SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画「蝉しぐれ」 ~ TV版も良かった。

2005年10月29日 | 映画(サ行)
 以前放送されたNHKテレビ版も良かったが、映画もまた良かった。庄内の豊かな自然が大スクリーンで堪能できる。

 テレビ版では時間が長い分だけ各エピソードがじっくり描かれていた。映画版ではそれを短く、どう収めているかも興味があった。ただ黒土監督はテレビ版でも脚本を書いているだけに、そこは自在に、渾身の作品を作り上げている。

 省略には二つの方法がある。一つは大きな影響のないエピソードを丸ごと落としてしまう方法。もう一つはある行為をあえて見せずにその前後の役者の表情や何気ない情景のカットで語らせる方法。こちらの方は文学的である。小説なら「行間を読む」にあたる。観客もボーっと見ていると気付かないかもしれない。しかしそれが言いようのない余韻を生み、藤沢文学の映画化に当たってとても良い香りを添えているように思われた。

 脇の役者陣も豪華で手堅い。長じてからの主人公の親友二人の配役が意外な抜擢だが味があった。(木村佳乃は必死の逃亡中にもちょっと落ち着きすぎ。)
 殺陣の演出では、実戦で初めて人を切る恐怖、多くの人を切ることによる刀の損傷をどう補うかなどリアルに描かれている。

 山田洋二監督ならこの作品をどう撮っただろう。

映画 「アワーミュージック」 ~ なんてったってゴダール

2005年10月28日 | 映画(ア行)
 この作品を見ると、映画とは一体なんだろうと考えてしまう。我々は何を期待して映画館に足を運ぶのだろう。

 美術展に行くと具象画もあれば抽象画もある。愛好家は抽象画だからといってそこを避けて通りはしないだろう。色彩を楽しんだりや構成の美に感心したりその楽しみ方も多様である。それは「理解する」こととはまた別の次元にある。
 ただ作品にはタイトルがあるので「戦争」とか「平和」というような題名が抽象的な絵画や彫刻に接する際に一つのヒントにはなる。それがたとえ「無題」というタイトルであっても。

 映画の場合、興行として一般の劇場で公開されるものは、ほとんどが絵画で言うところの具象画に限られている。たまに難解なものもあるが「見て理解できる」ということだ。
 「アワーミュージック」は絵で言えば抽象画、文学で言えば小説より詩に近いと言えるかもしれない。したがって「具象画を見に行ったのに抽象画を見せられた」というのに近い体験をしてしまうことになる。物語をたどって「映画を理解する」と言う行為はこの作品に関する限り不可能なのだ。

 全体は3部構成になっている。それぞれにタイトルが付されているので第1章と第3章はそう名付けられた抽象芸術を見ていると思えばそれなりに理解したつもりにはなれる。
 難物は一見物語が語られるのかと思わせる第2章だ。しかも全体の中ではもっとも比重が大きく長い。
 台詞は語られるものの、それらは極めて美しい言葉で詩的断片のようだ。それにタイトルにもなっている音楽、これも美しいながら突然挿入され、消えて浮く。これすなわち詩的なイメージの断片が積み上げられた構築物=抽象彫刻なのだ。

 精巧に組み上がった工芸作品を鑑賞するように映画を見ることが可能かどうか。普通の興行にかからない作品は実験映画とか前衛映画と称して特殊な上映形態をとって鑑賞されてきた。それが堂々とロードショーの形で一般観客対象に公開されるのは何といっても「それがゴダールだから」だ。

ウルグアイ映画「ウィスキー」 ~ ミステリー大作?

2005年10月26日 | 映画(ア行)
 すべてにガタがきた退屈な日常が毎日のように繰り返されていく。その繰り返しが画面で丹念に綴られながらしかし、微妙に変化していく。
 そして一挙に非日常の世界=旅が描かれ、再び退屈な日常へ回帰していく、と見せながら、実は・・・・という展開。

 起承転結の定型にのっとりながら、その振幅はあまり大きくはない。しかし最後に観客は大きなミステリーのただ中へ突き放されてしまう、これはただならぬ映画だと、私は思う。

 実は・・・・の中身は一切明かされず、すべては観客自身の想像力にゆだねられている。

すき間を埋める

2005年10月25日 | 日常生活・事件

 一般的には男性の方が肩幅が広い。

 エレベータなどに出来るだけ多くの人を詰め込もうとすると男女が混ざった方が良い。男性だけだと肩がぶつかって収容力が落ちてしまう。
 だけど先日トライアスロン大会をテレビで見ていたら女性選手も逆三角形で、そこら辺のひ弱な男性よりよほどたくましい。でも、ビール腹の男性が増え、アスリート形の女性が増えても体形がが逆転するだけで理屈は変わらないわけだ。

 朝のラッシュ時、通勤電車の足元空間に関しては腰から上の混雑具合とは比べ物にならないくらい空いている。学生などはよく荷物を手元から放して床に置いている。手で持つより混雑緩和には良いわけだが、満員だと自分の足元に人の鞄があって列車が突然揺れた時、足を動かすことが出来ず転倒しそうになってかなり危ない。

 女性の場合はトートバッグを肩からかけている人がいる。手に普通に持つとバッグ本体が腰より下になるが肩にかけると人体のボリュームにバッグのボリュームが加わり一挙に空間の占有率が高くなる。
 手がフリーになるわけだから吊革にでもつかまってくれるなら良いが、そういう人に限ってフリーな手で本を読んでいたりするので占有率はさらに高まってくる。

 冬が近づき着膨れしてくるとさらに状況は悪くなるようだ。

プーシキン美術館展

2005年10月24日 | 音楽・演劇・美術・文学
 東京都美術館で始まったばかりだ。全部で75点が出品されている。
 ルノワール、マティス、ゴーギャン、ピカソなど有名画家の作品が一堂に会しており、美術史がたどれる構成になっている。

 ただ誰でもが知っている極め付きのの名作がないのと、版画作品が1/3を占めていることで全体的に地味な印象だが、穏やかで味わい深い作品が多い。マティスの「金魚」は中でも異彩を放っている。

 ゴッホも一点だけ出品されているが珍しい模写作品で、いわゆるゴッホ・タッチとは一味違っていた。



セブンソード

2005年10月21日 | 映画(サ行)
 面白い題材なのに、やや作り方が荒いように思われる。剣士たちとの出会いまでの状況も剣士の素性もよく理解できない。それ以外はストーリーは追えるものの、撮影と編集の荒さ(というより雑に感じる)で何のどういうところが画面に映っているのか分かりにくい。カメラが引き気味のシーンは問題ないし、壮大な光景も美しいだけに残念だと思う。「ヒーロー」「ラバーズ」を引き合いに宣伝されているがそれではチャン・イーモウ監督が泣きそうだ。

天国へ向かう列 ~ 銀河鉄道の夜

2005年10月20日 | 日常生活・事件

 地下鉄の乗換え駅は朝、壮大な列が出来る。

 新しい線ほど深くなるので、乗換え用のエスカレータは建物何層分にも相当する地の底から天上へ向かう階段のようだ。朝の時間帯、ここでは2機が昇りに当てられ、それぞれ左側に静止して昇る人、右に歩いて昇る人が列をなす。

 上へ向かいながら、ふと宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が頭に浮かんだ。

 もし大事故が起きて多くの人が一緒に天国へ向かう光景はこんなものかも知れない。

 そう考えていた時、先ほどまで混んだ車内で迷惑も顧みずしっかり文庫本のページをめくっていたおじさんが隣を歩いていく後ろ姿を見つけて、とても愛しく感じられた。

相互乗入れ

2005年10月19日 | 日常生活・事件

 首都圏の私鉄が相互乗入れをやっていると、ターミナルで乗務員が別会社に交代する。会社によって経営状態が違うからかあるいは乗務員個人的資質の差なのか、その駅を境に冷房が入って、蒸し暑かった車内が快適になったりする。
 規則一点張りの会社だとある日を境に冷房が止まったり、暖房が入りだす。冬場でも朝の混雑した車内は冷房が欲しいことがある。運転席や車掌席は個室だから客車の状況を思いやることが出来るかどうかが真のサービスなのだと思う。

 女性専用車両に関しても会社によって対応が違う。男性でも小学生以下、体が不自由な場合は乗車して良いと車内放送していると思うと、ターミナルで会社が変わったとたん、「女性専用なので協力を」とニュアンスが変わる。それまで例外的に乗っていた男性は車両を移らなければならないのか。

 そもそも女性専用者は痴漢対策が目的の一つであったはずだ。「小学生や体が不自由な男性は痴漢行為に及ばない」というのは先入観あるいは一種の逆差別ではないのか。
 というのは言いすぎだろうが、いたわりのつもりならば「女性専用者は混まない」という前提があるような気がする。設けてもそう多くの利用はないと踏んでいるのだろうか?




タッチ ~ コミック映画化にも様々なタッチがある。

2005年10月18日 | 映画(タ行)
 「シン・シティ」もこれもコミックの映画化。こちらは人の死後、残された者が何を思い、どう生きたかに焦点を当てて丹念に描かれており、好感が持てる作品になっている。監督の資質なのか、原作のおかげなのか(読んでいないので分からないが)。
 
 山も谷もあるが結果オーライで、こんなにうまくいくわけがない、と覚めた目で見る人もいるかもしれない。現実をリアルに描くとすれば「ミリオンダラー・ベイビー」のような結末もあるわけだが、事実を映画化した同じボクシング映画「シンデレラマン」を見るとフィクション以上にまっとうなハッピーエンドだっって現実にありえるわけだ。

 やはり皆が幸せになる方が安心して見られるし、気持ちが良いということを今さらながらに感じさせてくれた。

 青春の切なさに胸がキュンとなる。長澤まさみの主演作。

コーヒー&シガレッツ

2005年10月17日 | 映画(カ行)
 オムニバス形式だが各エピソードに起承転結があるわけでもなく、コーヒーを飲みながら他愛もない会話を交わす情景が綴られる。動く写真アルバムを見ているような感じだ。必ず各場面にコーヒーとタバコが登場し、それらがチェッカー模様のテーブルに載ったところが真上から撮られたショットが挿入される、という用なルールがある。

 また、たまにコーヒーの代わりに紅茶だったり、テーブルが真っ白な変わりにカップにチェッカー模様がついていたりと微妙に変奏が奏でられる。

 ハリウッド型のジェットコースター・ムービー・ファンには「何じゃ?こりゃ」の世界。ジャームッシュ監督作品は日本デビューの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」も何も起こらない世界を描いていた。

 本作も「日本の私小説を読んでいるような味わい」と言えばよいだろうか。だがその何気ない世界が少しずつだが苦味を帯び、晩年の孤独が滲み出すように終わる。コーヒーを飲み終わったあと口に残る香りのように。