SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

落花の風情

2006年03月31日 | 日常生活・事件
 都心はこの週末が見頃のようだ。

 満開の桜もいいが、その後の花吹雪もなかなか風情がある。

 職場の近くの小さな公園も満開だ。寒冷前線のおかげでまだ花吹雪を見るところまでは行かないが木のそばに行くとすでにいくらか散っている。

 ところが、よく見るとそれは花びらではなく、すべて、ガクについたままの丸ごとの桜花なのだ。風に舞うというより、ポトリと落ちるのだろう。こういう種類の桜もあるのかと話していたら、そばで聞いていた別の人が、それは鳥がつついて落としてしまうのだと教えてくれた。

 新種説はそれで消えた。

 桜の季節はさまざまな別れがある。
「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」

 そして新たな出会いのとき・・・・

映画「エミリー・ローズ」~ 恐怖の感動作

2006年03月29日 | 映画(ア行)
 悪魔つきの真偽を巡る異色の裁判劇。その証言に基づく再現映像がエクソシズムの話になっている。

 TVスポットがもっぱらその再現映像部分で構成されているのはやむをえないだろうが、単なるオカルト・ホラーではなく、きわめて真摯な態度で作られた作品に思える。
 エミリーは間違いなく聖人に列せられる、という神父の言葉が説得力をもって描かれる。

 W・フリードキン監督の「エクソシスト」と比べられるだろうが、ロバート・ワイズの「オードリー・ローズ」という良く似た名前の作品もある。こちらは輪廻転生がテーマになっており、やはり法廷シーンがあるそうだ。

 並みの血しぶきホラーよりよほど怖いと思った。そしてさらに感動的でさえある。実話の映画化。

映画 「ロバと王女」

2006年03月28日 | 映画(ラ行、ワ行)
 原作(原題も)はシャルル・ペローの童話「ロバの皮」。同じペローの「シンデレラ」をベースに日本の竹取物語をミックスしたようなお話になっている。

「最も醜いものに最も聖なるものが宿る」というテーマはミュージカル「キャッツ」などにも見ることが出来る。

 圧巻はなんと言ってもドヌーブの美しさ。それにジャック・ペランの若いこと。
 森光子がいまだに舞台で若い役を演じるのとは違い、若いころの彼らをそのままの姿で見ることの出来る至福が、ここにはある。

 1970年の作品だが、もともと御伽噺風のつくりなので今見ても違和感はない。逆に突然出てくるヘリコプターが昔も今もおかしい。

映画 「SPIRIT」 ~ 進化形としての東洋的価値観

2006年03月23日 | 映画(サ行)
 武道の精神(SPIRIT)が描かれた作品。

 報復の連鎖のむなしさに気付く主人公の、武道家としての進化が作品のテーマ。それは東洋的な価値観といってもよく、主人公を理解するのは唯一日本の武道家のみである。主人公の到達した世界は「武士道」ときわめて近いのかも知れない。

 欧米列強に蹂躙された中国を武道の世界から描く。その列強側に日本はいるわけだが、日本の恥の部分と礼節を重んじる部分が二人の登場人物に分けて、中国映画の中できちんと描かれているのだ。

 日中関係をこじらせるだけの、ある頑固な日本の政治家とはえらい違いだ。9.11以来報復の連鎖から抜け出せないブッシュ政権にも東洋の知恵を学び取ってもらいたい。

 原題をカタカナ表記しただけの邦題は多いが、このところ「PROMISE」「THE MYTH 神話」そして本作、と中国映画にアルファベット表記の邦題がついた作品が続いている。

映画 「ポビーとディンガン」 ~ 主役が画面に出てこない映画

2006年03月22日 | 映画(ハ行)
 本当に大切なものは目に見えない、ということを映画にしたような作品

 オーストラリアから想像する豊かな自然景観はまったく出てこない。殺伐とした砂漠のようなオパール採掘現場と裁判のシーンが主な舞台。以前ヘルツォーク監督が撮った「緑のアリの夢見るところ」も似たような舞台設定だった。

 最初は観客のほとんども「目に見えないものは信じない」立場から物語を見ることになるが、劇中の同じ立場の登場人物がそうなるように少しずつ心が変化してくるのが分かる。実は、そのイマジナリー・フレンドは本当はいて、ただ我々の目に見えていないだけなのかも知れない、とも思えてくるのだ。

 幼い女の子がこれから現実社会とどう折り合いをつけていくかという、かなり深いテーマをファンタジーの形で見せてくれる。

 子供が主人公だけれど子供の映画ではない。

映画 「ナルニア国物語」

2006年03月20日 | 映画(ナ行)
 ファンタジーの原点といわれている作品、待望の映画化。
 サンタクロースやキリスト復活を思わせるエピソードも盛り込まれている。

 戦時中の地のストーリーからナルニアのファンタジー世界へ入り込むという構成は「ロード」や「ハリー・ポッター」と少し趣が違う。が、物語は単純なので、多くの登場人物を覚えきれない不安もなく、分かりやすい。
 子供にも安心して見せることの出来るファミリー映画といえるだろう。

 ハリー・ポッターのように脇役陣が厚いわけでもないが、主役の少年少女が物語を十分に支えている。テレビの来日報道では普通の子供たちという印象だったが、スクリーンの中では、なかなか魅力的だ。
 
 続編製作決定ということだが話は一応完結している。
 あちら側で歳月を経て大人になっても、こちらでは時間が経過しておらず、戻ったときは元の少年少女のままだ。続編でまた向こうへ行ったら大人の彼らが活躍するのだろうか?原作はどうなっているのだろう。

映画 「シリアナ」 ~ 複雑な現代を描いた複雑な映画

2006年03月17日 | 映画(サ行)
 石油利権にからむ陰謀と自爆テロリストを描いた作品。

 いくつかのエピソードが平行して描かれ、舞台となる国も多彩なら登場人物も多い。とてつもない重量級の作品で、どういう話の組み立てで何が描かれているのかを追うことは出来るのだが、ディーテールまでは多分、理解できていない。
 あるショットが誰のどのエピソードに繋がるものかを瞬時に理解して進行を把握するというのは至難の業だ。

 こういう作品は登場人物の相関図を記した人物紹介でも読んでおかないと、一回見ただけ、一回聞いただけの台詞ですべては理解できない。入場時配布用のリーフレットでも配給会社が用意しておいてくれると、随分理解を助けるだろう。プログラムを買えば分かります、というのではなく・・・・。

 たとえば「タイタニック」など物語としては分かりやすいが、それでも、タイタニックがいかなる運命をたどったかの説明が劇中のストーリーに取り込まれ、科学者がCGで示すシーンが用意されている。
 観客はこれから何が起こるのかを頭に入れた上で「沈没事故」に遭遇するので、今どういうディテールが画面上で再現されているのかがとてもよく分かる。あの大ヒットはそういう映画的な構造の明快さも手伝ったのではないかと思っている。

 作っている側は自明のことでも、それを見せられる観客は本当にすべてを理解できるのだろうか、というところまで考えて製作するのが本当のサービス精神だと思うが。

神はサイコロを振らない~昨日が最終回

2006年03月16日 | 日常生活・事件
 10年前に時空のねじれに巻き込まれて消えた航空機が現代に現れる物語、昨夜が最終回。

 タイムリミットがあり、再び過去へ引き戻されるまでの10日間の出来事が10回連続のドラマで綴られた。SFという枠組みで見ることも可能だが、死んだ人が10日間だけ甦るファンタジーとも、10年後の世界との遭遇を描いた浦島太郎変奏曲とも見ることが出来た。

 ラストにみんなが幸せになるすごい奇跡を起こすことも、ドラマだから可能なはずなのだが、静かに日常が戻ってくるという余韻に浸ることの出来るエンディングであった。

 主演の小林聡美がとても良かったし、弟役の武田真治もこれまでにない役柄で好感度がアップした。

 小林聡美は82年の「転校生」が映画デビューで、このときは「遺族会会長」役の尾美としのりと二人が主役。今回その25年後の共演。ドラマの設定は10年後だからもう少し変身度は浅いということだ。

映画 「ホテル・ルワンダ」

2006年03月15日 | 映画(ハ行)
 フツ族とツチ族という部族の対立が生んだ地獄絵図からの脱出劇。

 両者の差は肉体的差異にもあるというが、劇中の欧米ジャーナリストにはまったく区別がつかない。アメリカのような人種間の抗争ではなく、ほとんど同じ姿の隣人達があるとき急に、相手をゴキブリとののしるほどの対立関係に陥る恐怖が描かれる。
 ドン・チードル演じる主人公の家庭も夫婦がそれぞれの出身なのだ。

 国連軍さえ見守ることしか出来ず、大国も「介入する価値がない」という理由で見放す。マスコミは事件を「大虐殺」と呼ぶことに対し、何人殺されればそう呼べるのかというような不毛な議論を繰り返している。(「南京大虐殺はあったのか」もそれに近い?)

 そんな中で、主人公の意識が「家族を守ること」から「救いを求めるすべての人を守ること」に変わっていく。

 冒頭で、ビールと間違って積まれた荷が崩れ、中国から格安で仕入れたというおびただしい鉈(ナタ)が床に散乱する。これが後の凄惨なエピソードを暗示する程度で、直接的な描写を画面に出さない姿勢には、昨今まれな製作者の品位が感じられた。

 ホアキン・フェニックスやニック・ノルティやジャン・レノが出演していることなど鑑賞するまでまったく知らなかった。

 重量級の作品。 

さよなら、さよならハリウッド

2006年03月14日 | 映画(サ行)
 ウディ・アレンが自分自身を描いたようなニューヨークの映画監督の物語。

 ニューヨークとハリウッドの関係は、昔の日本なら東京と京都太秦や大船のようなものだろうか。ニューヨーク派にはハリウッドにない「知性」という自負があるようだ。ハリウッド映画が「興行商品」ならニューヨーク派は「作家作品」なのである。

 ハリウッドが監督をニューヨーク派に依頼するという状況が生み出すコメディだが、ハリウッド側製作陣に監督の元妻がいるあたりが、「いかにも」の設定になっている。

 89年にコッポラ、スコセッシと顔を並べたオムニバス作品「ニューヨーク・ストーリー」では劇中の不思議が結局一種の超常現象のように片付けられていて、やや不満が残った。
 本作も、突然監督を襲う失明がコメディのネタなのだが、今回はもともとアレンが神経症的なので、そのストレスが引き起こしたと思われる納得感がある。

 もはやハリウッドもニューヨークも自分を理解はしてくれない。これからはヨーロッパだ、という決別宣言の作なのだろうか?

 原題は "HOLLYWOOD ENDING"。