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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

哀しき玩具

2011-09-24 05:18:59 | ヨーロッパ

” Computerwelt ”by Kraftwerk

 車を運転するとき、たとえばパフュームなんかを聴きながらだったりするのだが、まあ、アイドル好きの当方、文句は言いたくないが「これのなにがテクノなのだ」と違和感を感じたりしている。パフュームってのサウンドって、テクノってことになってるわけでしょ?
 でもねえ・・・あのサウンドは低音ドスドス重た過ぎるし、音は厚ぼった過ぎるしヘビメタめいた音圧強いギターが終始鳴り渡っていたりするのは、いかがなものか。あれ、ただのシンセを強調したハードロックでしょう。私の感性ではそういうことになる。
 それでもカシユカは可愛かったりノッチは良い女だったりアーチャンのオッパイでかかったりするので、しょうがないから聴いちゃったりするんだけどさ。

 テクノってのは、もっともっとオモチャみたいな薄っぺらで浅い音が粋なわけでしょう?安っぽいブリキのオモチャの楽しさ。重苦しい芸術なんかとは本来、縁のないものだ。
 発祥以来、テクノの持っていた、そんなチープの美学を放逐したのは、言うまでもない、あのYMOの商業的成功だろう。そりゃ誰だってゼニは欲しい。その世界の古兵までもが、あれをやれば売れるのかってんで便乗を図り、そのサウンドを重苦しいYMO風に、実に軽薄な態度で変化させた。

 降る雪やテクノも遠くなりにけり。などとつぶやき、このアルバムを取り出してみる。テクノの開祖・クラフトワークの1981年度作品、「コンピューターワ-ルド」のドイツ語盤、「コムプーテル・ヴェルト」である。
 まあ、あんまりやる気があるとも思えないいつものボーカル部分がドイツ語で歌われている、という違いしかないが、いや、なんとなく物々しくて面白いじゃないですか。

 このアルバム発売時点で、もう彼らはテクノ最前線から置いてけぼりを食ったみたいなイメージで見られていた。いや、それでもいいよ、テクノ最前線の音があれなら喜んで時代遅れになってやろう、と私なんかは確信を持ったものです。それでも、このアルバムにややこしい理屈付けをしたがる人もいて、うんざりさせられたものです。いいじゃないか、テクノなんかオモチャなんだからさ。






東地中海ブルースの旅

2011-08-29 02:05:19 | ヨーロッパ

 ”OPOU AGAPAS KAI OPOU GIS”by MARIA ANAMATEROU  

 なにやらスキモノの間で密かに話題になってますね。ギリシャの民族系歌謡の歌い手、まだ20代前半の女性のデビュー・アルバム、これがなかなか聴き応えあり!ということで、当方もさっそく聴いてみた次第。

 アルバムの内容としては、ギリシャの半島部や諸島部の大衆歌を学び、歌って来た彼女がさらにバルカン半島各地を旅し聴き集めた歌、そこから発想された楽想などをまとめた作品、ということになるようだ。
 実際、若い身空でよくこんな地味な世界にトライする気になったな、と呆れるくらいのディープな内容。シンプルな音つくりの中で、クリアでちょっぴりハスキーなマリア嬢の声がストイックにコブシを回し、ヨーロッパの曙に差したオリエントの光を捜し求める。

 彼女が、そのフィールドワークの成果としてまとめた、いわば”東地中海ブルースの版図”みたいな、空間的にも時間的にも奥行き深い音楽世界。
 それは南イタリアなんかの女性がよく身につけている体を一巻きで覆うような漆黒の民族衣装、あのやりきれないくらいな、地面に染み付くような暗さに通ずるものがある。地中海の明るい太陽が打ち下ろす光が輝かしいほど、地に描かれる人影は果てしなく暗い、そんな種類の漆黒を見つめながら歌っているのではないか、彼女は。

 アルバムのつくりは、アコースティックな民族楽器が必要最小限の音数で歌のバックアップをして行く、時には無伴奏の歌も聴かせる、という、西欧のトラッド歌手のアルバムなどに似ている。構造としては。
 そこに、次元の違う何かを招来しているのは、マリア嬢のコブシが織り成す”揺れ”の感覚。こいつが深い深いコクを生み出していて、なんかクセになる後味をこのアルバムに与えているのだった。




シーズン・オフの気配

2011-08-28 05:23:51 | ヨーロッパ

 ”Directorsound – Two Years Today”

 今日、というか暦の上ではもうとっくに昨日になっているのだが、この夏最後の花火大会が終わった。ともかく観光客を呼ぶにはこれが一番、というわけで夏には毎週のように花火大会が開催されるわが街である。その花火大会も、これが最後。
 8月もこのあたりになると、そぞろ寂寞感など空気の中に忍び入って来ている。日差しも地面に落ちる影もどこか弱々しいものに感じられ、昼間、砂浜を埋めた海水浴客たちも、なにやら寒々しい雰囲気を身にまとう。日が暮れて、浴衣など着込んで通りに繰り出す人たちは、「この夏もこれが最後だ」なんて去り行く夏への惜別の思いなど漂わせている。

 そして打ち上げられる花火の最後の一発が夜空に消えた後、人々はなんとなく口数が少なくなってJRの駅やら宿泊している宿への道をたどるのだ。これは盛夏の花火大会の終わりだったら皆は大声で冗談を言い交わし、下駄の音高く帰って行くのだが。
 何か、行ってしまった今年の夏への哀悼の意を表しているみたいで、哀しいような可笑しいような、不思議な気分で自分もその姿を見送る。夏の残骸の中に取り残された我々、花火会場の原住民もまた、うら寂しい気分は同じこと、というか、海水浴客が来なくなればその分、懐も寂しくなる仕組みでね。これからの残暑はほんとに頭に来るんだ。「バカヤローめ、今頃暑くなったって一銭にもなりゃしねえんだ」と溜息とともに太陽を見上げる。

 今回のアルバム、英国人の、どうやら必ずしもフルタイムのミュージシャンではないじんらしい人物による一人宅録の作品である。作者が住むらしい南イングランドの海辺の町の季節のスケッチ、とでも言うんだろうか。なんだかそんな夏の終わりの、まだまだ強い陽光のうちにも、時おり吹き過ぎる足の到来を思わせる風の気配とか、そんなものを思わせる響きがあり、この季節になると聴きたくなってしまうアルバムだ。
 いや、季節がどうこうではなくて、南イングランドという地域が年間通じてそんな感じの気候だ、という話もあるんだが。

 聴こえて来る音は、なにやら玩具箱をひっくり返したような。ロックのようだったり映画のサントラのようだったり、カラフルに変化して行くのだが、楽器の音がどれも玩具のような感触で響いてくる。そしてどの音にも独特の日差しの感触。明るいけれど、どこかひんやりと落ち着いている表情がある。
 生まれた街、南イングランドの海岸で、季節が行き、時が過ぎ行くのを静かに見つめていた一人のミュージシャンの描いた一幅の絵画とも言いたいアルバムなのだった。






旅行けば、アドリアの風吹く白河の関かな

2011-08-10 03:17:25 | ヨーロッパ

 ”EHO RIZA STON AERA”by MICHALIS NIKOLOUDIS, MARIANNA POLIHRONIDI

 ギリシャの大物作曲家、ミカリス・ニコルーディス氏の自作自演集新譜、ということで。まあ、大物とかいったってどの程度の、とかぜんぜん知らない当方なのですが。つーか、知ってる人が日本に何人いるんだって。

 全編にわたって、ニコ先生は枯れ切った音色のブズーキ(バグラマ?)を奏で、お供の女性歌手、マリアンナがボーカルを担当、それに必要最低限のリズムセクションが付き、しっとりと落ち着いた雰囲気の中でニコ先生の書き下ろされた新曲が披露されて行く次第です。
 それにしてもマリアンナ、声質はまだ若そうなのに、どっしりと落ち着いたハスキー・ボイス、貫禄の芸風。ジャケに写真はないが、さぞかしオトナの良い女なのでありましょう。

 さて一曲目、キンと凍りついた冬の針葉樹の木立を想起させる凛と美しいマイナー・キイのメロディで始まる。「ヨーロッパの哀愁」を絵に描いたみたいな世界です。
 墨絵みたいなジャケ。シンと落ち着いたシンプルなサウンド。枯れ切った感傷の世界に夢は荒れ野を駆け巡る。ギリシャ版奥の細道。聴き終える頃には、スカンジナヴィア半島にでも着いているんじゃないでしょうか。

 地味な話ですが、3曲目の出だしが歌も演奏も、モーニング娘のヒット曲、「ラブマシーン」をものすごく地味に演奏してみました、みたいな響きが一瞬あって受けたんだが、そうは聴こえないという人も、そりゃたくさんおられるでしょう。
 炎熱の空の下、秋の一人旅の旅情などそぞろ恋しくさせるオトナの一枚なのでした。





砂漠と薔薇の歌

2011-08-08 04:12:35 | ヨーロッパ


 ”Daughter of the Spring”by Mor Karbasi

 この歌い手の前作、つまり2008年のデビュー作は、なんかきれいな女性の写っているジャケだから、という腑抜けたジャケ買いで手に入れたのだった。写っている女性というのが、つまり歌手自身であったのだが。

 飛び出してきた音は、なんとなく地中海風な日差しと海風を感じる音楽、そして深い歴史を背負っていそうな音楽、とは感じたのだが、詳しいところは分からなかった。フラメンコっぽいギターが耳についたのだが、真正面からフラメンコというのでもなし。後になってそれがイベリア半島に伝わるユダヤ系大衆音楽、セファルディーであると知ったのだが。
 なるほどそういわれれば、である。モロッコとペルシャの血を引き、エルサレム生まれ、という血筋の女性が、子供の頃から習い覚えた民族の歌を歌っているのだった。

 このアルバムもフラメンコっぽい、と聞こえるギターが中心となってサウンドが組み立てられている。だが、たとえば冒頭の曲など、各楽器が音階等ではなく、それぞれの楽器の音質でアフリカを想起させるような、サハラ砂漠の風に干しあげられたように乾いてリズミカルに跳ね回るプレイを行っているのであって、こんなことが出来るのは相当なてだれなのだろうと思わずにはいられない。
 そして、こんなに愛らしい歌がありうるのか、と深夜に聴いていて嘆息させられた3曲目の Yasmin などをはじめとして、印象深い歌がいくつも歌われていて興味が尽きない。

 楽想は曲ごとにスペイン色が濃くなったりアラブ色が濃厚になったり、海峡を挟んでヨーロッパと北アフリカが交錯する、まさにアラブ=アンダルーセズ音楽が華麗に展開されて行く。一曲一曲にこめられたドラマを奥行きのある歌唱で歌いこんで行く様子は、前作よりもさらにスケールを増した感がある。
 あるときはつぶやくように内省的に、あるときは情熱的に歌い上げ。
 あのスペイン大衆音楽の優れた歌手であり研究家であるホアキン・ディアスのセファルディ曲集など確かに想起させる歴史感、とでも言うべき広がりが見えてくる歌集となっていて、見事なものなのだった。




太陽と風の彼方に

2011-07-17 03:38:18 | ヨーロッパ

 ” Barí”by OJOS DE BRUJO

 スペインはバルセロナ出身のバンドだそうで、これが2002年に発表した2ndアルバムとのこと。なんか5~6年前に来日もしたようだが、わが国にどれだけのファンがいるんだろ?
 やっている音楽を一言で言ってしまえば、ヒップホップの要素を含んだフラメンコ、というところなんだろう。ハスキーな女性ボーカルとガットギターが中心となり、真正面から血の気の多そうなフラメンコ表現を突きつけてくるが、使われるコードがときにメジャー・セブンスぽくって、その世界をあまり泥臭い方向に行かせない工夫がなされているようだ。

 その裏でボコボコと都会の翳りを漂わせつつジャズィーなエレキ・ベースが唸り、リズムを刻むコンガとタブラとスクラッチ。ギターとボーカル掛け合いの素朴な世界に、唐突にホーンセクションが絡み、フラメンコから突然、キューバンっぽいラテンに流れたりする。
 女性ボーカルが早口言葉風ラップからお経みたいなノリになり、それに引っ張られるようにバンドがインド音楽化するあたり、なかなかエキサイティングな体験だ。そういえば、フラメンコ・ギターとインド風バイオリンの掛け合いなど、なかなか聴かせる。

 とか書いてみるとなんか楽しい世界みたいだが、いや実際、さまざまな音楽の要素、あちこちに顔を出してそれなりに楽しいのだが、あまりあちこち脈絡なく飛び回られると落ち着かないというか、いったい何の音楽だったのかと聴き終えてから首をかしげたりする破目になる。
 ”フラメンコを基調にしたかくかくしかじかな音楽”と、ミクスチュアならミクスチュアで、自分らなりのサウンドを確立してくれたほうが私なんかは聴き易いのだが。というか、私なんかは聴いていると”フラメンコ、勢いあまってインド音楽になだれ込む”なんてあたりが一番血が騒ぐんでその方向専門になってくれるとありがたいんだが。

 強い太陽の光と乾ききった大気と吹きすさぶ風の中で煮しめたみたいな、深い孤独の手触りがある盤だ。




ユーラシア大陸奥の細道

2011-07-13 05:05:34 | ヨーロッパ

 ”Zhyli - Byli”by Sergey Starostin

 ロシアの、前衛ジャズ系民俗音楽家とでも紹介すればいいのか、独自の活動を続ける、セルゲイ・スタロスチンの、今年出たばかりの作品である。とはいっても、音そのものは2006年のライブからのようだ。
 セルゲイは以前、この場で取り上げた事がある、同じく民俗音楽を独自のやり方で今日化している歌い手であるInna Zhelannayaなどと行動をともにし、一時は同じバンド(Farlanders)でやっていたこともある。おそらくこのバンド人脈あたりが、ロシアの民謡最前線なのだろう。

 この盤における音楽は、無伴奏か、ほぼ無伴奏に近い状態のうちに渋いボーカルが殷々と響き渡る、といった形で進んで行く。歌声に静かに寄りそう、前衛ジャズ色濃い管楽器の演奏。
 そもそも、参加メンバーが女性二人のコーラス(内、一人がハーディガーディを担当)と、木管楽器奏者が一人、それにセルゲイ自身のボーカルと同じく木管楽器、この4人だけであって、そこにはリズムセクションもコード楽器も存在しない。
 歌われる曲たちは、マイナー・キイのうら寂しいメロディ連発である。そこにイメージとしてたち現れてくるのは、曇り空の下で果てしなく広がる枯れ果てた大地と、吹き抜ける風、といったうら寂しい風景。
 なにやらワビサビの世界めいて、”ロシア奥の細道”なんて副題も可能かと思われる。

 なるほど、ロシアの大地はこんな感じでモンゴルの草原まで続いているのだな、などと分かったような気分で頷いてみたり。ともかく、ロシアっぽい翳りを含んだメロディと、やたらと隙間の多い演奏の向こうに、抱えきれないほどの寂寥が薄暮のうちでたゆたい揺れ動く。ユーラシア大陸の裏通りを行く、孤独な旅人の足音が響いている。





ユーラシアの頂上にて

2011-06-27 01:20:09 | ヨーロッパ

 ”Silo-i”by Silva Hakobyan

 なんといっても、ジャケに記された文字のインパクトだけで、ワールドもの好きの血は騒がずにはおれなくなるのだ、アルメニア・ポップス。
 不思議な文字もあったものだなあ。アラビア文字とロシア文字の入り乱れたみたいな。まあ、その辺の地平にアルメニアという国があるんだからそれで当たり前なんだが、
 その文化も、世界史の裏通りのようなど真ん中のような微妙なポジションで長い歴史を刻んできた国らしい、非常にユニークなものを持っているのだろう、こうしてかの国のポップスを聴く限り。

 もはやこの分野で、伝統楽器や民俗音楽の要素と最新の電子楽器の交錯する音作りは珍しくもない。独特の巻き込むような旋回系のスイング感を持つリズムがまず打ち寄せて来て聴く者の足を払う。東方の香りを濃厚に漂わせる哀感を含んで、納豆のような糸を引きつつ流れて行くメロディ。
 バルカンのようでバルカンでなく、アラブのようでアラブではない。なんとも正体のつかめないアルメニアのエキゾチシズム。たとえば東欧などでは「イスラム文化とキリスト教文化の衝突」なんて”テーマ”が見えてくるのだが、ここでは何と何がぶつかり合っているのかも、良く分からない。もう一度、地図でアルメニアの位置を確認する必要があるのだろう。

 冒頭に、なんだか場違いなボサノバみたいな曲が収められている。こちらの思い入れをあざ笑うように、現地ではこんな「それ、面白いか?」と首をかしげるような意外なものが今ウケとなっている事も、ワールドミュージック道追求の課程ではよくあること。この場合は、ボサノバにしてはなんかもっちゃりして、かの音楽が売りにしている洗練や退廃の影が薄いあたりに注目したい。そういえばアルメニアの音楽、アップテンポで疾走する曲はあっても、あまり尖った印象を受けないって気がする。これが国民性だろうか。
 後半、8曲目でバックにブラスバンドが登場するあたりで音の民俗性が倍増しとなり、ますます面白くなってくる。その後もブラスは鳴り渡り、差し挟まれる宴会調の手拍子と掛け声も濃厚に民俗の血を漂わせ、Silva女史の歌声もアク強く、ユーラシア大陸ど真ん中の小さな大国の栄華を讃える。まだまだ面白い音楽はあるねえ。





遥かなる海熊の呼び声

2011-06-13 02:02:09 | ヨーロッパ


 ”We Built A Fire”by Seabear

 以前、その1stアルバムを紹介したことのあるアイスランドのロックバンド、”Seabear”の、昨年出た2ndアルバムが手に入った。なんか不思議なジャケ画であり、こんな絵、どこかで見たことがあるけど、なんだったかなあ?なんか、雑誌”ガロ”周辺で昔、良く見た記憶があるんだけれど。
 結構大人数でやってる割には隙間の多い音、それもなにやら柔らかく丸っこい印象のフォークロックを聴かせるバンドだ。爽やか、というのを通り越して淡いコーラスを従え、決して激さない語り口調のボーカリストが紡いで行くのは、素朴と言うか牧歌的なメロディライン。

 以前にもこんな感想、言ったかもしれないが、彼らの歌には擦りガラスの向こうの風景を覗いているイメージがある。
 そのおぼろげな風景の中に、”夏の終わりの市民プールで夢中になって泳いでいて、気がついたら日は西に傾き、プールサイドに人影はすっかり減って、薄ら寒い風が吹き始めていた中学時代の思い出”みたいな、独特の懐かしさを漂わせた物悲しさが一貫して響いている。それは結構癖になる個性であり、生活の中で心が疲れたとき、ふと思い出して聴いてみたくなる、そんな効用を彼らの曲に付与している。
 心が折れそうな時、たとえばこんなに日曜日の深夜、一人で休みなく振り続ける雨の音を聞きながらつまらないことに心痛めている、こんな時にはね。

 それにしても、”ライオン・フェイス・ボーイ”で始まり”ウルフ・ボーイ”で終わる収録曲であり、その狭間には”木製の歯”やら”柔らかい舟”やら”暖かい血”なんて曲が並んでいて、これは歌詞が知りたい、きっとユニークな歌詞世界なんだろうなあと興味を引かれるものの、歌詞カードもなく、もちろん、そんなややこしい歌詞を聴き取れる英語能力があるわけでもなし、とりあえずはどうにもならん。もどかしいなあ。

 擦りガラスの向こうの曇り空の下から、Seabearのメンバーたちの遠い声が聴こえてくる。呼びかけて来る、呼びかけて来る。
 それに応えたいのだが、なにを話しかけられているのか分からないのだから応えようもなく、私はただ座り込んで彼らの歌を聴いている。タオルを肩にかけてプールサイドを立ち去る後ろ姿は、坊主頭の中学生の頃の私だ。夕陽はすでに山の端にかかっている。



アイルランド、朝霧の丘に

2011-06-06 01:55:32 | ヨーロッパ

 ”Song for the Journey”by Annmarie O'Riordan

 彼女、アイルランドのトラッド歌手だそうな。私にははじめて聴く人なのだが、これが4枚目のアルバムとの事。だが、もう2~30枚は出しているんじゃないかと思うような貫禄だ。太い声質の悠揚迫らざる歌唱で、私などは、はじめてドロレス・ケーンを聴いた時など思い出したのだった。

 歌われているのはアイルランドの伝承曲、および新作のフォーク曲など。すべて、しみじみとした味わいのある美しいメロディのスロー曲ばかり。伴奏陣は品の良いトラッド演奏のマナーで、必要最低限の音数で彼女の歌を支える。
 ”アメイジング・グレイス”とか”オールド・ラギッド・クロス”といったアメリカの古謡がアイリッシュの癖の強いコブシ付き歌唱法で歌われると、開拓時代の北アメリカ大陸で焚き火を囲む移民たちの姿など浮んでくるが、それらの後であまりにも有名なドボルザークの”帰郷”が歌われるのだから、実際、そのような意味合いのある選曲なのだ。

 よくもこれだけ切ないメロディばかり集めたものだと思うが、すべて強力な郷愁の想いを含みつつ歌い上げられる。朝霧に包まれた、目覚めたばかりの北の森のイメージが広がる。歌の響く先、そこここに朝露が光り、生まれたばかりの世界を祝福する。音の向こうから漂ってくる深い森の緑の香りに、その緑の想いにむせ返りそうだ。
 アルバムに織り込まれたあまりに強力な郷愁の想いに、こちらもつられてアイルランドの緑の丘に帰ってみたくなるのだが、いや、行ったこともない土地に、帰りようもないのだった。