ながらもリアルな面も見えてくる、といったところでしょうか。

(注5)団地自治会長の行徳石橋蓮司)の妻・君子大楠道代〕は、ヒナ子に、「新しく来た人についていろいろ噂をする人がいるけど、気にしない方がいい」と言いますが、ヒナ子らはひどい噂を立てられてしまいます。特に清治は、キノコなどを観察しようと毎朝裏手の林の中に入り込んでしまい、団地の住民との接触が殆どなかったことから、団地の奥様族(竹内都子濱田マリ原田麻由滝裕可里)の間で、清治はヒナ子に殺されているという噂が立ってしまうのですから(実際に、警官がヒナ子らの部屋に来ましたし、ヒナ子はTVニュースの取材を受けたりもします)。



(注6)漢方薬局の廃業は、どうやらヒナ子の主導で行われたようで、ヒナ子もそれを気にしていて、清治に「恨んでる?あたしが廃業させたんだから」、「まだ未練があるでしょう?収納庫に生薬をいっぱい保管しているし」などと言ったりします。



 このように、ヒナ子の家では終始ヒナ子がリードしており、清治の方は、団地の自治会会長選挙に落選すると、床下に設けられている大きな収納庫に逃げ込んでしまうほどヤワな感じなのです。

(注7)『海よりもまだ深く』が描く世界では、年金暮らしの淑子では無理であり、長男の良多阿部寛)に期待がかかるものの、堅実な生活をするという姿勢に乏しい彼は妻・響子真木よう子)に愛想を尽かされるほどです。他方、本作では、期待の長男の事故死がきっかけで団地暮らしが始まるわけながらも、長男の代理人的な存在の真城が脱出を手助けします。
 どちらが映画の物語として面白いかといえば、後者の方ではないでしょうか?
 とは言え、ツマラナイありきたりな日常的な事柄を淡々と描いているにすぎないように見える作品も、気がつかない事柄を気付かせてくれたりして面白く見ることができる場合もありますから、簡単に言い切れないのも事実です。

(注8)本作では、ヒナ子らの部屋がそのまま宇宙に飛び出すのではなく、団地の上空に出現した巨大な宇宙船にヒナ子らが乗り込むことになります。ただ、その宇宙船の中は、従来ののSF物で描き出されるような光景とは全く違って、普通の地球上の自然の風景なのです。要すれば、地上と宇宙船内とがそのまま接続してしまっています。まるで、団地の部屋が宇宙船内と同じように見えるのと同じように。

(注9)ありうるとしたら、清治が収納庫に隠れている時(上記「注6」で触れたように)に見た夢なのでしょう。上記「注3」にも書きましたように、清治には妄想癖があるようですから〔『高台家の人々』の木絵綾瀬はるか)のように!〕。

(注10)ラストでは、ヒナ子と清治とが夕食(清治が「スキヤキやったね」と言います)の用意をしているところに長男・直哉中山卓也)が当たり前のように「ただいま」と帰ってきます。
 これは、ヒナ子と清治を過去に戻す際に(置き忘れてきた「へその緒」を取りに戻ろうとします)、真城が操作を誤って、それまでとは違うパラレルワールドに「時空を戻した」ためなのかもしれません。なにせ、この3人は団地で一緒に暮らしたことはなかったのですから。それとも、真城の好意で(5000人分の漢方薬を作ってくれたことに対するお礼として)、直哉が一緒にいる世界にしてあげたのでしょうか(でも、どうやって?)?



★★★☆☆☆



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64 ロクヨン 後編

2016年06月17日 | 邦画(16年)
 『64 ロクヨン 後編』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『64 ロクヨン 前編』が素晴らしかったので、後編もと思って映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、雨が降りしきる中で公衆電話ボックス(注1)に入って電話をかけようとする雨合羽の男の姿が映し出されます。ただし、暗くて誰だか識別できません。男は、古い電話帳(三上姓の何人かの名前が横線で消されています)を見ながら電話をかけます。
 三上広報官(佐藤浩市)は家で電話をとって、「もしもし、どこにいるんだ?心配している、あゆみ、どこにいるんだ?」と叫びます。
 電話ボックスでは、男が無言で電話を切ります。

 次いで、前編のストーリーの主なところが、前編とはやや違ったアングルで撮られた映像を交えて映し出されます。

 そして、本編へ。時点は平成14年12月11日。警視庁長官の視察の前日。
 前編のラストで描かれたように、新たに少女誘拐事件が発生し、刑事部の大半が捜査本部に集結しています。
 三上はその中に入ろうとしますが、捜査1課次席の御倉小澤征悦)に阻止され、「記者クラブと報道協定を締結してください」と言われます。それに対して、三上は「マルガイは誰だ?」と尋ねますが、御倉は「狂言の可能性もあり、名前は言えません」と答えます。

 赤間警務部長(滝藤賢一)は、「これは、長官視察を中止させるのが目的だ」とし、さらに「常に東京と繋がるシステムが必要なのだ。化石化した刑事など必要ない」、「明日の長官視察の際に、刑事部長のポストは本庁の者になると発表する」と三上に言い、加えて「娘さんの捜索を全国の警察に手配することは決めましたか?」と尋ねます。それに対して三上は、苦虫を噛み潰したような顔付きで、「お心遣いに感謝いたします」と答えます。

 三上は広報室に戻って、「事件のことをクラブ全社に伝えろ」と言いますが、諏訪係長(綾野剛)は「被害者が匿名のままでは暴動が起きます」と心配します(注2)。三上は、「2弾、3弾の発表があるとして協定を結べ」と命じます。

 三上は、長官視察の打ち合わせをしようと64の被害者遺族の雨宮永瀬正敏)の家に行きますが、広報室の美雲榮倉奈々)から、「実名を教えろと記者クラブが大変です」という連絡が入ります。

 さあ、この事態に三上はどう対処するのでしょう、そして64の真相や平成の誘拐事件は一体どうなるのでしょうか、………?



 本作は、前編で描かれた昭和64年に起きた少女誘拐殺人事件の解決編であり、前編で張り巡らされた様々の伏線が回収されて真相が明らかになるわけですが、それだけでなく、新たな誘拐事件も起きたりして、単なる解決編ではありません。ただ、前編でかなり描かれていた警察組織内の軋轢といった面が後方に退いて、むしろ主人公の広報官の個人的な面が大きく取り上げられており、確かに、前編と後編で映画の基調を変えるという点(注3)は興味深いものの、なんだかはぐらかされたような感じも受けました。

 (以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらずかなりネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作について見ると、東京から来た本社詰めの記者たちの傍若無人振り(注4)を描くのに時間を割き過ぎている感じが否めないとはいえ、三上が松岡捜査一課長(三浦友和)の乗る捜査指揮車に潜り込むような捨て身の行動を取るに至る事情を描き出すためには、それも仕方のないところでしょう。
 ただ、前編で相当描かれていた県警内部の組織対立については、後編で取り上げられることがかなり少なくなっているのは残念な気がしました(注5)。

 それになにより、本作では、原作で終わっているところに独自のものを追加していますが、その点には疑問を感じました。
 総じて本作も、前編と同じように、随分と原作に寄り添って映画が制作されているように思います。例えば、14年間引きこもっていた日吉窪田正孝)が、事件の解決を知って部屋から出てきて母親(烏丸せつこ)と喜ぶところなど、時間的制約がある中でわざわざ描き出す必要があるのかと思いましたが、原作小説にも類似の場面が書き込まれています(注6)。
 にもかかわらず、最後の最後になって、本作は余計なものを付け加えてしまったな、と思ってしまいました。

 確かに、原作の終わり方では(注7)、あるいは見ている方が拍子抜けするかもしれません。
 でも、そんなところが現実の姿であり、むしろリアルさが感じられるのではないでしょうか?
 逆に、本作のように描いても、64の容疑者がなぜ雨宮翔子に目をつけたのか(注8)など、本作でメインとなる事件の核心部分がよくわからないまま映画が終わっているように思います。
 結局のところ、警察側が客観的な証拠を掴んだようには思えず、取調室における容疑者の雰囲気からすると、自白していない感じもします(注9)。その場合には、容疑者がどのように犯行に及んだのかを描き出すことなど出来ないでしょう。

 ただそうだとしたら、三上がどうして容疑者に対してあそこまでのことをするのか(注10)、ということもわからなくなってしまいます。
 三上が警察官の職を辞さなくてはと思うようなことをして容疑者を確保しても、はっきりとした証拠が得られないのであれば、無駄なことをしただけのことになってしまいます。
 それとも、容疑者は観念して自白に及んだのでしょうか?としたら、犯行の内容をもう少し具体的に描くべきではないかと思います。

 あるいは、本作では、三上と娘のあゆみ芳根京子)、雨宮と娘の翔子、そして容疑者とその娘という3重の構造を浮き彫りにしようとしているのかもしれません。



 ですが、そのために、そして「映画らしいラストを作」るとはいえ(注11)、広報官にすぎない三上が容疑者と格闘に及ぶというのではリアリティに欠けるでしょう(注12)。

 総じて申し上げれば、瀬々敬久監督の腕をもってしても、2部作の前編・後編のクオリティを同じ水準で維持するのはなかなか難しいことなのだな、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「元刑事で現広報官という複雑な立場の主人公の熱意と葛藤を、丁寧に演じる佐藤浩市はさすがだし、被害者の父を演じる永瀬正敏の狂気を秘めた執念の演技も見事」だが、「正直に言うと、前編の方が出来は上。というより、前後編に分けてまで描く必要があったのか?!との疑問がわいた」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「まとめると、前編のんびり、後編の前半はちょうどよく、終盤あたふた。一番面白い終盤部分にもっと時間と力を割いてほしかったところ。ただ映画全体をみると、真面目な作りでよく頑張っていると思うし、それなりに見ごたえもある」として65点をつけています。



(注1)映像では、なんだかまわりに人家が見当たらない実に寂しげな場所に設けられた公衆電話ボックスのように見え、そんなところに果たしてそんなものが設置されるものなのか不思議です〔でも、男が人目を忍んで電話をかけているようなので、そうしたセッティングになるのでしょう←原作では、親水公園内に設けられています(文庫版下巻P.383)〕。



(注2)前編の終わりの方で三上広報官は、記者クラブに対して、「以後は、原則として実名を発表する」と約束しましたから。

(注3)このインタビュー記事で瀬々監督は、「DVDが、例えばレンタルビデオ屋に行ったら、前編はドラマのコーナー、後編はミステリーのコーナーに置かれてもいいなと思ったんです。それぐらい振り幅を大きく振ってやった方が面白いんじゃないかと。それが、この前編後編ものの新しい挑戦にもなるんじゃないかと思って、あえてそういうプランで作りました」と述べています。

(注4)特に、秋川(瑛太)と同じ東洋新聞の山下緋田康人)の怒鳴り声は凄まじいものがあります!

(注5)本作では、辻内県警本部長(椎名桔平)は登場しませんし、荒木田刑事部長(奥田瑛二)は保身に汲々としていますし〔松岡捜査一課長が「幸田メモ関係について責任は私が負います」と言ってくれるのでホッとする有様〕、赤間警務部長も、長官の視察が中止になって気落ちしてしまいます。

(注6)原作では、三上が日吉に「証拠ちゃん事件の犯人が捕まったぞ」と電話で知らせます(文庫版下巻P.417~P.418。なお、日吉については、『64 ロクヨン 前編』の「注3」を参照してください)。
 他にも、本作では、幸田吉岡秀隆)が家族をおいて警察に出頭する場面も描かれていますが、なくもがなではないでしょうか?

(注7)原作のラストの方では、容疑者は釈放され、「連日、被害者として参考人聴取」をされていると書かれています(文庫版下巻P.419)。

(注8)容疑者役の俳優は、劇場用パンフレットのインタビュー記事で「(容疑者は)普通の人間ではなくて鬼畜なんです」と述べ、容疑者が狂気に捕らわれた人間だとしています(翔子ちゃんを殺した理由を問われて、容疑者は「そんなこと分かるかよ」と答えますが、そんなところにも容疑者の「狂気」が伺われると、その俳優は述べています)。ですが、一方ではそうだとしても、他方では、容疑者は捕まえた翔子ちゃんの家の電話番号を割り出して連絡をとり、なおかつ冷静に状況を把握しつつ、最後には身代金を獲得してしまうのですから、相当な計画性も伺えるところです。

(注9)唯一の物証が雨宮の音声記憶だとしたら、容疑者が自白しないかぎり、公判を維持するのが難しいかもしれません。

(注10)三上は容疑者に「小さな棺」と電話で連絡すると、容疑者は、64の被害者が発見された場所にやってきて、古い車のトランクをこじ開けて自分の娘を探そうとします。そこへ、三上が現れ、「“小さな棺”といっただけで、どうしてここにある車のトランクの中と分かったんだ?」「どうして殺したんだ?」と言います。それに対し、容疑者が「そんなこと分かるかよ」と答えるので、三上は容疑者を殴りつけます(それを見ていた秋川が記事にしてしまいます)。

(注11)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事における佐藤浩市の発言。

(注12)本作は、一介の広報官にすぎない警察官の組織内における苦闘の物語であり、その広報官が英雄になってしまうのは行き過ぎではないのかという気がします。



★★★☆☆☆



象のロケット:64 ロクヨン 後編
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ヘイル、シーザー!

2016年06月14日 | 洋画(16年)
ヘイル、シーザー!』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)ジョージ・クルーニーの出演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、キリストの像が大きく映し出された後、主役のマニックスジェシュ・ブローリン)が、教会の告解室で神父に告白をしています。
 「最後の告白をしてから24時間経過しましたが、私は罪を犯しました。私は妻に嘘をつきました。私は、体に悪いと言う妻に禁煙を誓いました。私もそうしようと務めています。でも、2本、いや3本シガレットを吸ってしまいました」。

 次の場面からは、映画会社の“何でも屋”のマニックスが、朝5時から昼も夜も関係なく働く姿が映し出されます。



 さあ、どんな事件が持ち上がるのでしょうか、………?

 本作は、コーエン兄弟が監督・脚本を担当し、1950年代のハリウッド黄金時代を描いています。映画会社の“何でも屋”が主人公とされ、スターの誘拐事件が取り扱かわれたりする中で、劇中劇としてミュージカル映画などの撮影風景も描かれたりして、なかなか面白いのですが、その時代のハリウッドについての知識が乏しいクマネズミにとっては、猫に小判といった感じでした。

(2)例えば、見終わってから劇場用パンフレットの「Production Notes」を読めば、主人公のマニックスは、MGMの副社長にもなったエディ・マニックスと、MGMのパブリストだったハワード・ストックリングとがモデルになっていることや、スカーレット・ヨハンソンが演じる女優のディアナ・モランについてはエスター・ウィリアムズ(『水着の女王』など)が、ティルダ・スウィントンの扮するソーラセサリーの双子姉妹は、実在のコラムニストのヘッダ・ホッパールエラ・パーソンズや(注2)、アビゲイル・ヴァン・ビューレンアン・ランダース姉妹(注3)が想定されることなどがわかります(注4)。
 でも、後からそうした表面的な知識を慌てて身に付けても、結局のところはそんなこともあったのですかというだけのこと、面白くもなんともありません。

 とはいえ、本作には興味をひくエピソードが盛りだくさんなことも間違いありません。
 例えば、投げ縄が得意のカウボーイスターのホビーアルデン・エーレンライク)が、ローレンス監督(レイフ・ファインズ)が制作する映画の撮影現場で台詞を言う場面。



 監督が何度矯正しようとしてもホビーの南部訛りが抜けきらず(注5)、とうとう監督は切れてしまって、マニックスのところに「ホビーは大根役者だ、取り替えてくれ!」と怒鳴り込みます(注6)。でも、マニックスは「鍛えるのも監督の仕事だ」と応じ、監督の要求は頑として受け付けません。

 また、劇中で撮影されている映画に出演している俳優ベアードジョージ・クルーニー)が、同じく出演しているエキストラの男(ウェイン・ナイト)に睡眠薬を盛られて誘拐されてしまいますが、なんと誘拐したのはハリウッドに不満を抱く脚本家たちで、身代金として10万ドルが要求されます(注7)。



 こうしたいろいろのエピソードが、主人公のマニックスの“何でも屋”の仕事の合間に挿入されるわけで(注8)、そればかりかマニックスは、中華レストランでロッキード社のリクルーターから、高給で迎え入れる旨の提示を受けてもいるのです(注9)。
 マニックスは、上記の(1)に書いたように、一日中“何でも屋”の仕事に追われ、それも、止めなくてはいけないタバコについつい手を出してしまうくらいのきつい仕事ですから、ロッキード社からの申し出に心が大いに動きます。さあマニックスはどうするのかというところが本作の基本となるストーリーといえるのでしょう。

 あるいはそうではなくて、告解室におけるマニックスの懺悔が冒頭と最後の方(注10)で描かれたり、映画の中で「ヘイル、シーザー―キリストの物語」という映画の撮影風景が、同じように最初と最後に映し出されており(注11)、さらにはこの映画についてマニックスが宗教界の同意を取り付けようとする場面が描かれたりもしていて(注12)、宗教的な観点を見逃してはいけないのかもしれません(注13)。 

 とはいえ本作は、散りばめられた様々のエピソードや、映画産業を巡っての歴史的な事柄の方がメインに見えてきてしまい、見ている方でそれらが一つ一つピンと来ないのであれば、どうにも乗りきれない感じがするのは仕方のないところでしょう。

(3)渡まち子氏は、「共産主義の脅威におびえていたこの時代は、スタジオシステム崩壊のはじまりの時でもある。脚本・脚色にこだわるコーエン兄弟らしく、脚本家の苦労に目配せした設定もいいではないか!」などとして70点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「夢の工場時代のハリウッドの出来事と人物をコラージュしつつ、現実はシビアでも映画の中は華麗な世界を創り、長らくインディーズ映画の雄だったコーエン兄弟らしい意地悪なハリウッド観を交えて笑わせる」として★4つ(「見応えあり」)をつけています。
 荻野洋一氏は、「作品そのものが映画として輝いているかどうかはあやしい気もするが、映画のあれやこれやをぶちまけたドタバタ喜劇になっている。映画ファンのひとりとして、このバラエティ豊かな一篇を大いに楽しませてもらった」と述べています。
 藤原帰一氏は、「丹精込めて馬鹿に徹してきたハリウッドにコーエン兄弟が捧げたラブレターを、ぜひご賞味ください」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『トゥルー・グリット』のジョエルイーサン・コーエン兄弟。
 本作のタイトルは、本作の中で制作されている映画のタイトルと同じ。

 なお、ジョシュ・ブローリンは『とらわれて夏』、ジョージ・クルーニーは『ミケランジェロ・プロジェクト』、チャニング・テイタムは『ヘイトフル・エイト』、レイフ・ファインズは『グランド・ブダペスト・ホテル』、ジョナ・ヒルは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、スカーレット・ヨハンソンは『LUCY ルーシー』、編集技師のC.C.カルフーン役のフランシス・マクドーマンドは『プロミスト・ランド』、ティルダ・スウィントンは『ミラノ、愛に生きる』で(『グランド・ブダペスト・ホテル』でも)、それぞれ見ました。

(注2)例えば、このサイトの記事が参考になります。

(注3)Pauline Phillipsと Eppie Ledererの 1卵生双生児の姉妹が、Abigail Van BurenとAnn Landersというペンネームを使って、新聞の人生相談コラムを書きました(主に1950年代後半ですが、アビゲイルの人生相談コラムは、彼女の娘によって今日まで書き継がれているようです)。

(注4)他にも、例えば劇場用パンフレットのインタビュー記事で、ジョージ・クルーニーは、自分が演じたベアードについて「ヴィクター・マチュアのような役者」と言っていますし、チャニング・テイタムは「僕が演じたバート・ガーニーは、おそらくはジーン・ケリーをモデルとしていると思う」と述べています。

(注5)ホビーは、「Would that it were so simple」を南部訛りで発音するのですが、ローレンス監督はブリテッシュアクセントを求めるのです(この場面は、この動画で見ることが出来ます)。

(注6)「ホビーは世界的な大スターの一人だ」と言うマニックスに対して、ローレンス監督は、「それは馬の背の上でのこと。自分が制作しているのはリアルなドラマ。ロデオ・クラウンなど必要ない。私の20年間の名誉はどうなるんだ」と言い返すものの、ホビーの起用が重役からの話(マニックスが重役から直接命じられています)とあってはどうしようもありません。

(注7)ベアードを誘拐した10人の脚本家たちは、自分の誘拐理由を尋ねるベアードに対し、「あの脚本家は、映画の脚本を書き、その映画は大ヒットして会社は数百万ドル稼いだにもかかわらず、何も手にしなかった」、「映画のアイデアは我々脚本家のオリジナルだが、映画そのものは会社が所有してしまう」、「搾取されているのは脚本家だけではない、あなた自身を見てご覧なさい」と言います。
 ベアードが「いや、会社はよく面倒を見てくれるよ」と反論しますが、男らは、「会社が生産手段を所有しているのだ。我々は、自分らの労働で生み出した価値を施しで分けてもらうのか、そうではない、払い戻してもらうのだ」と言い返します。
 男らは、さらに、「我々は、最初のうちは、映画の中に共産主義的なコンテンツを密かに盛り込もうとした。その後スタンフォード大学からマルクーゼが我々のグループに参加し、直接的な行動について教えてくれた。我々は弁証法を加速し、歴史の終焉を早め、新人類を創りだすのだ」などと語ります。
 ベアードが、「自分にも身代金の分前を。そうしないとあなた方の名前を明かしてしまう」と言うと、逆に男らは「「鷲の翼」について真相をバラすぞ」と脅します。
 結局、ミュージカル俳優のバート・ガーニー(チャニング・テイタム)が、身代金の10万ドルを持ってソ連の潜水艦に乗って行ってしまうのですが(ただ、10万ドルの入ったトランクは海の中に落ちてしまいます)、おそらくこのエピソードは、ハリウッドにおける共産主義者の運動をパロディ化したものなのでしょう。

(注8)例えば、ディアナ・モランが妊娠してしまいます。



 それを知ると、清純派女優のイメージを損なわないよう手を打つべく、マニックスは、彼女を公証人のジョージョナ・ヒル)のところに連れて行き、生まれてくる子どもはとりあえずジョーの実子として、後でディアナが養子として貰い受ける、というやり方でこの事態を乗り切ろうとします。その後、ディアナがジョーと良い仲になってしまうので、こんなことまでする必要はなくなってしまうのですが。
 なお、このエピソードは、劇場用パンフレットの「Production Notes」によれば、女優のロレッタ・ヤングの実話と似ているようです。

(注9)リクルーターのクダフィイアン・ブラックマン)は、「世の中はジェット旅客機の時代。それに反して、映画産業は虚業であり、見せかけの世界。皆がテレビを家で持つようになったらどうなります?」、「ビキニ環礁の水素実験にも我が社は関与しています」、「ぜひこの話を受けていただきたい」などとマニックスに話します。

(注10)マニックスが「イージな仕事をすることは間違っているでしょうか?」と尋ねると、神父は「内なる声があなたに正しいことを告げるでしょう」と答えます。これで、ロッキード社の申し出に対する返答をどうするかマニックスは決めることになるでしょう。

(注11)でも、誘拐事件から戻ってきたベアードは、そこまでスムースに台詞を言ってきたにもかかわらず、「if we have but faith」と言わなくてはいけないところで、肝心の「faith」を忘れてしまい、「Cut!」となってしまいます。

(注12)マニックスは聖職者らと会って話をしますが、神父の方は「キリストは神の息子だ」と言い、ユダヤ教のラビは「神を描くことは禁じられている」「神は独身であり、子どもは持たない」などと言ったりして議論は紛糾するものの、なんとか了解を取り付けます。

(注13)そうだとしても、そうした方面に疎いクマネズミには手に余りますが。



★★★☆☆☆



象のロケット:ヘイル、シーザー!
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高台家の人々

2016年06月10日 | 邦画(16年)
高台家の人々』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「昔々、伯爵令嬢のアン・ペドラーシャーロット・ケイト・フォックス)が日本人の高台茂正大野拓朗)と恋に落ちた。アンには、ふしぎな能力、人の心を読める力があった。その力は3人の孫に受け継がれ(注2)、また新しい恋が始まる」とのナレーションが流れます。

 次の場面では、TVのお天気ニュースから「関東地方は、日中よく晴れて、…」といった情報が流れている部屋(本棚には漫画本がぎっしり)のベッドで、木絵綾瀬はるか)が起き出します。
 木絵の声が、「風邪をこじらせて、4日間会社を休んだ。4日目の今朝は、風邪が治って会社に行けたのに、行かなかった」と流れ、そこから木絵の妄想(注3)が始まり、結局木絵は、ゴロゴロしてその日を過ごしてしまいます。



 5日目に木絵は出社します(木絵の声で、「社内の空気がいつもと違っているような感じ」)。
 総務部で隣の席の阿部堀内敬子)が、「高台光正様(斎藤工)が、ニューヨーク支社から来たの。高台王子は、名門の高台家の長男。お祖母様はイギリス人で、…」といろいろ木絵に教えてくれます。
 さらに阿部が、「王子は独身というから、木絵も当たって砕けてみたら?」とけしかけるので、早速木絵は、イギリスというところを起点に妄想にふけってしまいます(注4)。
 でも、それで注意が疎かになった木絵は、脇田課長(塚地武雅)に頼まれてコピーした紙を床にぶちまけてしまいます。すると、あろうことか、光正がコピー機のところにやってきて、散乱する紙を拾ってくれたのです!

 これが、光正と木絵との出会いのはじまり。さあ、続きはどうなることでしょう、………?

 本作は、妄想癖のある若い主人公がテレパスの青年と恋に落ちて、というファンタジー物ですが、主演の綾瀬はるかが主人公の役柄にピッタリであり、コミカルなシーンも多く描かれていて、主に若い女の子向きの作品なのでしょうが、年配者にもまずまず楽しめる映画になっていると思いました。

(2)本作で断然面白いのは、木絵の妄想でしょう。
 上記の(1)の注に少々書きましたが、他にも例えば、エレベーターで偶然光正と乗り合わせた木絵は、「エレベーターが突然止まったらどうしよう」と思った途端に妄想(注5)が広がり、その妄想を読んだテレパスの光正は吹き出してしまいます。でも、光正と知り合う前で事情がわからない木絵は、突然笑った光正に目を白黒。

 また、高台茂正Jr.市村正親)と由布子大地真央)との間の子ども―光正、茂子水原希子)、和正間宮祥太朗)―の間の会話の場面も興味を惹かれます。なにしろ、テレパス同士の会話ですから、その場にいた木絵には何が話されているのかサッパリわかりません(注6)。



 このように、本作はラブストーリとはいえ、テレパスを取り扱ったSF物でもあります。
 そして、本作に登場するテレパスは、最近見た『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』に登場する仙石(野村萬斎)と同じように、相手の心の中を読めるという超能力を持った者ながらも、同作のような違和感を余り覚えませんでした。
 あるいは、同作では、物に付着した記憶を読み取るというあまり常識的ではない設定になっているのに対し、本作では、単に相手の心を読めるに過ぎない常識的な設定になっているからなのかもしれません(注7)。

 とはいえ、お腹の調子が悪い時に、トイレでの音がテレパスの光正に聞こえてしまうのではないかと気になったりしてきて、木絵は光正に心を閉ざすようになるのですが(注8)、テレパスには外部の客観的な音は伝わらないのではないでしょうか?
 それに、人の心は木絵の妄想のように面白いものばかりというわけではなく、ネガティブのものや、ずっとドス黒いものもあるはずです(注9)。

 でもそんなことはどうでもいいことでしょう。本作は、何も考えずに、黙って楽しく見ることが肝心のように思います。
 でも、言わせてもらえば、ラストの方で、木絵が自転車を一生懸命に漕ぐシーンが描かれますが、そんな場面などを見ると、全体に少々古臭い感じが漂っているのでは、とも思ったところです(注10)。
 総じて言えば、ファンタジックでコミカルな前半の雰囲気が後半まで続けばという感じながらも(注11)、それでは物語が終りを迎えないでしょうから、まあ仕方がないのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「この映画にいろいろと真面目にツッコミを入れるのもヤボ」とはいえ、「もともとがアリエナイ設定なのに、テレパスであることによる恋の障害が…と柄にもなくシリアスになる後半は明らかにトーンダウンしてしまう。高台家の家族それぞれのドラマも表層的で、駆け足すぎてがっかりだ」として40点をつけています。



(注1)監督は、『謎解きはディナーのあとで』の土方政人
 脚本は、『ヘルタースケルター』の金子ありさ
 原作は、森本梢子の漫画『高台家の人々』(集英社)。

 なお、出演者の内、最近では、綾瀬はるかは『ギャラクシー街道』、斎藤工は『無伴奏』、水原希子は『信長協奏曲』、大地真央は『R100』、市村正親は『テルマエ・ロマエⅡ』、夏帆は『海街diary』、茂子の友人役の坂口健太郎は『64 ロクヨン 前編』、塚地武雅は『アイアムアヒーロー』で、それぞれ見ました。

(注2)二人の間の子どもの高台茂正Jr.は、どうやらテレパスではないようです。当然のことながら、その妻の由布子も。



(注3)勤め先の会社が、10人の謎の集団に襲われ、機能停止になります。いや10人どころじゃありません、もっとです。とにかく木絵としては、会社の中に入ろうとしたのに、マシンガンを構える集団に阻止されてしまいます、…。

 なお、謎の集団は、後の妄想でドダリー卿とされる人物(脇田課長が扮しています)のたくさんのコピーで出来上がっています。そして、塚地武雅は本作で、脇田課長のみならず、他に8役を木絵の空想の中で演じています。

(注4)木絵は最初、バッキンガム宮殿の近衛兵に扮している光正を、次にシャーロック・ホームズ姿の光正を妄想しますが、最後には、イギリス王族の高台王子が陰謀に巻き込まれ、ドダリー卿に追われて日本までやってきて、…という妄想に行き着きます。

(注5)エレベーターはドダリー卿によって止められ、エレベーターのドアが開くと、向こう側では、ロープで縛られた脇田課長にドダリー卿が銃を突き付けています。ドダリー卿が「王子、姫を渡せ!」と叫ぶと、高台王子は姫(木絵が扮しています)をかばって、「姫は渡せない」と答え、「課長のことは諦めよう」と言ってエレベーターのドアを閉めてしまいます。後には、脇田課長の「エエッ!」という声が残るだけ。



(注6)例えば、脳内会話で、茂子は茂正に「(光正に片思いをしている獣医:夏帆)が結婚式に呼んで欲しいって」と話すと、茂正は「本当?」と聞き返し、和正も「現実を受け止めればいいんだ」と間に入ると、茂正は「それはお前だ。ずっと純のことだけ思っていたくせに」と言い返しますが、こうした会話の所々で3人が声を上げたりするので、その様子を見ていた木絵は「もしかして、みなさんはテレパス?」と言ってしまいます。

(注7)Wikipediaの記事によれば、「2001年にギャラップ社が米国で調査を行ったところ、アメリカ合衆国の36%の人々がテレパシーの存在を信じている、26%の人々が態度を決めかねる、35%の人々が信じない、との結果が出た」とのこと。

(注8)光正が木絵の心を覗くと、いつも同じパターンの風景が見えるだけで、木絵の姿が見えないのです。これでは、木絵が今何を考えているのか光正にはわからなくなってしまいます。
 とはいえ、このように人は自分の心をコントロールできるのでしょうか?特に、木絵の妄想癖は自分でも止められないのではないでしょうか?

(注9)折角「日本一エロい男優」と言われる斎藤工と共演するのですから、綾瀬はるかが演じる木絵のドス黒い心の部分を暴きだしてみたら、それはそれで随分と興味深い作品になるでしょうが、本作とは趣旨が全然違ってしまいます!
 それでも、俗流精神分析によって木絵の妄想を検討してみると、その中にマシンガンとかピストル、剣といった“尖っているもの”“棒状のもの”が頻出している感じがし、これは男性器を象徴しているとしたら、木絵の無意識の状況がわかる、などという方向にも進むことができるかもしれません。
 あるいは、木絵と同様に妄想をたくましくすると、例えば、本作のラストの方で、木絵は携帯電話を持って実家の造り酒屋の屋根に登っているのですが、『アントキノイノチ』の瀬々敬久監督だったら、同作の冒頭で岡田将生にさせたことを綾瀬はるかに要求したかもしれない、などと想像してしまうのですが。

(注10)木絵が隠れている実家の造り酒屋に光正から連絡が入るくらいですから(木絵はそれに出ませんが)、持っている携帯で光正に簡単に連絡が取れるにもかかわらず、どうして木絵は自転車に跨って、田舎の道を走るのでしょう(尤も、こういうシーンがないと、ドーヴァー海峡横断につながらないのでしょうが!)?
 モット挙げると、木絵が会社でお茶くみとかコピーをしていたり、また高台家の食事の際に木絵がナイフとフォークを無作法に扱ったりしますが、なんだか一昔前の映画を見ているような感じを受けました。

(注11)劇場用パンフレット掲載の「Table Talk 脚本家✕プロデューサー 女性4人の座談会」には、「後半は映画オリジナルのストーリー」とあります。



★★★☆☆☆



象のロケット:高台家の人々
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すれ違いのダイアリーズ

2016年06月08日 | 洋画(16年)
 『すれ違いのダイアリーズ』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)久しぶりのタイ映画ということで映画館に行ってみました。

 本作(注1)の初めの方では、ある小学校の校庭で、青年ソーン(注2)が子どもと鉄棒をしていると、校長が「それは子どもの道具。上がって来なさい」と言います。
 そして、校長は、ソーンの履歴書に添えられている写真(ソーンがレスリングをしています)を見ながら、「体育教師の空きはない。しかし、…」と告げます。

 次の場面では、若い女性教師のエーイ(注3)が、校長に、「私のタトゥーを見ただけで、私を悪い教師だと決めつけている」と文句を言います。
 校長は、「タトゥーを消さないのなら、水上学校に転任だ」とエーイに告げます。

 更に場面が変わって、ソーンはバスに乗っていますし、エーイは車で悪路を進んでいます。
 どうやら、ソーンとエーイは、別の時期(ソーンは2012年、エーイは2011年)に同じ水上学校に向かっているようです。

 ソーンは、ダム湖に到着したバスの運転手から「ここが終点。ここからはボートだ」と言われ、ボートに乗ります。
 また、エーイは、もう一人の若い女性のジージーと一緒にボートに乗っていますが、船頭に「携帯は繋がる?」と尋ねると、船頭は「晴れた日は繋がる。でも年に数日しか晴れない」と答えます。

 水上学校に着いたソーンは、誰もいない教室で授業の練習をしますが、黒板の上部枠の上に置かれていた日記を見つけます。



 これは、ソーンの前任者のエーイが1年前の5月16日から書いていた日記で、どうやら彼女はそこに置き忘れていってしまったようです。
 次の場面では、エーイが、日記の第1ページに「追放の第1日 こんなド田舎…」と書き込んでいます。



 ソーンがこの日記を読んで、書き手のエーイに想いを寄せて、ということで物語は展開していきますが、さあどうなることでしょう、………?

 本作は、『ブンミおじさんの森』(2011年)以来のタイ映画ですが、同作がファンタジー性の濃い作品なのに対して、ラブストーリー物です。山奥の湖に浮かぶ水上学校を巡って、前任の女性教師と後任の男性教師とが日記を通じて気持ちが通じあって、…というよくありそうな感じのお話。2つの実話が元になっているとされますが、二人の俳優のみずみずしい演技によって、なかなか清々しい作品に仕上がっているなと思いました。

(2)本作は、2012年のソーンの物語と2011年のエーイの物語が同時進行的に交互に描き出されていて、初めのうちは見ていて混乱しましたが、慣れてくるとこうした描き方もありだなと思えてきて、一体どこらあたりで2つが合体するのか興味が湧いてきます。
 こうした描き方になるのは、ソーンがまったくの新人教師で、赴任先の学校も水上学校ということで特殊なために、前任者の経験を知ることが酷く大切なことになってくるからでしょう。
 そんなことが、本作のように2つの時点の出来事を交互に描くことによって、スムースに観客に伝わってきます。
 それに、ソーンが、会ったことのないエーンに次第に想いを寄せるようになるという次第も、エーンの姿を具体的に画面に映し出すことで、観客には説得力を増すように思われます。

 それにしても、スポーツだけが取り柄のソーンの学力の貧しさは相当なものです。
 なにしろ、前任のエーンが生徒のチョーンに出した算数の問題(注4)を解こうとしたら間違ってしまうのですから!
 いくら山奥の水上学校の先生だからといって、これではどうしようもありません。

 でも、台風に襲われた日の頑張り具合や、算数の問題文に登場する汽車を知らない子供達に対して彼のしたこと(注5)などを見れば、観客の方ではそんな彼を許してしまいます。 
 それに、ソーンは、もう一度学校に戻って教職課程を勉強し直した上で戻ってこようとしてもいるのですから!
 なによりも、そんなソーンでなかったら、前任者の書いた日記を熱心に読んだりしなかったでしょう!

 そして、エーイの婚約者のヌイもそれほど悪い男とは思えないとはいえ(注6)、見ているうちに、やっぱりソーンを応援してしまい、うまくエーイと一緒になればと願ってしまうようになります。

 本作にように、書いたものを通して想いを寄せ合うというストーリーの映画はこれまでにも作られていますが、最近のもので思い浮かぶものとしては、『親愛なるきみへ』でしょうか。
 ただ、同作は、アメリカ軍の軍人であるジョンチャニング・テイタム)と、資産家の娘であるサヴァナアマンダ・サイフリッド)が手紙のやり取りを通じて遠距離恋愛を展開するというものですが、本作と違って、ジョンとサヴァナとは初めから顔見知りなのです。
 本作のように、全く会ったこともない者同士が思いを寄せ合うという展開の作品はそれほど見かけないような気がします(注7)。

 なお、本作のような山奥の水上学校を描くとなると、常識的には、喧騒の都会にある大きな学校に通う生徒が送る非人間的な生活と、こうした学校に行く生徒の人間性溢れる生活とが対比されがちですが、確かに本作では、この水上学校の生徒たちの生き生きとした様子が描かれているとしても、都会の学校の酷い有様といったものは殆ど描かれていないために(注8)、ありがちな社会派的な視点からは脱しているように思われます(注9)。



(3)藤原帰一氏は、「この「すれ違いのダイアリーズ」は、ロマンティックコメディーの王道を行く作品です。男優は失敗を繰り返すけど飛び切りのハンサム、女優は美しいけれど自然なメークで美しすぎないなんてところには女性観客が集まることを期待した跡も見えますね。最後は二人がめぐりあうに決まっているわけですが(笑)、お定まりの結末に向けた映画の展開が巧みなので見ていて飽きません」と述べています。
 金原由佳氏は、「監督の力点は教育より恋のすれ違いに置かれ、先輩教師のエーンが抗っている学校の効率主義の描写が薄いのが残念。とはいえ、物語の甘さは水上小学校の幻想的なランドスケープが収拾する。鮮明なラストシーンは見る人全ての心に心地よい風を吹かせるだろう」と述べています。



(注1)監督・脚本は、ニティワット・タラトーン
 原題はタイ語で「キトゥン・ウィッタヤー」(劇場用パンフレットによれば、「恋しい学校」または「懐かしい学校」の意味)。英題は「The Teacher’s Diary」。

(注2)スクリット・ウィセートケーオ。ニックネームがビー。

(注3)チャーマーン・ブンヤサック。ニックネームがブローイ。

(注4)チョーンは、エーンが教えているときは小学5年生位だと思われますが、エーンは、日本とは違って1次方程式を使ってチョーンに問題を説明しています。

(注5)ボートを汽車に、湖面に浮かぶ水上学校を客車に、船着場を駅に見立て、湖の上をボートで水上学校を引っ張って、問題文を生徒に実感させようとします(実際に汽車を見たことがない子供達は、このようにしても何を意味しているのかよくわからないでしょうが、少なくともソーンの熱意は伝わることでしょう)。

(注6)エーイとヌイは結婚寸前のところまで行きますが、そこにヌイの子を宿した女が現れたため、エーイはヌイの元を去り、再び水上学校に戻ります(2013年)。ですがヌイは、春休みに水上学校に現れ、エーイに心から謝罪するのです。さて、どうなるのでしょうか、………?

(注7)本文の(3)で触れた藤原帰一氏は、『桃色の店』(1940年)とか『めぐり逢えたら』(1993年)、『ユー・ガット・メール』(1998年)を挙げています。
 なお、公式サイトの「作品情報」には、「これは2つの実話から生まれた物語。実在する水上学校の話と日記を読んで恋をした男性の話が元になっている」と述べられています。
 そして後者については、更に監督が、「プロデューサーの友人のある男性が職場を変わった時、自分に新しく充てがわれた机の中に、知らない女性の日記を見つけた、そしてその日記を読んでしまった、そうしたらとても感動してしまい、彼女を探し出して連絡を取った、そして最終的にその2人は結婚をしたという話」とインタビューで述べています。

(注8)とはいえ、ヌイが副校長をしている都会の学校で浮力を教える際に、エーイは、生徒を実際にプールに入れて体が軽くなることを実感させます。これを見た校長は、「プールで事故があったらどうするのか、普通の方法で子どもは理解する」と言い、ヌイを使ってエーイの授業のやり方を禁じます。こんなことが積み重なって、エーイはヌイと理解し得ないと思うようになります。

(注9)日本でも、一時、受験戦争に明け暮れる全日制の生徒の暗い目つきに対して、勉強することの熱意にあふれた夜間校の生徒の目の輝き、といったいかにも的な構図を持ったドラマが流行ったことがあったのではないでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:すれ違いのダイアリーズ
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スキャナー 記憶のカケラをよむ男

2016年06月06日 | 邦画(16年)
 『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』を渋谷TOEIで見ました。

(1)『のぼうの城』で好演した野村萬斎の主演作ということで、大変遅ればせながら(注1)映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、天井に取り付けられた大型の扇風機がゆっくりと回る部屋。そこに置かれたベッドで寝ていた少女が、起き上がって窓の傍に行き、外の広い庭でボール遊びをしている4人の子供達を見ます。
 そのボールが窓の傍まで転がってきて、ボールを拾いに来た少女と、窓の内側でそれを見ている少女とが目を見合わせます。

 場面は変わって、亜美杉咲花)が、先生の雪絵木村文乃)を傍においてピアノを練習していますが、途中で弾くのを止めてしまいます。



 亜美が「あと1ヶ月もない。もう弾きたくない」と言うと、雪絵は亜美の爪をヤスリで磨きながら、「あなたには才能がある」と言うのですが、亜美は「何でやらなくてはいけないの?自分の夢をあたしに押し付けないで」と叫んで、その場から立ち去ってしまいます。

 ピアノを練習していた場所の外に出た雪絵は、自転車に乗って帰りますが、途中で何かを見付けたのか、自転車を止めて様子を見に行きます。
 そこには白いワンピースを着た女がうずくまっています。
 雪絵が「大丈夫ですか」と言って近づくと、その女は立ち上がり雪絵をナイフで脅します。

 次の場面は、商店街の演芸会のシーン。
 女が「人生いろいろ」を歌った後に舞台に登場した丸山宮迫博之)は、観客をしらけさせるばかりのしゃべりを続けるため、演芸会世話役によって舞台から引きずり降ろされてしまいますが、楽屋で待ち受けていたのは、借金取り立て人。
 ほうほうの体で逃げ出した丸山は、所属の芸能プロダクションに戻ります。ところが、そこでも社長(高畑淳子)から「契約解除」を通告されてしまいます。

 そこに現れたのが亜美。「マイティーズの力を借りたい」と言うのです。
 マイティーズは、丸山と、今ではマンション管理人となっている仙石野村萬斎)とが昔結成していたお笑いコンビ。さあ、亜美は、この二人にどのような頼みごとをするのでしょうか、………?

 本作は、残留思念を読み取ることができる超能力を持った主人公らが殺人事件に巻き込まれてそれを解決するというサスペンス物。主演の野村萬斎と相手役の宮迫博之はもう少し肩の力を抜けばという感じながら、物語の展開に意外性があり、まずまずの出来栄えでしょう。ただ、スキャニングするのが「思念」なのか「記憶」なのか、などといったあたりが曖昧になってしまっているのではないか、とも思いました。

(2)本作では、『のぼうの城』で殿様役だった野村萬斎が、専門家の宮迫博之とコンビを組んで漫才をやるという思いがけない設定になっていて、それはある程度成功しているように思います。
 ただ、野村萬斎が扮する仙石は、スキャニングという超能力によって人間の裏側を見てしまい、人間嫌いになって漫才をやめてマンション管理人となっているとされていますが、その際の例示はあまり大したもののように思えないところです。



 例えば、あるカップルの女性の婚約指輪をスキャンするのですが、「夜景が美しいレストランでのプロポーズで、「一生僕と一緒にいてください。“ゆみこ”さん」と男性が言います」と仙石がスキャンした内容を言うと、その女性は「“ゆみこ”はこの人の前の彼女!」と怒り出してしまいます。男性の方も「お前ら訴えてやるからな!」と憤激します。
 ただ、こんなことくらいで、人の醜さを見てしまったと舞台から降りてしまうのは、ちょっと軟すぎる感じです。
 とはいえ、本作は娯楽作品ですし、また仙石は11歳の時に養父母の会話をスキャンして知り(注3)、それにショックを受けて家を飛び出してしまったほど敏感な感受性を持っていますから、むしろ当然なのかもかもしれません。

 ですが、仙石がスキャンして読み取る過去の出来事とは一体何なのでしょうか?
 なるほど、公式サイトの「作品情報」の冒頭では、「スキャニング=思念を読み取る特殊能力」とされ、「思念とは?」のところには、「物や場所に残った人間の記憶、感情が一体となった波動の塊」とされています(注4)。
 でも、「記憶」というのは、常識的には、脳の中に蓄積されているものではないでしょうか(注5)?
 仙石が、人の頭に手を置いて、脳内に蓄積されている記憶をスキャンできるというのであれば、随分と理解しやすいものとなるでしょう(注6)。
 でも、その記憶が脳の外に出て、記憶の素材となる物体などに付着しているというのは、どういうことでしょうか?
 もしかしたら、ある物体の周辺で人間が動き回ったら、それぞれが発している物質波が変化し、あるいはその変化が物体とか人間に付着して残存するということもあるのかもしれません。
 でも、それは記憶と呼べないのではないでしょうか?あくまでも人間の脳内に蓄積されたものが記憶ではないでしょうか?だから、仙石は、「人間の記憶は嘘をつく、自分の都合のいいように書き換える」と言うのではないでしょうか(注7)?
 本作の場合、まるで、カップルの女性が指にはめていた婚約指輪とか、養父母が座っていた居間のソファーが動物のように脳を持っていて、そこに記憶されている映像を仙石がスキャンして読み取っているような感じを受けます。

 とはいえ、こういうことには余り拘泥せずに(注8)、素直に設定を受け入れて映画を楽しむべきなのでしょう。
 そうして見た時には、野村萬里と宮迫博之は、どちらもがんばっているとはいえ、やや動きがぎこちないところも見え、警視庁刑事役の安田章大とか雪絵役の木村文乃が自然な感じで良かったように思いました。

 それにしても、仙石はラストで、管理人をしているマンションの屋上に出て、「僕の方こそありがとう。人間は美しいね」と呟きますが、悪魔と契約していたファウストならまだしも、こうした殺人事件を解決したくらいで言うには少し大袈裟なのでは、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「現代劇初挑戦となる狂言師の野村萬斎と、俳優としてのキャリアも順調な雨上がり決死隊の宮迫博之という、凸凹コンビの組み合わせが、それだけで笑いを誘う」などとして50点をつけています。
 前田有一氏は、「まとめとして、脚本の良さを完全に生かし切っていない映画ではあるが、ストーリーという屋台骨がしっかりしているので十分に楽しめる出来。高校生や女性客など、それほどのハイクオリティを求めない客層が、テレビドラマレベルより面白いミステリを求めるならばいいチョイスとなる」として70点をつけています。



(注1)主要館での上映は6月3日で終わりました。

(注2)監督は金子修介
 脚本は、『寄生獣』などの古沢良太(本作は、同氏のオリジナル脚本)。

 なお、出演者の内、最近では、野村萬斎は『のぼうの城』、宮迫博之は『純喫茶磯辺』〔この拙エントリの(2)で触れています〕、安田章大は『ばしゃ馬さんとビッグマウス』、杉咲花は『トイレのピエタ』、木村文乃は『ピース オブ ケイク』、警視庁捜査一課主任の野田役の風間杜夫は『青天の霹靂』、高畑淳子は『駆込み女と駆出し男』で、それぞれ見ました。

(注3)それまでの記憶を持たない仙石は、11歳の時に養子としてある家に引き取られますが、養父は政治家で、その養父が「あの子を養子にしたのは、票を増やすため」と養母に言っているのを、スキャニングで知ってしまいます。

(注4)続けて、「この世界のあらゆるもの―個体、液体、気体、エネルギーはすべて粒子で出来ており、その粒子は情報を持って自在に飛び交っている。人の想いもまたエネルギーであり、強いエネルギーは物体や大気中に残り続ける。その粒子と自分の粒子の波長を合わせれば、情報を写し取ることが可能となる」と述べられています。

 なお、「思念」とは、常識的には「常に心に深く思っていること」とされ(例えば、この記事)、「思念」=「記憶、感情」という本作の定義には少々違和感を覚えます。
 また、「残留思念」は、Wikipediaでは、「人間が強く何かを思ったとき、その場所に残留するとされる思考、感情などの思念を指す」とされていて、「記憶」への言及はありません。

(注5)尤も、フランスの哲学者・ベルクソンは、『物質と記憶』において、「脳は記憶の保存場所ではない。記憶は脳から独立して存在する」という有名なテーゼを提起したそうです。としても、脳と記憶とが無関係ということではないでしょう。

(注6)尤も、仙石のスキャンは、生きているものに対しては効かないとされていますが!
 ただ、ラストの方で、仙石が横たわっている犯人の上に手をかざすと、兄妹が楽しく遊んでいる映像が映し出されますが、これは犯人が死ぬ前にスキャンされたものではないでしょうか(その後に犯人は死にますから)?
 なお、仙石がスキャンしたものは、仙石の頭の中で再現されるだけであって、それを他人が見ることは出来ないように思われます(マルティーズの漫才でも、スキャンした内容を仙石が口で観客に報告するようにしています)。
 そう言えば、ラストの方で、ボールを仙石がスキャンすると、霞高原の合宿所の庭での光景が映像で示されますが、この映像は犯人に見えているのでしょうか?でも、犯人はスキャンする能力を持たないでしょうから、見えていないはずです。としたら、仙石が話す真相が嘘ではないという証拠が何もないことになってしまいますが(犯人は、自分の記憶が書き換えられているのではなく、仙石が嘘をでっち上げているだけだとあくまでも主張するのではないでしょうか)?

(注7)それに、脳外の物体に付着している「記憶」を、仙石のような特殊能力を持たない一般人はどうやって“書き換える”のでしょうか?

(注8)こうした問題は、実際のところは取り扱いが難しく、いくら議論しても明快な結論に達しないでしょうから。



★★★☆☆☆



象のロケット:スキャナー 記憶のカケラをよむ男
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ズートピア

2016年06月03日 | 洋画(16年)
 『ズートピア』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)ディズニー・アニメながら評判が大変良いので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、バニーバロウという町にある大きな小屋の中で演じられている子供達の劇のシーン(注2)。
 ウサギのジュディが舞台に現れ、「恐怖、裏切り、流れる血。数千年前、私たちの世界は大きな力で支配されていて、捕食者(predator:肉食動物)は獲物(prey:草食動物)を求め、草食動物は肉食動物を怖れていました」と叫び、舞台の上ではウサギがジャガーにやられて血を流して死にます。
 ジュディは、「世界は昔2つに分かれていました。危ない動物とおとなしい動物とに」と言った後に、さらに「でも、時間が経つに連れて私たちは進化して、おとなしい動物になりました」と付け加えます。
 そして、ジュディが「今や若い動物たちは様々な可能性を持っています」と言うと、ヒツジは「私は宇宙飛行士にだってなれる」と、ジャガーは「アクチャリーになる」と言い、ジュディは「より良い世界にするために、大きくなったら警察官になるの」と宣言します。
 最後に、ジュディは、「340km先に素晴らしい都市があります。ズートピアです。そこでは何にでもなれます」と述べます。

 小屋の外で、ジュディの父親は「夢を諦めたから幸せになったんじゃないか、母さん?」、母親は「そうよ。警察官になるのは大変よ」、二人で「夢を持つのもいいが、人参作りがいいよ」と口々にジュディに言うのですが、ジュディは、「いいえ、私が世界で初めてウサギの警察官になる」と主張します。

 その時、ジュディは、キツネのギデオンが子ヒツジをいじめて、切符を奪い取っているのを見ます。ジュディが「返しなよ」と言うと、ギデオンは「ウサギが警察官になれるか」と無視します。
 ジュディが「あんたなんか怖くない」と言うと、ギデオンはジュディを殴り倒し、「お前は人参を作ることしか出来ないマヌケなウサギなんだ」と罵ります。
 ジュディは起き上がってギデオンにとびかかっていきますが、結局はやられてしまい、ギデオンは笑いながら立ち去ります。
 ですが、ジュディは奪われたはずの切符を取り出しながら、「取り返したよ!」「私は絶対諦めない!」と叫びます。

 こんなジュディは、15年後に警察学校を主席で卒業してZPD警察官となり、ズートピアに向かいますが(シティーセンターの第1分署に配属)、さあそこではどんなことがジュディに待ち受けているのでしょう、………?



 本作は、登場するキャラクターがすべて動物のアニメ。誰でも夢をかなえることができるとされるズートピアに行って立派な警察官になろうとしたウサギと詐欺師のキツネとが、ズートピアで引き起こされる大事件に巻き込まれて、…というお話しながら、映し出されるアニメーションがとても綺麗で素晴らしく、また描かれる物語もサスペンスが溢れて実に面白いので、大人の鑑賞に十分耐える仕上がりとなっています。

(2)本作の公式サイトの「作品情報」に掲載されている「監督からのメッセージ」では、「ズートピアの住人たちは、私たち人間のようなもの。どちらも同じように、性別、年齢、学歴、出身地、見た目…そんな“違い”から生まれる様々な偏見の中で生きています。もし、その“違い”を個性として認め合うことが出来たら、私たちの人生はもっと豊かになることでしょう」と述べられています。
 劇場用パンフレット掲載の小林真理氏のエッセイでも、「子どもにもわかりやすい、ポジティブなメッセージ」として、「動物も人も、見た目や先入観だけで判断してはいけないのである。昨日の敵とも今日の素敵な友だちになることができるし、自分を変えることで何にでもなることができるのだ」という点が指摘されています。

 確かに、本作を見ると、偏見とか先入観が渦巻いています。
 具体的には、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」の中で、バイロン・ハワード監督は、「私たちは一般的に、動物界を支配しているのは捕食動物だと思いがちですが、実際には彼らは少数派(注3)なのです」と述べています(こうしたリサーチから、固定観念や偏見を扱ったストーリーにたどりついたとされています)。
 また、原案の一人のジョン・トリニダードは、「私たちは徐々に動物にまつわる固定観念(ゾウは決して記憶を忘れない、キツネはずる賢い、ウサギはシャイ)を扱う方向に傾倒していきました」と述べます。
 実際にも、例えば、ジュディは「ウサギが警察官になれるはずがない」とのべつ言われますし、警察学校を主席で卒業して任務につきながらも、水牛のボゴ署長は、同僚の図体の大きな動物たちにジュディを紹介せず、さらには彼らを行方不明事件の捜査に当てるのに対し、ジュディを駐車違反の取り締まりという意気を阻喪させる仕事に振り向けたりします。
 それに、ジュディとコンビになるキツネのニックは、ずる賢くて信用出来ないとの偏見に対し開き直って、むしろ詐欺師として生きています(注4)。



 ただ、先入観とか偏見に人はとらわれがちだからそうしたものを持たないようにしようといった一般的なレベルであれば、わざわざ言われなくとも人はよくわかっているのではないでしょうか?
 クマネズミには、そうした言い様ではなくて、問題なのは、例えば、「動物界を支配しているのは捕食動物」とか、「ゾウは決して記憶を忘れない、キツネはずる賢い、ウサギはシャイ」といった具体的な個々の固定観念の方ではないかと思えます。
 もともと人は何らかの固定観念とか偏見なしにモノを見ることが出来ないのでしょうから、そんなものすべてを取り除くことなど不可能でしょう。むしろ、個々の偏見とか先入観とかが他の人の生活までも酷く脅かすことになるような具体的な場合に、個別的に一つ一つそれを取り除いたり、うまく取り扱ったりすることを考えるべきではないでしょうか?

 それはともかく、本作においてさらに注目したいのは、さまざまな偏見に遭遇して苦労するジュディ自身もまた、そうした偏見に囚われていることも本作で描かれている点です(注5)。
 “お前は偏見や固定観念に縛られている”と他人を批判することはある意味たやすいとしても、そのように批判する人自身が自分自身を振り返って自分も偏見に囚われていると理解することはなかなか難しいのではないでしょうか(注6)?

 ただ、こうした教訓めいたこと、あるいはメッセージとかは、本作を楽しむ上ではどうでもいいことでしょう。映画を見ながらそのような教訓を学ばなくてはいけないとしたら、映画が楽しくなくなってしまいます。
 むしろ、ジュディが最初に警察署に出向いた時に大きな問題になっていた行方不明事件の捜査を巡って描き出される冒険譚は、大層スリリングであり、また解明された真相の意外性もあって、見ていて大層面白いと思いました(注7)。

(3)渡まち子氏は、「まさに大人も子ども楽しめるスキのない作品で、見所はたくさんあるが「努力すれば夢はかなう」という希望が見えにくい現代社会だからこそ、この作品のメッセージが胸に迫ってくるのだ」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「もっとも、そうしたテーマ性にしろ、表面上のストーリーにせよ、それほど優れたようにも思えないので結果的にこの映画が歴史に残ることはないだろう。それでもこの程度ならいつでも出せますよというのだから、ディズニーの底力たるや恐ろしいものがある」として60点をつけています。



(注1)監督は、バイロン・ハワードリッチ・ムーア

(注2)こんな感じの劇です。

(注3)バイロン・ハワードによれば、「およそ9割にあたる動物たちが、捕食される側の動物」とのこと。

(注4)ジュディは、街でキツネのニックを見つけると、怪しいと睨んで後をつけます。するとニックは、子どものキツネ(実は小さなフェネックギツネ)を連れてアイスクリーム店に入りますが、店長のゾウが、「俺の店でトラブルはごめんだ」と言って出て行かせようとします。ニックは、「トラブルは起こさない。息子のためにアイスクリームを買いに来た。息子はゾウが大好きだ。子供の夢を叶えてやりたい」などとしゃべります。にもかかわらず売ろうとしないゾウを見たジュディは、「お客さんは知っているのかな、アイスに鼻水が入っていることを」と脅しをかけながら、「優しいパパと息子にアイスクリームを売ってあげて」とゾウに頼み込み、それがうまくいくと、財布を忘れたというニックに代わって代金を支払ってあげます。
 ですが、ジュディは、ニックたちが、買ってあげたアイスクリームを小分けして売り歩き、ネズミが買うのを見てしまいます。
 呆れたジュディが「助けてあげたのに酷いじゃない」と詰ると、ニックは、「詐欺師と言ってほしい。あきらめるんだな、ニンジンよ。俺はこの道のプロなんだ」と答えます。

(注5)上記「注4」の冒頭にあるように、ジュディは、キツネのニックを見るとそれだけで怪しいと睨んで後をつけたりします。
 また、ジュディは、行方不明者を探し出して時の人となり記者会見を開きますが、その席で、「肉食動物だけが凶暴になるのはDNAが関係するように思う。何らかの理由で野生に戻るものと思う」と述べてしまいます。
 その記者会見を聞いたニックは、ジュディに「俺が怖いか?凶暴になると思うか?お前を食うと思うか?」「肉食動物を相棒にするのはやめた方がいい」と言って、ジュディの元を去ってしまいます。反省したジュディは、「ZPDの顔になってもらいたい」と言うヒツジの新市長ベルウエザーの要請を蹴って、警察バッジを返却してしまいます。
 その後、肉食動物が凶暴になる原因がわかり、大いに反省したジュディはニックに謝り、二人で行方不明事件の真相解明に当たることになります。それで暴き出された真相とは、………?

(注6)この記事で、「サヨク ウオッチャー」の筆者は、「(本作の)最大のポイント」として、「差別や偏見を捨て去ることでどれだけ世界の見方が広がり、人生が豊かになり、日々が楽しくなるかを興奮とともに実体験させてくれる」という点を挙げています。
 のみならず筆者は、通り一遍の見方では「偏見にもとづいた間違った思い込み」による解釈しかできないことを教えてくれます。そして、「詐欺師ディズニーが巧妙に隠していた正解は「強者のうさぎに差別され親にまともな職もなく家庭でネグレクトされてきたマイノリティの狐(黒人)が、差別的な草食獣(白人)による偏向教育で脅迫の方法を学びそれを武器にし抵抗した」というものなのだ!」という点が明らかにされます。「既に7回も見てしまった」と述べる筆者だけあって、さすがに深い解釈と思います。
 ただ、「強者のうさぎに差別され親にまともな職もなく家庭でネグレクトされてきたマイノリティの狐」という点は、本文でも触れたように、バイロン・ハワード監督が夙に述べているということはさておいても、筆者が「サヨクやリベラルはよく、「差別は正義に反するからやめろ!」「偏見を持つのは良くない」などと偉そうに説教をしつつその実平気で差別するどころかテロ等の暴力さえ振るう」と述べる時、「サヨク」とか「リベラル」にまつわる偏見とか固定観念に筆者自身が囚われていないのでしょうか?

(注7)何しろ、トガリネズミのMr.ビッグにジュディとニックは捕らえられて、氷漬けにされる寸前になったりするのですから!



★★★★☆☆



象のロケット:ズートピア
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殿、利息でござる!

2016年05月31日 | 邦画(16年)
 『殿、利息でござる!』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編を見ておもしろそうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「これは本当にあった話」と字幕が出て、先代の浅野屋甚内山崎努)が、貨幣を壺の中に投げ入れてニタっと笑い、次いで、2階の戸を開けて外を眺めます。
 すると、下の道に、家財道具を大八車に積んで夜逃げを図る忠兵衛芦川誠)の一家の姿が。それを見た甚内が、「どこへ行く?家財道具一式ではないか。あんたには銭を貸していたな?」と言って姿を消す一方で、忠兵衛は「お許しを」と答え、立ち止まります(注2)。

 次いで、「それから10年 明和3年(1766年)」の字幕が出て、街道を進む男女のシーン。
 男は茶師の篤平治瑛太)。嫁にもらったばかりのなつ山本舞香)が、馬に乗りながら「そんなに貧しい村なのですか?」と尋ねると、篤平治は、「いやいや。決して苦労はかけません。茶を作ればいいだけです」「私は、ここでは町で一番の知恵者と言われています」などと答えます。そこへ肝煎幾右衛門寺脇康文)がやってきて、「馬をくれ」と言って、なつを馬から降ろしてその馬を連れていってしまいます。

 タイトルが映し出され、濱田岳によるナレーションにより、舞台となる仙台藩の吉岡宿について説明されます(注3)。
 次いで、伝馬屋敷で伝馬役のための作業をする人々の姿。
 そして、それを見ている造り酒屋の穀田屋十三郎阿部サダヲ)。
 そこへ先の篤平治がやってきて、「まったく酷いものですな。着いた早々、馬を取られました。相変わらずですな、この町は」と言うと、十三郎は「そのとおり、何も変わらぬ」と答えますが、十三郎が書状を手にしているのを見咎めて、篤平治が「そんなこと(直訴)をすれば、首を刎ねられておしまいですよ」と止めるのに対し、十三郎が「もう決めたこと」と言ってもみ合っていると、代官の八島斎藤歩)が「それは何だ!」と怒鳴りつけます。



 篤平治は、懐から別の書状を取り出し、「九条関白家様より、茶銘を賜りました」と言ってその場をなんとか切り抜けます。

 こんな風に物語は始まりますが、さあこれからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、磯田道史氏の『無私の日本人』の中の一編を映画化したもので、実話に基づくとされていますが、ややコミカルに作られていて、どこまでが史実に従っているのかはよくわかりません。でも、仙台藩の宿場町の町人らがお上に1,000両貸しつけて利息を得て苦役の負担を軽減するという話を、阿部サダヲ以下の芸達者たちが演じていて、当時の事情がよくわからない面はあるとはいえ、まずまず面白い作品に仕上がっています。

(2)本作は、映画『武士の家計簿』の元となる著書を書いた磯田道史氏の書いた短編を原作としています。前の著作は、新潮新書の純然たる歴史書ですが、後者は江戸時代に書かれた記録(注4)に依拠しながらも、登場する人物による会話が様々に組み込まれた小説仕立てになっています。
 本作の脚本は、その短編小説に基づきながら作られているわけで、映画の冒頭に「本当にあった話」とされてはいるものの、どこまでが史実なのかなどよくわからない点があるような気がします。
 確かに例えば、江戸時代の記録には、「下町平八」(尾上寛之)が登場し、早坂屋新四郎橋本一郎)を説得する映画と同様の場面が描かれていたりします(注5)。
 でも例えば、竹内結子の扮する酒場の女将・ときですが、原作の短編小説には登場しません。それに、ときが営む「しま屋」のような現代の大衆酒場まがいの椅子とテーブルのある酒場が江戸時代に実際にあったとも思えないところです(注6)。



 なによりもよくわからないのは、十三郎らが集めたお金が5,000貫文(1,000両)で、現代のお金に換算するとおよそ3億円にも上るという点です。
 年々衰退しているという吉岡宿のどこにそんな大金があったのでしょう?
 百姓は、厳しい年貢の取り立てで疲弊してもいたのではないでしょうか(注7)?

 よくはわかりませんが、本作で描かれる計画に加わった9人のうち、少なくとも6人が商人(注8)という点が鍵になるような感じがします。
 というのも、江戸時代の商人は、相応の税金を徴収されていないようにも考えられるからですが(注9)。
 仮にそうだとしたら、吉岡宿の商人らは、お金を相当に貯めこんで隠し持っていたことになり、本作の計画に対しても拠出できたのかもしれず、現代の観点からしたら、ある意味で、彼らはすべきことをしたまでとも考えられるかもしれません(注10)。

 そして、財政逼迫状態の仙台藩の方としては、手間のかかる七面倒臭い所得・財産調査などせずとも、町方が進んで金を持ってくるのですから、まさに渡りに船というところであり(注11)、また商人らとしても、どの程度吉岡宿の中で取引していたのかわかりませんが、吉岡宿の維持・繁栄(注12)は自分たちの商売等にプラスだと踏んだのではないでしょうか(注13)。

 ただそうであっても、当代の浅野屋甚内妻夫木聡)は、一人で2,000貫文(約1億2,000万円)もの大金を出したのであり(注14)、これはおいそれとは出来ないことでしょう。



 無論、こんなどうでもいいことをぐちゃぐちゃ考えずに、江戸時代の勇気ある人々の功績を素直に受け止めて、映画を味わえば良いのでしょう。
 でも、クマネズミは、どうしても物語の設定の方に関心が行ってしまい、正直あまり乗り切れなかったところです。

(3)渡まち子氏は、「日本人がすべてこのように無欲だとは思わないが、こんなにも純粋で、かつ知恵が働く庶民がいたのかと思うと、なかなかやるじゃないか!とこっちが誇らしくなった」として70点をつけています。
 森直人氏は、「主張はシンプルだ。目先の私利私欲を超え、いかに射程の長い未来像を描けるか。群像劇のさばき方は細やかだが、全体のタッチは毛筆で書いた太文字のような力強さにあふれている」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『残穢―住んではいけない部屋―』の中村義洋
 脚本は、さらに『残穢―住んではいけない部屋―』の鈴木謙一
 原作は、磯田道史著『無私の日本人』(文春文庫)所収の短編「穀田屋十三郎」。

 なお、出演者の内、最近では、阿部サダヲは『寄生獣 完結編』(声の出演)、瑛太は『64 ロクヨン 前編』、妻夫木聡は『家族はつらいよ』、竹内結子は『残穢―住んではいけない部屋―』、松田龍平は『モヒカン故郷に帰る』、草笛光子は『0.5ミリ』、山崎努は『俳優 亀岡拓次』、寺脇康文は『超高速!参勤交代』、きたろうは『樹海のふたり』、千葉雄大は『モヒカン故郷に帰る』、橋本一郎は『森のカフェ』、西村雅彦は『家族はつらいよ』、山本舞香は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。

(注2)映画の後半で、この時の先代の甚内は、2階から降りてきて忠兵衛に銭をくれた上で、「借金もかまわない。悪いのは世の中の仕組みのせいで、あんたのせいじゃない」などと諭したのだ、と吉岡宿に戻ってきた忠兵衛が仲間に話します。

(注3)あらまし、次のような内容です。
 吉岡宿は、上町、中町、下町からできている小さな宿場町で、住民の殆どは百姓。と言っても、半分は商売で生計を立てていた。でも、近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて、ここのところ景気は酷く悪化。
 さらに、伝馬役を負担するために、馬を買ったり人足を雇ったりしなくてはならず、そのために、破産したり夜逃げする者が出てきて、吉岡宿の家の数は年々減少していた。

(注4)同短編が依拠しているのは龍泉院榮洲瑞芝・和尚(本作では上田耕一が扮しています)の記した『吉岡國恩記』であり、それはこのサイトで読むことが出来ます〔同書は、大正15年に「仙台叢書」の中に取り込まれて活字出版され、それをこのサイトで読むことが出来るのです〕。

(注5)磯田氏の著書に「平八が早坂屋を説得したときの一部始終は、のちに『國恩記』に精確に記録された」とあるので(文庫版P.89~P.90)、上記「注4」で触れたサイトにあたってみると、「460 下段 國恩記巻之二」(11/39)以下に記されています。

(注6)例えば、このサイトの記事や、このサイトの回答を参照してください。

(注7)年貢を収めているはずの農民については、本作ではほとんど描かれていないように思います。
 ただ、原作の短編小説では、「吉岡宿は貧しい宿場であり、1貫文以上の田畑をもつような者は、わずかに8、9人にすぎないこと。それで、月に6度開く市で小商いをしてようやく糊口をしのいでいるが、その商いも細っている」と述べられていることからすると(文庫版P.107)、半農半商の貧しい者が吉岡宿で家を構えていたようにも思われます。彼らは、田畑については年貢を納めるものの、そして伝馬役の負担はあるものの、小商いの部分について税金は取られていないのではないでしょうか。

(注8)彼らは、造り酒屋が2人(浅野屋は質屋も営んでいます)、そして味噌屋、雑穀屋、両替屋、小間物屋とされています(吉岡宿は宿場町にもかかわらず、不思議なことに「宿屋」が入っていないのです!)。そして、茶師の篤平治を加えれば7人。
 なお、残る大肝煎の千坂仲内千葉雄大)と肝煎の幾右衛門は豪農なのかもしれません(彼らは、検地逃れとか新田開発といったことで蓄財していたように思われます)。

(注9)少なくとも、商人は年貢(米)を収めることはしていないでしょう。
 Wikipediaによれば、運上とか冥加が課されていたようですが、それがどのくらいの負担なのかはどうもよくわかりません。とにかく、儲けの一定割合(現代の所得税・法人税のように)といった課税の仕方はされていなかったように思われます(なお、このサイトの「回答」があるいは参考になるかもしれません)。

(注10)現代の視点からすれば、吉岡宿の繁栄という公共目的を達成するのに、その住民が所得に応じて一定の負担をするのは、ある意味でアタリマエのことのようにも思えるところです。とはいえ、当時は、そうした所得(商人の場合は儲け)に対する税金という考え方は取られていなかったので、そんなことを言ってみても意味はありませんが。

(注11)藩の出入司の萱場松田龍平)は悪乗りし、銭ではなく金で収めるべしと言って、金と銭との交換差額(800貫文←約4,800万円)までせしめようとします。

(注12)上記「注3」にあるように、吉岡宿が「近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて」いるのであれば、宿場の規模が縮小するのは長期的には止めがたいことでしょう。
 ただ、十三郎らが伝馬役の負担さえなんとかなれば町の衰退を食い止められると考えたのは、短期的には意味があることと思われます。
 なお、その伝馬役の負担ですが、原作の短編小説によれば、「1軒前の家に銭6貫文、半軒前の家に銭4貫文」(1貫文は約6万円)とされています(文庫版P.107)。
〔ここからすると、伝馬役というのは現代の固定資産税のような感じに思えます〕
 単純平均30万円で、吉岡宿は200軒ほどの家があるとされていますから、少なくとも6,000万円ほどかかるものと推測されます。
 他方で、本作の計画によって毎年藩の方から支給される利息は100両(約3,000万円)。
 これからすると、必要額の半分程度が賄われている感じになります。この金額によって吉岡宿で暮らす人々の暮らし向きが良くなるのかどうかはよくわかりません(おそらく、クマネズミの計算に誤りがあるのでしょう)。

 あるいは、原作の短編小説においては、篤平治は、「いくら、あれば、この宿を救えるのじゃ」との十三郎の質問に対し、「千四五百両」と答えているのです(文庫版P.24)。ところが、直ぐ後に篤平治は、なぜか「お上に千両ほど貸せば、お上から年に百両ちかく利足がとれるはず」云々と述べて(文庫版P.26)、以降は「千両」しか出てきません。
 あるいは、当初の「千四五百両」(約4,500万円)の方が実情にあっていたのかもしれません。

(注13)平均で一人500貫文(約3,000万円)ほどの資本投下に対する見返りは、短期的には微々たるものであっても、長期的に見れば宿場内での取引が盛んになって、それなりのものが期待できると考えられるのではないでしょうか。

(注14)原作の短編小説によれば、穀田屋十三郎以下が550貫文〔ただし、早坂屋新四郎は300貫文、穀田屋善八中本賢)は200貫文〕を拠出し、これに浅野屋甚内の2000貫文を合わせ、都合5,800貫文(金1,000両)を集めたとされています(文庫版P.166)。
 他方で、映画で描かれる女将ときの50貫文とか、穀田屋十三郎の息子の音右衛門重岡大毅)の250貫文とかはフィクションでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:殿、利息でござる!
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