SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画 「天然コケッコー」

2007年08月31日 | 映画(タ行)
 第1印象は「松ヶ根乱射事件」に似ている、だった。

 私の場合、映画を見に行く時は次の二つの基準で選ぶ。
 1 内容で選ぶ。
 2 監督で選ぶ。

 本作の場合、内容で見に行ったのだが、ラスト・クレジットで監督名を見て「第1印象」に納得がいった。どちらも山下敦弘監督の作品だったのだ。
 両極端のような二つの作品を、同じ監督が同じ年に発表しているなんて、普通なら考えられない。何でも出来る監督なのだ。しかも何を描いても山下ワールドになっている。

 両作とも物語の中に村の床屋や郵便局が重要な舞台として出て来る。そしてどちらも主人公の父親は床屋の女性と微妙な関係にある。
 主人公は、方や交番の巡査であり、方や中学生である(公務員的なものが好きな監督なのか?)。

 ど田舎の同じ村(山下村?)で二つの物語が並行的に進行しているようなものともいえるだろう。
 「松ヶ根」では冒頭で幼い小学生がギョッとするようなことをやる。同じ状況なら「天然コケッコー」の子供たちもこんなことやるわけだ。子供は天使であり、時に残酷な悪魔でもありえる。

 でも本作で描かれるのは、天使の顔を持つ子供たちの、かけがえの無い、ひたすら豊かで幸せな日常的時間である。

映画 「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」 ~ 少年役の青年

2007年08月29日 | 映画(ハ行)
 シリーズ第5作。
 高層ビル群が画面に出てきて「ハリー・ポッター」の舞台は現代だったのだと改めて思い出した。

 本作では主人公も成長し、苦悩の色が濃い。苦悩が描かれると物語の深みが増す。

 ただし登場人物がやたらと多く、複雑なストーリーをとても138分の中でさばき切れていない。

 そもそも「騎士団」というのが良く分からないし、ハリーの率いる魔法学校生徒の軍団もいる。アズガバンから脱走した囚人集団もいてその一人をヘレナ・ボナム・カーターが演じているくらいなのに、これがまたどういう位置付けなのか分からない。

 ハリーのキスシーンはやたら長いような気がするものの、その彼女の裏切りによる密告、そしてそれが薬物による拷問であったことが分かった後どうなったのかなど未消化エピソード満載という印象である。

 原作をばっさり脚色するか、あるいは内容的にすでに子供向けではないので、思い切って4時間近い大作にするとか前後編の2作に分けるとかしないと、原作のつまみ食いか本編そのものがダイジェストのような味わいになってしまう。

 だけど、では見なければ良かったのかというと、嫌いではない。苦悩による「深み」が魅力だ。その分、小学校低学年が夏休みに見に行く映画ではなくなってくるけれど。

 その苦悩は青年期特有の憂鬱かと思ったら物語上の年齢設定は14歳だそうで、早く取り終えないと俳優の実年齢は隠しようが無く、心配になってくる。
 もっとも邦画「ラフ」の冒頭では速水もこみちが中学生をやっていたけどね。

映画 「ステップ・アップ」

2007年08月28日 | 映画(サ行)
 シンデレラ・ストーリーに「ロミオとジュリエット」型の身分差恋愛をプラスしたような、よくある、しかし爽やかな青春映画。

 すべてはラストのダンスシーンのためにある。

 登場人物の設定もエピソードの展開も定石どおり、こうなるのではという予想をまったく裏切らない。そういう意味で安心して気楽に見ることの出来る映画だ。だから物足りないかというと、音楽やダンスのシーンになると素晴らしい輝きを見せる。

 冒頭のタイトルで、アップテンポの音楽に乗せてクラシックバレーとストリート・ダンスを交互に見せていくが、ここにアン・フレッチャー監督の資質が凝縮されているようだ。もともとは振付師の監督デビュー作と聞けば納得、本作でももちろん振付けを担当している。

 役者は知らない顔ぶればかりだが、芸術学部学生の卒業公演というクライマックスにむけて、夢を実現する若者たちが主役の映画には、むしろそのほうが良いだろう。

映画 「消えた天使」

2007年08月21日 | 映画(カ行)
 「セブン」「羊たちの沈黙」などに繋がる作品。ただ主人公が刑事ではないのが新機軸。

 刑を終えて社会に解き放たれた性犯罪者を監視する保護監察官が主人公の職業。

 18日後にその職を辞すことになっているリチャ-ド・ギアと、その後がまとして配属される新人クレア・ディーンズの実地トレーニング・デイズが描かれる。
 彼女は特別な技能があるわけでもなく、これまで職を転々としており、今回たまたまこの職を得ました、という状況なのだ。FBI捜査官ジョディ・フォスターとの違いは明快だ。

 性犯罪王国の米国では、平均すると1人の監察官は1000人の観察対象を受け持つことになるという。それは非常に地味な職業で、ひたすら監視を続け、発生した事件の捜査に当たるわけではない。もし自分の観察対象が何らかの関わりをもったことが分かると警察に応援を求めると言うのが通常のやり方だ。

 リチャード・ギアにそんな役がつとまるのだろうか?と言う心配は無用、当然のごとくその常道を逸する部分がドラマの肝なのだ。

 面白かったのは、刑を終えた一群が社会復帰のためのグループ・セラピーを行ったり、市民の安全のために彼らがどこに住んでいるかというプライバシーがネット上で公開されたりしているという事実。
 しかし、そのサイトは彼ら自身もアクセス可能で、安全性どころか逆に同じ性癖を持った仲間を求める、一種の出会い系サイトとして機能してもいるというおぞましさ。その仲間が群れるという意味の「THE FLOCK」が原題。

 「インファナル・アフェア」のアンドリュー・ラウ監督ハリウッド第1作。
 主役の二人以外は知らない役者ばかりだが逆にリアリティがあり、犯人を含む脇の配役、特別ゲストのようなアイドル歌手アヴリル・ラヴィーンの扱いなど凄い。

 特に真犯人の造形はこれまでに無いリアルな人間の闇を描き出しており、鳥肌が立つ怖さだ。これを演じる役者魂には恐れ入った。。

超アイス! ~ 涼しすぎ

2007年08月09日 | 旅行
札幌駅前通りの、とある店のショーウィンドー。
スイーツ、アイス好きには こたえられない光景だ。

しかし、ちょっとお茶しよ、とはいかないお値段だ。

ドリームジャンボ宝くじでも当たらないと食べられない
10,500円も驚きだが、上には上がある。

タワー60,000円は要予約だ。
材料も集めてこないと常備はしていないということか?


胃袋がクリームで満タンになった状況を想像すると 
 オエッ!となりそうだ。

誰が頼むんだろう?結婚式とか?

これだけ大きいと、
食べているうちに大半は溶けてしまうだろうなぁ。

コミック 「夕凪の街 桜の国」

2007年08月07日 | 音楽・演劇・美術・文学

 公開中の映画の原作本。

 漫画が省略の芸術であることを再認識できる。

 たとえばコマとコマの間。映画なら連続したフィルムのどれとどれを選択するかということだ。他はすべて省略してしまう。その「コマ」にしても実写は画面の隅まで作りこまないとリアリティが欠如してしまう。漫画は何を描いて何を描かないかを作者がコントロールできる。

 このことが大きな効果となって現れるのが被爆後10余年のヒロシマを描く、第1部の「夕凪の街」だ。映画に比べるとさらに過酷な状況をコミックはこの省略の技法で描き出す。省略と言うより「何も描かれない」ラスト近くの描写が最も衝撃的といえるだろう。

 映画はその部分が柔らかい夢のような描写になっている。
 もし映像で忠実に表現するなら真っ暗な画面に声だけが聞こえてくるのだろうか。コミックはそこを白い画面で表現している。人間の意識がだんだん薄らいでいくとき何色が見えるのだろう。

 コミックは3部構成で、映画の「桜の国」はさらに2つのパートに別れている。第2部「桜の国(一)」はヒロイン七波の幼少時のエピソードで、この時期に被爆者である七波の母と祖母が他界する。

 第3部「桜の国(ニ)」はヒロイン26歳のエピソードで、二つのパートの間で一家は引越しをしている。

 七波は以前住んでいた桜の美しい街をあまり好きではないことが分かる。それは二人の死の記憶が残る街だからだ。
 しかしその街は首都圏郊外の、「広島の記憶」とは無縁の美しい街だ。その街の象徴のようにヒロインの幼馴染、東子が登場する。作者自身の「ヒロシマ」との距離感を体現しているのがこの東子のようだ。

 家族の死と転居でヒロインの中の「ヒロシマ」は封印されたはずだったが、第3部で再びその封印が解かれる。封じ込めるのではなく、それをどう受け止め、これからの人生を歩んでいくかを、ヒロインは自分で決めなくてはならないのだ。
 
 という話が、ここに書いたほど深刻ではなくむしろ淡々と描写される。それは登場するキャラクターの造形のおかげでもあり、コミックという「省略の表現」を特徴とするメディアの力でもあるのだろう。

映画 「夕凪の街 桜の国」

2007年08月06日 | 映画(ヤ行)
 今日は広島の原爆記念日だ。

 その広島、いや「ヒロシマ」がテーマの作品。

 被爆後13年たった広島を描く「夕凪の街」と現代の首都圏に住む家族を描く「桜の国」の2部構成。

 画調もキャストも一変する。両方に共通した登場人物は被爆しながら生をまっとう出来た藤村志保のみ。第2部は水戸に養子に出ていたため被爆しなかったその息子・旭の家族を描いているが青年期を伊崎充則が、現代を堺正章が演じている。

 このキャスティングにも通じると思うが、画調だけでなく第1部はシリアス、第2部になるとややコミカルと劇のトーンも変わる。

 第1部は、多くの人が死んだ中で自分だけが生き残ってしまった罪悪感を麻生久美子が熱演している。井上ひさしの「父と暮らせば」に共通するテーマと言えるかもしれない。

 今朝のニュース番組でも、街頭で「8月6日が何の日か知っていますか?」と若者にマイクを向けていた。ほとんどが答えに窮する中で、ただ一人正解を出したのがもっとも派手なメイクの女の子であった。

 「原爆は風化してしまったのか?」これが第1部と第2部の間に横たわるテーマである。

 第2部のヒロイン、田中麗奈演じる石川七波は少なくとも風化させたいと思っている。被爆者である母が死に、祖母が死んだことで彼女の中の「原爆」はもう封印されたのだ。

 その封印した過去とどう折り合いをつけていくことが出来るのか、それが第2部で描かれてる。

 この映画は予告編がとてもよく出来ていて、本編を見なくてもどんな映画か良く分かるのだ。それでも本編を見てしまった私は、その翌日原作のコミックを購入することになる。

 その原作についてのコメント、映画との比較などはまた次回。

素晴らしき「鈍感力」 ~ 小泉劇場上演中

2007年08月02日 | 政治
 自民党がぶっ潰れた。

 「自民党をぶっ潰す!」と言ったのは小泉前首相だが、ようやく実現した。「なぜ俺の時になって・・・」と憮然たる面持ちは安部現首相。

 「支持率は気にすることはない。目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ」という言葉を現政権に贈り、渡辺淳一の本「鈍感力」の売上に貢献したのも小泉純一郎だ。

 安部首相はその言葉をかなり忠実に守ったと言える。素晴らしい鈍感さを演じて見せた。
 その結果の今回の参院選大敗であり、自民党崩壊である。

 小泉劇場は幕が下りて主役が交代した後も進行していたのである。主役は降りたが脚本・演出は続けていたわけだ。