SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画「スーパーマン リターンズ」2 ~ 女系はありえない?

2006年09月29日 | 映画(サ行)
 今週で終わるというのでもう一度見た。ドラマとしてのふくらみをじっくり味わえ初見時よりさらに面白く感じた。

 スーパーマンが父親として、息子の中に自分自身を見る視点が良く描かれている。物語の主軸は、マーロン・ブランド演じる父親からスーパーマンへ、そしてその息子へと受け継がれていく、男系社会の秩序の中に描かれるロマンなのだ。

 これからも続くこの一族の長い歴史の中で、いつか男の子が生まれなかった場合は「スーパーマン典範」の改正を議論することになるのだろう。

 子役のラストネームがリーブ。もしやと思ったが先代スーパーマンはReeve、子役はLeabuだった。カタカナ表記すると同じだが英語の響きはまったく別。日本人が苦手なrとl、vとbの組み合わせだ。

 夕暮れ時の空を、事件性を帯びないでスーパーマンがスーッと飛んでいく情景は夢のように美しい。

映画「美しき運命の傷痕」

2006年09月28日 | 映画(ア行)
 万華鏡のような美しい画像と鳥の奇妙な生態がカットバックされるタイトルバックで、ミステリアスな幕開けだ。万華鏡の反射画像がなくなるとそのままファーストシーンにつながる。

 鳥はカッコウで、他の鳥の巣に卵を産みつける習性がある。生まれたカッコウの雛はもともとその巣にあった卵を外に落としてしまう。

 これが物語を暗示するのかと思ったが、関連性はわからない。

 ある事件から心にトラウマを持った3人の娘たちを描いている。しかし圧巻は、むしろ出番は少ないものの車椅子生活で口の聞けない母親を演じるキャロル・ブーケの眼の力だろう。

 結局彼女たちを苦しめてきた事件の核心は事実無根であることが分かるが、だからといって誤解に涙するラストが用意されているかといえばまったく逆。彼女たちにはその地獄のような日常をもはや過去に戻ってやり直すすべはないのだから。
 決然としてそれまでの生活を肯定するキャロル・ブーケの存在感にただただ恐れ入る。

 人間の心の不思議さを再び万華鏡で覗き込むように映画は終わる。

映画「ラフ」

2006年09月20日 | 映画(ラ行、ワ行)

 見なければ良かったとは思わないが、見なくても良かった。

  製作資金が不足したのか、時間が足りなかったのか。とにかく、どこかを切り捨てて見切り発車してしまったような物足りなさがある。
 水泳大会の模様を描く冒頭の短いエピソードの後、主人公二人は高校に入学し、同じ寮で生活することになる。

  ということは冒頭のエピソードの二人は中学生?というあたりから始まり、スポーツ特待生の集まる寮なのに競技シーンですごいと思わせる描写もない。ストーリーも人物描写もイマイチ決まらないまま終わってしまうという印象であった。

  スタッフもキャストも出来上がった作品は見たと思うのだが、満足したのだろうか?

  同じ長澤まさみ主演のあだち充コミック「タッチ」は十分に楽しんで見られただけに少し残念な気がする。


映画「時をかける少女」 ~ 切なさの共通項

2006年09月14日 | 映画(タ行)
 現代にアニメで蘇った名作。

 過去に実写版を見た人もまったく新しいストーリーと思っていい。ただ同じ原作だけに、どこかに既視感ただようデジャ・ヴュの世界。

 等身大ヒロインの登場で、携帯などの道具立てだけでなく、その能力も「チャージ」され、残りの回数がデジタル表示されるという具合に、現代の感覚が新しくインストールされている。
 カラオケで歌いまくるために、知らなかったとはいえ、そのチャージ回数をずいぶん無駄にしてしまったり・・・、とまったくの現代っ子だ。

 今回、ヒロインの能力はタイムトラベルでもタイムワープでもなくタイムリープ(leap=跳躍)と、劇中では呼ばれている。タイトルどおりヒロインはかけて、かけて・・・最後の跳躍で時間を移動するのだ。

 はつらつとした元気のいい女の子に原田知世のしっとり感はない。旧作にとらわれない、現代なまったく新しいヒロインの誕生で、今、再映画化される意味がしっかりと設定に生きている。

 ただ、後半にいたって漂い始める切なさは、旧作とは別種ながらも共通項といえるだろう。
 放課後の誰もいない学校の空気感とか、どこからか流れてくるピアノの音が漂う空間感とか、単なるノスタルジーを越えて胸を締め付けるものがある。

 旧作では、未来からの旅人の記憶は消えてしまうものであったが、今回はしっかりと記憶に刻まれ、「また会う日」が一つの希望になっている。

かっこ悪い美女(多分)

2006年09月12日 | 日常生活・事件

 朝の通勤途上で、黒のワンピースを着たスラリとした若い女性がさっそうと前を歩いていた。

 左の肩から斜めがけでショルダーバッグを掛けている。大きくはないが厚みのあるバッグ本体が体の右側にある。バッグは体と右腕の間に挟まれた形で、そのため右腕が体から45度の角度で右側に突き出されている。その右手の先には火のついたタバコが挟まれ、火先は外側へ向けられていた。

 そう広くない歩道を左寄りに歩いている。美女かどうか確かめるには右側を追い抜くしかない、だけどタバコの火が怖い。すれ違う人も複雑な表情をしている。

 念入りに服を選び、化粧をして家を出てきたのだろうが、気遣い、心遣いはゼロ、まったく魅力を感じることはない。まことにかっこ悪い。

 美女だったかどうかは結局分からないままだった。

映画「佐賀のがばいばあちゃん」

2006年09月11日 | 映画(サ行)
 何の奇もてらいもない、まっすぐな映画。

 人々の優しさは胸に染みるし、ストーリーはけして期待を裏切らない。ひょっとしてこうなるんじゃないかとか、ハラハラドキドキの二転三転もどんでん返しもない。

 だけどこれがイイ。

 主人公はいきなり母親のもとから連れ去られるわけだが、その行った先のばあちゃんの家がスゴイ。
 家の水場が川をはさんだ向こう側にあり、母屋からは裏戸を開け、橋を渡って台所や風呂に行くという、安藤忠雄の住宅のような、ある意味では贅沢な空間にまずビックリさせられる。

 だけどその生活の質実さといったらない。拾うものはあっても捨てるものはないという究極のリサイクル、リユース生活だ。「省資源」という今様のテーマを、この佐賀のばあちゃんの日常はすでに普通に実践していたのだ。

 現代の日本が、この「貧しいけれど豊かな生活」からいかに遠くに来てしまったかを思わないわけにはいかないい。

 懐かしく、いくらかの羨ましさも感じながら、だけど誰も戻りたいといって手は上げないだろう、少し前の過去がそこにある。

映画 「グエムル」 ~ 韓国版ゴースト・バスターズ

2006年09月08日 | 映画(カ行)
 環境汚染が生み出した怪物、というところにゴジラと共通項がある。

 こういう魚類系モンスターは初めてなのではないだろうか。爬虫類系と違う皮膚感が触覚的な、恐怖というより嫌悪感をあおる感じだ。

 結局、討伐の最終兵器はローテクな火炎瓶なので、軍隊を持つ韓国で手におえない怪物ではないのだが、そういうリアリティを犠牲にしても「家族愛がすべてに勝つ」というテーマを重視したところが韓国映画ならではか?

 純粋にシリアス系のモンスター・パニック映画を期待していたら、途中「まるでコメディ」の脱線感?、そういうところがお国では受けたのだろうか。「ゴースト・バスターズ」に近い感覚、と思えばよいかもしれない。こちらはモンスター・バスターズだ。

 でも一種の流域汚染なのだから一匹しかいないという保証はない。

小説「ブレイブ・ストーリー」

2006年09月07日 | 音楽・演劇・美術・文学
 「過酷な現実を変える」というテーマの王道はタイムマシンもので、過去の変更による歴史の改変とタイムパラドックスがストーリーの核を形成することが多いが、本作はRPG好きという原作者、宮部みゆきが創造した「幻界」というバーチャル・ワールドに主人公が紛れ込んでゲームの世界を生身で体験するような趣向になっている。
 その「上がり」で現実世界を変えられる?という展開である。

 映画を見てから原作を読むと、普通はこれがあのシーンかと思いながら筋をたどることが多い。が、本作に関する限りその「思い当たるところ」がほとんど無かった。

 小説「ブレイブ・ストーリー」は単行本で上下2冊、文庫版で3冊または4冊という大長編である。
 現実世界も幻界の出来事もじっくり描きこまれている。それを2時間足らずの映画にするのだから「大胆な脚色」なしには成立しない。

 しかしその差が生まれたもっとも大きな理由は、小説と映画のターゲットの違いだ。小説は少年時代に抱いた冒険心を忘れない大人のための作品。一方映画は夏休みに公開されるアニメーションということからも明らかなように、もう少し下の世代も含めて対象にしている。

 小説の方はかなり重いし、現世と幻界が一種のパラレルワールドのように描かれて、登場人物も「一人二役」的な味わいがある。映画はその辺をバッサリと省略し、かといってその「重さ」の片鱗は残しているので、結果的に子供向きというよりはやや高めの年齢向きの作品になってしまった。
 したがって原作に比べてしまうとやや物足りないということになるし、なぜそうなっているのか説明不足の部分もあるが、映画は映画でそれなりに楽しめた。

 おなじ宮部作品の映画化で大林監督が撮った「理由」は、それこそ原作の一字一句がそのまま映像化された印象で本作とは対照的である。

 映画「ブレイブ・ストーリー」に対する宮部氏の感想を聞いてみたい気がする。

映画 「ぼくを葬る」

2006年09月06日 | 映画(ハ行)
 もし若くして余命が無いことを宣告されたらこんな風に死を迎えたいと思うような穏やかな対峙、波の音に包まれて迎える静かな境地を観客も追体験することになる。

 同性の愛人との関係、家族との関係、息子(主人公の父親)を捨てて家を出た祖母との関係、何を残して何を残さないか、一つ一つを整理していく主人公が丁寧に描かれる。そして、その道中で偶然出会う子供のいない夫婦との間に奇妙な絆が生まれることになる、という当たりがフランソワ・オゾン監督らしい。

 オゾン作品では海が象徴的に描かれる。

 「まぼろし」では主人公夫婦の夫が海で死ぬ。また前作「ふたりの5つの分かれ路」では二人の幸せがそこから始まる日没の海辺がラストシーンだ。

 続く本作では冒頭とラストに海辺のシーンが配置される。冒頭は海に向かう子供のころの主人公。「宣告後」主人公はしばしばこの少年時代の幻影を見る。

 その姿を通して、彼は自分の人生を肯定し、他人を思う優しさと生命に対する愛おしさを心の中に回復するのだ。

札幌グルメ事情 ~ すし編

2006年09月05日 | 旅行

 市内西部の高級住宅地に、高級住宅のように建っていて違和感がない。ということは、逆にちょっと分かりにくく見つけにくい。

 しかしグルメ派にはこたえられない、グルメ道ここに極まる、というようなお店。ご主人はいわゆる「職人」である。ドイツでいえばマイスター。「料理は文化である」という強い主張が店の隅々まで、あるいは料理の一品一品にまで行き渡っている。

 たとえば、この店にはおそらく醤油というものが無いのではないかと思われる。

「寿司は醤油で食べるものではない」というのがその理由。うっかり「醤油を下さい」とでも言おうものなら追い出されかねない。といってそんな偏屈なオヤジには見えない、むしろ生粋の文化人のような風貌のご亭主。弁舌爽やかに寿司の文化性についての講釈も聞かせてもらえる。

 何より素材へのこだわりが凄い。この時期、何処の何がおいしいのか、それがそのまま寿司ネタとして、これもこだわりの白米の上に乗っているのである。
 素材のもっとも素材らしい味をそのまま味わえるのに、あえて醤油味にしてしまうのは愚の骨頂。その昔、貧弱な流通機構が食材の鮮度を落とすことから考えられた醤油つけを、流通の発達した、鮮度上何の問題も無い現代でもそのまま習慣化しているほうがおかしいというわけだ。

 したがってここは塩味。ただ粒塩をパラパラと振っているのではない。それは食べてのお楽しみ。

 新鮮な素材は味覚のみでなく、それが目に訴える視覚も美しいし、皿や器のそれぞれに違う色や形も個別性があって楽しい。清掃の行き届いた店内、花や額のあしらえなど、「文化」を味覚、視覚、聴覚(ご亭主の語り)と総合的に満喫できる満足度の高いお店だ。したがってカウンター席がお勧め。

 ただ醤油寿司になれた私などにはやや薄味に感じられるのだが、それこそが素材の味というべきで、一度味わうと「また、いつか」とやみつきになるのかもしれない。