SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

動くに動けない ~ 自業自得?

2006年08月28日 | 旅行

 サンゴ礁の海底の風景。左下のサンゴに埋もれた優美な曲線はシャコ貝。

 ある時そこに入り込んでそのまま大きくなってしまった。出るに出られない。引越し拒否、というより引越し不可能。

 こうなったら半ば植物のようなものだ。食虫植物のように来たものしか食べられない。だけど匂いでおびき寄せるわけではない。まったくの受動態。

 異性との出会いは?子孫の繁殖は?色々な疑問が湧く。

映画「スーパーマン リターンズ」

2006年08月25日 | 映画(サ行)
 バットマンに続きスーパーマンも帰ってきた。

 スーパーマンのスピードはともかく、映画としてのテンポは他のハリウッドアクション映画に比べるとゆったりしている。アクションよりドラマに比重があることの現われだろう。

 確かに手に汗握るスーパーマンらしいアクションに関しては冒頭間もないエピソードが最大で、クライマックスでもある。
 後は三角関係に近いラブストーリーと親子の絆(特に父と子の)の物語で引っ張ることになる。そこがやや物足りなく感じられれば2時間半が長い。

 スーパーマンの家族といっても朝タイツ姿で「行ってきます」と出勤するわけではないので、ラストは暗示によって観客の想像にゆだねるのが夢があって良いかも知れない。

 それにしても病院に入ったスーパーマンはスーパースーツ姿でもないわけで、クラーク・ケントとの差はもはやメガネの在る無しだけでしかないのにロイスが気付かないというのも・・・・。それもスーパーパワーの一つなのかもしれないが。

 初々しく爽やかなニューヒーローの誕生だが続編はあるのだろうか。

魅惑の唇 ~ 海の誘惑

2006年08月24日 | 旅行
 魅惑的な唇。ただし特大サイズだ。小さいものでも20cm程度、大きなものは1mにもある。この個体も40cmはあった。

 色彩は妖しいまでの美しさ。パープル系やグリーン系をベースに複雑なパターンを描き出す。それが生きていて、触ると動くのだからゾクゾクする。

 海の底で何を食べ、どう動き、いかなるコミュニケーションを他の個体と持つのだろうか? その名はシャコ貝。

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」

2006年08月23日 | 映画(ハ行)
 第1作はスカッとして明快な活劇だったのに、今回はダークファンタジーにコメディがバランス悪く絡まったような印象である。映像の色調設定と海洋生物をモチーフにした幽霊軍団のキャラクターが支配するトーンによる。
 最近の大作は「ハリー・ポッター」シリーズもそうだが、ひたすらダークだ。

 個性的な主要人物も前作に比べて生彩を欠き、魅力がなくなってしまったように感じる。これは単に2作目で新鮮味がなくなったせいなのだろうか。

 一作目はかなり独立性が高くそれ自体で完結した作品になっていたので、2作目がそれをどう引きずるのか見当がつかなかったが、見た限りでは復習しておいた方が良い。前作を見ていない人の目にはどう映るのだろう。
 予告には熱心な製作・配給会社も劇場も、本編に先立って前作の総集編やあらすじを流そうという配慮がまったくないのは観客サービス上問題ではないかと思う。

 ただ中盤以降のアクションは目を見張るばかりで、次々に繰り出される展開は見事というしかないし、軍団のメーキャップやモンスターの迫力は映画ならではの楽しさだ。

 やや遅れて公開された「スーパーマン」の新作も本作も150分を超える上映時間。「ポセイドン」の98分は短かすぎるにしても、もう少し刈り込むとグッと良くなる作品もある。 

Into the Sea

2006年08月22日 | 旅行

 青い海の中へ。

 ここは水深25mの海中。ヨスジフエダイと呼ばれる黄色の魚が群れ集まってくるポイント。名前どおり4本のストライプを持っている。

 なぜこの場所に・・・・なのかは分からないが、彼らを惹きつける何かが存在するのだろう。

 近寄っても、逃げるでもなく悠々と海中闊歩。
 ブルーとの対比的な配色が鮮やかで、それが目の前を群舞する有り様は、しばしの陶酔。


夏の終わり

2006年08月21日 | 日常生活・事件
 夏休みに訪れた南の海、ここから始まった夏はもう過ぎ去ろうとしている。

 社会人としては長い方だと思う夏休みが終わった。梅雨明けが遅かったのでその分、今年の夏は短く感じられる。
 「酷暑」も今のうちだと思うと愛おしい(なわけないか?)。

 だからといって残暑が続くと、それはそれで堪らないが。

百日紅(さるすべり)~ 小さな自然

2006年08月09日 | 日常生活・事件

 約三ヶ月の間、美しい紅花が楽しませてくれる、名前どおりの花だ。鉢植えで50cmほどの樹高だが今年は特に花の付きが多く、花屋の店頭に並ぶ商品よりはよほど見栄えがする。

 昨年は逆で、今年は咲かないのだろうかと思う頃になってようやく蕾が見え始めた。その反動なのか?
 これまでと違うのは液肥を定期的に与え始めたこと。1000倍に薄めて週1回与えるというのだから、1リットルも買えば何年使い続けることになるのか?

 その効果か、たくさん蕾が付いた時はうれしかったが、開き始めは白や淡いピンクの花が混ざった感じで変異が起こったのかと心配した。しかし、じき本来の色で大量に、細い枝がたわむほどに咲き始めた。ミツバチもよく来ている。

 冬になると伸びた枝をそっくり切り落としてしまうのだが、時期が来ると律儀に枝を伸ばし葉を付け、100日間の楽しみを与えてくれる、鉢植えの小さな自然だ。

 たまに行くグラウンドの敷地内に、こちらは見事な百日紅の大木がある。大木といっても樹高が3m程度、実に枝振りが良く、ほぼ円形に、直径にして5~6m程度に広がっているだろうか。それが炎天下で燃えるように紅色の花を付けている様はたとえる物が見当たらない。

 一度写真に撮りたいと思ってきたが、その炎天下に出かける気がせず、また来年があるさ、と思ってしまう。さて今年は?

映画 「リトル・イタリーの恋」

2006年08月08日 | 映画(ラ行、ワ行)
 今時珍しく古風なラブストーリー。露出度ほとんどゼロのピンナップ写真を慌てて隠すような、のどかな時代のお話。

 監督の意図や張り巡らされた複線を、目を凝らして探し出すことなく、ゆったりとしたリズムに身を任せて映画館の暗闇に座っているのも良いものだ。

 新しい発見は、かつてオーストラリアにイタリアからの移民が一つの町を作っていたということ。そして本国から花嫁を紹介するマッチメイカーがいて、紹介された花嫁たちは写真一つにすべてを託して海を渡ったことである。
 いずれも本国では嫁げない事情を抱えた花嫁たちであったのだろう。
 それにしてもヒロインの清楚で可憐なこと。

 ストーリー自体はかなりオーソドックスな定石を踏んでいるので、予告編を見ていればその延長で推測できないことはほとんどない。
 ただヒロインの陰に隠れて、予告ではほとんど重要な役割を持たないと思われた弟の恋人役が、本編のある一瞬からとたんに輝きを増す。そこからラストのハッピーなエンディングに向かってなだれ込むことになるのだ。

小説「ゆれる」~ ともに優秀な双子

2006年08月07日 | 音楽・演劇・美術・文学
 話題の映画と対を成す作品。

 映画より先ならば「原作」、映画のほうが先なら「ノベライズ」だが、あえて原作と呼ぶものがあるとすれば、それは著者である映画監督・西川美和の「夢」であるらしい。
 そこから二つの作品が、一つは映画、一つは小説という形式で生まれた、というべきではないだろうか。
 
 単なるノベライズではない、というのは小説の形式からも明らかである。8章に分けられた構成はそれぞれ、登場人物、誰か一人の主観で叙述される「かたり」となっている。
 しかし、読んでいて映画との違和感はまったくない。逆にいえば映画のカメラも完全な第三者の視点ではなかったということだ。その事が物語にミステリー的な要素を生んでいたとも言える。

 では映画と小説は同じかというと、これが微妙に違う。たとえば、主人公兄弟とその父親の兄弟関係がダブってくるところは、映画では比較的あっさりと表現されている。

 小説では映画が説明しないディテールが明らかとなる。逆に映画は、小説では言葉に乗らない世界(画面)の隅々にまで実際の物理的な形を与える。
 
 それは両者の表現の特質に起因するものだが、ある事実が逆に描かれていることもあるのだ。したがってどちらがニワトリでも卵でもない、両者は「対を成す」双子のようなものだ、という理解にたどり着くわけである。

 しかし、映画も小説も半端な出来ではない。なんという才能だろう。
 そして、それに見事に息吹を与えたオダギリジョーや香川照之という役者もまた、たいしたものだと驚き入ってしまう。

井上靖の文学 ~ 「自伝的三部作」体験

2006年08月04日 | 音楽・演劇・美術・文学

 このところ井上靖の作品を続けて読んだ。「氷壁」に始まり「あすなろ物語」、続いて「しろばんば」「夏草冬涛」「北の海」のいわゆる自伝的三部作+エッセイで一休みというところだ。

 発端は今年初めにNHKで放映された「氷壁」である。

 普通は、映画や番組がとても良かったから原作を読んでみよう、というパターンだが、この場合はまったく逆だった。むしろ「これが井上文学のはずがない」という思いが原作を当たるキッカケになった。

 結果、やはり原作とは別のものになっていた。
 豪華配役、海外へスケールアップした山岳映像、リベラの心洗われるようなテーマ音楽、と申し分ない要素が揃いながら、肝心のドラマ部分からは原作の心と香りが脱落していた。
 別のタイトルを付け、クレジットで「井上靖『氷壁』より」とでもなっていたのならまだしも、ズバリのタイトルを付けることがよく許されたものだと思う。

 とはいえ、そのことが井上文学へ誘ってくれたという意味では、私にとっては幸運なことであった。というのは続けて読んだ自伝的三部作が、まさに至福の時をもたらしてくれたからだ。

 何より面白い。これまでこのような世界を知らずにいたとは、何とももったいないことをしたものだと思った。

 夏休みに読む本を物色中の方には是非、とお勧めしておきたい。