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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

初夏・エテルナ

2011-06-04 01:39:33 | ヨーロッパ

 ”MISTIKOS PROORISMOS”by EFTIHIA MITRITSA

 さっき。夜の10時過ぎくらいだったかな、所用あって近所のコンビニに買い物に行ったのだけれど、海岸通りを流れる空気のうちに、ちゃんと初夏の息付きが流れ込んでいるのに驚いたのだった。人の気持ちを妙な胸騒ぎに誘い込む、この空気の不思議な生暖かさ。今夜、初夏が私の町にもやって来た。
 ほんの2~3日前には近所の人たちと「この季節にこんなに寒いなんて。自然がどこかおかしくなっているんだよ」なんて話をしたばかりだったのだが。この春から、人々の意識の背中辺りにのしかかって去らぬ重苦しさ。あの”終わりの季節”の囁きにもめげず、春の約束は今年も果たされようとしている。
 海岸通りの交差点あたりの灯りは当世風に自粛の風が吹いて薄暗くはあるが、いつの間にか季節の巡りは律義に、このちっぽけな町の通りに今年もやってこようとしているのだった。

 20代半ばかと想われるギリシャの女性歌手のデビュー盤である。歌手の名前をどう発音するかなんて、見当つけることさえ諦めた。(このタイトル、”秘密の約束”って意味じゃないかなんて気がするんだが、どうですか?)
 瀟洒、という言葉が非常に似合う出来上がりとなっていて、一発で気に入ってしまった。どこか不機嫌な表情をその底に漂わせ、イチゲンの、ヨソモノの食い付きを最初は拒否さえしてみせるかのような偏屈なギリシャ・ポップスにしては珍しく、なんて言い方もどうかと思うが、ともかく非常に素直にポップスとして楽しめた、という話である。

 20代の女性にしてはずいぶんと落ち着き払った歌唱だが、まあ、ヨーロッパ、それもギリシャだから。そんな大人ぶった、退廃さえ漂わせる歌声の中からこぼれ落ちる甘酸っぱい青春の日々の感傷。相当周到な計算の元に作り上げられた、そんな構図。アコースティックな、フォークっぽいつくりのサウンドに巧妙にギリシャ伝統のブズーキの響きが紛れ込み、当世西欧風なポップスの流れがいつか、濃密なギリシャ・ポップスへと合流して行く。
 悠久のギリシャの歴史の厚ぼったい重圧と 古きヨーロピアン・ポップスの倦怠。張り巡らされたクモの巣のような時の堆積。その狭間を縫って噴出してくる、芽生えたばかりの青草の輝き。この構図もちょっと良い感じだ。




モスクワの倦怠、偽の左岸を夢見る

2011-05-27 23:21:32 | ヨーロッパ

 ”12 историй”by Настя Задорожная

 さて、ロシアの美少女歌手として、その筋では知られるナースチャ・ザドロジュナヤちゃんの2009年度作品、「12の歴史」であります。彼女のアルバムを聴くのは初めて。「ジャケ買いですまん」とか言って浮かれた文章を書きたいところだけど、そういう気分にもならない。まるでアイドルのアルバムって作りでないからであります。
 歌詞カードには歌手のさまざまなポーズを取った写真が載っていて、彼女の容姿に惹かれてCDを手にするような連中相手の商品であるのは明白なんだけど、収められている音がさっぱり心浮き立つようなものではないのですな。

 まず冒頭、聴こえて来るのは延々とむさい男の声によるロシア語のラップでありまして、手違いで別の歌手のCDが封入されているのかと心配になってくるほど。やっとナースチャの歌声が聞こえてきても、彼女は結構ドスの効いた声でぶっきらぼうに歌う人なんで、華やぎというものがないのですな。収録曲のメロディラインも薄暗い印象が強いし。あ、サウンドはロシア名物、打ち込み音も冷え冷えとしたスラブ風ファンクです。
 それにしても、アルバムを覆う武骨とさえ呼びたい雰囲気はなんだろう。変な言い方だが、各歌の一人称単数を直訳すれば「俺」になるみたいな印象。アイドル・ソングっぽくないどころではない、オヤジくさいとさえ言えそうなタッチで語り下ろされる日々への違和感が、無機的なリズムを打ち込まれたダルいメロディに乗って流れて行く。

 冒頭のラップを聴かせた男は何者なんだろう。その後も再三、歌ったり語ったりでアルバムに顔を出し、単なるゲスト以上の存在である事を誇示しているようだ。そういえばよくナースチャと写真に写ったりしているヒゲ面の中年男がいるけど、この歌声が彼なのだろうか。と、ここまで考えて、やっと分かったのだった。この男、ナースチャのプロデューサーのような立場にいる男で、セルジュ・ゲーンズブールを気取っているのだ。

 だらしなく着崩したファッションで無頼を気取り、使えそうな女を見つけてきてはスターに仕立て上げるのを得意技としている、あの無精ひげと咥えタバコが売り物のフランスの洒落男に、この、どういう立場か分からん、プロデューサーなのか作曲家なのか、この男は憧れている。そしておそらく、それなりの実績をロシア国内ではあげて来ているのではないか。
 たとえばここではナースチャが彼の”作品”であるのだろう。彼女はブリジット・バルドーなのか、ジェーン・バーキンなのか。彼女自身も、彼の”芸術的なプロジェクト”に、そんな形で参加できるのを誇りに思っていたりするのではあるまいか。

 もちろんロシア語は分からないのだけれど、歌詞の内容が理解できたら。ますますうんざりするんだろうなあ。とは思ったものの、もう二度と聴きたくないかと問われたらそうでもないような。変なことやらされてるナースチャを聴く、不愉快な面白さみたいなものを、このアルバムに見出してしまったから。
 でも、ちゃんとした軽薄なアイドルアルバム(?)を、一度、作ってやってくれないものか。そういうの聴きたいんだよ、ロシアのゲーンズブールさんよ、と私は名前も分からないその男の写真に向って呟いたのであります。まったくややこしいぞ、大衆音楽の真実。




アテネ・ヨーロッパの午睡

2011-05-24 03:37:40 | ヨーロッパ

 ”EISITIRIA DIPLA”by NATASSA BOFILIOU

 夕刻、降り始めた雨は夜半に入ってさらに勢いを増し、軒先を伝い落ちる雨の雫の垂れ落ちる音が妙に存在感を持って響いて、こちらの気持ちを憂鬱にさせます。明日は一日、雨なのかなあ。
 こんなときは逆療法と言いますか、雨に振り込められた表通りと同じくらい湿度の高い感じの音楽を聴いてしまったりすることもあるわけで。
 ナターシャ・ムポフィリオウとでも読むんでしょうか?ギリシャの歌い手であります。まだ20代の半ば、これが3枚目のアルバムとのことなんで、今が美味しい感じの(?)新人歌手と言うところでしょうか。

 挿入されている歌詞カードを兼ねたブックレットに詳細な解説が掲載されているようだがギリシャ語なんで一言も分からず、というか、どう発音するのかも見当がつかないギリシャ文字。彼女がどんな歌手なのか、まったく分からぬまま聴き始めたわけですが、まあ、毎度お馴染み、彼女が美しかったがゆえのジャケ買いですけん、これでいいのだ。

 実はジャケで彼女が着ているのを最初、古いタイプのトレンチコートと勘違いしていて、なんか昔のスパイ映画の一シーンみたいだなあ、なんて思ったのでした。
 当時、冷戦の最中だったから、ポスポラス海峡を抜けて黒海の向こうはすぐソビエト連邦というロケーションのギリシャは、結構諜報戦の舞台だったんじゃないか。
 ブズーキの妖しげな旋律が響く喧騒のアテネの街の雑踏に紛れて消息を絶つ女スパイ一人。
 昔の映画ってさあ、物憂い昼下がりの窓から差す弱い陽光、なんてものまで風情があったもんですなあ、あれはどういうわけですかね。それともこれは、年寄りの感傷に過ぎませんか?

 ナターシャ嬢の歌うのは多くはマイナー・キーで、どれも濃厚な哀歌。悲痛で、時にミステリアスな影を宿す、深い深い何かを秘めた旋律。達者な歌唱力で、それを切々と歌い上げて行くナターシャ嬢であります。重々しい、堅牢と言っていいアレンジを付されてそれらは、落日の町並みで悪巧みを凝らす古きヨーロッパの屈折した苛立ちの表出みたいに響きます。
 長い歴史を秘めた街角の底を蛇のように這いまわり、そして物語は孤独なスパイの背後から放たれる一発の銃声で突然の終わりを告げる。そして街は、何事もなかったかのように、また新しい一日を始めるのです。



鋼の荒野にも

2011-05-15 02:47:09 | ヨーロッパ

 ”Translucida”by Qntal

 どうもアレですねえ。放射線性鬱病とでもアダ名すればいいんでしょうか、なにかというと事故を起こした東京電力の原発が頭の隅に出てきて、どうも気持ちが沈んでならない。「なにをしてもしょうがないだろうなあ、事故を起こした原発があそこにあるんだもの」なんて、そんな気持ちの下降線傾向がデフォとなってしまっている私です。暗い諦念と申しましょうか。
 地震全体のことも含めて、同じような不調と言うか「3・11ショック」で気持ちが落ち込んだままなんて述べている人も多く、まあ私もその一人ということなんでしょうね。

 しかしふざけた話です。原発に関する皆の不安と言うのは「政府が本当の事を言っていないのではないか?」って疑いが生んでいると思うんですが、そして私もそう疑っているんですが。
 原発利権を守ることのほうが国民の健康や命よりも大事だって、そりゃひどすぎるだろうがよ。原発利権を貪る側にいる人々もさあ、すべての日本人が死に絶えた荒野を廻って電気料金集めて歩いて楽しいか?どうなんだ。

 と言う次第で音楽の話も滞り勝ちなんですが、いや、負けちゃいかんなと。引っ張り出しましたるはドイツの。これはどう紹介すれば良いのかな、エレクトリック古楽のバンドです。ヨーロッパ中世のあたりの音楽を、シンセなどの電気楽器とサズみたいな民族楽器を併用して聴かせるバンド。
 クラシック色の濃い女性ボーカルが粛々と歌声を響かせ、打ち込みのリズムが冷たい拍動を刻む、いかにも温度の低い光の少ない結晶化したみたいな世界で東洋と西洋が交錯し、氷点下で燃え上がる秘められた情熱が一閃する。こういう硬質の美学は好きですねえ。




チェコ女性、チェロでロック

2011-05-08 00:53:11 | ヨーロッパ

 ”Piosenki do snu”by Tara Fuki

 チェコのチェロ弾き語り女性のデュオ。つまり、チェロ2台と女性ボーカル二人の掛け合い、それだけで成立している音楽なのだ。
 けれど、とてもスリリングであり、手に汗を握りつつ一気に聴いてしまう。そのスリルに身をゆだねているのが、非常な知的快楽、と感じられる。

 いかにも東欧らしいと言おうかチェコらしいと言うべきなのか、哀感漂う旋律の中に、二人の奏でる底鳴りのするチェロの響きが複雑に絡み合い、パワフルなリズムを打ち出す。とても思索的で構築的な世界がモノクロームな静けさを伴って展開されて行く。
 当方には一言も意味の分からぬ異境の言葉がロックのテンションを持って歌い上げられ、不思議な血の騒ぎを心臓に送り込んでくる。

 あくまでも知的抑制の効いた表現の中で時に、二人の女性の秘められた激情が炸裂する。その瞬間の輝きは、ギラリと暗い祝祭の感覚を闇に描いて消え去って行く。
 ヨーロッパが内に抱えた、闇の深さと豊かさを垣間見せるような、妖しい儀式を予感させる一枚だ。





すべての美は悲し

2011-05-02 04:51:40 | ヨーロッパ

 ” All Beauty Is Sad ”by Ophelia's Dream

 いろんな人がいろんなところで言っていますな、あの”3・11”の大震災以来、どうも何を聴いても楽しめないし、どんな本を読んでもその世界に入り込めない、なんてことを。私もまあご多分に漏れずで、なんか調子が出ない、不完全燃焼のストーブみたいな、といいますか、なんか鬱に降り込められちゃった、みたいな気分で暮らしている次第で。
 もうこうなったらしょうがないから持ってる音盤の中でも特に悲嘆の度合いの強い物件をあえて持ち出して逆療法にかかろうか、なんてのが今夜の趣向です。

 とりいだしましたるはドイツの男女二人による音楽ユニット、”Ophelia's Dream”のデビュー作、”All Beauty is Sad”であります。なんたって「すべての美は悲し」ですからね。ジャケには、これはボーカル担当の女性ですかね、彼女が大振りの古文書かなんかの上に横たわり、虚空を見上げている様子が、なにやら戦前のドイツ表現主義っぽいモノクロ風の写真で捉えられております。中ジャケを見てもどこやらの墓所で、誰の逝去を悲しんでいるのでしょう、悲嘆に暮れるメンバー二人の姿を捉えた写真が数葉。二人は完全に喪服に身を固めております。これは聴く前から心落ち込まずにはおれません。

 音の方は、教会オルガンを模した男性メンバーの奏でるシンセの荘重な音が鳴り響く中、ティンパニが打ち鳴らされ、女性コーラスが分厚い悲嘆の壁を構築する中、完全にクラシックの技法によるボーカル担当の女性のソプラノ・ヴォイスが高らかに響き渡ります。この壮大なオープニングにより、悲嘆劇の幕が上がります。
 その後は、シンセ多重録音によるドラマチックなオーケストラが、遠い過去よりすべての人が歩いた、人生の苦しみの足跡を拾って歩くみたいにオルガンが、ピアノが、丹念に哀しみの旋律を辿り、ともかくすべてが悲嘆、そして「ここぞ」と言うところに登場して究極の悲哀を歌い上げるソプラノ・ヴォイス。

 ともかく、「何がそんなに悲しいのだ?」とか訊ねてみたってしょうがない、この哀しみの様式美の大伽藍に迷い込んだら、人はただただ、この古きヨーロッパが醸造したマイナー・キーの悲嘆の湖に溺れ、酔い痴れるよりないのです。
 そして人は、この哀しみの岸辺に水死体として打ち上げられた後、なにごとかの法力によって蘇り、何事かを得てまた歩き出すのでしょう。あるいは死んでそのまま終わるか、だ。



フェリーニのジャズ

2011-04-17 03:13:41 | ヨーロッパ

 ”Fellini Jazz”by Enrico Pieranunzi

 何年前だったか、イタリアの映画監督、フェデリコ・フェリーニ没後10周年企画として製作されたアルバム。すべての収録曲の編曲も担当している、ヨーロッパ・ジャズ界の大物ピアニスト、Enrico Pieranunziが中心となり、アメリカジャズ界の応援を得て製作した、フェリーニの映画音楽をジャズってみよう、という趣旨の作品だ。ベースがチャーリー・ヘイデン、ドラムスがポール・モチアン、といった結構シリアスな(?)編成である。

 フェリーニの映画音楽、ということで収められた11曲中8曲がニーノ・ロータの作曲になるもの。だからどう演奏したってこうなるというか、ホーン勢はちゃんと吹いてるのに、なぜか調子外れっぽく鳴り渡ってしまう、みたいな味をはからずも出すスローものが良い。イタリアの場末にいつの間にか夕陽が差し込んでいる、みたいなダルい哀感が、そこら一面に漂う。
 ことに中盤、”アマルコルド~カビリアの夢~甘い生活”と続くあたりが、このアルバムのハイライトか。”あのころ”のイタリア映画に流れていた空気感が蘇るようで、たまらない気分だ。ただレコーディングのためにローマに呼ばれてテナーを吹いているだけのはずのクリス・ポッターの、”カビリアの夜”におけるソロには、気がつけばいつの間にか、イタリア庶民の喜怒哀楽がベッタリ染み付いている。

 ”甘い生活”において、どこか関節の狂ったみたいなリズムパターンを繰り返すリズム隊とホーン・セクションとのやり取りは、なんともニヤニヤさせれられてしまうのだが、”あの時代”は濃厚にジャズの時代だったんだなあ。フェリーニの映画に、そこまでジャズが鳴り響いていたわけでもないのに、このジャズアルバムには、フェリーニの映画が持っていた体温みたいなものが横溢してるんだ。
 9曲目、”ラ・ストラダ”の終わり近くであの忘れがたいジェルソミーナのテーマが浮かび上がるところが恰好いい。
 また、次の曲、”カビリアの夜”のテーマ提示をなにやら歌謡曲チックに決めて見せるところはイタリア気分横溢。あっと、この曲は旅芸人やらジプシー気分を暗示しているのかな?

 ラスト、フェリーニに捧げたワルツはいかにもイタリア映画のエンディングに流れそうな泣かせの旋律で、その、いかにものそれらしさにニヤリとさせるのだが、聴き終えればイタリア映画の一本も見に行きたくなってしまう一作なのだった。それもDVDなんか借りて来たんじゃダメだ。ちゃんと映画館に行って見たい。




オリンポスの果実改め、女神の営業

2011-04-06 01:55:35 | ヨーロッパ

 ”Secret Concerts”by Eleni Tsaligopoulou

 私なんかがギリシャのポップスを聴き始めた頃は、エレーニ・ツァリゴプール(そもそも、彼女の名がこの発音で良いのかさえ、いまだに分かっていないのだが)といえば、ちょっとした女神だったのであって。そのお嬢様然としたルックスや、なかなか凝った繊細な音つくりなどなど、さまざまな勝手な幻想を生むに十分な資質が彼女にはあった。

 いや、それ以前にギリシャのポップスそのものが神秘だった。どう発音するのかも分からないギリシャ文字がジャケに溢れるCDからは、特に音楽に興味のないものでも「あ、ギリシャの音楽だ」と一聴、気が付くのではないかと思われるよなクセの強い音楽が流れ出た。ギリシャ神話の神々が女のケツを追っているときにはこんな鼻歌を歌っていたのではと夢想を誘う不思議なアルカイックな旋律と、ギリシャ独特のダンスステップが目に浮ぶような躍動感のあるリズムの提示。
 その中でもひときわ奥行きのある世界を展開していたと感ぜられたエレーニ・ツァリゴプールだったのだ。

 そんなエレーニが2007年に出していたライブアルバムが手に入った。それほど大きくもない会場における気のおけないライブ、という印象が聴こえる音からは、する。
 営業用の小額団を従えただけのライブであるから、凝った音の演出などは叶わない。エレーニの歌声も、気の良いおねーさん、という感じで軽快に躍動している。
 でも、独特のギリシャ音楽の神秘みたいなものは空気として確とあり、そいつを気のおけない娯楽として楽しんでいるらしい観客たちと彼女の間に、遠い東洋の音楽ファンとして会得も難しい古きヨーロッパの奥の間に鎮座まします秘密の世界を垣間見た、とかいうものオーバーなんだが、まあ、そんな気分になったりもしたのだった。

 それにしてもライブの中盤で懐かしいナンシー・シナトラのヒット曲、「憎いあなた」のカバーが飛び出したのには驚いた。ライトSM感覚のお色気ポップス、とでもいうべき、あのオールドポップスが現地における彼女のイメージなのかねえ。
 などと言いつつ。かっての女神が気まぐれに地上に降りてきて、結構気さくに一杯付き合ってくれた、みたいなライブ盤だったのだった。



ディオニソスの踊り

2011-04-05 02:39:58 | ヨーロッパ

 ”LE DANZE DI DIONISO”by CARLO FAIELLO

 50~60年代のイタリア映画などを見ていると、突然、画面に映っている俳優たち全員が声を合わせての大合唱のシーンが始まったりしたものだ。子供の頃は「わけの分からない歌が始まっちゃったなあ」などと迷惑半分で見ていたものだが、今思えば、それは、イタリア南部の香り馥郁たるトラッド・ナンバーだった、と思える。
 あれはおそらく戦後の復興が進むイタリアで、南部から景気の良い北の都会へ働きに出て来た人々が映画の観客のかなりの部分を占めるようになった、それゆえ彼らへのサービスとして、そのようなシーンを映画の最中に置く必要の出て来たのだろう、などと想像するのだが。
 もっと真面目にあの辺を見ておけば良かったな、などと言っても、それはイタリア音楽に興味を持った後の感想であって、当時のガキにそりゃ無理だね。

 イタリア南部の民謡に興味を持って聴きだしたのは、その方面の音楽を掘り下げたマウロ・パガーニのソロアルバムがきっかけで、”ヨーロッパ文明、一皮剥けばオリエント”みたいなその響きが非常にエキゾティックなスリルを感じさせ、音楽上の冒険物語を読む気分だったのだ。
 その後、南イタリアの音楽をあれこれ買い集めてみたのだが、特徴的な巨大タンバリンで叩きつけるように奏でられるタランテッラのリズムや、頭の血管ブチ切れそうになりながら天高く歌い上げられるイスラムの香りのするメロディなどにすっかり酔い痴れてしまったものだった。地中海特有の太陽パワー、光と影の乱舞するイスラム世界とキリスト教世界の乱交場面に大いに血を騒がせたものだった。

 で、さて、このアルバム、”ディオニソスの踊り”だけれど、もうジャケを見ただけで南イタリアものだろうなと見当が付く因果なもの(?)さっそく呪術的なタランテッラのリズムやら”地中海土着派”っぽい野卑な(この場合、褒め言葉です)歌声が、ちょっぴり暗っぽい音像の中に木霊し、期待通りに手に汗を握らせてくれる。
 もっともこのアルバム、ディオニソスの名なんか持ち出すあたりさほど天然ではなく、結構インテリっぽく地中海世界の音楽上の古地図解析を行なっているようだ。
 その歌声も時にはややクールにコブシを廻しつつ、南イタリアから北アフリカに及ぶ音楽伝播の道を辿って見せ、あるいはアコーディオンなども民俗音楽っぽいアプローチの中に、ややジャズっぽいアプローチというか”インプロヴィゼイション”を決める部分もあったりして、そのあたり、パガーニのあのアルバムの続編的なものを感ずる。
 というのは褒めすぎにしても、なかなかに妖しい地中海音楽の旅に誘ってくれるアルバムなのだった。




ギリシャの一夜

2011-03-24 00:34:32 | ヨーロッパ

 ”KALI SOU TIHI”by ARETI KETIME

 このジャケ写真、なんでカジノのディーラーの恰好をしているのか、歌詞の意味が取れれば分かるのでしょうか?ともあれ、なんか不思議なこのジャケに惹かれて手に入れてみた。ギリシャの新人歌手で、これがセカンドアルバムになるようです。

 ギリシャの歌い手と言うと、化粧も衣装もケバいお姐さんが腰を振り振り民族色濃厚な重い歌を、こちらを睨みつけながら歌いかけてくるイメージがあるんだが、このケティメちゃんの場合は瀟洒な、なんて言葉を使いたくなる穏やかな雰囲気に溢れています。あるいは文芸調とでも云うべきか。
 音楽的にはライカ等の泥臭い民俗調を志向しているみたいだけど、その歌い方はずっと淡く、”普通の女の子の普通の歌”として、それらは歌い上げられています。伴奏陣もキンキンした民俗調を強調はせずに、室内楽っぽい落ち着いたサウンドにまとめられています。

 もっとも、私が聴いていないファーストアルバムは、結構シンガー・ソングライターっぽい作りなんだそうで、彼女はもともとコンテンポラリーな個性の持ち主であるのかも知れない。
 You-tubeを探すと、彼女が民俗楽器のサントゥールなど弾き語りで披露する画像などに出会えるのだけれど、その様子など見るにつけても、結構”ミュージシャン”っぽい個性の子であるような印象がある。その辺で、民族色濃い歌を歌っても”同世代的共感”て奴で、異文化に育ったこちらもギリシャの古謡の世界にスッと入って行ける仕組みかも。

 いずれにせよ、彼女のしっとりと落ち着いた歌声によって紡ぎ出されるギリシャ歌謡は、幼い頃に絵本で読んだ西洋の昔話の記憶みたいな、静けさの中でセピア色化したエキゾティックな懐かしさや切なさの響きがあり、気が付けば「惚れてまうやないか」と呟いている自分がいたりするのでした。