SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画「歓びを歌にのせて」

2006年05月24日 | 映画(ヤ行)
 「ダ・ヴィンチ・コード」 がキリスト教の根本に関わる問題を提起して物議をかもしているが、教会の偽善を日常的リアルさで直接的に批判しているこの作品には、教会もあまり神経質になっていないようだ。
 神の沈黙=ベルイマンを生んだスウェーデンの映画。

 退屈な日常に一つの異物が混入し皆が変わっていくという構図は「カッコーの巣の上で」や「バグダッド・カフェ」に通じる。とても心地よい癒し系の映画といえるだろうが、けしてハッピーな映画ではない、そのバランスが絶妙である。
 アカデミー外国語映画賞ノミネートもうなづける。

 いろいろな痛みを抱える登場人物がそれぞれに折り合いをつけていく過程が丁寧に描かれている。
 問題は主人公の抱えるトラウマで、過去の自分を肯定するラストシーンは悲しいが、やはりハッピーエンドの一つなのだろう。

映画 「ある子供」 ~ 親の方もまだ子供

2006年05月23日 | 映画(ア行)
 「子供を持つことの責任」を描いた作品。まだ若い男女の、それこそ「出来てしまった」のであろう子供をめぐり、人間が真実の愛へ一歩近づいていく過程をじっくりと見せてくれる。

 男の方はストリート・キッズの兄貴分のようで、まだ子供を持つ責任感からは程遠い、こちらの方もまだ「子供」だ。一方、女の方は出産を通して「母」になることで確実に何かが変わるようだ。その男女の違いを超えて、ともに一人の子供の親として絆を深めていくまでがリアルに綴られる。

 実際の生活音以外は音楽がなく、長まわしで生の息遣いが聞こえてくるような作品。川のシーンは本当に溺れているのではないかと思えるような迫真の画面に驚いた。

 子供を取り返すまでの悪戦苦闘を主にストーリーが展開するのかと思っていたら、そんなご都合主義ではない、深く尊厳に満ちた作品であった。

 原題は "The Child"で、ある特定の「その子供」のニュアンスだが、邦題は a child (ある一人の子供)の意味になっている。

映画 「ヨコハマメリー」

2006年05月22日 | 映画(ヤ行)
 メリーさんはその後どうなったのか?冒頭でインタヴューに応えるさまざまな人の声が画面にかぶさる。

 ドキュメンタリー作品だが、メリーさんの生涯を追って掘り起こしていくというよりも、戦後のある時代、人々の目に焼きついた「ヨコハマメリーという現象」は何だったのか、そして彼女に接した人達はどういう行動をとったかが綴られていく。

 冒頭のインタヴューで「メリーさんのその後」は観客の頭にそれとなく刷り込まれるので、ラストはある意味でどんでん返しとなる。
 「時代の記憶」とも言える現象を引き起こした張本人の、まことにさわやかで穏やかなその後に、直接はメリーさんを知らない観客もほっと安堵を味わうことが出来る。

映画 「僕の大事なコレクション」~ これは名作。

2006年05月17日 | 映画(ハ行)
 ちょっとトボケタ感じの映画なのかと思っていたら、まったく違った。素晴らしく良い意味で期待が裏切られた。しかし劇場はガラガラ、上映も短期間の見込みだ。地方公開は危うい?

 どうも売り方が間違っているような気がする。
 ポスターやチラシのイメージはまるでコレクターのマニアックな世界をおかしく描いたコメディだ。だがどうして、根本的にシリアスな文芸作品といってよい。

 舞台はロシアのウクライナ地方。オデッサの名前が出るので「戦艦ポチョムキン」の有名なオデッサの階段がこの辺の話なのかというほどの知識しかない。こんな場所にもかつてユダヤ人が暮らし、ナチスの爪あとが残されていることが分かる、過去のルーツを遡る旅がテーマになっている。

 現在と過去は表裏一体の関係で「すべては過去の光に照射されて明らかになる」といったほどの意味を託した原題が陳腐な邦題に置き換えられてしまったのがなんとも残念である。

 典型的なオタクに造形されたイライジャ・ウッドの目がメガネのレンズでさらに拡大されて、もともと目鼻立ちのハッキリした顔がなにやら作り物めいて見える。

 現代の旅の映画なのだが、ウクライナの広大さと人々の暮らし振りがまるで過去へタイムスリップしたような感覚を覚えさせる。これは名作。

 俳優として出演作品の多いリーブ・シュレイバーの初監督作品。(脚本も)

映画 「明日の記憶」

2006年05月11日 | 映画(ア行)
 記憶を失っていくということを、自分や周囲がどう受け止めていくかという切実なテーマが提示される。

 この映画の現在は2010年。
 物語はそこから時間を遡って語られる。時計の針の逆回し映像は多いが、この映画ではオープニングタイトルで工事中の高層ビルが「建ち下がっていく」様子で一挙に時間を巻き戻してくれる。

 堤監督にとっては正念場のシリアスドラマ。技巧的な画像も物語を支えるのに貢献している。

 ラスト近くですでに廃墟のようになった窯場を主人公が訪ねるシーンが素晴らしい。人が生きたということの証や生と死の問題、記憶するという行為のいとおしさが画面からあふれてくる。

 多くの人に見てもらいたい。「若年性」だからまだ確率的には他人事と思うかもしれないが、老いとともに誰の身に起こってもおかしくないテーマなのだ。

 ある時点まで伏せられていた娘夫婦には、いつ、どのように伝えられたのかは描かれていない。

映画 「単騎、千里を走る」

2006年05月10日 | 映画(タ行)
 予告を見てこれはパスしてもいいかなと思っていたが、実際に見ると印象がまるで違った。想像したような予定調和的な幸せな結末はどこにも無い。
 事実として最終的に提示されるのは「死と拒絶」である。しかし、死とともに許しがあり、拒絶の先には一筋の光が見えるので、見て確実に心が癒された。

 日本パートと中国パートをそれぞれの国のクルー(監督から撮影まで)が撮ったところが良かった、というより、そこにこそ監督のねらいがあったように思える。
 日本パートの暗い色調と鮮やかな生命の躍動するような色調の中国パートの対比。加えて日本では一組の父と子の関係が死によって終わり、中国ではまだ出会ってもいない父と子の関係がこれから始まろうとする対比も描かれる。

 沈鬱な日本から憂愁の気を帯びた健さん一人だけを切り出して中国の雄大な自然の中に立たせた時に何が起こるか、を丹念に描いている。千里とか万里とか白髪三千丈とか、その形容がうそではない、とにかく途方も無い国であることが分かる。
 それに一人の人間が挑もうというわけだ。

 劇中で中国人同士の「議論」が描かれるがこれは論理で相手を打ち負かそうという、真の意味での議論ではない。むしろ人間としての理を確認する場なのだ。
 こういう相手に対して論理を打ち出そうとするところに最近の日中関係のひずみがあるのではないかとも思えてきた。

 70を超えた(劇中の設定がどうかは定かではないが)寒村の漁師にいきなりデジタルビデオの撮影が出来るのかどうかは別として、良く出来た心の温まる映画に仕上がっていた。

 エンドクレジットでまったく画面に出てこない健さんの息子役が中井貴一だと分かったが、いかにも贅沢な配役。声だけでなく病室のカーテンの向こうで本当に演技していたのだろうか?

映画 「Vフォー・ヴェンデッタ」

2006年05月09日 | 映画(ア行)
 派手なアクションには眼を見張るものの何も心に残らない大作が多い最近、これは珍しく中身の濃い作品。

 始まって間もなく、登場した奇妙な仮面の男がとうとうと時代がかった台詞をしゃべるので入場を後悔しかかっていた。ところが、ヒロインのナタリー・ポートマンがそれを「気が狂ってるんじゃないの」と受けたあたりから印象が反転した。

 人は死んでもその意思は伝播する、というコンセプトの元に「革命の意思」をシンボライズしたのがVであり、その仮面である。

 政府を倒そうとする孤独なテロリストの話だが、政府が「劇場型政治」ならテロリストの方も仮面という、双方、徹底したイメージ・ヴィジュアル戦である。普通と違うのは政府が悪でテロリストの方が善というところ。

 ウォシャウスキー兄弟の脚本で、劇中に女性の同性愛を絡めた「バウンド」を思わせるエピソードや仮面の男が画面を埋め尽くす「マトリックス」のエージェントを思わせるシーンなど舞台裏の楽しみも満載している。

 原題は「Vendetta のV」というほどの意味だが、カタカナで「ヴェンデッタのヴェ」と言ってしまっては様にならない。そこで付けられた半煮えのタイトルが、また意味不明で逆に興味をそそられる。

胡蝶蘭の万華鏡

2006年05月07日 | 日常生活・事件
 
 連休最終日、しかも雨。
 やるべきことはもう何もなく、時間だけはいくらでもある状態。

 暇をもてあまし、パソコン上で日常画像をシュールにデザインしたのがこれ。
 元画像はお祝いに飾られた胡蝶蘭。万華鏡を覗いたように配置しなおし、キャンドルライトに照らされたような色調を与えてみたら・・・。

 あら不思議、日常ではけして見られない美しい景色が現れました。

 コンピュータの世界、可能性は無限です。

映画 「隠された記憶」

2006年05月02日 | 映画(カ行)
 冒頭に耐え切れなくなるほどの「間」が描かれる。
 じきに、これが主人公の家を外から撮影したビデオの画像であることが分かる。

「劇」のない「記録の画像」は、映画の生理を無視している。防犯ビデオを何時間も面白がって見ることはできないのと同じだ。

 この作品の中では、映画の中の現実・夢・回想・ビデオの録画映像などがまったく同じ目の高さで描かれる。字幕や色調の変化があるわけでもなく場面と場面がフラットな関係で繋がれるため、観客は生理的にある種の不安を覚えることとなる。

 それが物語の主題である不安と混然となり、現代社会のもつ恐怖が巧妙に表現される。

 そして筋を追えるミステリーの方は一応一つの結末を迎えるが、もう一つ何の解決もなされないまま放り出された謎を抱えて、観客は映画館の暗闇の中から、この複雑な社会の中へ再び帰って行かなければならないのだ。