SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画 「ゾディアック」

2008年09月30日 | 映画(サ行)

 迷宮入りの連続殺人事件に関わった男たちを描く。

 「ゾディアック」とは結局なんだったのか?時代を巻き込んだ恐ろしく複雑怪奇なパズルのような現象であった、としか言いようが無い。

 ある結論に達するとそれが「真ではない」という結果が出てしまう。そしてまた振り出しに戻る。メディアに事件が登場することによって捜査する側も犯人側もメディアを利用しようとする。困ったことに事件には関係のない第3者もそれに悪乗りしてしまうのだ。

 したがって真犯人とそうでない人たちの共作による「ゾディアック」像がいつのまにか出来上がってしまう。多くの矛盾を含んだ犯人像がそうやって出来ていく。あるいは複数犯を単独犯と錯誤することから生じる矛盾なのかもしれない。

 事件に人生を狂わされた記者、刑事、そして最後まで喰らいついていた新聞社の風刺漫画家をじっくり描く作風は、これまでのフィンチャー作品とは趣が違うものの堪能できた。

映画 「ハンコック」

2008年09月26日 | 映画(ハ行)
 ウィル・スミス主演のヒーロー映画。良い意味で期待を裏切ってくれた。

 頻発されるテレビ・スポットでほとんどの映画は見た気分になってしまう。劇場で見るのはテレビ・スポットの単なる確認に過ぎないことが多いのだ。

 ところがこの作品の場合、こんな映画だろうと思っていた部分はその前半だけだった。

 ウィル・スミスの不良ヒーローものだから、マーヴェル・コッミクスの正統派アメリカン・ヒーローとはそもそも違う。「ヒーローとはいかにあるべきか?」というヒーロー論は新バットマン「ダークナイト」でも展開されたが、こちらはコメディ。コマーシャル・クリエーター一家が加わって、「ヒーローをプロデュース!」の趣となる。

 と、ここまでが前半で以降は意外やその「ヒーローの血筋」がテーマ。永遠に生きる血族の、来歴と弱点が物語を引っ張っていく。

 配役からしてシャーリーズ・セロンが単なる主婦のはずが無い、と思った人は正解。このことが後半への大きな伏線にもなっていく。

映画 「大統領暗殺」

2008年09月25日 | 映画(タ行)

 原題は「DEATH OF A PRESIDENT」であり、A PRESIDENTだから誰と特定はしないようなニュアンスだが、内容はずばり「ジョージ・ブッシュ大統領の暗殺」である。

 ドキュメンタリー映画を見ているようなリアルな作りで、現実のニュースフィルム、フィクションとしてのインタヴューなどがたくみに構成されて暗殺の謎に迫っていく。

 真相は結局「藪の中」で最後まで分からないのだが、政治的な意図で利用しようと暗殺者を名乗る声明が次々とマスメディアに登場するなど、見ていてフィクションとリアルの境界が分からなくなり、ケネディ暗殺の記憶もダブってくる。

 それにしても現職大統領をネタに良くこんな映画が作れるものだ。ブッシュに関してはマイケル・ムーア監督のドキュメンタリーで徹底的にサカナにされているが、それよりは遥かに好意的に描かれている。「死者」に対する敬意なのだろうか?

 アメリカ映画ではなくイギリス映画だ。

小説 「闇の子供たち」 ~ 映画と比較

2008年09月18日 | 音楽・演劇・美術・文学

 梁 石日(ヤンソギル)の原作。

 小説を、映画を見てから読んだ。映画も相当ハードだったが、原作はそれどころではない。これでもかの過酷な仕打ちが子供たちに襲いかかる。情を排したクールな筆致で、ここまで書くのかというリアルな描写に圧倒される。
 結果からいうと、小説に比べて映画はまだソフトだ。

 小説はタイとその周辺における幼児売春の実態、およびその改善に尽くすNGO活動がメインに描かれる。映画に出てくる江口洋介の新聞記者が登場するのはページ数も半分を過ぎてからだ。したがってもう一つのテーマである臓器移植の問題も後半になって顔を出す。

 映画はNGO活動に従事する宮崎あおいより、臓器密売を追う江口洋介を前面に出している。したがって主人公の逆転、二つのテーマの比重の逆転が大きな相違点である。

 集会が銃乱射の大乱闘になってくるクライマックスは、原作の場合もう少し大きな社会的うねり(労働者組合のデモ行進)として描かれる。映画ではNGO組織の集会でしかないので、それに対する警備体制が異常に大掛かりだし、NGOに反撥するグループがNGOに対してではなく警備の警官側に銃を向けるなどやや未消化に終わってしまった部分がある。

 原作は、しょせん他国で起こっている他人事で済ませられるのか?というテーマを前面に出している。映画もそこは同じだが、エンターテインメントとしてストーリーをもう一ひねり、主人公のダークサイドを描くエピソードが最後に追加されて余韻を残している。

映画 「悲しみが乾くまで」

2008年09月10日 | 映画(カ行)

 ハル・ベリーとベニチオ・デル・トロが大人の演技を見せてくれる。

 ハルベリーにとってはアカデミー賞女優にふさわしい役どころが久々に巡ってきた感じだ。その受賞作「チョコレート」と本作、傷ついた男女の心が癒しを求める設定は共通している。

 ただし、デル・トロの役は死んだ夫の親友ではあるものの薬物依存を断ち切るという難題を抱えた男性なので、一気に相手の領域に踏み込めない適度な距離感が良く出ている。

 悲哀感を漂わせるデル・トロはこれまでにない役どころで、なかなか良い。

 それにしても薬の禁断症状がこれほどリアルに描かれた作品はあっただろうか?

映画 「美しすぎる母」

2008年09月09日 | 映画(ア行)

 富豪一家のインモラルな退廃が描かれるが、ヴィスコンティの「地獄に落ちた勇者ども」のような厚みはなく、ストーリーも貧弱な感が否めない。一族というより両親と息子の一家の話で、実話に基づくというが、なぜそうなるのか分からない。そもそも金持ちの世界は一般庶民には理解不可能なのか?

 母親役のジュリアン・ムーアはまさに、の適役だったがこの出来では気の毒だ。

 この役、絶対ジョディ・フォスターには出来ない。その二人がハンニバル・レクターと戦う女性FBI捜査官を、「羊たちの沈黙」正・続シリーズでそれぞれ違和感なく演じたのだから役者はすごい。

 このテーマで、もう少しどうにかならなかったのだろうか、と惜しい気がする作品だ。

映画 「幸せの1ページ」

2008年09月08日 | 映画(サ行)
 シリアス路線から一転、ジョディ・フォスターの珍しいファンタジー・コメディ作品。

 インディ・ジョーンズばりのヒーローが登場するアドベンチャー小説の作家役だ。それが作風とは正反対に潔癖症かつ外出恐怖症なのだ。

 その彼女が南海の孤島からのSOSをキャッチ、救出に向かう。・・・のだが、着いてからどうこうするというより、着くまでのプロセスに大半を裂いている。

 SOSの送信者である少女(アビゲイル・ブレスリン)は実際、とてもたくましく育っているし、ジョディが到着すると間もなく、ジョディの助力というわけでもなくすべてが解決してしまうので、どちらかというと行かなくても良かったのではないかと思えてしまう。

 島の孤独な生活をむしろ楽しんでいた父娘と、これまた孤独な作家の出会いを描いて、これがその物語の1ページ目だという、そのスタート点に立つまでの物語である。起承転結の「起」だけで終わってしまう印象だ。はたして2ページ以降の続編は無いと思うのだが?(あってももう行かないよ、私は。)

映画 「闇の子供たち」

2008年09月03日 | 映画(ヤ行)

 重い題材の重量級作品だ。

 NPOと日本ジャーナリストの活動を通して、タイの子供たちの置かれた過酷な状況が描かれる。

 臓器移植と幼児売春がリンクした社会的な闇の世界だ。警察までもが裏では繋がっている。買う人がいるから売ることを考える。買い手はもっぱら外国人だ。

 一方でNPOの活動も盛んだ。これも名目や目的は様々だが、外国からタイに入り込んでくる。これを快く思わないタイ人もいるわけだ。

 江口洋介の主人公はタイに暮らす日本人ジャーナリストで、彼の目から臓器売買の実態をルポするというのが主筋になる。「悪を暴く正義」という視点に組し、主人公に感情移入していると足元がぐらついてくる、という部分が本作の複眼的な視点だ。

 ある部分で正義の人が、他のどの部分でも正義の人か?というミステリーがラスト近くの仰天の中身だ。
 ただ同じように子供を売り物にした二つの罪悪が、相互にはまったく関係ない独立した事象であると、この主人公は思っていたことになるが、卑しくもジャーナリストがそんな鈍感なものなのだろうか?

映画 「12人の怒れる男」

2008年09月02日 | 映画(サ行)

 ハリウッド・ミステリー風のスタイリッシュなタイトルから一変、本編が始まると叙情が漂い出す。最近珍しく味わいのある作品だ。間違いなくロシア映画だ、と懐かしささえ覚える。

 ラストの余韻までミハルコフ監督らしい文学的な資質が感じられる。

 リメイク作品だがオリジナルの室内劇から一転、舞台を現代ロシアに設定し、回想による生々しい戦闘シーンなどが挿入されて映画的興趣に富んでいる。

 日本にも導入される裁判員制度を考える上でも必見の作品だ。人を裁くという重みを裁判員が次第に理解していく、その過程が表決数の変化に出てくる。

 しかしロシアの社会情勢を考えた時に、たどり着いた評決がどういう意味を持つか、という一ひねりが効いている。

 人を裁く立場の人間には被告の人生を丸ごと受け入れるだけの覚悟が要求されることが分かる。果たしてその立場になったとき、自分に裁判員が務まるのだろうか?