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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

霧の中、アルメニアは

2012-03-22 06:01:02 | ヨーロッパ

 ”3”by Deleyaman

 トルコ育ちのアルメニア系アメリカ人によりフランスはパリで結成された、フランス系アルメニア人やスエーデン人などもメンバーに含む国際色豊かな、というかなんだかややこしいバンドの3rdアルバム、2006年作。

 メンバーは、ヴォーカル担当、アルメニアの民俗木管楽器デュデュック担当、そして、ギターやキーボードやパーカッションなど、やたらいろいろな楽器を手がける人、の3人編成。とはいえ、この三人目の人が他楽器多重録音を行なっているので、サウンドにはプログレっぽい厚みがある。
 一聴、当方がそれなりに聴いてきたアルメニアの現地ポップスとは、ほぼ関係のない世界だ。分厚いコーラスとオルガンの響きが醸し出すのは、厳粛な教会音楽っぽい雰囲気。粛々と奏でられるそれは、すべてを分厚い霧が包み隠した深い森を物憂げに流れ下る。

 それにしても、なんと物悲しい音楽なのだろう。分厚い霧は森の木々を覆い、ゆったりと渦巻きながら音楽は、遠い遠い時の向こうで忘れ去られていた人々の悲劇を語り始める。デュデュックのくぐもった音が殷々と渡って行く。
 その悲しみの響きの深さは、まるですでにアルメニアという国自体がこの世から滅び去ったかのようなイメージを抱かせるのだった。
 それは、北にロシア、南にイスラム諸国を控え、いかにも難しそうな場所に存在するアルメニアだもの、その歴史は気楽なものである訳はないが、すくなくとも滅亡はしていないはずだ。アルメニアという国は。

 それはもしかしたら、その生まれゆえ、当たり前のように国境線を跨ぎ越しつつ生きて来たこのバンドのリーダーがふと溜息のように漏らした、浮き草暮らしの感傷のエコーなのかも知れず。と思いつけば、いかにもそのようにも見え。
 いやいやそれとも。小国アルメニアというカナリアが、弱いもの特有の鋭い嗅覚で感知してみせた、来るべき運命の中の人類に寄せた慟哭なのかも知れず。
 ともあれ。悲しみ色に染め上げられたアルメニアの幻想は、淡い光芒を放ちつつ、人の意識の底へ、いつの間にか忍び入り消えて行く。



ブルース色のアテネ

2012-03-13 03:18:00 | ヨーロッパ

 ”KE I FADASTIKI TIS FILI”by CRISANTHI BARELI

 彼女はギリシャの新人シンガー・ソングライターらしい。まあ、毎度アレで申し訳ないですが、まるで資料もない、というかあってもギリシャ語なんで読めない状態で進行してゆきます、よくわかってないです、ご容赦を。

 アタマの曲から、スィンギーなアコギのコードストロークも軽快に、粋なジプシー・ジャズもどきの楽しい演奏が始まり、そいつに導かれてCRISANTHI 嬢のヴォーカルが入ってくる。心のおおらかな人なんでしょうな、あんまり細かいこと気にしない感じの豪快なノリが嬉しい歌声だ。
 その後の曲たちも、ジャズやブルースの影響下にあるものが目に付く。アメリカの黒人音楽に、もう真正面から影響を受けてきたのでしょうな、CRISANTHI 嬢は。しかも、そう見えて音楽の芯の部分からは、例の濃厚なギリシャ味が香ってくるんだから、たまらないじゃないか。

 曲目が進行するたびに、そのギリシャ味は濃くなってゆき、アルバムの中ほどではついに、ほとんど正統派ライカといいたいような歌と演奏が始まってみたりする。明るいアメリカ娘みたいにドライに響いていたCRISANTHI 嬢の歌声なんだけど、ここで急にグッと湿り気を増し、情念、地の上を這いまわる様相を呈する。やっぱり彼女もギリシャ人だねえ。

 ここで私は、ギリシャ音楽を聴き始めたばかりの頃に手に入れたギリシャのアイドル歌手(であろうと思われる)のCDなど思い出したのです。そのアルバム、冒頭にこそ世界各地でアイドル歌手が歌っているような曲調の楽曲が収められているけど、もうその次の曲には岩のごとく頑固なギリシャ歌謡が鎮座ましましていて、以後はもう、そればっかりの世界。あの頃は結構、そんなのに出会ったような気がするな、ギリシャ・ポップス。
 しかしCRISANTHI 嬢は、もうそんな時代のコではありません。ライカの沼からはすぐに這い出て、彼女風ブラックミュージックの旅を再開してみせる。

 ディズニー風(?)童謡ポップスでおどけてみたり、スローなファンクナンバーで凄んでみたリ。黒いなりにカラフルな(?)展開なのであります。そしてラストは、語り物調ブルースで、底冷えのする深夜のアテネの街角を吹きすぎる風の噂話を呟いてみたり。いや、なかなかかっこ良いではないか。
 なんかね、全編にみなぎる彼女の自由な発想にすごく好感を持てたんで、これは次作にも期待したいなあ、などと楽しみになってきたところなんです。
 あ、どうでもいい話だが、内ジャケの彼女の写真は、黒木メイサに似ているような気がする。いや、ほんとにどうでもいいな、これは。



コンピュータ降霊会

2012-03-10 02:00:26 | ヨーロッパ

 ”IBM 1401 - A Users Manual”by Johann Johannsson

 さらにクソ寒い国からの音の便りを。
 Johann Johannsson というのは北国アイスランドのミュージシャンで。まあ、クラシックみたいな音楽をやってるんですが、ロックなんかの要素も入ってきていて、なにやら得体の知れない人であります。この作品も60人編成のオーケストラによって演奏されているんだけど、けどやっぱりクラシックの枠内には入りそうもない奇妙な音楽。
 そもそも、この作品の成立に至る経緯も相当に変なもので、それを聞いて私は、「なんじゃそれ?」と頭を抱えてしまったのですが。

 この作品、以下のような故事に元ずいて書かれたものだそうです。
 かってアイスランドで使われていたIBM のコンピュータが、あまりにも人間的だとアイスランドの人々は感じていたので、そのキカイが寿命が来て廃棄される際、皆でお葬式をやった。機械のための。30年以上前の話だそうです。
 漫画、「あしたのジョー」の登場人物、力石の葬式なんてものが本気で行われた60年代末の日本など思い起こさせる話であります。あるいは筒井康隆の小説、「お紺昇天」なども。

 で、Johann Johannssonの父親がその当時、コンピュータ技師で、彼はその式でオープンリールのテープに、そのコンピュータの音を録音していた。その音を21世紀になってから父親に聞かされたJohann Johannsson はその物語に感動・・・というかまあ、芸術家としての創作衝動を刺激され、このような作品を書き下ろした、ということで。
 そのテープの音自体も作品内で使われていて、プラハの管弦楽団による清浄なるシンフォニーがひとしきり流れたあと、コンピューターが語りだすくだりは、ちょっと感動ものの気色悪さがあります。というのも妙な言い方だが、他に表現の方法がありませんで。

 その語り、というのはもともとコンピューター内部にセットされていたメンテナンス・インストラクションテープに入っていた声であります。その、なにやらこちらに指示を出す30年も前に息を引き取ったコンピューターの無表情な声を聞いていると、長大な数式によって出来上がった訳の分からん呪文に呪いをかけられ、へんてこりんな異空間に送り込まれそうな、なんとも言えない気持ち悪い心地よさ(?)なのであります。いやあ、変な感動がある作品だわ。

 ちなみに、そんな作品なので、収録曲名もただ事ではないものとなっております。面白いからコピーしてみます。

1. IBM 1401 Processing Unit
2. IBM 1403 Printer
3. IBM 1402 Card Read Punch
4. IBM 729 II Magnetic Tape Unit
5. Sun's Gone Dim And The Sky's Turned Black




夜のモスクワ、その他のモスクワ

2012-03-08 04:13:37 | ヨーロッパ

 ”Тени”by Елка

 今日のロシア・ポップス界において実力派の呼び名も高いヨールカ女史の、これは2006年発売の2ndアルバム。タイトルの意味は”影”だそうで。どう発音するのかは分かりません。ヨールカというのはクリスマスツリーの事だそうで、もちろん芸名で、しかし、そんな芸名もどうかと思う。
 ジャケ写真の、どす黒く朽ち果てた工場か何かの廃墟をバックに、鮮やかな紅のドレスを身に付けて立つ、という構図は、いかにも彼女、ヨールカの内的世界を適切に表現していると言えるのかもしれない。冷たく死に絶えた世界の真ん中に、情熱のバラ一輪が燃え上がる、みたいな。

 サウンドはロシア方面ではもう定番の冷えきった空気を感じさせるエレクトリック・ポップス。その冷たい機械のビートがせわしなく打ち込まれるファンクな空間にヨールカの、これも安易に感情に流されることなく凛と響くヴォーカルが、強い表情で流れて行く。
 なんとなく、そのタカビーな手触りに「女収容所長」なんて言葉が浮かぶ。これは以前、イングランドのトラッド歌い、ジューン・ティバーにも付けたあだ名なんだけど。
 いや、悪い意味ではなく。強い意志の存在を感じさせる”ハードな女”イメージを正面に掲げている様子は、むしろかっこいい、爽快な印象をうけるのだ。(もっともヨールカ女史の場合、”男装の麗人”っぽいファッションを身に付けているのもよく見かけ、もしかしたら女性っぽい感性を表面に出すのを好まない趣味の人なのかもしれず)

 表面は鋼鉄のクールネスに身を固め、その内には熱い炎が脈打っている。そして、いかにも”アメリカの黒人音楽が好きです”って感じのヨールカ女史のボーカルと、ロシア風に誤読されたR&B世界の、我々から見れば異様な風景の交錯が、前々世紀の未来派の画家が描いたような、不思議なモスクワの日常をえぐり出す。ハードな都市、涙を信じない街、モスクワの明けない夜と、そこの生きる人たちの体温を。



北方に美神あり

2012-02-24 02:08:49 | ヨーロッパ

 ”Hyllning till livet”by Åsa Jinder

 スエーデンのトラッド界を代表する演奏家である彼女。
 Åsa Jinderの演奏は、北欧トラッドの世界ではおなじみの怪楽器、鍵盤バイオリンの紹介の時、その実例として、ここに映像を貼り付けたことがあったが。全く何度見ても異様な楽器であり、それを見事に操るÅsa Jinderの手つきも、なにやら楽器演奏というより妖術使い、といった風情の漂うものであった。

 まあ楽器のとんでもなさは置いておくとしても、その、いかにも北国らしい清涼感あふれるメロディを高らかに歌い上げる彼女の演奏は、聴いているだけでこちらの魂まで浄化されるみたいで、心地よかった。さらにはそのルックス、ショートカットも凛々しい典型的な北欧系美人であり、なーにが文句があると言うのかい。
 北欧トラッド聴き始めの頃は、Åsa Jinderのアルバムはどれも大愛聴したものだった。フォークロックっぽいサウンドをお供に、ほのかに憂いを含んだ美しいメロディを凛として編み上げて行く彼女は、まさに北方の美の女神だった。

 その後、時は流れ、彼女の音楽もずいぶんロックっぽいものに変わってしまい、いつの間にか聴かなくなっていったのだったが。80~90年代頃の彼女の盤は、たまに取り出して聴いてみる事はある。北欧トラッドの美しさのエキスを抽出した、くらいのことは言ってもいい傑作盤ばかりである。



夜、アイスランドを渡る

2012-02-23 03:30:31 | ヨーロッパ
 という訳でヤケクソ企画、”クソ寒い国の音楽”シリーズは、なおも続く。こうなれば冬の奴が根負けして春になってしまうか、こちらのネタが尽きるか、勝負じゃあっ!


 ”I annan heim”by Rokkurro

 チェロ弾き語りのしっとりとした女性ボーカルをメインに押したてた若手ロックバンドの、これが2ndアルバム。2010年作。
 デビュー作もこの場で2年程前に取り上げた記憶があるが、より表現を深めての第2作登場である。

 アイスランドのロック特有の、夜明けの夢の中で響いていた歌声の記憶を指で辿り返す、みたいな不思議な懐かしさと物悲しさを秘めたメロディは、このバンドでも顕著だ。そいつが、より”子守唄度”を増した女性ボーカルで歌われると、バンドの音全体が”アイスランド昔話”と化す。
 いやほんとに、今回聴ける女性ボーカルは、一人で石けり遊びでもしながら小さな女の子が口ずさんでいる昔々の遊び歌みたいだ。前作と比べてもまるで力みが抜けていて、のんびりマイペースで幻想を紡ぐ。

 ジャケに使われている、人力ロープウェイ(?)で川の上を渡って行く老人の写真は忘がたい印象を残す。彩色の調整により、まだ星の瞬く早朝の出来事、みたいに見せているが、おそらくは真昼間に撮られた写真なんだろう、もともとは。でも、この荒い彩色のおかげで彼は、薄明の妖精郷への旅行者となった。
 このジャケ写真と、ボーカルの女性の鼻歌唱法で決まりだなあ。このCDを聴く者はすべて、爺さんの後を追って人力ロープウェイに乗り北の妖精郷への旅に出てしまい、喧騒の現実世界に2度と還ってくることはないだろう。



ラップランドの音楽

2012-02-21 03:29:32 | ヨーロッパ

 ”Nils-Aslak Valkeapaa のアルバム2題”

 さて、クソ寒い土地の音楽特集は続いております。寒いっスねえ。今回はヨーロッパの北の果て、スカンジナヴィア半島のそのまた北辺、サンタクロースの住処(?)として知られるラップランドの音楽”ヨイク”であります。
 なお下の文章は大昔、ある通販レコード店のカタログの片隅に載せていただいたものであります。もう20年以上前に書いた文章で、今となっては公開するのが恥ずかしい部分もあるのですが、それなりに愛着もあるものなので、ここに再録させていただきます。

 ヨーロッパの北の果て、ラップランドに住む少数民族、サーミ人が行う謎の音楽、ヨイクなるものについて。
 サーミ人の詩人、Nils-Aslak Valkeapaaと、彼のよき相棒であるミュージシャン、Esa Kotilainenによる名盤、”Beaivi,Ahcazan”は、狼の遠吠えのごとき迫力の野太いボーカルによって執拗に反復される歌詞を持たないメロディと、太古の闇の底から聴こえ来るようなパーカッション群の響き、この呪術的音世界は強烈な出合い頭の衝撃を私にもたらし、気が付けば私はすっかり、このスカンジナヴィア半島北端はラップランド在住の北欧先住民であるサーミ人の音楽、ヨイクの虜となっていたのでした。

 虜になったのはいいのですが、この音楽、かなり不思議な代物であるのも確かで、(そもそも、なんで歌に歌詞がない?)なんらかの解説が欲しい。が、「この音楽はなんであるのか」といった疑問は文献にあたるにつれ、氷解するどころかかえって混迷を深めてしまう。なにしろ民族音楽の本にあたっても、「謎のディスクである」とか「この音楽の謎はますます深まる」なんて言葉しか見つからないのであって。

 などと言っているうちに、NilsとEsaの次作、”Eanan,Rallima Eadni”などが届いてしまうのでありますが、これはまた、違う風情を堪能させてくれる一発だった。
 このアルバムのオープニングは、あのオドロオドロのパーカッション乱舞ではなく、ラップランドの凍てついた夜空を流れわたる銀河の壮大な姿を想起させる。Esaの奏でるシンセの和音。そして朗々と響くNilsの唄声。聴いていると、太古のサーミ人たちが手彫りの丸木舟で宇宙に向かって漕ぎ出して行く、そんなイメージが脳裏に浮かび上がってくるのであります。

 いやあ、冬越えはこれに決まりだな。いつか空気の澄んだ夜を選んで、このCDとアルコホルをおともに海岸に出て、冬の星座でも眺めつつ、地球が自転のために地軸をゆっくりと傾ける仄かな音に耳を澄ませよう。そして、ラップランドに、サーミの人々に幸あれと乾杯を。




北国のトラッド

2012-02-20 06:19:13 | ヨーロッパ
 ”Folk och rackare”

 いかにも寒そうな国の音楽といえば、北欧トラッドも忘れることができない。
 スエーデンのトラッドバンド、フォルク・オック・ラッカレ。(正確にはスエーデンとノルウェイの合同バンド、とも聞いた)これは素敵な一枚だったなあ。
 これは76年発売のアナログ盤で、さすがにリアルタイムで手に入れはしていないんだろうけど、さて、どこの店で買ったものやら。

 ともかくその頃はこちらも、ヨーロッパのトラッドはまだイギリスのもの、フェアポート・コンベンションとかスティールアイ・スパンなどしか聴いていなかったので、初めて接する北欧のエレクトリック・トラッドバンドの新鮮な響きに、すっかり魅了されてしまったものだった。
 なにやら北国のキリっと澄んだ大気をそのまま真空パックしたみたいな鮮烈な響きのその音楽は、どちらかと言えば陰鬱な感触も無いではない英国諸島圏のトラッドを聴きなれた耳にはなんとも清々しく感じられたのた。

 そんな次第で、あちこちのレコード店を、北欧トラッド欲しさにめぐり歩くことになるのだが、これもお定まり、扱っている店などにはさっぱり出会えず苦戦を知られ、やっと手に入れた盤もまた、”北欧のミュージシャンは結構屈折しているんだなあ”なんてしみじみ感じさせるヘンテコ音楽ばかりだったりするのだった。フォルク・オック・ラッカレみたいにわかり易い音はむしろ珍しいのであって。
 もちろん、その楽しみかたが分かってくれば、それらヘンテコ盤たちも愛聴盤へと変わってゆくのだったが。

 それにしても、いつまでも寒いっスねえ。




モスクワは涙を信じない

2012-02-19 00:57:42 | ヨーロッパ

 ”Александра”by Tatyana & Sergey Nikitin

 クソ寒い日々が続くんでヤケクソで、あえて寒い国の音楽について書いてやろうと思う。
 「モスクワは涙を信じない」といえば1979年作のロシア(というか当時はソ連)の映画で、翌80年のアカデミー映画賞外国映画部門で黒澤明の「影武者」を抑えて大賞を得ている。
 その当時、アメリカ大統領の地位にあったロナルド・レーガンが、自身言うところの”悪の帝国”たるロシアの大衆のメンタリティを知るために、なんどもこの映画を観た、なんて話があり、これには苦笑を誘われたものだ。だって、”ロシア”抜きに考えても、あれがレーガン好みの映画とは到底思えないもの。見通すのは、さぞ苦痛だったろうなあ、ご苦労さん。

 そう、「モスクワは涙を信じない」は、田舎からモスクワに上京してきた女性の生き方を描きつつ、女性の自立した生き方というものを追求した、その方面の名作として評価されているのだった。
 ここに取り上げた”アレクサンドラ”は、「モスクワは涙を信じない」の挿入歌としてロシア国内でヒットした曲であり、かの国の国民的歌手(?)であるタチアナ&セルゲイ・ニキーチンによって歌われている。
 聴いていると、広大な大地の果てにある未知の人々の暮らしに夜が訪れ、凍り付いた空気の向こうで瞬く星の光の下で、人々が灯すささやかな明かりの温もりを遥かに感じ取る、みたいな感興が生まれ、そもそもがロシア民謡好きな私にはまことに良いアンバイのものなのである。

 夫婦デュオであるタチアナ&セルゲイは、歌手であると同時に二人共が物理学者であり、研究の傍ら、歌手稼業を続けているというエピソードも知る人は知るところである。
 なんともあの国らしいというか、歌手といえども物理学の学位でも持っていなければなれないのかなあ、などと思いかけ、なんのことはない、自分もまたレーガンといい勝負の偏見だらけのロシア認識しか持っていない事実を自覚させられて、こいつも苦笑をしておくしかなかったりする。
 実際、この歌のメロディをハミングしてみたり「モスクワは涙を信じない」という映画タイトルを思い返すと、かの国、あのロシアにも我々と同じ人間サイズの悩みや苦しみの中で、それでもなんとか生きて行こうとあがく、つまりは我々と同じ人間たちがいる、そのことがリアリティを持って立ち上がってくるようで、ある意味、ハッとさせられるのだ。知っているつもりで、実は何も分かっていなかったのだな、と。

 このアルバムはタチアナ&セルゲイのベスト盤とのこと。二人の音楽の基本は、セルゲイの爪弾くギターの響きを中心にしたシンプルなアコースティック・サウンドのなかで二人の素朴な歌声が響く、といった構造で、このさりげなさにロシアの大衆には懐かしさを覚えているのかな、などと想像する。歌われるメロディも、いかにも”いわゆるロシア民謡”っぽいもので、二人の歌はわが国におけるフォーク歌謡のような存在なのかも知れない。
 ちなみに、「モスクワは涙を信じない」とは、「ただ嘆き悲しむだけでは、誰も救ってなどくれない」というロシアの格言なのだそうだ。もう少し夢のあるタイトルなのかと想像していたんだが、そいつも厳しいなあ。



ムームムームムーム

2012-02-17 05:40:17 | ヨーロッパ

 ”Finally We are No One”by Mum

 あまり寒い日が続くんで、ヤケになって取り出してみた、アイスランドのエレクトリック・ミュージックのバンドのアルバム。まさに極北の、あの氷河に覆われた土地でバンドをやるとはどういう気分のものか。
 深夜、遠くで吹雪いている風の音のようなさやかな音像で始まり、アナログ・シンセが、子供の頃に夢の中で鳴り響いていたような、不思議に懐かしくてどこか物悲しいメロディをつずって行く。

 まさに子守唄そのもののような女性コーラスのささやき声が、静かな夜の中をゆっくりと渡って行く。ポコポコと湧き出るシンセの効果音と、小学校の教室の隅っこに置かれていた、古ぼけた足踏み式オルガンの辿り弾きが交差するところ。
 これはバンドのメンバーが、ふと目覚めてしまった深夜、耳にした氷河の軋む音を再現でもしたものなのだろうか。こちらの価値観では測りきれない、すべてのものを凍りつかせる冷え冷えとした知覚と、それを包むぬくぬくとしたユーモアの木霊と。

 モグラの昼寝のような。地下深くに隠れ住む謎の地底人の呟きのような。冬眠する熊たちの浅い夢に繰り返し出てくる、気がかりなエンディングのような。
 奥深い夢想と薄明の美学に彩られた北の国からの蠱惑的な、でも読もうとするたびに一つずつ文字が消え去ってしまう、気がかりな手紙のような音の便りだ。